ライラックとマリーゴールド
赤煉瓦の壁に並ぶ窓には、白いレースカーテンがかかっていた。明かりの消えた窓の奥には人気がない。ステンドグラスと木の格子で出来た図書館の扉の鍵を、小さな柔らかい手が回してかける。かちん、と真鍮でできたドアノブの奥で音が鳴る。岡蔵はドアノブを回して確認すると、傍らにいる司書に鍵を手渡す。
「お願いします」
頭を下げた岡蔵の頬に細い髪が落ちる。
「はい、委員長、お疲れ様でした。今日でおしまい、試験期間は。明日から、十七時で閉めようね」
腕にかけたバッグに司書は鍵を入れると、腰を伸ばしてそう言った。彼女は岡蔵の肩を叩くと、夕日が傾く空へと目線を上げる。
暖かな色を帯びた日差しの中、芳賀山が頭を下げると司書は軽く会釈を返した。
「あら、会長」
「試験期間、遅くまでありがとうございました」
芳賀山が口元を緩める。口元に手をあてた司書は、歩く足を止めることはない。
「挨拶に来てくれたのね。ありがとう。じゃあ、私はこれで」
もう一度、頭を下げて彼女は立ち去った。その背中を見送った芳賀山は、黒のストレートチップの革靴を図書館の前に立つ岡蔵へと向ける。
「岡蔵さん」
見下ろす芳賀山に、岡蔵は両手で持ったスクールバッグを握り直す。膝の前で揺れたスクールバッグを押して、岡蔵は足を踏み出す。
「ありがとう、高城川くんに頼んでごめんなさい」
彼女を迎えると、芳賀山は背中に柔らかく手を添えて歩き出す。じゃり、と岡蔵の靴が地面を踏んで、芳賀山と並び女子寮への道を進む。
「大丈夫、ぼくはかまわないよ」
岡蔵の背に添えられた芳賀山の手が離れる。
「高城川くんを怒ったりとか、してない?」
「なんでそう思うの」
「芳賀山くんを呼ばなかったから」
その言葉に芳賀山は、岡蔵へ顔を向ける。
「何かあった?」
「なんにもない。芳賀山くんって、私に荷物を持とうかとか言わないんだね」
花壇に植わった花々の中に、桃色のライラックが揺れている。花壇の前を通り過ぎて、芳賀山の足が岡蔵に合わせてゆっくりと前へ進む。
「君がそうして欲しいなら、そうするよ。岡蔵さん」
「私の鞄は私が持つから必要ない」
岡蔵は、ふふ、と笑い声を上げる。
「七々瀬さんは?」
笑った口を閉じた岡蔵が芳賀山へと顔を向けると、彼はポールライトが灯りだした道を見ている。
「七々瀬は、今、運動場じゃないかな」
芳賀山の目が遠くを見るように、ひとつ、瞬きをする。
「そうなんだ」
尖ったストレートチップの革靴、丸いつま先のローファーが交互に動く足元へと、岡蔵は顔を俯かせる。黒い靴が、彼女の視線の下でただ汚れもなく土の上を移動していた。
「久しぶりに楽しんでるといい」
短くなった茶色の髪が首元で揺れ、俯いていた顔が上がる。岡蔵は大きく目を開き、口の端が下がった。鼻から息を、僅かに吸い込んで彼女は下がった口の端を上げる。
「いいね」
岡蔵はそう言うと、口を閉じた。女子寮の前まで、ただ、芳賀山と並んで歩く。芳賀山もまた何も話すことはない。
日が陰り、気温が下がっていく。木々の合間から風がふき、森林の青い香りが湿り気を帯びて広がる。
女子寮の花壇と、ポーチライトの前につくと足を揃え、彼女は立ち止まる。
「芳賀山くん」
スクールバッグを片手で持ち、彼女は肩にかけた。
「ありがとう、王子様のようで楽しかった。明日から、友達ね」
にっこり、と岡蔵は笑うと肩にかけたスクールバッグを柔らかな小さな手で握る。
