忘却の塔
二十三時三十八分。御茶ノ水駅の終電は、もう行ってしまっていた。
ホームに残っているのは三人と、いつまでも「遅延」を表示し続ける案内板だけだった。ジャックは黒い傘を持ち、傘の先を黄色い線の内側に置いている。エミリーの肩には小さなデータケースがある。中身は武器ではない。オフライン用の接続リングが三つと、ネットワークに繋がらない記録機が一台。凛は線路際に立ち、弟が使っていた古い音楽プレイヤーを強く握っていた。
悠は程嵐の判断で安全病棟に残された。凛は反対しなかった。出る前にただ、「扉を閉めてくる」とだけ弟に告げた。どの扉なのか、悠は尋ねなかった。代わりにプレイヤーを渡し、第七トラックの無音のあとに何かが聞こえても、一人で入るなと言った。
「本当にそれを持っていくのか?」
ジャックがプレイヤーを見る。
「機材じゃない」凛は答えた。「弟が残した面倒ごとよ」
「それなら、かなり機材らしいな」
エミリーは笑わなかった。ホームの端にある広告画面を見つめていた。観光映像だったはずの画面で、ヨーロッパの古い街が切り替わる。やがてプラハの雨の夜で止まり、カレル橋の向こうの霧から黒い塔が浮かび上がった。塔の頂には窓がない。ゆっくり回る一枚の扉だけがあった。
画面の下に、文字が現れる。
**失いたくないものを、ホームに置いてください。**
ジャックは自分の傘を見た。
「僕が何を持ってくるか、知ってるらしい」
「何を持っていきたくないかを知っているのよ」エミリーが言う。
トンネルの奥で、列車が入ってくるときの風が鳴った。灯りはない。アナウンスもない。闇から一両だけの黒い車両が滑り出し、三人の前で止まった。扉が開く。中には誰もいないのに、座席は古い待合室のように整えられていた。各座席には透明な箱が一つずつ置かれ、蓋には乗客の名前が刻まれている。
ジャック・ハーヴィー。
エミリー・サンダース。
高橋凛。
「地下鉄じゃない」凛が言った。
「助かる。東京の地下鉄が僕の名前をこんなに上手く綴れるとは思えない」
ジャックが先に乗り込む。扉は三人の背後で閉じた。加速する感覚はなかったが、窓の外はすぐに後方へ流れる雨だけになった。エミリーが記録機を起動する。画面には警告が一行だけ出た。
**外部記録は持ち込めません。**
「中のことを記録させないつもりね」
「なら、できるだけ覚えて帰ろう」
「ここでは、その言葉は縁起が悪いわ」
天井灯が点いた。同時に三つの箱が開く。中の紙片には、それぞれ違う要求が書かれていた。
ジャックへ――**自分を初めて許した記憶を差し出せ。**
エミリーへ――**妹が最後に「お姉ちゃん」と呼んだ声を差し出せ。**
凛へ――**弟の代わりに決めた、あの選択を差し出せ。**
誰もすぐには口を開かなかった。
ジャックには意味が分かる。ロアンが死んだあと、彼は遺体安置室の外に一晩座っていた。翌朝、年配の医師が肩に手を置いた。
――あの時、お前には二つしか選択肢がなかった。助けられると信じた方を選んだんだ。すべての死を自分の罪にするな。
あれが初めて、彼が眠れた夜だった。その小さな許しだけで、五年間を歩いてきた。
それを渡したら、自分は何になるのだろう。
「どうして、これなの?」凛が尋ねた。
車内のどこからともなく、女の声がした。
「それによって、あなたたちは自分が誰かを決めているからです」
「払わなければ?」エミリーが問う。
「列車は到着しません」
「降りればいい」
「もちろん。ホームに戻れます。ここへ来た理由を忘れて」
凛は紙片を丸めた。「選択じゃない」
「どんな選択にも、気に入らない答えはある」ジャックが言う。
「今のあなた、程嵐みたい」
「それは謝るべきかな」
「急がないで。そのうち忘れるかもしれないから」
列車がかすかに震え始めた。雨の中に標識が一枚ずつ現れては通り過ぎる。林霧。ミラ。ロアン。高橋悠。名前のたびに、車内の温度が少しずつ下がる。
エミリーは箱の縁に指を置いたまま動かない。「ミラが最後に私を呼んだのは、病室だった。起きたら海へ行けるかって聞いたの」
