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幻境の呼び声  作者: 船越 蒼波


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1/10

目覚めている失踪者

東京で雨が降ると、街全体が誰かの秘密を守っているように見える。


ジャック・ハーヴェイはタクシーを降り、黒い傘を開いた。骨の細い、妙に品のいい傘だった。病院の救急入口には少しばかり場違いだったが、彼は気にしていない。


自動ドアの向こうから、温かい消毒薬の匂いが流れてきた。傘をたたんで受付脇のサービスロボットに預けると、機械の腕が丁寧に差し出される。


「コートを乾かしますか」


「結構。今日はたぶん、もう一度濡れる」


ロボットは半秒ほど考え込んだ。冗談として処理すべきか、故障の予兆として処理すべきか、判断がつかなかったのだろう。


「乾燥した一日をお過ごしください」


ジャックは笑い、身分証を掲げた。


午前一時四十七分。聖マリア脳機能医療センターの廊下は、静かすぎた。壁には穏やかな海の映像が投影されている。患者を落ち着かせるためのものだろうが、ジャックには出口のない海にしか見えなかった。


ドアには黄色い帯が貼られていた。


**認知隔離。許可なく患者の外部機器に触れないこと。**


病室の中央に、若い男が横たわっていた。二十代半ば。三日間日光を見ていない肌は白く、こめかみには銀灰色の神経パッチが弧を描いていた。モニターの数字は、腹が立つほど安定している。


心拍七十二。酸素飽和度九十八。瞳孔反射あり。筋緊張も正常。


リン・ウーは生きていた。


そして、ここにはいなかった。


ベッド脇には五十代の女性が座っていた。泣いてはいない。ただ、息子の手を両手で握り続けていた。少しでも緩めれば、この人が見えない隙間へ滑り落ちてしまうと信じているように。


「ハーヴェイ捜査官ですか」


彼女の中国語には、東京で長く暮らした人特有のわずかな日本語の癖があった。


「仮想犯罪捜査局から来られたと」


「そうです。ジャックと呼んでください」


彼は正面の椅子に腰を下ろした。まだ端末は取り出さない。


「阿霧は、昏睡なんかじゃありません」


ジャックはモニターを見る。


「医師は何と?」


「覚醒反応状態だと。わかりません。医者はいつも、一番怖いことを天気予報みたいに言うんです」


彼は反論しなかった。医学用語は冷酷になろうとしているわけではない。ただ世界を、数えられるものと数えられないものに分けなくてはならない。だがベッド脇の人間は、統計の中で生きてはいない。


「『幻境深淵』を始めたのはいつですか」


「二年くらい前です。最初は仕事のあとに少しだけ。阿霧は音響デザイナーで、映画やゲームの音を作っていました。あのゲームは特別だって。プレイヤーが口にしないことまで聞こえるって」


彼女は息子の手の甲を撫でた。


「ゲームが人より人をわかるわけないって、叱ったんです」


「最後に話したのは?」


「日曜の夜。家で夕食を食べて、苺大福を買って帰ってきました。甘いものは好きじゃないのに、私のためだって。電話じゃなくて、ゲームから招待が来たんです。三十分で戻るって言って、書斎でインターフェースをつけた。それきりです」


