第6話 躊躇いに微笑み
二人の間を漂う煙が換気扇へ吸い込まれていく。
ほんの数秒間だけ、時が止まった気がした。
でも、この秒針の戻し方を私はよく知っている。
何でもないふりをして親身になって「そうなんだ」って言って。それからただ相手の話を聞けばいい。
「そうなんだ」
固まった口が少し解けて、秒針が動き出す。そもそも、私は何を勘違いしていたんだろう。
相手は憧れの人。ただそれだけ。
その人が離婚してたって。つまり、それは結婚していたって事。いや、そんな事も二の次で、ストレートであると確認済みになってしまった事。
いやいや、相手がストレートだったなんて最初から分かっていた事。
心の中の他人が私を叱る。
ほら、だから言ったじゃないか。だからあれだけやめとけと言い聞かせたんだ。
これがお前の"悪い癖"だ。
大原さんの声がフェードするように耳に入る。
「だからってこっちに帰らなくても良かったんだけど、やっぱり気分的に憂鬱になるから帰ってきちゃった。あ、でもこうやって山本さんと会えたから、戻ってきて正解だったな」
私は何を落胆しているのだろう。私は大原さんに出会えて、何を求めていたんだろう。
「私も、大原さんと出会えて----
私はなにか当たり障りのない事を喋っている。
…別に。確かに浮かれていたけれど、本当に大原さんと相思相愛になれるなんて考えていた訳ではない。
大原さんとは出会ったばかりだし、そもそも離婚したって聞いただけ。それだけでショックを受けている自分がどうかしている。
「---山本さん?大丈夫?」
「あぁ、ごめん、ちょっと飲み過ぎちゃったみたい。ボーッとしてた。今日はそろそろ解散にしようか」
「そうだね、あんまり遅くなってもだしね」
そう言ってタバコを吸い終わったら大原さんは帰って行った。
本当は考え過ぎて酔ってなんかいなかったけど、都合がいいのでそう言った。大原さんに嘘を吐いたのは罪悪感があるが、本当のことを言う訳にはいかない。
本当のこと…。本当の気持ちってなんだ?
傷付く事に怯えて、いつも自分を抑える声を大事にしてきた。まるで頭の中にこびりついた言葉に目が生えていて、そいつから隠すように自分の気持ちをしまってた。
でもその隠すような自分の気持ちを、本当は大切にしたいと思っているんじゃないだろうか。
なんとなく、大原さんの前ではそう思ってしまう。
真っ直ぐに恋をしたい、叶わなくたっていい。
私だって、本当は…普通の女の子みたいに恋の話をしたい。
誰かに自分の気持ちを聞いてもらいたい。
普通じゃない私は"悪い癖"を持っている。きっと誰も、認めてくれない。
そんな事は何年も前から知っている。
それでも、大切にしたいと思ってしまった。
この懐かしい気持ちは、きっと何度も押しやられて傷だらけになった自分だ。
大きな声で泣く事も、助けを求める事もなかった自分が、ついに顔を出してしまったんだ。
憧れの人ってだけじゃない。心の中の自分はもうとっくに気付いてた。
私は今、大原さんに恋をしている。
正確にいうと、昔の大原さんへ向けていた気持ちが今の私にそのまま帰ってきたようだ。
胸の支えがすっかり取れた気がした。
大切な事は、自分に怯えながら気持ちを押し殺す事じゃない。本当の気持ちを認めてあげる事だったんだ。
今は、叶うかどうかじゃない。友達として居れるだけでも良い。ただ好きなままでいたい。
そう自分を認めてあげただけで、心が軽くなった気がした。
また一人になった換気扇の下で、タバコに火をつける。でも今は、寂しさを埋めるためじゃない。
あの大原さんの横顔を思い出し噛み締めるように、煙を吐き出した。
