地図にないアパート
扉の外の男は、もう叩かなかった。
それは、叩き続けられるより悪かった。
ジャックの手は鍵に触れたまま止まっていた。金属の冷たさが、指先から腕へゆっくり上がってくる。列車の車体は存在しない線路の上でかすかに揺れたが、テーブルの味噌汁は波ひとつ立てなかった。湯気まで、誰かに固定されているようだった。
エミリーは彼の背後にいた。視界の隅の残り時間が、彼女の瞳に反射している。
六分五十九秒。
「開けるつもり?」
「鍵がかかっているか確認するだけだ」
「右手は解錠している」
「右手は私より知りたがりなんだ」
「その右手は、いつか私たちを殺す」
「単独でそこまで大きなことを成し遂げた実績はない」
エミリーは笑わなかった。ジャックも、冗談で時間を買っていることを隠せていないと知っていた。怖いのは、もう一人の自分が現れたことではない。あの声が、彼しか知らないはずのロンドンの記録を口にしたことだった。
天井のスピーカーから、リン・ウーの荒い息が聞こえた。
「聞かないでください。あれは、あなたたちが一番認めたくないことを選んで話します」
「君はどこにいる?」エミリーが尋ねた。
「ここじゃない」
「私たちがここにいることを、どうして知っているの?」
「この部屋を作ったのが、僕だからです」
ジャックは車内を見回した。二人分の食卓。逆さの椅子。空中で止まった雨。キッチンには切りかけのレモンがあり、流しには洗い終えていない皿があった。生活らしさが、あまりに意図的だった。
「君は音響デザイナーだ。シーン設計者じゃない」
「音を選んだのは、音が一番嘘をつきにくいからです。少なくとも、前はそうでした」
扉の外のジャックが言った。
「彼は嘘をついている」
今度はジャックの声ではなかった。リンの母親の声だった。かすれ、泣くのを押し殺している。
「阿霧は、いつも大丈夫だって言った」
エミリーの肩が固くなる。ジャックは手を上げ、扉から離れるよう合図した。
「さっきから聞いた声は全部、この中にある」と外の声は続けた。「あなたたちは、放送の中の彼が本物だと、何を根拠に思っている?」
車内の灯りが一度だけ明滅した。三つ目のカップが独りで半回転し、底をジャックへ向けた。そこには小さな英文が印刷されていた。
**RETURNING IS NOT THE SAME AS COMING HOME.**
「戻ることと、帰ることは違う」エミリーが訳した。
ジャックはその言葉を心の中で反復した。ゲームの文言ではない。リンが書く文章でもない。これは、計画の標語だった。
「ジェネシス」
エミリーは否定しなかった。
扉が四度叩かれた。最初の二度は間が長く、最後の二度はほとんど重なった。エミリーの顔から血の気が引いた。
「その音を知っている?」
「リラが叩く癖」
「リラ?」
「妹」
扉の向こうの声が、若い少女のものに変わった。
「お姉ちゃん」
エミリーが一歩進む。ジャックはとっさに彼女の手首をつかんだ。彼女は強く振りほどこうとした。
「放して」
「外にいるのが誰か、先に言え」
「わからない」
「なら開けるな」
「リラは十二年前に消えた」
エミリーは彼を見た。その眼には、普段の冷静さがなかった。
「もしあれがリラなら――」
「もし違ったら?」
少女の声が、扉の向こうで小さく笑った。
「お姉ちゃん、まだ鍵を左ポケットに入れてるんだね」
エミリーの手がコートのポケットへ入る。出てきたのは鍵ではなく、雪の結晶が刻まれた古い銀貨だった。
「こんなの、持って入っていない」
「私もだ」ジャックは言った。
残り五分十二秒。
放送のリンが叫んだ。
「開けないで! あれは、あなたたちの記憶を部屋に変えようとしている。確認するたび、あれはもっと現実に残れる!」
「あれは何だ?」ジャックが聞いた。
「わかりません。ただ、最初に僕を複製した。僕の母さんに会わせて、疲れているだけだと言った。話し方も、手の癖も、怖いものも、全部僕と同じでした。危うく信じるところだった」
「どうやって違うとわかった?」
「あれは、僕がもう忘れたことまで覚えていた」
ジャックの手が少し強くなる。
「人間は、自分を完全には覚えていない。完全なものほど、偽物なんです」
エミリーは深く息を吸った。
「原点を探す。ここはランダムに作られた私的シーンじゃない。錨があるはず」
「どこに?」
「リンが変えたくなかった細部の中。論理に合わないものの中に」
二人は手分けして車内を探した。切られたレモンは酸化していない。蛇口から流れる水は音がなく、水面にはジャックたちの顔ではなく、浴槽で膝を抱えた少年が映った。少年の周りには、無数の白い面が積まれていた。
「何が見えた?」エミリーが聞く。
「ひどい子供の誕生日会だ」
「ジャック」
「少年と、面がたくさん」