「約束したのか?」
「もちろん、と言った」
「なら渡すな」
「渡さなければ着けない」エミリーは顔を上げた。「分かっていないと思う?」
凛が自分の紙片を箱へ戻し、赤いボタンを押した。細い青い光がこめかみへ吸い込まれる。彼女は真っ直ぐに立っていたが、光が消えたとたん遠い場所から帰ってきたようにまばたきをした。
「凛?」
彼女は手の中のプレイヤーを見下ろす。「これは……誰の?」
ジャックの胸が冷えた。
「一度の選択だけじゃない」エミリーが箱を閉じようとする。「その選択のあとにあった、弟さんの記憶まで持っていった」
凛はプレイヤーを胸に抱いた。「弟がいることは覚えてる。でも、何が嫌いだったのかも、子どものころ私をどう呼んだのかも、思い出せない」
列車の前に雨に囲まれた塔が見えた。塔の根元は黒い水に沈み、先端は雲の中に消えている。扉が開く。
「一名が通行料を支払いました」女の声が告げる。
「まだ足りないのか」
「全員が支払わなければなりません」
凛は顔を上げた。「私の記憶を無駄にしないで」
エミリーは唇を噛んだ。箱を開き、指をボタンへ伸ばす。ジャックがその手を止めた。
「待ってくれ」
「何を待つの?」
「欲しいものだけを奪う場所だと、確かめるまで」
「どうやって?」
「分からない」彼は正直に言った。「でも誰かを助けるために、その人自身を失わせるのは、もう見たくない」
エミリーの目が赤くなる。「それを決めるのはあなたじゃない」
ジャックは手を離した。
エミリーが押す。青い光が胸から一本の糸を引き抜くように立ち上がった。しばらくして彼女は目を開け、涙を落とした。
「何て言ったの?」凛が聞く。
エミリーは口を開く。しかし音がない。喉を押さえ、顔を青ざめさせた。
「呼ばれたことは覚えている。でも、何と呼ばれたのか分からない」
ジャックは最後の箱を見る。ボタンを押しても痛みはなかった。胸の中心から大きな空白が広がっただけだ。ロアンが死んだことも、署名したことも覚えている。なのに、なぜ自分が五年も苦しんだのかが、急に理解できなくなった。
少し楽になった。
その軽さが、彼を怖がらせた。
列車は止まった。外には果てのない黒い水面があり、その上を白い仮面が無数に漂う。扉を出た三人の前で、塔の門が開いた。内部は階段ではなく、明るい廊下だった。壁には鏡が並び、鏡の中にはそれぞれ何かを少しずつ失った顔が映っている。
廊下の先で、背を向けた少女が歌っていた。
エミリーが固まる。その旋律の歌詞はもう思い出せない。それでもミラの好きな歌だと分かった。
少女が振り向いた。
「お姉ちゃん。やっと私を忘れたね」
エミリーは近づかなかった。十七歳のミラの顔。鼻筋の薄いそばかす。笑うと左だけ少し高くなる口元。そんなことは覚えているのに、最後の「お姉ちゃん」だけが心臓から切り取られている。
「あなたはミラじゃない」
「そうであってほしい?」
「分からない」
「それでいいの」少女の笑みが消えた。「前の姉さんは、いつも分かっていた。私が飲む薬も、医者を信じるかも、目が覚めたら怖がるかも。答えを全部、先に用意してくれた」
ジャックが何か言おうとすると、エミリーは手で制した。初めて彼女は相手を残響や罠や試料として分類しなかった。
「あなたは、何を望むの?」
ミラは歩き出した。鏡のたびに映る年齢が変わる。海辺で貝を拾う九歳。病室に横たわる十七歳。プラハの橋で雪を見る二十七歳。最後の鏡の中の彼女には、顔がなかった。
「誰が私をここへ置いたのか、知りたい」
「ジェネシスが?」凛が言う。
「ジェネシスは一人じゃない。手放せなかった人たちから育った家。誰かが私を入れ、誰かが鍵を忘れ、誰かが『あなたのため』と言えば扉を溶接していいと思った」
壁が透明になり、塔の外の水が見えた。水中には光る部屋が無数に沈んでいる。食事をしている人、電話を待つ人、ただ一枚の扉を何度も開閉する人。
「失踪者?」
「そういう人もいる。ただ、残された一部だけの人もいる」
