維持と意地
落ちていく髪の束。背中までのびる艶やかな茶色い髪が美容師のシザーで、切り落とされる。
膝の上にあるファッション誌を捲る手を止め、体を包む大きな椅子に座り直す。
「……あんまり動かないでもらえたら嬉しいなー」
美容師にそう注意された岡蔵は、鏡越しに視線を向けた。
「ごめんなさい」
にこ、と笑みを浮かべて岡蔵が答える。美容師は目を伏せて、髪を指で軽く引く。
「うん、岡蔵さん、長い髪も似合ってたのに、なんか心境の変化?傷みもないし、もったいないよ」
「もったいないですか?」
「あれ、嫌だった?」
歯を見せて笑う美容師はシザーを持ち替え、髪を梳きはじめた。
「いえ、私の髪なのになんで美容師さんがそんなこと言うのか不思議だっただけです」
「えーと……嫌だったか、ごめんごめん。今心境の変化で髪型変えるとか、言わないか」
「嫌なんて」
短くそう言うと、岡蔵は二重の目を細めてつるつるとした雑誌の頁から手を上げ、口元に寄せる。
唸る美容師に、岡蔵は隠した口を開く。
「今日は、初めて好きな人とデートに行くんです。とてもかっこいい人なので、私も気合いをいれたくて」
「え、それは気合い入る。がんばるよ、彼氏か」
明るい声でそう言った美容師は、スプレーボトルをとると軽く岡蔵の髪を濡らす。
「彼氏と言うより……王子様みたいな人で」
「岡蔵さん、めっちゃ褒めるね。王子様か。そんなかっこいいの?」
「かっこいいです」
岡蔵の目が大きく開き、言い切った。
「えー見たいな、そこまでいうなら。写真ないの?見せてよ」
美容師の言葉に、岡蔵は口元から手を下ろす。
「写真は、持ってきてませんから」
「あ、古高辿って、スマホだめか」
「そんなことないですけど、外出時以外は使えないので持ってない子がほとんどです。私も、必要ないから持ってません」
岡蔵の言葉に、美容師が髪を梳く手を止めた。今どき珍しいと独り言のように漏らした美容師に、岡蔵は頷いた。
髪を整え、施術を終えた岡蔵は肩より上にある髪に、手で触れてみる。首周りに美容室の空調の風が当たる。
黒い大きな椅子から立ち上がると、足首まで覆う鮮やかなアズールのフレアスカートを整えて美容師へ礼を言う。支払いを済ませ、小さな鞄を手に持つと彼女は外に出た。
ヒールがコンクリートを打ち鳴らす。美容室から十分ほど歩いた先に案内板とベンチがある広場へ着くと、雑多な人混みの中で黒い頭がひとつ飛び出ている。それを見て岡蔵の顔が綻んだ。
「は」
声をかけようと大きく口を開いた時、黒い頭が動いて、日差しにあたる白い顔が岡蔵の方へと向いた。芳賀山の涼やかな目が岡蔵を捉える。
彼女の小さな手が、淡いイエローのカットソーの胸元で、丸く握り込まれる。
人混みを掻き分け、真っ直ぐに岡蔵の元に来た芳賀山は白く大きな手を差し出す。岡蔵の顔に、ほころぶように笑みが広がる。
「芳賀山くん」
「着替えに帰ったから、遅くなってしまったよ。ごめんね。岡蔵さん」
首を振った岡蔵は、淡い若苗色のシャツを着た芳賀山を見上げ、骨ばった手をとった。
「大丈夫、会長だもんね。疲れてない?」
「大丈夫だよ、ありがとう」
ゆるりと岡蔵の手を芳賀山が包み込む。
「良かったら、ゆっくり座れるところに行こう」
「ゆっくり?」
岡蔵は頷く。
「遊歩道までバスで行くと、あまり人に知られていない小さな公園があるの。そこだったら、芳賀山くんもゆっくりできるから」
芳賀山は、岡蔵を見下ろして首を傾げる。
「髪、切ったんだね。折角、こんなに可愛くして来てくれたのに勿体ないよ」
手を引いて、芳賀山が岡蔵に笑う。と、と、とヒールを鳴らして岡蔵は芳賀山へと近づくとベルガモットの香りが彼の肩から漂った。
「ぼくは大丈夫、君が行きたいところにいこう」
そう言った芳賀山に岡蔵は、口の端を震わせると頷く。
「じゃあ、文具屋さん……に行きたいなあ」
「いいよ」
了承した芳賀山は、顔を店が立ち並ぶ街へ向ける。歩き出した芳賀山を追って岡蔵もパンプスでコンクリートの硬い路面を踏みしめた。
寮へは十八時までに戻らなければならない。バスの時間を考えれば、二時間もない。
街を歩く度に声を掛けられる芳賀山を眺めて、岡蔵はその広い背中の後ろで静かに待つ。
♔ ──────── ♚
青い空に浮かぶ太陽が、沈み始めて山間にある古高辿学園は木々の陰りを濃くしていく。
女子寮の花壇は、天竺葵や千寿菊の薄紅色や黄色がポールライトに照らされている。長いスカートが浮いて、ズボンの裾を擦った。芳賀山の白い手から小ぶりな手のひらが離れた。