エミリーは追及しなかった。壁に掛かった子供の絵を外す。裏には色褪せた切符が貼られていた。東京発、プラハ中央駅行き。日付は十二年前。乗客名はM. Saunders。
エミリーの指が震えた。
「リラはプラハに行ったのか?」
「行っていない」
「なら、この切符は誰の?」
「わからない」
切符の裏には座標と、日本語の一文が書かれていた。
**帰る道は、すべて忘却を通る。**
「日本語がおかしい」ジャックが言った。
エミリーが彼を見る。
「文法は正しい。意味も通る。でも『帰る』の言い方が古い。翻訳データベースが選びそうな言葉だ」
「いつからそんなことに気づくようになったの?」
「祖母が日本人だった。靴を反対に置くな、敬語を間違える人を信用するな、と教わった」
エミリーの口元が、ほんの少し動いた。
切符を端末に重ねると、壁が紙のように裏返った。
その向こうにあったのは、古い東京のアパートの廊下だった。
突き当たりの扉には、404と書かれている。隙間から暖かな光が漏れ、表札の下には手書きの夕食メモが下がっていた。
味噌汁。焼き鯖。苺大福。
リンの母親が、失踪した夜に作ったと話した献立だった。
「これが錨よ」エミリーが言った。
残り時間は三分二十秒。
「チェン・ラン局長は、見知らぬ人格に触れるなと言った」
「私たち、存在しない列車で三人の見知らぬ人格と口論している」
「確かに、規程を持ち出すには遅いな」
扉の外のジャックが低く言った。
「404へ行くな」
「なぜ怖い?」ジャックは扉へ向けて聞いた。
「そこにリン・ウーはいない」
「誰を信じればいい?」
「自分自身を」
ジャックは笑った。
「それが一番の穴だ。本物の私は、そんな高価な助言はしない」
二人は裏返った壁を抜けた。
廊下は見た目より長かった。感応灯が進行方向にだけ点き、背後から消える。扉の名札には、リン・ウー、リラ・サンダース、ローレン・ケイル、ジャック・ハーヴェイと、見覚えのある名が並んだ。
「ローレン・ケイルは誰?」エミリーが聞く。
ジャックは答えなかった。
「あなたが全部話さないなら、私が調べる。ゆっくり、しかも不機嫌に」
「現実へ戻ってからだ」
「いつが現実なの?」
404の扉の向こうで、スプーンが器に触れた。
「阿霧? 大福は冷蔵庫に入れた?」
林の母親の声だった。
ジャックが扉を開けた。
部屋はありふれた東京の小さな住まいだった。古い木の床。窓辺の枯れかけたミント。食卓にはリン・ウーが座っていた。家着を着て、箸を持ち、二人を見上げる。
「捜査官さん」彼は礼儀正しく笑った。「部屋を間違えたんじゃないですか」
エミリーの端末が鳴り響いた。
**未登録人格活動。神経マッピング一致率99.8%。**
「リン・ウー。自分がどこにいるかわかる?」
「家です」
「君の身体は病院にある」
彼は箸を止め、窓の外の止まった雨を見た。
「それが、どうかしましたか?」
その静かな答えに、ジャックは背中を冷たいものが這い上がるのを感じた。
「お母さんが心配している」
「ここにいますよ」
台所の女が振り返った。優しい笑顔。だが、左手の薬指には林の母親が現実ではしていない銀色の指輪があった。
「阿霧は帰ってきただけです。どうして連れて行くの?」
エミリーが低く言った。
「彼女は林さんじゃない。林さんは結婚指輪をしていない」
女は自分の手を見た。
世界の色が、ゆっくり抜け始めた。
リン・ウーが立ち上がる。
「僕が彼女を入れたんじゃない」
四方から、放送のリン・ウーの声が響いた。
「だから言ったでしょう。あれは帰ってくる人を使って、あなたたちを騙す!」
玄関の奥に黒い円形の接続口が開く。部屋の光がそこへ吸い込まれ始めた。
「離脱して!」エミリーが叫ぶ。
しかしリン・ウーは、女を助けようとしていた。
「あれは母さんの記憶なんだ!」
ジャックは彼の腕をつかんだ。温度がある。骨の硬さも、恐怖に張りつめた筋肉もある。あまりに本物だった。
「一緒に出るんだ」
リン・ウーは彼を見た。
「出たあと、あなたは僕を覚えていられますか?」
ジャックは答えられなかった。
黒い接続口が収縮する。エミリーが強制離脱を起動した。部屋は砕けるガラスのような音を立て、リンの手がジャックの掌から滑り落ちた。
最後に、苺大福が床へ転がるのが見えた。割れた中身から、雪の結晶を刻んだ銀貨がのぞいた。
ジャックは手を伸ばした。
白い光がすべてを消した。
準備室で目を覚ましたとき、彼の口には鉄の味が残っていた。
エミリーは膝をつき、掌の中の銀貨を見つめていた。チェン・ランは観察窓の向こうから、二人を言葉なく見ていた。
「九分二十二秒」局長は言った。
「システムが二十二秒くれた」ジャックは息を整えた。
「システムは人に余分なものをくれない」チェン・ランは答えた。「先に帳簿へつけるだけです」
銀貨の裏には、さっきまでなかった文字が浮かんでいた。
**リラはプラハにいる。**




