第18話 感情のコップ
家に着くと、私は上着を脱ぎ捨ててソファになだれ込んだ。
あのあと勢いでワインを何度かおかわりしたせいで酔ってしまって、サチに家まで送ってもらった。
飲み慣れてないワイン、あんなに飲むんじゃなかったな…。
「綾香、大丈夫?お水持ってくるね」
冷蔵庫から出したペットボトルを開けてコップに入れて、持ってきてもらった水をゴクリと飲む。
きっと真っ赤な顔をしているだろう私は、アルコールのせいでドクドクと鳴る心音を聞きながら言う。
「サチー、ごめんねぇ〜」
「いいのいいの、気にしないで。心配だし、綾香が楽になるまでここにいるから」
そう言ってキッチンの方へ行ったサチは、私が朝残していった洗い物をやり始めてくれた。
あぁ…悪いなぁ。そんな事までさせてしまって。
ぼんやりとした頭で今日あった出来事を思い出す。
そういえば、私からも何かサチにアクションを起こしたいって思ってたんだった。
ふらふらと重たい体をそっと持ち上げるように立って、洗い物をしてくれているサチの方へ歩く。
サチは洗い物を見ながら「立って大丈夫なのー?」と心配してくれる。
その声はまるで私の上を通過していったようで、返事ができない。
サチの真後ろに立つ。
ゆっくりと手をサチの腰に当てると、びくっと体が動いた気がしたが、私は気にせず両手をサチの前へそっと動かす。
水で洗い物を流していた音が止まり、沈黙が広がる。
聞こえるのは、私の手がサチの服を滑る音と私のドクドクとなる心臓の音だけ。
私は自分の右頬をサチの首の後ろへ付ける。
ふんわりといい香りがして、息を吸い込む。
大好きで、愛おしくて。私のものにしたいサチをギュッと抱きしめた。
数秒か、十数秒か分からないけれど、もうずっとこのままでいたいと心が叫ぶ。
サチの体を抱きしめながら、脇腹を両手の指でゆっくりとなぞる。心の中にあるコップから感情が溢れ続けていて、もう自分でそれを止める事ができない。
手に力を込めて、私の体を押し付けるように強く抱きしめる。
すると、サチの手が私の手にそっと触れて、密着していた私の腕を剥がした。
もう、終わりか…、もっとくっ付いていたかったな…とアルコールでぼんやりとした頭で考えていると、サチがクルッとこちらに向き直して、私の体を優しく抱きしめた。
サチが、私を抱きしめている。
体にサチの温かさが、優しさが伝わる。
私の手が、腕が。いや、私の体が震える。
私のすぐ耳元で「ほら、綾香も。ね?」と囁く声が聞こえた。
私は震える腕をなんとか持ち上げて、サチの背中へ回した。
自分の心臓の鼓動が、密着した服の上からでもサチに伝わってしまうのではないかと思うほど、ドキドキと音を鳴らし始める。
「こうしてると暖かいね、綾香」
「う…うん」
耳元で囁かれる言葉と、私を抱きしめるサチの体が、急激に私の酔いを覚ましていくのを感じる。
私は一体なにをしてしまったんだろう…。
少しずつ冷静になっていく頭が、この空間で行われている状況を整理していく。
サチが、私を抱きしめている。私が、サチを抱きしめたから。
……私が、サチを抱きしめたから。
頭の中でその声が何度も反復する。
やってしまった。
なんて事をしてしまったんだろう。
でも、サチも私を抱きしめてくれているし…。
ぐるぐると考えが回る。
冷や汗が出るような気持ちで私がサチから手を離すと、サチも回していた腕を離す。
「サ、サチ…ごめん、私。一体何して…。本当にごめん!多分、酔ってて…」
言葉の欠片を拾い集めるように、溢れ続けていたコップに蓋をして隠すように、言い訳を並べる。
「あの、綾香」
「サチ、嫌だったよね。いきなり抱きついたりして、ごめんなさい」
そう言って私はベッドへ駆け込み、子供のように布団を頭から被った。
酔っていたとはいえ、いきなりサチに抱きつくだなんて…。なんて失態を犯したんだろう。
ドン引きされてたらどうしよう…。
でも、サチも私を抱きしめてくれていたし。
それに…耳元で暖かいねって。
顔が熱い。
サチはどう思ったんだろう。知りたくないけれど、知りたい。でもそんなこと恥ずかしくて聞けない。
頭を抱えていると、パタパタと歩く音が聞こえて私の横で止まり、ギシっとベッドへ座る音がした。
布団の上から私を撫でてくれる感触が伝わる。
「ねぇ綾香、どうして布団で丸まってるの?」
