自発的退会
エコー市場の事件の翌日、VCIBは林霧に関するすべての資料を封印した。
命令書の文面は隙がなかった。未検証の人格試料の拡散を防ぐため。患者と家族の私生活を守るため。社会的混乱を避けるため。林霧の診療記録、ゲームデータ、北の棚の証拠、松風荘のサーバー記録は、すべて「国際認知安全評価」へ移管される。
平たく言えば、誰も触るな、ということだった。
ジャックは事務所の外で、凛の警察手帳がシステム上では灰色になっているのを見た。エミリーの技術権限は閲覧のみ。彼自身の行動許可も凍結中だ。程嵐はガラス会議室で数人の欧州連絡官と会議をしていた。遮音層が入っていて、早く動く唇だけが見える。天気を決めている人たちのようだった。
「マッテオまで連れていくの?」凛が聞く。
「もう連行された。違法な人格取引の容疑」
「実際、やった」
「ええ。でもゴーストの構造を知っている唯一の人でもある」
ジャックは会議室の扉を開けた。程嵐が顔を上げ、連絡官たちは話すのを止める。卓上の投影には欧州地図があり、プラハ、チューリヒ、東京を結ぶ赤い線が、張り詰めた蜘蛛の巣のように走っていた。
「予約は?」程嵐が言う。
「今の僕には、予約のあるものなんて一つもない」
「待つことを覚えなさい」
ジャックは封印命令を机に置く。「林霧は病院にいない。二人のうち、一人は現実で動き、もう一人は北の棚にいる。手掛かりを全部閉じて、彼が自分で帰るのを待つつもりか?」
「あなたたちが、これ以上人を同じ災害へ連れ込まないようにする」
「連れ込んだわけじゃない」
「松風荘のサーバーは起動し、北の棚の鍵は使われ、忘却の塔は開いた。あなたたちが『確認しただけ』のたびに、システムは現実への新しい錨を得ている」
程嵐は報告を一枚、彼へ向けた。二十四時間以内に東京で起きた身元認識エラーが七件。銀行口座が本人を認めない。夫の端末から妻の連絡先が消える。子どもの学習端末が父親を「未検証の訪問者」と呼ぶ。誰も『幻境深淵』を遊んでいない。
「封鎖では解決しない」エミリーが言った。
「少なくとも、あなたたちが扉を開け続けるのは止められる」
凛が一枚の写真を置いた。病室の窓辺に座る悠。手には古いプレイヤー。撮影は五分前だが、右下の身元枠にはこうある。
**未知の男性/照合不能。**
「弟が消されかけている」
銀縁眼鏡の連絡官が、フランス語訛りの英語で言った。「だからこそ国家単位で扱うべきです。個別事案が技術的リスクを主導してはならない」
「弟は個別事案じゃない。私の弟よ」
「理解します」
「理解してない」
程嵐は連絡官を退室させた。長い沈黙のあと、抽斗から古い録音機を取り出す。再生すると、少年が国語の教科書を読む声が流れた。三文目で途切れ、長いノイズに変わる。
「私の弟」程嵐が言う。「十七年前、松風荘の火災の夜、ここにいた。失踪者ではない。身体は無事に戻った。でも記憶は、誰かに書き換えられたみたいに壊れていた。私の名は呼べるのに、なぜ雨を怖がるのか思い出せない」
「あの時私は、ジェネシスを監督できる組織に渡せば、二度とこんなことは起きないと思った。間違えた。北の棚にも、ゲーム会社にも、何でも解決できると言う個人にも、二度と渡さない」
「私たちも含めて」エミリーが言う。
「含めて」
その時、外の警報が鳴った。病院の音ではなく、システム通知の短い音。全員の端末に同じメールが開く。
差出人:林霧。
件名:自発的退会申請。
本文は一行だけだった。
**私の現実上の身元を抹消してください。もう探さないで。**
添付動画の黒い上着の林霧は、暗い部屋に座っていた。
