第2話 芽吹き
淡い残像と揺れる視界の中、私は大原佐知子と共にいる。幼稚園児の2人が一つの花火を覗く姿は幻想的で、儚げだ。
誰かの声で大原佐知子は走り去る。
「キモい」
割れる声は嫌悪感の化身になり、何度もリフレインし目の前でまるで巨大に、そして物体化したように鳴り響く。
私の足は水の中にいるかのように鈍く、その鋭い刃からは逃げられそうにない。
***
スマホのアラーム音で目が覚める。
どうやらまた、嫌な夢を見たらしい。ハッキリとは覚えていないが、心に残る寂しさと気持ちの悪さで、いつもの夢を見たのだと気付く。
「準備、しなきゃ」
勤務しているレストランがある地下街はまだ開店前のお店がほとんどだが、地上の繁華街をつなぐ地下通路を兼ねた作りになっているので人通りは多い。
メイン通りを外れ、飲食店が並ぶエリアの奥に歩いて行くと、見慣れたレストランに辿り着く。
「おはようございます」
開店前の店内は好きだ。自分もこれから誰かの人生の一部になれるのだと、来店を待つテーブル達がただ静かに教えてくれる気がするからだ。
「綾香さん、おはようございます」
「あんりちゃん、おはよう。今日は早番だったんだね」
「そうなんですよ、今日は学校が休みですから。それより聞きましたか?さっき店長が言ってたんですけど、今日からキッチンに新人さんが入るって」
そう言えば、昨日の夜に店長からメッセージが来たな…と思い出す。
「聞いたよ、どんな人なんだろうね」
「すごい美人さんらしいですよ。面接の時にビックリしたって店長が言ってました」
へぇー…美人さん。
人とは違った期待感で弾みそうになる心の隙間に、静かに蓋をする。
「あんりちゃんみたいに可愛い子が増えたら、お姉さん困っちゃうなー」
「そんな…私は可愛くないですが…。綾香さんこそお綺麗です!あと昨日も言いましたけど、今度料理教えてくださいね。絶対!」
「うんうん、また今度ね」
ピラピラと手を振り可愛い後輩のお願いを流しながら更衣室へ入る。
最近、あんりちゃんがここまで私に料理を教えて欲しいと言ってくるのは、何か事情があるのだろうか。
彼氏か、好きな人でもできたのだろうか?
好きな人に料理をしたいと言う気持ちはすごく良く分かる。私にも、恋人が出来たなら…きっと張り切って料理を作ってあげるに違いない。
いや、あまりこの想像を膨らませてしまうと気持ちの置き場所に困る事になるので、"悪い癖"に花が咲いてしまう前に心の奥に種を仕舞い込んだ。
「綾香ちゃん、休憩入って良いよ」
夕方前、店長から休憩の指示を受け、キッチン裏にあるスタッフルームで休憩をしていると、ガチャリと扉が開く音がした。
人が出入りするのは良くある事なので特に気にせずスマホを見ていると、「初めまして」という知らない声が聞こえて扉へ顔を向ける。
「本日からお世話になります、大原佐知子です。よろしくお願いします。」
体が固まる。
は…大原さん…?なんで?と、声にならない声が頭の中で響く。
「あの、すみません…ってあれ?もしかして、山本さん?」
「えっ?!あ、あの…あれ?あ、はい!山本…です。え、なんで、私の事…」
なんで私の事を覚えて…いや、まぁ中学校まで同じだったし、そりゃ…覚えててもおかしくは…。
「中学校まで一緒だったから、もちろん山本さんのことは覚えてるよ」
大原さんが私なんかの名前を知っていてくれた事の嬉しさと驚きが同時に出てくる。
「そう、ですか。私も大原さんの事、覚えて…る。って、もしかして、今日からキッチンの新人さんって…」
「うん、多分わたしの事だと思う。よろしくお願いします」
え…無理。ほんと無理。
いきなりこんな、急に憧れだった人が現れて、しかもその人が私の後輩になって…新人教育しないといけないなんて…
「む、無理…じゃなくて、こ、こちらこそ…よろしくお願いします!」
応じてくれた大原さんの笑顔は、あの時の快活な美しさのままで(いや、あの時よりさらに綺麗で!)、しかもその笑顔が間違いなく私に向けられていて…こんなにも簡単に非日常が押し寄せて来たことが、とても不思議な感覚だった。