林の母親は皺になった紙を取り出した。家庭端末が自動印刷した通知だった。


**プライベート・シーン招待:忘却の塔/招待者限定。**


差出人は、読めない文字列だった。


「見に行ったとき、あの子は机に座っていました。目を開けて、唇も動いていた。でも声は聞こえなかったんです。それから……帰り方を急に忘れたみたいになって」


ジャックは紙を受け取った。端の乾いた染みには、雨水か涙か、区別のつかないものが残っていた。


背後で扉が閉じた。


エミリー・サンダースが早足で入ってきた。濃い茶色のコートの肩には雨が残り、片手には透明端末、もう片方には自販機のコーヒーが二本あった。


「あなたのは無糖。あと、コーヒーのせいにしないで。あれなりに頑張ったらしいから」


ジャックは受け取り、香りを確かめた。


「匂いから判断するに、ずいぶん辛い人生だった」


林の母親は笑わなかった。だが、眉間の線がほんの少し緩んだ。エミリーはそれを見逃さず、静かに頭を下げた。


「林さん。私はエミリーです。息子さんのアカウントを調べています」


「何かわかりましたか」


エミリーは端末を見たまま答えた。


「起きてはいけないことが、ひとつ」


投影にはリン・ウーのアカウントが現れた。二年前に登録。累計ログイン千百二十七時間。最終活動は日曜の二十三時二分。その一分後、アカウントは灰色に変わっていた。


**自主退会。**


「自主退会とは?」


「本人がアカウントと人格アーカイブを削除することです。友人関係も、私的なシーンも、すべて消えます。規約上、警察でも復元できません」


「でも、あの子は消していない」


「はい。それに神経インターフェースは、まだ弱い信号を送っています。公開サーバーにつながっているのではありません。見えない糸が、向こう側に残されているような……」


ジャックが顔を上げた。


「詩的ですね」


「『異常経路』と言わないようにしているだけです」


「ありがとう。ずいぶん安心した」


端末が震えた。


エミリーの顔色が変わる。


画面には新しい通知が一件だけ表示されていた。


**霧の中の人:音声メッセージ。**


送信時刻は二分前。


病室の全員が息を止めた。エミリーが再生する。


最初に聞こえたのは雨だった。


東京の雨ではない。東京の雨はせわしなく、終電に急ぐ人々のように窓を叩く。録音の雨はまばらで、広く、屋根のない巨大な部屋に落ちているようだった。


若い男が、かすかに笑った。


「母さん。俺は大丈夫」


林の母親が立ち上がった。


「どうか、俺を連れ戻さないで」


音声はそこで切れた。


「阿霧の声です」


彼女の指が端末をつかむ。「怖いとき、いつも先に笑うんです。平気なふりをして」


ジャックは音声をもう一度聞いた。


彼が引っかかったのは「大丈夫」ではない。閉じ込められた人間は、たいてい最初にそう言う。恐怖を認めれば、助けを求める資格まで失うと思うのだ。


問題は後半だった。


連れ戻す。


五年前、ロンドン。東部の回復センター。十六歳の少年が教育シミュレーションに取り残された。技術班の報告書にはこう書かれていた。


**対象を現実側へ連れ戻す。**


ジャックは署名した。


少年は十七分だけ目を覚まし、その後、心臓が止まった。


最後の言葉は――俺は行きたくなかった、だった。


「ジャック?」


エミリーの声で、彼は病室へ戻った。


「送信元は確定できる?」


「退会済みのリン・ウーのアカウントです。でも署名が合わない。プラットフォーム内部から送られたようで、どのサーバーも通っていない」


「声の偽造は?」


「可能。ただし、ここまで再現するには長期間の生音声が必要です」


「ゲームなら持っている」


「『幻境深淵』は、必要最小限の交互作用情報しか取らないと主張しています」


「私もこのコーヒーが飲めるものだと主張している」


エミリーは一瞬だけ彼を見た。


「今回は同意します」


病室の外から、揃った足音が近づいてきた。


チェン・ラン局長が入ってきた。深灰色のスーツには皺ひとつなく、彼女の髪も規程に固定されているように見えた。


「林さん。休憩室をご用意します。ここは認知隔離の現場になります」


林の母親は首を振った。


「私は行きません」


「観察窓の外には残れます。ただし機器には触れられません」


「あの子は私の息子です」


