試験の終わり
暗い空は、雲ひとつない。揺らめく星が白や紫、黄色に瞬き、月の光が山間にある木造の男子寮を照らす。
話し声はおろか、物音もない男子寮。その四階の一室に橙色の光が点る。
収納スペースの上にあるベッドで眠る芳賀山を、四角いライトから放たれる光が照らす。
布団の中から、ぶぶ、と振動音が鳴り始め、彼の閉じていた瞼がうっすらと開く。橙色だった光は白く色を変えてさらに強い光を放つ。眉間に皺を寄せ、何度か瞬きをして布団の中にある振動する目覚まし時計のボタンを押して停める。
天井で頭を打たぬように手を伸ばした芳賀山は、ゆっくりとベッドから降りる。顔を洗い、歯を磨く。室内灯をつけると、壁にある時計が三時を指している。
手を伸ばしてベッドの上で光を放ち続ける目覚まし時計のスイッチを切り、芳賀山は机につく。まだ濡れている前髪を白い指でかき上げ、デスクライトのボタンを押す。
机に広げたのは、教科書とノート、それから参考書だ。
カーテンに覆われた窓は、暗く音もない。五月の日の出までは、数時間ある。
中間試験は、あと数日すれば始まるのだ。芳賀山は握ったシャープペンシルでノートの上に艶やかな文字を書いていく。
そのうちに寮内から物音がたち始める。空が明るくなり、カーテンの隙間から淡い朝日の光が部屋に入り込む。
芳賀山は立ち上がってカーテンを開き、湿気を帯びた窓を開く。
山の冷たい、森林の匂いを含む風が入ってくる。目を細め、薄暗い朝日の下にある道へと視線を落とす。
藤色の薄いTシャツと短パンを身にまとった長身が朝日の中で、背伸びをする姿が見える。そこに、数人の生徒が声をかけている。
「そうか、忙しくて」
芳賀山はそう独り言を呟き、白く長い手足が深い緑の中を走っていく姿を見送る。
♔ ──────── ♚
振鈴が、校舎に響き渡る。
教卓に立つ教師が手のひらの上にある教科書を音を立てて閉じた。
「先生に礼!」
教室の隅に座っていた山羊中が、号令をかける。一斉に頭を下げた生徒を見回すと、教師は教卓の上を片付け、教室から出ていく。生徒たちの声と、音が一気に教室に溢れかえる。
山羊中が席を立つと開いた窓に顔を向ける。
端に寄せられたカーテンが風で膨らみ、窓際に座る芳賀山の伸びた背筋と、乱れひとつない黒髪が日差しに当たって煌めく。
芳賀山は席を立ち、椅子を机に引き寄せると山羊中へと体を向ける。
「窓を閉めてもいいですか、芳賀山さん」
山羊中が窓へと歩を進めてそう言うと、芳賀山は窓を見る。
「そうだね、午前中はまだ寒い」
窓に足早に近づき、外に開いた窓を掴んで手前に引いた山羊中は、ひとつふたつと閉じていく。芳賀山は机に吊り下がるスクールバッグからクリアファイルを取り出すと、彼女に声をかける。
「山羊中さん」
芳賀山の柔らかい声に山羊中が振り向く。
「カーテンは閉めないでね」
「あ、はい」
答えた山羊中が閉じた窓の鍵を閉めると、僅かに俯く。芳賀山がクリアファイルから、書類を一枚取りだした。
「芳賀山さん、あの……岡蔵ちゃんと……どうしてる……?」
ぼそ、と山羊中がスカートを整えながらそう言った。騒ついていた教室の音が波が引くように静まりかえる。
「何かあったの?」
芳賀山はファイルをスクールバッグに仕舞い、山羊中に向き直る。彼女は芳賀山を見上げ、スカートを握りこむ。
「ええと、最近、会ってないみたいだから」
「彼女の希望だと思っていたけど、違うの?」
首を少し傾ぎ、芳賀山は続ける。
「ぼくに生徒会の業務に集中して欲しいと言っていたよ」
「え、あ……でも、岡蔵ちゃん……心配してて」
「心配をしてくれてるんだね」
芳賀山は手に持っていた書類を机に置き、山羊中に一歩近づく。彼女は後退る。
「ありがとう、君と岡蔵さんはとても仲が良いんだね。ぼくは大丈夫だと、伝えておいてくれると嬉しいよ」
予鈴が校舎に響く。授業の開始の合図に、山羊中の視線が、芳賀山の机にある書類へ落ちる。あ、と声が漏れて彼女は謝罪を口にした。
「授業が始まるから、もどって。山羊中さん」