「この映像を受け取ったなら、もう一人の僕は病院へ戻ったはずです。統合しないで。連れ戻さないで。あなたたちが救いたい人には、もう帰る場所がある。残った僕は、誰かの証拠になりたくない」
「背景はプラハ」エミリーが呟く。
「どうやって行った?」凛が程嵐を見る。
「空港は通っていない。三年前に廃止された欧州の医療端末から送信されている」
ジャックは動画を止めた。壁に子どもの絵がある。人が二つの影を引き、三つ目の影にはジャックと書かれていた。
「僕宛てだ」
程嵐は立ち上がった。「誰宛てでも、ここを出るな。国際連絡班が処理する」
「彼らはミラを処理したのか?」
程嵐は答えない。ちょうどそのとき、エミリーのオフライン端末に不可能なメッセージが届いた。送信者なし。座標と一語だけ。
**橋。**
「カレル橋」ジャックは言う。
凛は灰色の警察手帳を机に置いた。「権限がない」
「権限は要らない」
「かなり犯罪っぽい言葉」
「調査に見えるよう、最大限努力する」
程嵐が扉の前に立つ。「外へ出れば、あなたたちはVCIBの人間ではない」
ジャックは足を止めた。「局長は、誰の人間なんだ?」
彼女は答えなかった。
三人はサービス通路から出た。細い雨のなか、黒い傘の柄の鍵が弱く震える。ジャックは程嵐の事務所を振り返らなかった。
林霧が罠へ誘っているのか、程嵐が追ってくるのかは分からない。ただ、人が自分の現実上の身元を消してほしいと申請する時、本当の問いは申請を通せるかではない。
誰に承認する資格があるのか、だ。
三人は空港へ行かなかった。動画に使われた端末は、破産したプラハの神経リハビリ施設、聖ヴィート診療所のものだった。閉鎖済みのネットワークには保守トンネルが一つ残り、その出口は東京・品川の欧州医療データ交換所にある。昼は病歴を同期し、夜は自動清掃機と外注警備員しか残らない古いビル。
「どうして知ってる?」凛が聞いた。
「ジェネシスの最初のデータが、この線を通ったから」
「参加していたの?」
エレベーターの数字が降りていく。エミリーはそれを見た。「私は音声モデルに。昏睡患者が言葉を取り戻す手助けをしていると思っていた。一人の話し方を学ばせるたび、その人を開ける鍵も作っていたの」
ジャックは慰めなかった。扉を押さえ、二人が先に出るのを待った。
交換所の機械室は冷たい。数百台のサーバーが緑の灯を点け、金属と古い段ボールの匂いがする。エミリーが保守端末へ接続すると、聖ヴィート診療所の古い画面が現れた。
認証を要求する画面。
ID:E. Saunders。
パスワード欄は最初から星印で埋まっている。
エミリーが後ずさった。
「君の権限を覚えている」ジャックが言う。
「ここにはログインしたことがない」
二行目が現れた。
**妹が最後にあなたを呼んだ声を再生してください。**
エミリーの顔が白くなる。
「忘れたことを知ってる」凛が言った。
「声が欲しいんじゃない。私が失ったと認めるのを、欲しがっている」
画面にカウントダウンが出る。ジャックの鍵は反応しない。これは鍵で開けてはいけない扉だと分かった。
エミリーはヘッドセットに手を置く。声そのものは忘れても、ミラが話す前に必ず小さく息を吸い、語尾を少し上げたことは覚えている。目を閉じ、呼吸を真似た。
何も起きない。
残り三秒。凛がプレイヤーを端末に接続した。第七トラックの無音のあと、悠の声が流れる。
――姉ちゃん、俺の代わりに謝らないで。
画面が明滅し、パスワード欄が開いた。
「認めるのは、特定の誰かじゃない。失ったことそのもの」凛が言う。「なら、誰だって入れる」
データベースには「自発的退会」と印を付けられた記録が並ぶ。二十年、複数国、九歳から七十三歳。理由は完璧だった。治療を続けたくない。家族の負担になりたくない。社会資源として保存されたくない。