「今日はありがとう、芳賀山くん」
女子寮の前に立つ岡蔵は、小さな鞄を両手で持つと芳賀山の顔を見上げる。芳賀山は岡蔵の綺麗に額を隠した前髪に視線を落とす。
「短い時間でごめんね」
「いいの、忙しいってわかってるから。私のことは気にしなくていいよ」
芳賀山の手があがって、額を覆い隠す前髪を上げる。岡蔵の長い睫毛が伏せられ、細く整えられた眉が芳賀山の手の下で僅かに下がる。
「気にしなくていいの?」
「るこてん祭の準備が大変なのは、去年から同じなの、知ってるから」
頬を緩め、肩を竦めた岡蔵がそう言うと芳賀山は彼女の前髪から手を離す。
「岡蔵さんは、優しいね」
「芳賀山くんと付き合いたいなら、それくらいは覚悟してる」
「覚悟がいるの?ぼくと付き合うの」
一歩引いた芳賀山は両手を背中で組む。伸びた背筋が、若苗色のシャツを張った。岡蔵はスカートの前にあった手を握りしめ、パンプスで地面を踏みしめる。
「あ、違う、私が言いたいのは、芳賀山くんがかっこいいって話」
「大丈夫だよ。岡蔵さん。また、ゴールデンウィーク明けに会うのを楽しみにしてる」
「……うん、芳賀山くん……」
岡蔵は、芳賀山へと手を振って女子寮に入っていく。扉が開き、漂ってきたのは花の香りだ。
「おかえり。岡蔵ちゃん。デートどうだった?」
「髪、可愛い。褒めてくれた?」
漏れ聞こえてきた女子生徒たちの声。
芳賀山は背を向けて男子寮へと歩き出す。硬い地面と細かな砂が革靴の下で音を立てる。
寮へと戻り、四階に続く階段をのぼると居間のテーブルに菓子箱が並んでいた。長者原がその菓子箱から、饅頭とクッキーをひとつずつ手に取っている。芳賀山に気づいた長者原が半開きの口元を閉じる。
「……おかえりなさい、会長」
「芳賀山でいいよ、長者原くん。ここは寮なのに」
微笑む芳賀山に長者原が、へへ、と声を漏らす。ぎ、と廊下の奥から扉が開く音がした。足音が聞こえ、高城川が居間へと小走りに入ってくる。
「会長、おかえりなさい。戻りました」
高城川は芳賀山の顔を見るなり、足を止めて頭を下げる。
「高城川くんもおかえり」
テーブルの前にいた長者原が饅頭とクッキーを持った手を上げて高城川に礼を言う。
「クッキーは花山さんの地元のお菓子だそうです、先輩」
芳賀山から長者原へと顔を向けた高城川が、テーブルに歩み寄って菓子箱のひとつを指さした。長者原が高城川の手元を覗き込んで軽く頷く。
「あ、十九時半までですから、夕食時間」
「わかってるよ、またな……」
長者原はそう言うと、芳賀山に目線を上げる。見下ろす芳賀山が微笑むと会釈をして部屋へと戻る。
高城川が芳賀山に向き直って、手を太腿の横に押し付ける。
「芳賀山先輩。七々瀬先輩が夕食をどうするか、気にしてました」
「高城川くん、ありがとう。曽祢先輩も誘ってみんなで食べようね。七々瀬はぼくが迎えに行くよ」
芳賀山は軽く手を挙げると、部屋へ戻っていく。背後で小さく高城川の声が響いた。
「えっ曽祢先輩……」
部屋に戻り一日の汗を流せば、十九時を過ぎる。部屋を出た芳賀山が七々瀬を迎えに行くと、七々瀬はすぐに顔を出した。
「街はどうだったの」
「特にはなかったよ。七々瀬が作った文書が良かったみたいだね」
「高城川くんにも共有しておいたよ」
そう言った七々瀬の背に手を当てて、芳賀山は一階の食堂へと向かう。
テーブルの上にはトレイが四つ、並んでいた。牛すき焼きが皿の上で甘い匂いを漂わせている。
「ゴールデンウィーク明けまでに、草案が間に合いそうにないのなら、ぼくの部屋においで。高城川くん」
夕食を食べる手を止めて、芳賀山が言った。
「それがいい。芳賀山に教えてもらえ。高城川」
曽祢は、高城川へと顔を向けて頷く。高城川の喉仏が、上下に動く。
七々瀬が箸を置いて、高城川に優しく言った。
「どうしてもの時は頼るといいよ、高城川くん。芳賀山は元、書記だから」
「はい」
返事をした高城川に曽祢がトレイの上にかたん、と箸を置いてテーブルへ手をついた。
「花山と高城川の付き添いをするから、明日からのスケジュールを後で持ってこい」
「えっ曽祢先輩が来るんですか」
「なんだ」
「いやっなんでも、スケジュールをまとめて部屋に持っていきます」
高城川がそう言うと、トレイの上にある牛すき焼きの皿へ視線を落とす。芳賀山が水のペットボトルを手に取った。
グラスに注がれる透明な液体。