***
レストランへのいつもの道を歩き地下街へ入る。今日はお昼前からの出勤なので、すでに賑わっていて人の多い道を通り抜け進む。
この道を歩く時、今まで私はいつも仕事のことを考えていたと思う。私はキッチンでの仕事が好きなので、それも悪くはなかった。
今は、違う事も考える。それは大原さんの事だったり、恋についての事だ。素直に気持ちに向き合って考え事をするのは、楽しい。
でも楽しい事は誰かに聞いてほしくなるもので、いつかはその一歩を踏み出したいとは思っている。
あの女子会の日から二週間が経った。
あれから何か人間関係が変わった事はない。相変わらず仕事は楽しいし、あんりちゃんとも、大原さんとも関係は良好だ。
「おはようございます」
「おはよー綾香ちゃん」
今日は大原さんもあんりちゃんもお休みでいつもより寂しいけど、店内の様子を見る限り今日は忙しそうで寂しがる暇もなさそうだ。
「店長、今日忙しそうですね」
「そそ。近くのアリーナで有名なバンドのライブがあるから、今日と明日は忙しいのよ」
「へぇー、バンド…店長はバンドとかしてそうですよね」
「アタシ?あー、昔やってたよ。二十歳くらいまでだけどね」
「やっぱり!なんか雰囲気あるなと思ってたんですよ。店長カッコいいからモテてたんじゃないですか?」
「やめてよ〜、アタシはどっちかって言うと、大原ちゃんや綾香ちゃんみたいな綺麗な女性に憧れるけどね」
大原さんの名前が出て少しドキっする。
ただ私は大原さんと並べて頂けるような身分ではないので恐れ多い。大原さんが綺麗だというのは完全に同意である。
「い、いや、そんな事ないです。大原さんはめちゃくちゃ綺麗ですけど、私は全然なんで…」
「そんな事ないと思うけど。……ふむ。あのね、綾香ちゃん。今バイトの子達に聞いてるんだけど、なんか悩みとか、気になってる事とか無い?店長としてはやっぱり悩みとかがあったら、できるだけ環境改善していきたいわけよ」
悩み、気になっている事…すごくある。
なんなら私の人生の中でも一番の悩み事と言っても間違いない程の内容を抱えている。
でも、別に仕事とは何の関係もない。
強いて関連付けるなら、大原さんが輝き過ぎて目を奪われる事がしばしばあるといったところだろうか。
もちろんこんな馬鹿げた発言を聞きたい訳じゃないだろう。
「綾香ちゃん。その感じ、悩みがあるよね?仕事に関係なくても良いよ。アタシで良ければ話、聞くよ?」
「いや…あの。なんて言うか…」
迷う。私はなんて言えば良いんだ。急に弱点を突かれたようで、頭が真っ白になって分からなくなる。
でも、店長になら話しても良いのかもしれない。いや、でも軽蔑されたら私は職場での居場所も無くなるし、最悪、大原さんへ話が渡ってしまうかもしれない。
もちろん店長はそんなことをする人ではないと信じているが…何事も予測できない事は起こる可能性がある。
私が言い淀んでいると「じゃあさ、」と、店長が話を続ける。
「今日、仕事が終わったらカフェでコーヒーでも飲まない?たまにはアタシと親交を深めてくれても良いんじゃない?」
そう言って店長が見せた朗らかな笑顔は、あるいは私の心を穏やかに包んでくれるのかもしれない、という安心感のある表情だった。
「お疲れ様でしたー」
「ごめん綾香ちゃん、パパッとお店閉めちゃうから、ちょっと待っててねー」
「はーい」
休憩室兼事務所ではバタバタと店長が忙しそうにしていたので、私は店内のテーブルに座る。
お客さんも店員もいなくなった店内に一人でポツンと座るのは不思議な気分だ。
店内の客席は半数がオープンテラスのようになっており、空間の両サイドには地下街の通路が伸びているので通行人が歩く姿がよく見える。