しかし文の構造は、すべて同じだった。
「同じテンプレート」エミリーが言う。
林霧の記録を開く。動画のアップロード後、申請書が自動生成されていた。隠しメタデータにはこうある。
**人格衝突レベル:分離可能。推奨:社会適応性のある部分を保存。**
「病院にいる林霧を残す」ジャックが言う。
「もう一人を不安定な残余として扱う」凛が続ける。
「それから『自発的』という言葉で、法律上消す」
画面の端に着信。程嵐だった。
「聖ヴィートへ着いたのね」
「知っていた?」
「この線があなたたちをそこへ導くことは」
「逃がしたの?」
「封印命令が必要な理由を見せた。記録は私が書いたものではない。ただ、欧州連絡班はすでに林霧の手続きを始めている。あなたたちがアクセスを続ければ、越権を理由に執行を早める」
「なぜ電話を?」ジャックが聞く。
程嵐は彼を見た。「私は承認していない」
内部命令を送ってくる。
**L-01の身元処置を保留。当事者による二重確認を待つ。**
「二重確認?」
「二人の林霧の意志を、どちらも聞く。私が確保できる最小の窓よ。六時間」
「二人とも当事者として数えるの?」
「二人とも、自分の意思を言えると証明しなさい。勝利ではない。聴聞の機会よ」
通話が切れる直前、程嵐は付け加えた。
「プラハへ行かないで。あそこでは、聴聞などさせない」
端末が勝手に車票を印刷した。飛行機ではない。欧州夜行列車の電子券。
出発地:東京。
目的地:プラハ。
乗客:林霧。
裏面には手書きの文字が浮かんだ。
**一人の僕だけを聞くなら、もう一人を聞きに来て。**
エミリーがジャックを見る。六時間以内にもう一人の林霧を見つけなければ、最も合法的な手順で彼は消される。
「探しに行く」ジャックは言った。
「どこへ?」
赤い線の先を見る。
「行くなと言われた場所から」
端末の灯りが一度暗くなる。残り時間が 05:59:59 から減り始めた。人の存在を、ダウンロードの進捗のようにしている。
「少なくとも、あとどれだけあるかは見える」ジャックが言う。
「緊張すると冗談を言うの?」
「そうだといい」
エミリーは隠し監査記録を見つけた。三時間前、程嵐は最高権限で即時退会を一度だけ否決している。理由は四文字。
**当事者未尽。**
「本当に時間を稼いでいる」
「もっといい支配の方法を探しているだけかも」凛が言う。
「両方、同時に成り立つ」ジャックは答えた。程嵐の言葉だった。封鎖がすべてを救うとは思わない。それでも、彼女が一つの隙間を残すために危険を負っていることは、忘却の塔で見た。
二本目の動画が現れた。送信時刻は明日。黒い上着の林霧は、雨霧に沈むカレル橋の橋脚の下にいた。
「ジャック、これを見ているなら、やはり来たんだね。責めない。あなたは追わないことを、諦めることだと思っている。
でも、もう一人の僕は母さんのところに帰った。彼は母を愛し、思い出そうとする。僕の存在を証明するために、彼まで苦しみに引き戻さないで。
母さんには、初めて僕の名を呼んだ記憶を売ったと伝えて。今は呼び方を覚えていない。でも、待っていてくれたことは覚えている」
映像の終わり、水面には開いた黒い傘が浮かぶ。傘の下の人には顔がない。
「存在を証明しに行くわけじゃない」ジャックは端末を閉じた。
「何をしに?」
「本当に自由か、確かめに行く」
凛はプレイヤーを持ち、品川駅の方角を見る。「六時間。プラハに二人分の答えを聞かせる」
ジャックは黒い傘を開いた。傘の下は狭く、一人分しかない。
今度は誰も誘わなかった。この先を同行するかどうかは、それぞれが自分で決めなければならない。本当の聴聞は、他人の代わりに話すことを拒むところから始まる。