「七々瀬、後で部屋においで。打ち合わせしよう」
「わかった」
翌日からの三日間はあっという間に過ぎていく。芳賀山は、七々瀬とともに正服を身にまとって役員としての仕事をこなした。
♔ ──────── ♚
五月七日、木曜日。
ゴールデンウィークが明けた日は、中間試験がある一週間前であった。岡蔵は、乳白色のファイルを胸に廊下を歩く。丸い靴先の青いゴムがついた上履きが、ぱたぱたと音を鳴らす。
生徒会室の扉の前に立つと、手を丸くして焦茶の板を叩く。音もなく開いた扉から高城川が顔を出した。
「図書委員からの、試験期間の図書館利用についての報告書を持ってきました」
高城川にそう言うと、岡蔵はその場でクリアファイルを開く。
「岡蔵先輩」
名前を呼ばれ、クリアファイルを開いた手を止めた岡蔵は高城川に顔を向けた。
「怒られます、僕」
頬を窄めて高城川はそう言うと、生徒会室の扉を大きく開く。
「中へ入ってください。話は中で聞きます」
「報告書だけ、受け取ってもらえば……司書さんと先生の承認はもらってるし」
生徒会室の部屋の奥に、自然と目線が動いた。濃紺のブレザーを着た高城川の肩の向こうに、八人掛けの広いテーブルに花山が座っている。部屋の奥にある大きな窓が開いて風がカーテンを揺らす。執務机に座る芳賀山は書類を触る手をとめた。
顔を上げた芳賀山が手元の書類を持ち上げると、書棚の前に立つ七々瀬が振り向く。その書類を受け取った七々瀬が顔を伏せた。
「……忙しそう」
「大丈夫です。岡蔵先輩、こちらへ」
高城川に促され、中へ入ると花山が席を立ち、岡蔵へ頭を下げた。
「図書委員長」
笑みとともに役職名を呼び、挨拶をした花山へ笑みを返す。テーブルの端に椅子を引いて座ると花山が七々瀬の元に行き、何事か話をしている。
高城川が岡蔵の横へ座り、手をテーブルの上に置いた。
「報告書を確認します」
「はい、ええと、例年通り、試験勉強のために図書館利用を十八時まで延長します」
ファイルをテーブルに開き、クリアポケットから報告書を一枚取り出した。
受け取った高城川が書類を確認している。
「……高城川くんも花山さんも、大丈夫?」
岡蔵はこっそりと、彼に話しかける。
「ありがとうございます。ところで、例年だと十九時までとなっていたはずですけど、なんで十八時に変更になってるんですか?」
高城川は、書類から視線を離すことなく口を開いた。
「寮からのクレームが入ったので」
「ああ、十九時半までだ、夕食」
「そうそう」
ファイルを閉じた岡蔵の手が乳白色のざらついたポリプロピレンの上に置かれた。
「寮との話し合いは、どのように?僕、ゴールデンウィーク中もなんにも聞いてない」
ぼそ、と高城川から零れ落ちる。岡蔵の目が瞬く。
「司書さんと先生から指示があって」
「そうですか、生徒会には話が来てないみたいです。ちょっと待ってくださいね」
高城川は席を立つと芳賀山の元に書類を持って小走りに行ってしまった。ファイルの上にあった手を膝の上に置いて、岡蔵は芳賀山へ視線を向ける。
芳賀山が書類を片付けて、席を立つ。書棚の前に立っていた七々瀬へ花山が会釈をすると席へと戻っていく。七々瀬の手が執務机の上にある書類の束を取った。
岡蔵は唇を舐めて、引き結ぶ。
「岡蔵先輩、お待たせしました。このまま大丈夫です。僕が見落としてました。去年、図書委員と寮の負担が大きいということで今年から変更になってたんですね」
頭をかいて高城川が眉を下げて笑う。高城川の背後に立つ芳賀山が、岡蔵を見ている。
「お時間、すみません。では開放中、なにかありましたら僕に声掛けてください」
「ありがとうございます」
礼を言った岡蔵はテーブルの上のファイルを素早く手に取った。会釈して、立ち去ろうとした彼女に芳賀山が生徒会室の扉を開けた。
「芳賀山くん」
「ぼくが送るよ」
岡蔵は芳賀山を見上げたが、生徒会室を振り返る。視線をめぐらせた岡蔵が、芳賀山が開いた扉から出ていく。そうして、出てこようとした芳賀山の胸を押した。
「芳賀山くん、私は大丈夫。忙しいのはわかってるし、それに無理はして欲しくないの」
「無理?」
「疲れてる時は、いつでも声かけてね。またね、芳賀山くん」
芳賀山の胸から手を離す。彼の見下ろす視線に、岡蔵はクリアファイルを握りしめた。
「君がそう言うのなら」
青いゴムの靴底が、きゅう、と床を滑る。岡蔵は芳賀山に手を振ると、振り向くことなく廊下の奥へと歩いていく。




