目覚めている失踪者
東京で雨が降ると、街全体が誰かの秘密を守っているように見える。
ジャック・ハーヴェイはタクシーを降り、黒い傘を開いた。骨の細い、妙に品のいい傘だった。病院の救急入口には少しばかり場違いだったが、彼は気にしていない。
自動ドアの向こうから、温かい消毒薬の匂いが流れてきた。傘をたたんで受付脇のサービスロボットに預けると、機械の腕が丁寧に差し出される。
「コートを乾かしますか」
「結構。今日はたぶん、もう一度濡れる」
ロボットは半秒ほど考え込んだ。冗談として処理すべきか、故障の予兆として処理すべきか、判断がつかなかったのだろう。
「乾燥した一日をお過ごしください」
ジャックは笑い、身分証を掲げた。
午前一時四十七分。聖マリア脳機能医療センターの廊下は、静かすぎた。壁には穏やかな海の映像が投影されている。患者を落ち着かせるためのものだろうが、ジャックには出口のない海にしか見えなかった。
ドアには黄色い帯が貼られていた。
**認知隔離。許可なく患者の外部機器に触れないこと。**
病室の中央に、若い男が横たわっていた。二十代半ば。三日間日光を見ていない肌は白く、こめかみには銀灰色の神経パッチが弧を描いていた。モニターの数字は、腹が立つほど安定している。
心拍七十二。酸素飽和度九十八。瞳孔反射あり。筋緊張も正常。
リン・ウーは生きていた。
そして、ここにはいなかった。
ベッド脇には五十代の女性が座っていた。泣いてはいない。ただ、息子の手を両手で握り続けていた。少しでも緩めれば、この人が見えない隙間へ滑り落ちてしまうと信じているように。
「ハーヴェイ捜査官ですか」
彼女の中国語には、東京で長く暮らした人特有のわずかな日本語の癖があった。
「仮想犯罪捜査局から来られたと」
「そうです。ジャックと呼んでください」
彼は正面の椅子に腰を下ろした。まだ端末は取り出さない。
「阿霧は、昏睡なんかじゃありません」
ジャックはモニターを見る。
「医師は何と?」
「覚醒反応状態だと。わかりません。医者はいつも、一番怖いことを天気予報みたいに言うんです」
彼は反論しなかった。医学用語は冷酷になろうとしているわけではない。ただ世界を、数えられるものと数えられないものに分けなくてはならない。だがベッド脇の人間は、統計の中で生きてはいない。
「『幻境深淵』を始めたのはいつですか」
「二年くらい前です。最初は仕事のあとに少しだけ。阿霧は音響デザイナーで、映画やゲームの音を作っていました。あのゲームは特別だって。プレイヤーが口にしないことまで聞こえるって」
彼女は息子の手の甲を撫でた。
「ゲームが人より人をわかるわけないって、叱ったんです」
「最後に話したのは?」
「日曜の夜。家で夕食を食べて、苺大福を買って帰ってきました。甘いものは好きじゃないのに、私のためだって。電話じゃなくて、ゲームから招待が来たんです。三十分で戻るって言って、書斎でインターフェースをつけた。それきりです」
林の母親は皺になった紙を取り出した。家庭端末が自動印刷した通知だった。
**プライベート・シーン招待:忘却の塔/招待者限定。**
差出人は、読めない文字列だった。
「見に行ったとき、あの子は机に座っていました。目を開けて、唇も動いていた。でも声は聞こえなかったんです。それから……帰り方を急に忘れたみたいになって」
ジャックは紙を受け取った。端の乾いた染みには、雨水か涙か、区別のつかないものが残っていた。
背後で扉が閉じた。
エミリー・サンダースが早足で入ってきた。濃い茶色のコートの肩には雨が残り、片手には透明端末、もう片方には自販機のコーヒーが二本あった。
「あなたのは無糖。あと、コーヒーのせいにしないで。あれなりに頑張ったらしいから」
ジャックは受け取り、香りを確かめた。