通行人は私には見向きもせずに歩いている。
私一人が座っている閑散とした店内と、これから帰宅するであろう人達が一切交わっていないこの世界は、まるで私の心のようだ。
「お待たせー」
仕事を終えたであろう店長が事務所から出てきて、店内は二人になった。
すると、やっぱり心の中にスルッと入ってきそうな朗らかな笑顔でお店のシャッターを閉めて、店長が告げた。
「じゃ、カフェ行きますか!」
「はいっ」
地下街を上がって少し歩いた所にあるカフェは結構遅い時間まで営業しているようで、仕事帰りらしい人達がポツポツと座っていた。
店長が先に注文をして、その後私はブラックコーヒーを頼む。会計は私の分も含めて店長が払ってくれた。
「カッコつけさせてよ、こういう時くらいしか見栄張れないんだから」
「そんな、店長はいつもカッコいいですよ。でも、ありがとうございます」
会計を終えて、コーヒーが作られるのをカウンターで見ながら出来上がるのを待つ。
「あ、そう言えば仕事中以外で店長って呼ぶの禁止ね。ホント恥ずかしいんだから」
「恥ずかしいって…店長は店長なのに。じゃあ、中村さん」
「千秋でいーよ」
「じゃあ千秋さん」
「なんですか?」
と、なんでも無いやり取りで笑い合っていると、コーヒーがカウンターに並べられた。
コーヒーを持って2階に上がり、窓際のカウンター席に並んで座る。
「でも意外です、甘いのお好きなんですね」
カフェラテの上にキャラメルソースがたっぷり乗ったカップを見ながら話す。
「それ、ホントよく言われる。ブラックコーヒー飲んでタバコ吸ってそうって。まぁ自分でもそう思うけど」
「なら私と逆ですね。私はブラックコーヒーを飲みますしタバコも吸いますが、いつも意外って言われます」
「え、綾香ちゃんタバコ吸うの?!意外〜!」
「お揃いですね」
「ね〜」
こう笑い合いながら話をしていると、昔ながらの友人のように感じる。レストランで働き出してから知り合っているので実際付き合いは長いのだが、こうやって店外で会って話すのは初めてだ。
「千秋さんは仕事帰りによくカフェに行ったりするんですか?」
「そう、甘いのが好きだからしょっちゅう来てるよ。まぁ大体持ち帰りだけど。家、結構近いから」
千秋さんもこの近くなのか…。なら今度は千秋さんも交えて四人で女子会を開くのも楽しいかもしれない、とぼんやり考えていると、
「それでさ、アタシに話してみない?悩み事」
心臓がドクンと鳴る。
そうだった。悩み事の相談でカフェへ来たことをすっかり忘れてしまっていた。
でも、本当に話してしまっても良いのだろうか…。軽蔑されないだろうか。あの時の友人や、心の中のアイツのように、キモいと詰られないだろうか。
いや、千秋さんとは今のいままで楽しくお喋りをしていたじゃないか。大丈夫…でも、あの時の友人だって…。
緊張して、手が震える。懊悩し喉が渇いてきたが、コーヒーを口に運ぶ事すらできない。
何も言えず躊躇っていると、そっと千秋さんが私の震える手を握った。
「大丈夫、大丈夫だよ。アタシは綾香ちゃんの味方だよ。ゆっくりで良いから」
千秋さんの熱が伝わる手と朗らかな笑みを見て、本当に大丈夫だと思った。
もう、我慢しなくていいんだ。そう思うと、勇気が出せるような気がした。
肺から息が迫り上がるのが分かる。目頭が熱くなりながら、震える喉を鳴らす。
「わ、私は……じ、女性が…好き…で」
そこまで言うと、溜まっていた涙が溢れた。
「うん、大丈夫だよ。綾香ちゃん。教えてくれて、ありがとう」
千秋さんの声は頭で優しく響き、閉じこもっていた心の中の私をそっと撫でてくれた気がした。




