第二章──目覚めの朝
やけに、暖かかった。
微睡みの中、蒼はぼんやりとその感触を感じ取っていた。柔らかく、それでいてぴったりと寄り添うような温もり。まるで誰かに抱きしめられているような――いや、実際に抱きしめられているような。
「ん……」
重い瞼を開けた瞬間、蒼の意識は一気に覚醒した。
視界いっぱいに広がるのは、燃えるような紅髪。すぐ目の前には、寝息を立てる美しい顔。腕は当然のように蒼の体に回され、素肌の触れる距離に、昨日出会ったばかりの竜――焔が、当然のような顔をして眠っていた。
「なっ――!? な、なんでベッドの中に――」
跳ね起きようとした蒼だったが、絡みつく腕はびくともしない。焔はぱちりと目を開けると、寝起きとは思えない涼やかな笑みを浮かべた。
『おはよう、蒼』
「お、おはようじゃなくて! なんで一緒に寝てるんだよ!?」
『契約したばかりの竜が、契約者から離れるなんてありえないでしょう』焔はけろりと言ってのける。『それに、人の姿で寝る方が落ち着くの。竜の姿だと、あなたの部屋、天井を突き破っちゃうもの』
「理屈はわかるけど、そういう問題じゃな――」
言い返そうとした蒼だったが、焔はますます楽しそうに距離を詰めてくる。
『あら、照れてるの? かわいいところあるのね』
「て、照れてない! ただの、その、心臓に悪いだけで……」
からかうような視線に耐えきれず、蒼はようやく彼女の腕を振りほどき、ベッドから転がり出た。心臓が、戦闘勘だけでは制御しきれない速度で脈打っている。
両親は海外勤務で長期不在――この家に一人で暮らしているという事実が、こういう時ばかりは恨めしく思えた。誰も止めてくれる人間がいない。
「と、とにかく! 着替えるから出てって、な?」
『別に見ても減るものじゃ』
「出てって!!」
半ば叫ぶように放り出すと、焔はくすくすと笑いながらも、素直に襖の向こうへと姿を消した。一人残された蒼は、荒れた息を整えながら、天井を仰いで呟く。
「……前途多難すぎるだろ、これ」
制服に着替え、階下に降りると、焔は既に台所で当たり前のように朝食の支度をしていた。エプロン姿という、この状況にいまいち似つかわしくない格好で、手際よく卵を割っている。
『すぐできるから、座って待ってて』
「お前、料理までできるのか」
『竜だもの。数百年生きていれば、大抵のことはできるようになるわ』
さらりと告げられた「数百年」という単語に、蒼は箸を落としかけた。人間とはあまりにもスケールの違う存在が、今、当たり前のように自分の家の台所に立っている。この非日常を、あとどれだけ受け止めきれるのか、自分でも自信が持てなかった。
朝食を終え、玄関で靴を履いていると、焔がふと真剣な声で切り出した。
『蒼、今日から少し気をつけて。あなたに眠る才能――それに気づくのは、多分わたしだけじゃない』
「……どういう意味だよ」
『昨日、あの協会長も勘づいていたでしょう。ああいう手合いは、一度気になった獲物を逃がさない。それに――』
焔は蒼の頬に軽く指を這わせ、悪戯っぽく微笑んだ。
『これから、もっとたくさんの竜が、あなたを探して寄ってくるはずだから』
その言葉の意味を、蒼が本当の意味で思い知ることになるのは、それほど先の話ではなかった。
玄関の扉を開けると、いつもと変わらない、けれどどこか色を変えて見える朝の光が、蒼を迎えていた。
通学路を歩きながら、蒼はスマホを取り出し、千夏への返信を打ち込んでいた。
『わかった。放課後、屋上でいいか』
短い一文を送るだけで、妙に指先が緊張していることに気づく。学年一の美少女と評判の少女と、個人的にやり取りをする日が来るなど、昨日までの自分には想像もつかなかった。
教室の扉をくぐった瞬間、蒼はその変化を肌で感じ取った。
「あ、来た来た」 「おい、あれだろ? 昨日の、Fランクの……」 「竜使いって、あれマジで実在したんだな」
昨日までの、単なる「使えない奴」への軽い嘲笑とは、明らかに温度が違っていた。好奇と侮蔑が入り混じった視線が、教室中から蒼へと集まる。全校生徒の前で晒された結果は、一晩でクラス中どころか学年中に広まっていたらしい。
「よぉ、相楽。竜使いってさ、ペット飼ってる気分か?」