美しい笑みを浮かべ、芳賀山はそう言うと椅子を引いて席へとつく。
教師が教室へと入ると、教卓に抱えた荷物を置いた。
「先生に礼!」
山羊中の声が教室へ響く。一礼した芳賀山は、日差しを取り込む窓へ視線を向ける。校舎から教師と生徒が温室へと移動する姿が見える。
頭ひとつ高い長身の生徒が、日差しの下で顔を上げた。遠目に、七々瀬の唇が動く。彼の周りにいた生徒たちが頷いている。
芳賀山は頬を緩めて、窓の外から黒板へと顔を上げた。机にある書類の上に教科書をのせる。
授業が終わると、芳賀山はすぐに席を立つ。机を片付け、書類を手に取った芳賀山は職員室へと向かう。廊下を通り過ぎ、階段の手摺りに手をかけた芳賀山の腕に柔らかな指先が絡んだ。
「芳賀山くん」
足を止めて、芳賀山が振り向くと岡蔵が笑みを浮かべている。
「岡蔵さん、どうかしたの」
「最近、会えてなかったから」
そう言った岡蔵は芳賀山の腕から手を離す。彼女の目が芳賀山の持つ書類に向いた。
「呼び止めてごめんなさい」
「大丈夫、気にしないで」
岡蔵が口を開こうとした時、階段を生徒たちが駆け上がってきていた。口を噤んだ彼女の背に芳賀山の手が回り、階段から少し離れた位置へ移動させる。
「危ないよ、階段は静かに」
七々瀬の声が、階段をのぼる足音とともに耳へはいる。芳賀山の顔が、階段へと向いた。
段板を踏み、上がってきた七々瀬は芳賀山に気づく。書類を持ち、岡蔵の背に触れる芳賀山に歩み寄る。
「七々瀬、少し顔が赤いね」
芳賀山は彼女の背から手を離し、七々瀬へと向き直る。
「外の日差しが強くなってきているから」
そう言って七々瀬が手を差し出すと、芳賀山が書類を渡す。
「生活指導の舘先生に渡して」
「わかった」
「昼休みは、君、どうするの?」
受け取った書類に視線を落としていた七々瀬は顔を上げた。芳賀山は七々瀬の目を見て、微笑む。
芳賀山の背後に立つ岡蔵へ目を向けた七々瀬と目が合った彼女は、瞼を伏せる。小さく息を吐いた七々瀬に芳賀山の手が伸びて、腕に触れた。
「教室で待ってるよ」
七々瀬がそう平坦な声音で答える。すると芳賀山は七々瀬の腕から、手のひらを滑るように下ろす。
「迎えに行くね」
「——わかった、届けてくるよ」
七々瀬を見送った芳賀山は、岡蔵に向き直り見下ろした。
「岡蔵さん」
柔らかい声が岡蔵に落ちる。
「会いに来てくれて、嬉しいよ。教室に送ろう」
岡蔵は芳賀山を見上げて、その二重の目に優しげな美しい顔を映す。
「…………大丈夫よ、芳賀山くん。私は」
芳賀山は、頷いて一歩下がった。
「そう、君がそういうのなら」
岡蔵は短くなった髪を耳にかけ、眉を僅かに寄せる。そうして、彼女もまた青いゴムのついた丸い靴で床を踏み締め、芳賀山から、一歩、距離をとった。
「芳賀山くんは、大丈夫?」
台形のスカートの前で手を組み、岡蔵は真っ直ぐに芳賀山へ視線を向ける。
「ありがとう、山羊中さんからも心配をしていると聞いたよ」
「山羊中さんから……私のこと、心配しているみたい。ごめんなさい」
そう言うと岡蔵は、にこ、と笑みを浮かべる。
「いい友達だね」
「そう。とてもいい、友達なの。じゃあ、戻るね、芳賀山くん」
岡蔵は胸の前で手を振って、立ち去った。それを見送った芳賀山もまた、踵を返して教室へ戻っていく。
♔ ──────── ♚
気温が上がる。
五月の半ばにもなると、太陽の日差しが強い。虫と鳥の声が響き渡る山の木々は、青々とした瑞々しい葉を揺らしている。
三日間の試験を終えたその日には部活動が解禁された。保健委員と美化委員が放課後に閉めていた運動場と体育館の鍵は、開いたままだ。
運動場の横に立つ二号棟の校舎にも部活動生の声が響き始めた。生徒会室の窓が開き、高城川の顔が運動場をのぞきこむ。
「おお、花山さん、見てよ」
分厚いテーブルを拭く花山が手を止めずに、きゅ、きゅと音を立てて磨く。
「サッカー部、ユニフォーム振り回して部室から出てきてるよ」
「楽しそうだね。テスト終わって今からるこてん祭の本番と思うと、私は見る気にならないよ」