芳賀山は、その笑みにほほえみを返す。
「こちらこそ、楽しかったよ。岡蔵さん」
美しい芳賀山の目元が下がり、柔らかい声が岡蔵の耳に落ちる。彼女は頷くと、身を翻し小走りに女子寮の中へと入っていく。
芳賀山は揺れる茶色の髪が女子寮に消えるのを見送る。閉じた扉の奥からは料理の匂いが僅かに漏れ出る。
太陽が山に隠れ、生い茂る木の幹は濃い影を落とす。
芳賀山は腕をのばし、手首に巻いた腕時計を確認する。
時刻は、十九時に近い。
点灯したポールライトの光が足元を照らす。女子寮から続く、整備されたなだらかな坂を下る。生い茂る木の下を汗と砂埃に塗れた生徒たちは熱気を纏って、芳賀山の横を通り過ぎていく。
「会長、うーす」
走る集団は、低く野太い声で芳賀山に挨拶をした。目を伏せ芳賀山はそれに応えて、止まることなく校舎の前まで歩いていく。
校門と校舎の合間にある花壇には、黄色のマリーゴールドがグランドライトの傍で揺れている。
「橋野くんと、別れたって、だから、あの」
丸い黄色のマリーゴールドを足元にして、白く筋肉質な七々瀬の腕が青磁色の体操服から伸び、その指先にストレートチップの革靴が引っ掛けられていた。七々瀬はバレー部の白いウィンドブレーカーを着た女子生徒を見下ろしている。
「もうすぐ卒業で、少しの間だけでも付き合ってくれないかなって」
細く甲高い女子生徒の声は、夕刻の空気を伝って芳賀山の耳に届く。七々瀬が少しでも動けば、肩を寄せて小さくなった彼女を芳賀山の視線から覆い隠してしまいそうだ。
七々瀬の伏せられていた瞼が上がり、二重の麗しい目が遠くを眺めた。彼の口が何事か動くと、女子生徒は弾かれたように頭を下げる。
彼女が荷物を抱え直して、走り出す。校舎前にいた芳賀山に気づくと、泣き出しそうな顔で彼女は足を止める。
「あ……会長……」
「すみません、失礼しました」
芳賀山が謝罪を口にすると、彼女は緩く首を振って走り去る。その背中を見送り、芳賀山は七々瀬に顔を向ける。
スクールバッグを肩にかけた七々瀬は、ハーフパンツから伸びた長い足で、滑るように芳賀山へと近づいてきた。
「どうしてここに」
僅かに、七々瀬から汗の匂いが漂う。
「久しぶりに七々瀬がスポーツしているところが見られるかと思って」
「君……」
言いかけた言葉を飲み込み、七々瀬が芳賀山の顔を見る。その目を芳賀山は見返し、汗で湿る七々瀬の背に手を伸ばす。触れた背中を軽く押した芳賀山は、じゃり、と地面を踏みしめる。
「見られなくて、残念だった。明日からはこういうことは難しいだろうから」
男子寮へと歩きだした二人は、静かに斜面をのぼる。
「ありがとう。久しぶりに楽しかったよ、会長」
「良かった」
芳賀山は頬を緩めて、七々瀬の背中に押し当てた手のひらを下ろす。汗で湿った手のひらを冷えた風が擽る。
「高城川くんと花山さんはどうだったの?」
「そうだね、頑張っていたよ」
「芳賀山、あまり無理をさせ過ぎないようにね。まだ一ヶ月だ」
七々瀬は、芳賀山の腕に手を当てる。
「曽祢先輩からこの時期には、ぼくたちだけで処理するように言われてたよ」
「僕らは曽祢先輩ではないよ、芳賀山」
七々瀬の手が、芳賀山の腕を握りこむ。芳賀山の足が止まり、七々瀬が握る腕に視線を落とす。
「君は、君しかいないんだよ」
低く、平坦な声音で七々瀬がそう言うと、腕から手を離す。芳賀山は目を細め、僅かに顎を上げた。
「ぼくしかいないの?」