顔見知りの一人が、にやにやしながら声をかけてくる。周囲がどっと笑う。
「あはは……そんなんじゃないって」
蒼はいつも通り、へらりと笑って受け流した。長年培ってきた「無害で冴えない生徒」を演じる技術は、こういう時にこそ真価を発揮する。内心では、この程度の軽口など、風にそよぐ木の葉ほどの重みもなかった。
(本当に厄介なのは、こっちだよな……)
視線を落とした先、スマホの画面には新着の通知が並んでいた。
【綾瀬 玲奈】 『今度詳しく聞かせて。あと、今度の休みヒマ?』
【八大ギルド「白薔薇」総帥】 『覚醒式の記録、こっちにも回ってきたわ。竜使い……ふぅん、面白いじゃない。今度ゆっくり話しましょう』
(もう伝わってんのか、早すぎるだろ……)
この二人から連絡が来ること自体には、実のところ驚きはなかった。驚いたのは、伝わる速度の方だ。
綾瀬玲奈とは、二年前――蒼がまだ何の職業も持たない、ただの中学生だった頃に知り合った。下校中、暴走したはぐれモンスターに襲われかけていた彼女を、居合わせた蒼が咄嗟に庇ったのがきっかけだった。武器も職業も持たない身で、なぜあの時、反射的に体が動いたのか。蒼自身にも説明はつかなかったが、結果として彼は、まだ駆け出しの女優兼ハンターだった玲奈の窮地を救った。以来、彼女は事あるごとに蒼へ連絡を寄越すようになっていた。
白薔薇総帥――霧島冴子との縁は、もう少し複雑だ。蒼の実家がある地区で、数年前に小規模なゲート崩壊事故が起きたことがある。当時、現地調査に派遣された霧島は、避難誘導の最中に見せた少年の妙な落ち着きと状況判断力に目を留めた。「ただの民間人にしては出来過ぎている」――その時の違和感を、彼女はずっと覚えていたのだ。以来、霧島は何くれとなく蒼の動向を気にかけ、たびたび連絡を寄越しては、それとなく彼を観察していた。
なお「ゲート崩壊」とは、放置されたゲートが一定以上の時間を経過することで、内部の圧力に耐えきれず境界そのものが決壊し、内包していたモンスターや瘴気が一気に外部へと溢れ出す現象を指す。発見から崩壊までの猶予はゲートの規模や性質によってまちまちだが、いずれにせよ時間経過そのものが崩壊の引き金になる以上、ハンターたちにとって「発見したゲートをいかに早く処理するか」は常に死活問題だった。
つまり、この二人にとって「竜使い」という結果は、驚きであると同時に、どこか腑に落ちるものでもあったのだろう。得体の知れなかった少年に、ようやく「肩書き」がついた。ただそれだけのことだった。
情報の伝達速度に内心で頭を抱えながらも、蒼は表面上、気の抜けた顔でスマホをポケットにしまい込んだ。
授業中も、休み時間も、好奇の視線はやまなかった。だが慣れたもので、蒼はいつも通り、机に突っ伏して眠ったふりをすることで、その大半をやり過ごした。
そうして迎えた放課後。
屋上へと続く階段を上ると、既に千夏が一人、フェンスにもたれて待っていた。夕暮れ前の柔らかな光が、彼女の輪郭を縁取っている。噂に違わぬ、学年一という評判に恥じない佇まいだった。
「あ……来てくれたんだ」
「そりゃ、来るだろ。呼び出したのそっちだし」
ぎこちなく答える蒼に、千夏はふっと表情を緩めた。
「昨日はごめんね、勝手に覗き見しちゃって。それに、今日も教室で色々言われてたみたいだし……その、大丈夫?」
「別に、いつものことだから」
蒼が肩をすくめると、千夏は少し困ったような顔をした。それから、思い出したように付け加える。
「そういえば……昨日の、あの女優さん。綾瀬玲奈さん、だっけ。あんなに親しそうに話してるの、ちょっと意外だった」
「玲奈は、その……昔からの知り合いっていうか」
「ふぅん」
千夏は特に深追いする様子もなく、けれどどこか探るような視線を蒼に向けたまま、話を続けた。
「いつものこと、って言うけど……相楽くんって、本当は」
言いかけて、千夏は言葉を選ぶように口をつぐんだ。昨日目にした光景――竜という伝説の存在、ハンター協会会長の直々の訪問、そのどれもが、目の前の「冴えない同級生」という印象とあまりにもかけ離れている。
「本当は、何?」
「……ううん、なんでもない。ただ」
千夏は真っ直ぐに蒼を見据えた。