「林霧はどこだ?」ジャックが聞く。
「二つに分かれた。一人は母の元へ帰りたい。愛しているから。もう一人は帰れない。帰った自分が、元の自分ではないと知っているから。病院にいるのは前者」
水底の白い扉に、林霧の名があった。取っ手はない。
「合わせればいい」エミリーが言う。
「できる。でも一つになっても、彼は帰りたくないと言うかもしれない。その時、あなたたちは聞く?」
ジャックは答えられなかった。彼はロアンの死を覚えている。しかし自責を失った今、善い人間であることを罪悪感で証明することもできなかった。ただ一つだけ、問いが残った。ロアンも二つに割れていたなら、自分は誰を救い、誰を殺したのか。
「聞く」彼はようやく言った。「そして、返事を待つ」
塔の奥で鐘が鳴った。音のたびに鏡が砕け、光る記憶となって飛び去る。凛が頭を抱えてよろめく。プレイヤーが落ち、第七トラックの無音のあと、少年の低い声が流れた。
「姉ちゃん、俺の代わりに謝らないで」
凛は膝をついた。
「悠の報告を消した。十六歳のとき、学校の案内イヤホンで、人が何を怖がるか記録できると知って……私に渡してくれた。面倒に巻き込みたくなくて消した。やめろと言った。あとで女の子が消えた。あの記録があれば、自分の意思で出ていったわけじゃないと示せたのに」
ミラは彼女の前へ来たが、触れなかった。
「忘れることは、許されることじゃない」凛が言う。
「罰でもない」ミラは答えた。「覚えている以外に、何ができるかを見るためのもの」
塔が再び揺れた。外部からの切断光が天井を走り、鏡の破片から程嵐の声が響く。
「直ちに退出して。神経活動が不安定です」
「ここを閉じるつもりだ」エミリーが言う。
「君たちを助けようとしている」ジャックは言った。
「両方、同時に成り立つわ」
ミラの輪郭が薄くなる。「扉を閉めさせないで。消された部分はここに残る。選ぶ時間をもらえなかった人も、ずっと待つ」
壁に残った一枚の鏡には、東京の病室が映っていた。林霧の母は空の椅子の横で、保温容器を足元に置いて待っている。
「出口はずっとそこにある」ミラが言う。「ただし出ていく人は、一つの席を持っていかなければならない」
ジャックは、列車の切符にあった空席の意味を理解した。それは失踪者のための席ではない。連れ帰れない誰かを、連れ帰れないまま認めるための席だ。
「エミリー。残りたいか?」
「残りたい」
「残りたいことを、残らなければならないことにするな」
エミリーは目を閉じ、息を吸った。「ミラ、また来る」
「知ってる」少女は言った。「姉さんはいつも戻ってくる。今回は、私が出るかどうかを代わりに決めないで」
三人は鏡へ走った。黒い水がジャックの足首を越えたとき、彼は振り返る。ミラはいつの間にか黒い傘を手にしていた。傘を差さず、水底の林霧の扉へ差し出している。
そして鏡は閉じた。
ジャックが病院の準備室で目を開けたとき、口の中には鉄の味がした。程嵐は制御卓の前に立ち、一晩で数歳老けたような顔をしていた。
「あなたたちは一時間四十分、向こうにいた」
「こちらでは九分くらいだと思った」エミリーが言う。
「忘却の塔は外の時間では動かない」
凛はポケットからプレイヤーを取り出す。第七トラックは相変わらず無音だった。でも、そのあとに悠の声は残っていた。
――姉ちゃん、俺の代わりに謝らないで。
彼女は泣いた。もっと思い出せない理由を、もう尋ねなかった。
エミリーがガラス窓へ寄る。林霧のベッドは空だった。看護師の話では、患者は四十分前に隔離区画を出た。監視映像に残ったのは、開いた黒い傘だけ。
枕の上には紙片がある。
**もう一人の僕を探しに行く。連れ戻さないで。**
ジャックは読んでも追わなかった。
追うことが、いつも救助になるわけではない。人はときに、誰かが離れることを先に許さなければならない。次に会ったとき初めて、こう尋ねる資格を持つのだ――どう助けてほしい? と。
東京の空が白み始める。始発電車の音が遠くを通った。それは雨のようで、雨ではなかった。




