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幻境の呼び声  作者: 船越 蒼波


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7/10

エコー市場

林霧が病院を出たあと、最初に残した痕跡は三秒の録音だった。


人の声はない。雨、列車がホームへ入るときの風、そして硬貨がガラスの台に落ちる乾いた音。エミリーは三つの音を東京の公共音響データベースに重ねた。候補は十三か所。凛が観光地と地下鉄駅、営業中の店を消していく。残ったのは神田にある、何年も閉鎖された地下商店街だった。


「エコー市場」


「領収書を出してくれそうな名前ではないね」ジャックが言う。


「物は売ってない。人が忘れたいことを売っているの」


入口は自動販売機の後ろに隠されていた。十年前に期限が切れた飲料だけを明るく照らしている。凛が一番下の投入口へ硬貨を入れると、商品は落ちず、背面がゆっくり持ち上がった。下へ続く細い階段が現れる。


階段の先にネオンも、物語じみた用心棒もいない。白い屋台が並び、イヤホン、古い写真、空のチップカード、ラベル付きのガラス瓶が置かれていた。瓶の光は近づく人によって変わる。夏の午後のようなもの。消えかけた台所の灯りのようなもの。


店主たちは客を見なかった。全員、顔のない白い面をつけている。


若い女の子が、小さな記憶チップを三枚載せた盆を押してきた。


「初めて?」


「そんなに分かりやすい?」


「まだ、完全な目で物を見ているから」


エミリーが録音を聞かせる。雨の音が鳴った瞬間、少女の手が止まった。


「北の棚の商品だ。外には出さない」


「誰が管理している?」凛が聞く。


市場の一番奥に、閉じたガラス室があった。扉の木札には、こう書かれている。


**記憶は証言ではない。**


室内では、濃い緑のスーツを着た男が古い蓄音機を小さなブラシで掃除していた。四十代ほど。巻き毛には銀が混じる。三人を見ると、腕時計を確認してから、イタリア訛りの英語で言った。


「東京の客はいつも予約より早い。ヨーロッパ人は約束より遅い」


「マッテオ・ヴァイス?」


「記憶を買いに来たのか、警察を探しに来たのかで変わる。後者なら、私は佐藤だ」


凛が警察手帳を示す。


「なら、私は不運だ」マッテオは笑った。


ジャックは録音を机に置いた。「病院から出た男を探している。黒い傘を持っていたかもしれない。あるいは、自分のものではない記憶を持っていたかもしれない」


マッテオは録音を最後まで聞き、紙に数個の音符を書いた。


「これは雨ではない」


「似ているとは思っていたわ」


「似ているだけだ。公共索引から記憶を移すとき、削除プログラムが出す確認音だ。最初に使ったのはジェネシス。その後、いろいろな会社が買って、きれいな名前を付けた。認知ノイズ低減、とかね」


「ずいぶん詳しいのね」凛の声は冷たい。


「若い頃に間違えた。年を取ると、間違いの方から会いに来る」


彼が蓄音機の蓋を開く。レコードは回っていないのに、林霧の声が流れた。


「帰りたくない」


すぐに、まったく同じ声が続く。


「帰らなければならない」


二つの声は言い争っていた。母のそばに戻りたい。だが母はコピーに慰められるべきではない。最後には二人とも黙り、雨の音だけが残る。


「彼はここに来た」エミリーの顔から血の気が引く。


「三十分前。自分の原本を探せるかと聞いた」


「何て答えた?」


「原本という言葉は危ない、と。人間は収集品じゃない」


「どこへ行った」


マッテオはため息をつく。「北の棚だ」


ガラス室の後ろの壁が開き、一人分の狭い廊下が現れた。壁には破れた証明写真が貼られ、すべての顔の目だけが消されている。


「なぜ協力するの?」凛が問う。


「彼が払ったから」


「何を?」


マッテオが、蓄音機の横の空の瓶を指す。ラベルにはこうあった。


**母が初めて私の名を呼んだ記憶。**


「自分が林霧である証拠を一つ、売った。覚えていなければ、自分が本人ではない恐怖も消えるかもしれない、と」


エミリーは歩き出す。ジャックは追いつき、声を潜めた。


「北の棚とは何だ?」


「市場が触れない場所。記憶ではなく、人格同士のつながりを取引する。失くした父に会いに行く人もいる。死んだ恋人と話す人も。生きている人を、家族の関係から買い出す人もいる」