「でも、話すのほとんど初めてだよね?ずっと一緒の学校だったのに」
制服に着替え終わった大原さんが出てきて、休憩室に一つしかない4人掛けテーブルの、私の対面側に座る。
「そう、だね。大原さんは私からすると天上人だったし。今もそう思うけど…」
「え、どうして?普通だよ、ふつー」
と柔らかく笑った。
本人には高嶺の花だったと言う自覚は無いらしい。
まぁ、スクールカーストを気にしないで良い最上位の人達は、そもそもスクールカーストなんて事自体を気にして無いのと同じかな。
「でも、本当にすごい偶然。大原さんはずっとこの街にいたの?」
「ううん、最近まで東京にいたんだけど…色々あって、こっちに帰ってきたの。それで、アルバイトを探してて」
「東京!やっぱり大原さんはすごいね、私なんてずっとこの街に居るのに」
「いやいや、それこそ普通だよ。誰だって行けば住めるんだからさ」
その時、ガチャリと扉が開いてあんりちゃんが休憩に入ってきた。
「綾香さん、お疲れ様でーす。ってあれ?この方は?」
大原さんが自己紹介を始める。そして、私が同級生だった事を告げた。
「へぇー、すごい偶然ですね。お二人は仲良しだったんですか?」
「いや、話した事はなかったの。ほら、大原さんすごい美人で住む世界が違うっていうか」
「いやだから、普通だよ?みんなと一緒の世界だよ?」
私は大原さんへの緊張が少しほぐれてきて、お喋りできている事に感動していた。
あれ程遠い距離に感じていた人が急に自分のテリトリーに入ったきた不自然さは、なんだか少し心地良かった。
「……」
あんりちゃんはそれから黙って休憩していた。少し緊張していたのだろうか。やや顔が固まっていたように感じた。
その日、私は大原さんに仕事を教えて、上がりとなった。大原さんも初日という事で短めの出勤だったらしく、一緒に退勤した。
どうやら住んでいる場所も似たところらしく、一緒に帰ることになった。
「お疲れ様でした。初めての仕事はどうだった?というか、キッチンの仕事自体は初めてだったの?」
「ううん、高校生の時にファミレスのキッチンで働いていた事があってね。でもそれ以来かな?だから少し疲れちゃった」
初出勤の感想を聞きながら地下街を歩く。
私は大原さんと並んで歩いているという嬉しさと、これからの期待も込めて聞く。
「そっか。この仕事、続けていけそう?」
「それは大丈夫、頑張って早く仕事覚えるね」
大原さんが笑顔と共にピースサインで返事をしてくれた。肩より少し長く、胸まではないくらいのサラリとしたセミロングの髪の毛が揺れる。
か…可愛いっ……。これはもう私にとっては爆弾級のサービスだ。
いつもならこんな気持ちはさっさとゴミ箱に入れてしまうのだが、今回ばかりはこれまでとは訳が違う。
なんたって、少女時代にずっと好きだった憧れの人なのだ。舞い上がらない訳がない。
「それにしても、本当にウチと家近いんだね。私こっち曲がってもう少し歩いたところだよ」
思いのほかお互いの家が近かった事に驚く。
「すごいね、ほんとに奇遇だー。わたしはこっちを少し行ったところだよ」
大原さんは交差点で私と反対側の道を指差して笑った。
「それじゃ、またお店で」
「ありがとう、山本さん。気を付けてね」
バイバイ、と手を振ってくれた大原さんを見て、家の方へ向かって歩きはじめた。
一人になって歩いても落ち着かず、胸の高鳴りが中々おさまらない。
家に入って鞄を置く。冷蔵庫を開けてビールを取る。そしてタバコに火をつけ、ビールを開けた。
いつものルーティンの筈なのに、いつもの換気扇の下で過ごすこの時間が、いつも以上にあたたかく感じる。
「あー、浮かれてるなぁ私…」
『ほんとキモいんだけど』
突然駆け抜ける嫌悪感が、あたたかさと脳内の大原さんを一瞬で連れ去った。
そう…だよね。キモいよね…。
やっぱり、悪い癖として分類されたらしい。
自己嫌悪の渦はどこまでも続き流され、残ったのはゆらめく煙と苦い味だけだった。