「匂いから判断するに、ずいぶん辛い人生だった」
林の母親は笑わなかった。だが、眉間の線がほんの少し緩んだ。エミリーはそれを見逃さず、静かに頭を下げた。
「林さん。私はエミリーです。息子さんのアカウントを調べています」
「何かわかりましたか」
エミリーは端末を見たまま答えた。
「起きてはいけないことが、ひとつ」
投影にはリン・ウーのアカウントが現れた。二年前に登録。累計ログイン千百二十七時間。最終活動は日曜の二十三時二分。その一分後、アカウントは灰色に変わっていた。
**自主退会。**
「自主退会とは?」
「本人がアカウントと人格アーカイブを削除することです。友人関係も、私的なシーンも、すべて消えます。規約上、警察でも復元できません」
「でも、あの子は消していない」
「はい。それに神経インターフェースは、まだ弱い信号を送っています。公開サーバーにつながっているのではありません。見えない糸が、向こう側に残されているような……」
ジャックが顔を上げた。
「詩的ですね」
「『異常経路』と言わないようにしているだけです」
「ありがとう。ずいぶん安心した」
端末が震えた。
エミリーの顔色が変わる。
画面には新しい通知が一件だけ表示されていた。
**霧の中の人:音声メッセージ。**
送信時刻は二分前。
病室の全員が息を止めた。エミリーが再生する。
最初に聞こえたのは雨だった。
東京の雨ではない。東京の雨はせわしなく、終電に急ぐ人々のように窓を叩く。録音の雨はまばらで、広く、屋根のない巨大な部屋に落ちているようだった。
若い男が、かすかに笑った。
「母さん。俺は大丈夫」
林の母親が立ち上がった。
「どうか、俺を連れ戻さないで」
音声はそこで切れた。
「阿霧の声です」
彼女の指が端末をつかむ。「怖いとき、いつも先に笑うんです。平気なふりをして」
ジャックは音声をもう一度聞いた。
彼が引っかかったのは「大丈夫」ではない。閉じ込められた人間は、たいてい最初にそう言う。恐怖を認めれば、助けを求める資格まで失うと思うのだ。
問題は後半だった。
連れ戻す。
五年前、ロンドン。東部の回復センター。十六歳の少年が教育シミュレーションに取り残された。技術班の報告書にはこう書かれていた。
**対象を現実側へ連れ戻す。**
ジャックは署名した。
少年は十七分だけ目を覚まし、その後、心臓が止まった。
最後の言葉は――俺は行きたくなかった、だった。
「ジャック?」
エミリーの声で、彼は病室へ戻った。
「送信元は確定できる?」
「退会済みのリン・ウーのアカウントです。でも署名が合わない。プラットフォーム内部から送られたようで、どのサーバーも通っていない」
「声の偽造は?」
「可能。ただし、ここまで再現するには長期間の生音声が必要です」
「ゲームなら持っている」
「『幻境深淵』は、必要最小限の交互作用情報しか取らないと主張しています」
「私もこのコーヒーが飲めるものだと主張している」
エミリーは一瞬だけ彼を見た。
「今回は同意します」
病室の外から、揃った足音が近づいてきた。
チェン・ラン局長が入ってきた。深灰色のスーツには皺ひとつなく、彼女の髪も規程に固定されているように見えた。
「林さん。休憩室をご用意します。ここは認知隔離の現場になります」
林の母親は首を振った。
「私は行きません」
「観察窓の外には残れます。ただし機器には触れられません」
「あの子は私の息子です」
「だからこそ、慎重でなければなりません」
林の母親は最後に息子の手を見て、ゆっくり指をほどいた。彼女が去る前、ジャックにだけ聞いた。
「もし、あの子が本当に戻りたくないのなら。あなたはどうするんですか」
ジャックは、すぐには答えられなかった。
その沈黙の中で、彼女は何かを理解したようにうなずいた。