「相楽くんが、本当はどういう人なのか。ちゃんと知りたいなって、思っただけ」
その言葉に、蒼は思わず言葉を詰まらせた。これまで誰にも踏み込まれたことのない領域に、彼女は臆することなく足を踏み入れようとしている。
風が吹き抜け、夕焼けに染まる空を、二人はしばらく無言で見上げていた。
「――全部話すのは、まだ無理だ」
やがて、蒼はぽつりとそう零した。
「でも、少しずつでいいなら。話してもいい、かもな」
その言葉に、千夏は小さく、けれど確かな笑みを浮かべた。
「うん。それで、いいよ」
夕陽に照らされた屋上で交わされた、その何気ないやり取りが――やがて訪れる、途方もない物語の、確かな始まりの一つになることを、この時の二人はまだ、知る由もなかった。
そんな空気を破ったのは、蒼がふと校門の方向へ視線を落とした瞬間だった。
「……は?」
校門の脇、桜の木の陰に、見覚えのあるスーツ姿の女性が立っていた。神楽坂冬子――ハンター協会会長その人だった。今日はもう会わないだろうと油断していただけに、蒼の背筋に緊張が走る。
「相楽くん? どうかした?」
千夏が怪訝そうに視線を追う。だが、彼女の目には校門付近に人影らしきものは映っていないようだった。
(気配を消してる……いや、俺にだけ見えるように、わざと調整してるのか)
訝しんだ蒼の視線に気づいたのか、神楽坂はゆったりと片手を上げ、こちらへ向けてひらひらと手招きをしてみせた。用件は聞くまでもない。むしろ、聞かないうちに逃げたいくらいだった。
「あー……悪い、千夏。ちょっと呼ばれてるみたいだから、また今度な」
「え、誰かいるの? ……まあ、いいけど。約束、忘れないでよね」
訝しみながらも深くは追及せず、千夏は屋上を後にした。一人残された蒼は、深いため息をついてから階段を駆け下りる。
『さぼれないの、蒼?』
影の中から、からかうような焔の声が響く。
「あの人からの呼び出しをさぼるとか、逆に怖いんだよ」
校門にたどり着くと、神楽坂は何事もなかったような顔で待ち構えていた。
「ごきげんよう、相楽くん。放課後の校内デートを邪魔してしまったかしら」
「デートじゃないですし、あと普通に校門で待ち伏せとか、協会会長のやることじゃないと思うんですけど」
「あら、心外ね。ちゃんと校門は通してもらってるわよ、来客用の許可を取って」
悪びれもせずに答える神楽坂に、蒼は肩を落とした。この人は、こちらの都合などお構いなしに踏み込んでくる。今朝のやり取りだけで、十分に思い知らされていたはずなのに。
「それで、今度は何の用ですか」
「今日中に、あと一つだけ確認しておきたいことがあったの」
神楽坂の声から、先ほどまでのからかうような調子がすっと消えた。切り替わった空気に、蒼も自然と表情を引き締める。
「市内北部で、未確認のゲート拡大現象が起きているの。今、対応できる人員が足りていない。……もし君に、余力があるなら」
言い淀む神楽坂に、蒼は小さく苦笑した。協会会長ともあろう人間が、たかが覚醒したばかりのFランクの少年に、遠回しに助力を求めている。その光景自体が、どれほど異常な事態なのかを物語っていた。
「別に、頼み方なんて気にしなくていいですよ」
「……そう?」
「行きます。……あ、そういえば、規則では覚醒から一、二日は新米ハンターのゲート立ち入りを禁じる国の規定があるって聞いたんですけど、あれって本当にあるんですか?」
「ええ、正式な規定よ。もっとも、今この場でそれを口にした私も大概だけれど」
「じゃあ、まあ……俺には関係ない話ってことで」
蒼はさらりと言ってのけた。国が定めたルールなど、覚醒からわずか一日で異形と渡り合ってのける自分には、はなから意味を成さない縛りだ。
「本当にとんでもない子ね、君は」
その返答に、神楽坂はわずかに目を見開き、それから小さく笑った。
「頼もしいこと。詳細は、これに」
彼女が差し出したタブレット端末には、赤く点滅する地図と共に、拡大を続けるゲートの座標が表示されていた。
夕暮れの空の下、蒼は静かにその座標を見つめる。彼が本当の意味で「規格外」の一歩を踏み出す瞬間は、もうすぐそこまで迫っていた。
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