花山が溜め息を吐いてそう言うと、高城川は窓枠に寄りかかっていた体を持ち上げる。
「テスト、どうだった?」
振り向いた高城川に、テーブルを拭き終わったクロスを丁寧に畳み、花山が答える。
「問題ないと思う。高城川くんは?」
「俺も、いつも通りだから一位は確実」
「さすが。じゃあ、私は二位ね」
軽口を叩き、花山はクロスを生徒会室の隅にあるロッカーへと戻す。
高城川は壁にある書棚へ歩み寄り、ファイルをいくつか取り出して腕に抱える。
「……図書委員と放送委員、物品準備終わったって?」
花山もまた、書棚からファイルを取り出す。
「保健委員と美化委員はどうなの」
二人は無言になると、静かに資料を抱えてテーブルへと座る。ひとつ座席をあけて座った彼らは揃って前年度の資料を開いていた。
「明日、招集かけようかな。こっち」
ぼそ、と花山が呟く。高城川は、小さく頷いた。
「俺もかける。そっちの分も文書作っとくから」
生徒会室の扉がノックされる。その音に席を立った高城川が、はい、と返事をすると扉が開く。芳賀山が引いた扉を押さえて、その横に七々瀬が立っていた。
芳賀山は、高城川と花山へと顔を向ける。
「三日ぶりだね、二人とも」
椅子が床を削って、ぎい、と音を鳴らし、花山が立ち上がる。
「試験は疲れただろうから、今日は帰ってもよかったよ、高城川くん、花山さん」
七々瀬の言葉に花山が、背筋を伸ばす。
「いえ、大丈夫です」
そう答えた花山に、高城川も頷いた。七々瀬が生徒会室に入ると、芳賀山が音もなく戸を閉めた。
「七々瀬、君も今日はサッカー部に遊びに行ってきたら?」
芳賀山は執務机に向かい、指先を板の上へと滑らせた。
「最近、君の運動する姿を見ていない気がするよ」
「食堂から出店についての問い合わせも来ているし、一年と二年にカンニングがあったと報告があったのに行けないよ」
七々瀬は書棚に視線を巡らせてそう言うと、ファイルをひとつ、手に取った。
「カンニングか、一年は高城川くんに任せよう」
芳賀山の言葉に、椅子を引いて座ろうとしていた高城川は肩を揺らした。
「お、ぼ、僕ですか」
「そうだよ。君も慣れてきたし、不安ならぼくがついて行こうか」
唇を噛んだ高城川は、首を振る。
「大丈夫です、やれます」
「報告を楽しみにしてるよ、高城川くん。それと、花山さん」
椅子に座った花山は、呼ばれて顔を上げる。テーブルの上にある指先に力が入り、爪が立つ。
「はい」
「食堂へ行って、出店についての話を聞いてきて、まとめてくれる?」
「わかりました」
そう答えると花山はごく、と喉を鳴らして立ち上がる。それを見た七々瀬がファイルから二枚の書類をとりだし、二人に近づく。
「高城川くん、これを持っていって。カンニングは今回、教師からの報告だけど必ず本人から確認を取ることと、確証があっても自己判断で罰則を指示しないように」
高城川がそれを頷いて受け取ると、七々瀬は花山の前にあるファイルのひとつを開く。何枚か捲ったその先で、七々瀬の手が止まる。
「花山さん、ここの運用について読んでから話をして。僕もついて来て欲しいなら、行くよ」
花山は首を振った。
「大丈夫です。七々瀬先輩」
高城川はバインダーに書類を挟み、芳賀山に一礼すると生徒会室の扉を開いた。
開いた扉を小さな手が押さえる。
「こんにちは」
「岡蔵先輩、すみません、今、急いでいるので」
そう言いかけた高城川に、岡蔵は笑顔を返した。
「大丈夫、今日は、芳賀山くんに用があるの」
高城川よりも小さな岡蔵は、体を少し傾けて生徒会室を覗き込む。執務机に座る芳賀山は、まだ岡蔵に気づいていない。
「忙しそう。高城川くん、伝言を頼んでいい?」
「はい」
「ありがとう、図書室に十八時半に迎えに来て欲しいとお願いします」
「あ、はい……」
高城川が顎を引いて、返事をすると岡蔵は礼を言って背を向けた。
支えを失った扉が音を立てて閉まる。ゆっくりと高城川は振り向く。執務机に座る芳賀山と目が合った。
こく、と喉を鳴らして高城川は息を吸い込んだ。