チェン・ランは端末を閉じた。
「この案件は私が引き継ぎます。端末は全て封印。リン・ウーのアカウントは第一級認知汚染源として扱う」
「汚染?」ジャックが言った。「彼は今、母親にメッセージを送った」
「未検証の声が送ったのです。リン・ウー本人か、彼を模倣したプログラムか、それとも彼のデータを使って現実へ接触する別の存在か。まだわからない」
「なら確認する」
「ゲームには入らない」
チェン・ランの視線が彼に止まった。
「ロンドンで学んだはずです。『一度だけ確認する』は、もっとも危険な言葉だと」
ジャックは返さなかった。
「九分です」彼女は続けた。「管理下での接続を九分だけ許可する。見知らぬ人格に接触しないこと。実行コードを走らせないこと。時間になれば直ちに離脱する」
ジャックは一度だけうなずいた。
それは許可というより、丁寧な拒絶に近かった。
準備室で、エミリーは共有視界を調整した。ジャックは彼女が音声ファイルを二つ複製するのを見た。一つは証拠庫へ。もう一つは、彼女自身の暗号化領域へ。
「副本を残した」
「見間違いです」
「エミリー」
彼女はしばらく黙った。
「あの雨の音は、『幻境深淵』の環境音ではない。昔、スイスの研究所で聞きました」
「ジェネシス?」
彼女の手が止まった。
プロジェクト・ジェネシス。意識修復計画。公式には、倫理審査と資金問題で終了したことになっている。私的には、植物状態の患者に一瞬だけ話をさせたとも、死者が家族の前で誕生日の歌を歌ったとも囁かれていた。
「ただの推測です」
「あなたはそこで働いた」
「外部研究員として六か月。音声記憶モデルを担当しました」
「履歴書にはない」
「書く価値がないから」
ジャックは彼女を見た。エミリーは嘘をつくとき、目を逸らさない。相手を見つめ、質問した側が間違っていたのではないかと思わせる。
「九分だ」彼女はインターフェース環を差し出した。「ここで尋問を続ける? それともリン・ウーを助けに行く?」
ジャックは環を受け取った。
「先に行く。帰ったら、本物のコーヒーを奢ってもらう」
「脅し?」
「職業倫理です」
接続が始まった。
病院の光が長い線になり、消毒薬の匂いが薄い霧へ変わる。落下する感覚のあと、ジャックは名前のない駅に立っていた。
時刻表には日本語、英語、フランス語で同じ表示が並ぶ。
**運休。**
屋根の内側から、雨が降っていた。
地面に届く前に、すべての雫が止まっている。
エミリーが横で息をのんだ。
「地図にないシーンよ」
線路の向こうに古い列車が停まっていた。窓には黄ばんだ灯りがともり、最後尾の車両だけが半開きになっている。
扉には白い札が下がっていた。
**リン・ウーの家。**
視界の隅で、残り時間が八分五十七秒を示した。
「入るべきじゃない」エミリーが言った。
「知ってる」
「あなたがそう言うとき、顔には反対の計画が書いてある」
「顔も暗号化したほうがいいな」
ジャックは列車へ足を踏み入れた。
車内には二人分の食卓があった。湯気の立つ味噌汁が二つ。カップは三つ。椅子が一脚、逆さに伏せられている。
テーブルには走り書きのメモがあった。
**もし僕に会っても、最初に僕が本人かどうかを聞かないで。**
エミリーが手を伸ばしかけたとき、車内放送がノイズを吐いた。
「ジャック」
リン・ウーの声だった。
「誰かが僕の記憶で、帰ってくる僕を作った」
そして、列車の外から三度、扉を叩く音がした。
強すぎず、弱すぎず、正確な間隔。
ジャックが考え込むとき、机を叩く癖と同じだった。
扉の外にいる男が、ジャックとまったく同じ声で言った。
「エミリー。開けるな。中にいるのはリン・ウーじゃない」
ジャックは扉を見つめたまま、まだ動けなかった。
雨は空中で止まり、残り時間だけが、確実に減っていく。