優しい声が布団の向こう側から聞こえる。
「だって…だってぇ〜…」
「顔、見せてよ」
「いやだ。今は無理」
「どうして?」
「だって、恥ずかしいもん…。顔、見られたくない」
我ながら子供じみた事を言っているのは分かっている。でも恥ずかしいし…今の丸まっている状況だって恥ずかしいのは十分わかってはいる。
「ね、お願い。顔だけでも見せて?」
その優しい声に負けて、私は布団に包まったまま体を起こし、頭だけ布団から出す。
「なにこれ…何かのキャラクターみたいで、すっごく可愛い」
ふふっと笑いながらサチが私の頭を撫でる。
なんか余計に恥ずかしくなって、私は布団から出てサチの隣へ座った。
「綾香、顔。真っ赤だよ?」
「だっ…だから嫌だったの!こんな顔見られたくなくて」
「どうして?可愛いからもっと見せてよ」
「やだ。それに、なんか申し訳なくって」
私は垂れ下がる髪で顔を隠すように下を向いて床を見つめた。
すると、サチの手が私の背中に触れた。
その手はゆっくりと上下に動き、体から罪悪感を抜き取るように背中を撫でる。
「綾香、私はね。さっき綾香に抱きしめられて、嫌だなって思わなかったよ」
「えっ…」
「むしろ嬉しいって思った。ギュッとされて、私も綾香のこと抱きしめたいなって。だから、謝らないで?」
優しく、子供をあやすように言葉をくれる。
「……そうなの?ホントのホントに、嫌じゃなかったの?」
「うん、嫌じゃない。それにさ、私たち一番同士でしょ?それなら抱きしめ合うことくらい、するんじゃないかなぁ」
クリスマスイブにお泊まりした時に、お互いを一番だよって言い合って嬉しかった。
一番同士にこんな特典があるなんて。
「ね、綾香。顔を上げて?…そう。偉いね、ありがとう。じゃあ、もう一回ギュッてしよ?」
そう言って、サチは手を広げてくれた。
やっぱり大好きだなって、心からそう思う。
「うん。もう一回ギュッてする」
そう言って、私はサチを再び抱きしめた。
それから私たちは追加で二回抱きしめあった。
心の箍が外れたように、二回とも私からおねだりをしてしまった。
だって、サチとのハグが気持ちよくて、癒されるし、いい匂いするし、なんか優しい気持ちになれるし、心にあるモヤモヤが全部晴れるような気がするし。
「これからも、たまにお願いしてもいいの?」
「なにを?」
「えっと……、その、ギュッてするの」
「うん、もちろんいいよ。ていうか、たまにじゃなくていいし、お願いなんてしなくていいよ?抱きしめたいと思っときに、いつでも抱きしめていいし。私も綾香にそうしていい?」
そんなの、まるで恋人じゃん…!
サチを自由にハグしたりされたりする権利を手に入れるなんて、夢みたいだ。
「もちろん、いいよ。サチに抱きしめてもらえると嬉しいし。私だって、いつだっていいから」
「ありがとう、綾香」
そう言って優しく笑ってくれた。
「あ、そうだ。もうすぐお正月休みに入るけど、綾香は実家に帰る?」
うちのレストランは大晦日と三が日はお休みで、私にとっては一年に一度の四連休だ。
「いや、今年は帰んないかな。のんびりこっちで過ごすと思う。サチは?」
「私もその予定。じゃあさ、もし綾香に予定なかったら、お正月休みは一緒に過ごさない?またお泊まりしたりしてさ」
魅力的な提案過ぎる……。
絶対一緒にいたい。なんならもう一緒に暮らしたいくらいなのに。
「大賛成!楽しみだな〜、また映画見たりしたいな」
「うん、映画見ようね」
それからなんでもない会話をして、サチは帰った。
私はいつもの交差点まで送ろうと思ったけど、今日は家でゆっくりしててと言われて玄関でバイバイした。
換気扇の下でタバコに火をつけ、今日あった出来事を思い出す。
外で手を繋いでポケットの中で恋人繋ぎをした。パスタを食べる時、あーんして食べさせ合いっこした。家に帰って何回もハグをした。
これって…友達同士でも普通にすることなの?
よく考えると、一番同士だからってこんな恋人みたいなことするのかな。
だったら一番同士って、キ…キスとか、しちゃダメなのかな。いや、何言ってんだろう。さすがにキスはダメだよね?!
でも、じゃあサチは一体どんな気持ちだったんだろう。
もしかして…と思わずにはいられない。
そんな想像をかき消すように、煙を吐いた。