芳賀山の唇から、言葉が漏れる。
「……そういう言い方はよせ、芳賀山」
七々瀬は眉を下げ、スクールバッグと革靴を持ち直し、歩き出す。
「七々瀬」
日が落ちた空は、暗い。星が煌めき、白い雲が薄く空を覆う。
「夕食に遅れる」
短くそう言った七々瀬は、男子寮に視線を向けている。
「お腹が空いたね」
芳賀山は、七々瀬と共に男子寮へと急ぐ。暗闇に光るポーチライトの奥から白い湯気がふわふわと出ている。
十九時を過ぎ、一階の浴場が開いているのだ。
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四階の居間のダイニングテーブルに、揃えられた食事。トレイの横には緑茶、水、それから麦茶のペットボトルが並ぶ。
三ツ橋が七々瀬の座る席を丁寧に整え終わると、高城川が顔を上げた。
「ありがとうございました。三ツ橋先輩」
明るい緑色のTシャツの袖を擦って、三ツ橋は高城川の顔を見た。テーブルの上には湯気が立つ白い米と唐揚げがある。
「高城川くん、把握しておいて欲しいんだけど、七々瀬さんの恋人について。ファンクラブとして……」
四階の奥で、扉が開く音が響く。スリッパで床を擦って長者原と中郷が談笑し、歩いてきている。肘まである黒のTシャツの袖を捲って、高城川は腕を掻く。
「三ツ橋先輩、俺、あんまりそういうの興味ないです。それに、よくわからないんですけど、どの権限があって、副会長の個人的な話を広めてるんですか」
腕を掻いた手が、ダイニングテーブルの椅子の背もたれにかかる。
「僕に、教えてください」
真っ直ぐに三ツ橋を見る高城川に、三ツ橋は口を噤む。
「高城川くん、お風呂いってくるねー」
タオルと着替えを持った手を振って、長者原と中郷が声をかけた。高城川が会釈して、それに応えると三ツ橋が二人に駆け寄る。
「長者原、中郷、風呂なら一緒に行く」
「は?何……、三ツ橋、七々瀬さん待たないの?」
「いい、今日は。遅くなったし」
三ツ橋は、早口にそう言って長者原と中郷の背中を押した。
「三ツ橋先輩」
高城川が名を呼ぶ。
「ファンクラブって、公認されたものではなかったと思います。いつでも、部活動の成立を受け付けてるんで、生徒会室にどうぞ」
三ツ橋は振り向きもせず、早口で答える。
「あ、うん。ありがとう。話しとくよ、みんなに……」
そう言って長者原と中郷と共に階下へ、ばたばたと降りていく。それを見送って高城川は腹を押さえる。
ぎゅるる、と大きな音が腹から漏れた。はあ、と溜め息を吐いて椅子を引くと、高城川は座った。
数分もせずに、ぎ、ぎ、と階段が軋む音が居間へ響き、芳賀山と七々瀬が姿を見せる。椅子から立とうとした高城川を、芳賀山が軽く手を上げて制す。
「待たせたね。高城川くん。荷物を置いたらすぐに食事にしよう」
「高城川くん、先に食べ始めておいてかまわないよ。ごめんね、着替えてくる」
七々瀬が足を止めずに、高城川に言うと四階の奥にある部屋へ向かう。芳賀山が高城川の座るテーブルの前に近づき、足を止める。
「三ツ橋くんはどうしたの?」
「今日は、遅くなったから、長者原先輩たちとお風呂にいくそうです」
芳賀山を見上げ、高城川が答える。
「そう」
芳賀山の目が、高城川を見下ろす。
「君の判断に任せるよ」
柔らかい声音が高城川の肩に落ちる。芳賀山は高城川の肩を叩くと、部屋へと戻っていった。
高城川の顔が、天井を仰ぐ。眉を寄せて、顎に皺を作る。