「だからこそ、慎重でなければなりません」


林の母親は最後に息子の手を見て、ゆっくり指をほどいた。彼女が去る前、ジャックにだけ聞いた。


「もし、あの子が本当に戻りたくないのなら。あなたはどうするんですか」


ジャックは、すぐには答えられなかった。


その沈黙の中で、彼女は何かを理解したようにうなずいた。


チェン・ランは端末を閉じた。


「この案件は私が引き継ぎます。端末は全て封印。リン・ウーのアカウントは第一級認知汚染源として扱う」


「汚染?」ジャックが言った。「彼は今、母親にメッセージを送った」


「未検証の声が送ったのです。リン・ウー本人か、彼を模倣したプログラムか、それとも彼のデータを使って現実へ接触する別の存在か。まだわからない」


「なら確認する」


「ゲームには入らない」


チェン・ランの視線が彼に止まった。


「ロンドンで学んだはずです。『一度だけ確認する』は、もっとも危険な言葉だと」


ジャックは返さなかった。


「九分です」彼女は続けた。「管理下での接続を九分だけ許可する。見知らぬ人格に接触しないこと。実行コードを走らせないこと。時間になれば直ちに離脱する」


ジャックは一度だけうなずいた。


それは許可というより、丁寧な拒絶に近かった。


準備室で、エミリーは共有視界を調整した。ジャックは彼女が音声ファイルを二つ複製するのを見た。一つは証拠庫へ。もう一つは、彼女自身の暗号化領域へ。


「副本を残した」


「見間違いです」


「エミリー」


彼女はしばらく黙った。


「あの雨の音は、『幻境深淵』の環境音ではない。昔、スイスの研究所で聞きました」


「ジェネシス?」


彼女の手が止まった。


プロジェクト・ジェネシス。意識修復計画。公式には、倫理審査と資金問題で終了したことになっている。私的には、植物状態の患者に一瞬だけ話をさせたとも、死者が家族の前で誕生日の歌を歌ったとも囁かれていた。


「ただの推測です」


「あなたはそこで働いた」


「外部研究員として六か月。音声記憶モデルを担当しました」


「履歴書にはない」


「書く価値がないから」


ジャックは彼女を見た。エミリーは嘘をつくとき、目を逸らさない。相手を見つめ、質問した側が間違っていたのではないかと思わせる。


「九分だ」彼女はインターフェース環を差し出した。「ここで尋問を続ける? それともリン・ウーを助けに行く?」


ジャックは環を受け取った。


「先に行く。帰ったら、本物のコーヒーを奢ってもらう」


「脅し?」


「職業倫理です」


接続が始まった。


病院の光が長い線になり、消毒薬の匂いが薄い霧へ変わる。落下する感覚のあと、ジャックは名前のない駅に立っていた。


時刻表には日本語、英語、フランス語で同じ表示が並ぶ。


**運休。**


屋根の内側から、雨が降っていた。


地面に届く前に、すべての雫が止まっている。


エミリーが横で息をのんだ。


「地図にないシーンよ」


線路の向こうに古い列車が停まっていた。窓には黄ばんだ灯りがともり、最後尾の車両だけが半開きになっている。


扉には白い札が下がっていた。


**リン・ウーの家。**


視界の隅で、残り時間が八分五十七秒を示した。


「入るべきじゃない」エミリーが言った。


「知ってる」


「あなたがそう言うとき、顔には反対の計画が書いてある」


「顔も暗号化したほうがいいな」


ジャックは列車へ足を踏み入れた。


車内には二人分の食卓があった。湯気の立つ味噌汁が二つ。カップは三つ。椅子が一脚、逆さに伏せられている。


テーブルには走り書きのメモがあった。


**もし僕に会っても、最初に僕が本人かどうかを聞かないで。**


エミリーが手を伸ばしかけたとき、車内放送がノイズを吐いた。


「ジャック」


リン・ウーの声だった。


「誰かが僕の記憶で、帰ってくる僕を作った」


そして、列車の外から三度、扉を叩く音がした。


強すぎず、弱すぎず、正確な間隔。


ジャックが考え込むとき、机を叩く癖と同じだった。


扉の外にいる男が、ジャックとまったく同じ声で言った。


「エミリー。開けるな。中にいるのはリン・ウーじゃない」


ジャックは扉を見つめたまま、まだ動けなかった。


雨は空中で止まり、残り時間だけが、確実に減っていく。

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