「止められるか?」


「止められるなら、私は存在を知っていない」


廊下の先には取っ手のない扉があった。凛がプレイヤーを近づける。第七トラックの無音。扉の向こうから、林霧の声がした。


「母さん?」


ジャックの黒い傘の鍵が熱を持つ。背後でマッテオが言った。


「入る前に知っておけ。北の棚は、一回に一人しか連れ出せない」


「中に何人いる?」


「少なくとも、二人の林霧だ」


扉が自ら開いた。


そこには林家の食堂そのものがあった。テーブルには三人分の食器。中央には林霧の母が座り、苺大福を半分に切っている。


「霧はすぐ帰ってくるわ」


ジャックは近づかなかった。彼女の薬指に、銀色の指輪がある。現実の母ではない。


テーブルの向こうには林霧が二人いた。一人は病院の患者服。もう一人はゲーム内の黒い上着。互いに見つめ、先に話そうとしない。


患者服の林霧が顔を上げた。病院にいた時より血色がよく、左の人差し指には絆創膏が巻かれている。


「来ると思ってた」


黒い上着の林霧が少し笑う。「当然だろ。心配する部分を、全部そっちに残したんだから」


「どちらが原初の意識?」凛が聞く。


「その質問は役に立たない」患者服の林霧は答えた。


「役に立つ」黒い上着は言った。「少なくとも、誰を病院へ返すか決めやすくなる」


ジャックはテーブルの端に手を置く。「なぜ分かれた?」


二人は沈黙した。先に答えたのは黒い上着だった。


「僕は死にたくなかった」


「僕だって同じだ」


「君は帰りたい。母さんが抱きしめて、スープを作って、息子が帰ったと皆に言える場所へ。でも身体に一人しか入れないなら?」


患者服の指が強く握られる。


「母さんのせいじゃない」


「そうは言ってない。ただ君は、母さんを悲しませないためなら、僕をここに置いていける」


指輪をした母が、大福を切り続ける。刃が落ちるたび、部屋の灯りが一つ暗くなった。


「二人とも帰って、食べなさい。傷つけることを言わないで」


「あなたは誰?」エミリーが問う。


「お母さんよ」


「違う」


「では、私は何であるべき?」


エミリーは答えない。塔のミラを思い出していた。本物か偽物かと、急いでラベルを貼ろうとした自分を。この女は母の声も仕草も、息子への心配も持つ。ただ、現実にはない指輪をしている。


「結婚していたことを覚えている?」


女は指輪を見下ろした。笑顔が一瞬だけ消える。


「あの人は帰ると約束した」


「父さんだ」患者服の林霧が言う。


「八歳のときに死んだ」黒い上着が続ける。「母さんは指輪をしない。洗い物のとき楽だからって、ずっと言ってた」


女の目に初めて亀裂が入った。


「ただ、二人とも帰ってほしかった」


部屋の隅の蓄音機から、病院で泣く林霧の母の声が流れた。ジャックは理解した。北の棚が売るのは人格ではない。人が埋めたいと願う穴だ。最も欲しい断片を渡せば、システムは優しい部屋を作る。その代わり、その部屋は少しずつ檻に変わる。


「誰がここへ来させた?」ジャックが聞く。


「私じゃない」マッテオは扉の外で答えた。「扉を開けただけだ」


「こういう接続を売ったことが?」


「ある。子を失った人、恋人を失った人、目覚めたくない患者に。最初は最後の一言を聞きたいだけだった。次はもう一度食事をしたい、誕生日を過ごしたい、二度と離れないと約束させたい、と」


黒い上着の林霧が、記憶チップを置いた。「彼が僕に売ったのは父の声だ」


患者服の林霧の顔色が変わる。「聞くべきじゃなかった」


「父は言った。残響は死者を置き去りにするためではなく、生きている者が別れを覚えるためにある、と。でも君は僕を元の場所へ閉じ込めたい」


「僕たちを助けたい」


「誰を?」


二人は川の両岸にいるように見えた。原本と複製ではない。同じ人間が、別々の恐怖の中で選んだ二つの答えだ。


「統合できる?」凛がエミリーに問う。


「理論上は。記憶の重なりは大きい。でも衝突する部分は互いを上書きする。二冊の本を、結末が違うまま無理に製本するようなもの」


「どうなる?」


「どちらでもない誰かが残るかもしれない」


「それが怖いんだ」患者服の林霧が苦く笑う。


黒い上着がジャックを見た。「ロアンを戻した時、あなたは彼に聞いた? 書き直されることを望むかって」


喉が締まる。ジャックは当時の答えを覚えていない。だが、問わなかったことだけは認められた。


「聞かなかった」


「なら、今は聞いて」


ジャックは二人を見た。「どうしたい?」


患者服の林霧は目を閉じる。「帰りたい。怖くないからじゃない。本物だと思うからでもない。母さんが待っている。誰かが帰って、何があったか伝えなければならない」


黒い上着は言った。「消されたくない。自分が何者なのか分かるまで、ここにいたい」


「今、選ばなくてもいい」ジャックは言う。


「北の棚は許さない」マッテオが答えた。「同じ起源の人格が一つの接続に入ると、衝突を圧縮し始める。夜明けまでに、少なくとも一人を市場が回収する」


「誰が北の棚を動かしている?」


マッテオの笑顔が初めて消えた。「『ゴースト』という仲介者だ」


その瞬間、天井の灯りがすべて消えた。食器が独りでに動き、空いた四つ目の席を作る。年齢も性別もない声が、すべての瓶から同時に流れた。


「ようやく、私について尋ねた」


「ゴースト」マッテオが息をのむ。


「心配するな、マッテオ。君が売った記憶は全部、丁寧に保管している」


ジャックは鍵を握る。「何が欲しい」


「答えだ。一人が二人に分かれたなら、どちらに怖がる資格がある?」


壁紙が剥がれ、無数の名が見えた。林霧、ミラ、ロアン、高橋悠。そのほか、線で消された人たち。


「夜明けまでに、連れ出す一人を決めて」


ジャックは返事をせず、空いていた四つ目の椅子を引いて座った。


「何をしているの?」凛が言う。


「こいつに、見せる」


「何を?」


「用意された場所には座らない、と」


二人の林霧を見た。「今、僕たちと来なくていい。どちらが生きる資格があるか、互いに証明しなくてもいい」


「市場が一人を取る」


「ならまず、市場に聞こう。取る資格がどこにある」


ゴーストは短く沈黙した。瓶の光が不規則に揺れる。


「規則は規則だ」


「誰が書いた?」


「人間」


「どんな人間が?」


「失うことを恐れた人間」


ジャックは頷いた。「規則を書いた人も、規則に持っていかれるのは怖いはずだ」


エミリーが記録機をテーブルに置く。外へ持ち出せないと分かっていても、ローカル再生を押した。林霧の母の声が流れる。


――あの子が私を覚えていなくても、私はもう愛してはいけないの?


指輪の母がナイフを落とした。二人の息子を見て、ついに泣いた。


「選びたくない」


それは現実の母ではない。それでも母の記憶と願いから作られた残響だった。北の棚全体が拍子を失った機械のように震える。


黒い上着の林霧が笑った。「あいつも怖がっている」


「何を?」患者服の林霧が聞く。


「僕たちが、汚い仕事を代わりにしないことを」


ゴーストの声に初めて怒りが混じる。「選ばないことが善良だと思うのか。選ばない者も、誰かに結果を負わせる」


「そうだ」ジャックは認めた。「だから僕たちが負う」


父の古い鍵を、テーブル中央にいつのまにか現れた鍵穴へ差し込んだ。鍵穴が光る。マッテオが息をのむ。


「ジェネシスの安全鍵だ」


「僕も今知った。でもこれは、誰を選ぶための鍵じゃない」


鍵を回すと、部屋の奥に地上へ続く整備通路が開いた。二人の林霧の輪郭が少し薄くなる。だが、誰も引きずられていかない。


「出口を作っただけだ」ゴーストが言う。「分裂は解決していない」


「今日、解決しない」ジャックは答えた。「今日は二人を明日まで生かす」


患者服の林霧がもう一人を見る。「残るのか?」


「残る。君は病院へ?」


「行く。でも、何もなかったふりをするためじゃない」


二人は抱き合わなかった。テーブル越しに、小さく頷き合った。互いが障害ではないと、ようやく認めるように。


夜明けの光が整備通路の先から射し込む。ゴーストの声は瓶の奥へ退き、最後に一言だけ残した。


「あなたたちに、切り離されたすべての人は救えない」


ジャックは扉枠に手を置いた。


「なら、これ以上切り離すな」

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