51 困惑
王都改革が一段落すると、アークは数日の時間を作った。
向かう先は、教師として最初に教壇へ立ち、多くの人々と歩んできたアルゼ村だった。
飛行魔法で空を進み、見慣れた村が見えてくる。
畑では村人たちが農作業を行い、子どもたちは元気よく走り回っていた。
平和な光景に、アークは自然と笑みを浮かべる。
村へ降り立つと、村人たちが次々と集まってきた。
「先生、お帰りなさい!」
「お久しぶりです!」
「王都でもご活躍だと聞いています!」
アークは一人ひとりへ笑顔で応えた。
「ただいま。」
「みんな元気そうで安心した。」
そこへ、一人の女性が人混みをかき分けながら駆け寄ってくる。
「先生!」
サーシャだった。
以前と変わらぬ優しい笑顔に、アークも微笑み返す。
「久しぶりだね、サーシャ。」
「はい。お元気そうで安心しました。」
二人は村の広場を歩きながら近況を語り合った。
村では農業も順調に進み、子どもたちの学習も続いているという。
「みんな、本当によく頑張っています。」
「先生が残してくださった教えのおかげです。」
アークは首を横に振る。
「違うよ。」
「努力したのは、みんなだ。」
その言葉にサーシャは小さく笑った。
「先生は昔から変わりませんね。」
やがて二人はサーシャの家へ向かった。
温かいお茶が運ばれ、落ち着いたところでアークが姿勢を正す。
「今日は君に伝えたいことがあって来た。」
サーシャも真剣な表情になる。
「はい。」
「まず一つ目。」
「国王陛下から侯爵に任命された。」
サーシャは驚くどころか、静かに微笑んだ。
「そうですか。」
「先生なら当然です。」
今度はアークが目を丸くする。
「当然?」
「先生は行く先々で村を救い、人を育ててきました。」
「王都でも同じことをなさったのでしょう?」
「それなら侯爵になっても不思議ではありません。」
あまりにも自然な答えに、アークは苦笑した。
「そう言われると照れるな。」
サーシャは優しく頷く。
「でも私にとっては、侯爵様ではありません。」
「いつまでも先生です。」
その言葉にアークは少し照れながら礼を言った。
「ありがとう。」
そして、もう一つの報告を口にする。
「実は、マーガレット王女殿下と婚約した。」
さすがにサーシャも少しだけ驚いた。
「王女殿下と……。」
しかし、その驚きはすぐに穏やかな笑顔へ変わる。
「おめでとうございます。」
「ありがとうございます。」
祝福の言葉を口にしながらも、サーシャの胸には小さな想いが芽生えていた。
王女殿下。
王家の血を引く、美しく気高い女性。
侯爵となった先生には、まさにふさわしい相手なのだろう。
それに比べ、自分は何の取り柄もない一人の村娘。
身分もなければ、誇れる肩書もない。
自然と視線が下を向く。
「きっと……とても綺麗な方なんでしょうね。」
「私なんかとは比べものにならないくらい……。」
そう呟いたサーシャは、自分でも気付かないうちに、小さく寂しそうな笑みを浮かべていた。
サーシャが俯いたまま黙っていると、家の外から控えめなノックの音が聞こえた。
コンコン――。
「失礼いたします。」
聞き覚えのある上品な声だった。
アークが立ち上がって扉を開く。
そこに立っていたのは、マーガレットだった。
質素な装いではあったが、その気品は隠しようがない。
サーシャは慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。
「お、王女殿下。」
「そんなに畏まらないでください。」
マーガレットは柔らかく微笑み、サーシャの前へ歩み寄る。
「今日は王女としてではなく、マーガレットとして参りました。」
その優しい言葉に、サーシャは恐る恐る顔を上げた。
近くで見るマーガレットは、想像以上に美しかった。
整った顔立ち。
上品な所作。
自然と人を安心させる笑顔。
サーシャは思わず見惚れてしまう。
「本当に……綺麗な方。」
思わず漏れた言葉に、マーガレットは少し照れたように笑う。
「ありがとうございます。」
「でも、私はあなたにお会いしたかったのです。」
「私に……ですか?」
「はい。」
マーガレットはサーシャの隣へ腰を下ろした。
「アークさんから、あなたのお話は何度も伺っています。」
サーシャは驚いてアークを見る。
「先生が……私のことを?」
アークは少し照れくさそうに頭をかいた。
「昔話の中で何度かね。」
マーガレットは微笑みながら続ける。
「先生が教師として頑張れたのは、村のみなさんの支えがあったからだと。」
「その中でも、あなたには何度も助けられたと聞いています。」
サーシャは首を横に振った。
「私は何もしていません。」
「先生に助けてもらってばかりでした。」
「それに私は普通の村娘です。」
「王女殿下とは何もかも違います。」
少し寂しそうに笑うサーシャ。
「私は何も持っていません。」
「身分もありません。」
「才能もありません。」
「先生には、王女殿下のような方がお似合いです。」
その言葉を聞いたマーガレットは、優しく首を横に振る。
「いいえ。」
「私はそう思いません。」
真っ直ぐサーシャを見つめながら、穏やかな口調で続けた。
「アークさんが大切にしている人なら、私も大切にしたいのです。」
サーシャは言葉を失う。
マーガレットは少し笑みを深めた。
「ですから――。」
「あなたもアークさんのお嫁さんになりなさい。」
部屋の空気が一瞬止まった。
「…………え?」
サーシャは固まる。
アークも固まる。
数秒後、最初に声を上げたのはアークだった。
「ま、待ってください!」
「何を言っているんですか!」
マーガレットは涼しい顔で答える。
「何も問題ありません。」
「すでに国王陛下、王妃殿下、宰相閣下にはお話ししております。」
「皆様、ご納得くださいました。」
アークは目を見開いた。
「ええっ!?」
「い、いつの間に……。」
マーガレットはにこりと微笑む。
「根回しは済ませてあります。」
驚きのあまり言葉を失うアーク。
一方、サーシャは突然の話に頭の整理が追いつかず、ただ呆然とマーガレットを見つめることしかできなかった。
「私は何も持っていません。」
サーシャは小さく首を横に振った。
「王女殿下のような身分もありません。」
「先生のような力もありません。」
「先生のお隣に立つには、私は……。」
そこまで言いかけたサーシャの言葉を、マーガレットは優しく遮った。
「サーシャさん。」
「ご自分を、そのように卑下しないでください。」
マーガレットは穏やかな笑みを浮かべる。
「私は、あなたのお話をたくさん伺っています。」
サーシャは驚いて顔を上げた。
「私の……ですか。」
「はい。」
「アルゼ村で先生を支え続けたこと。」
「近隣の村々まで教導を広げたこと。」
「多くの村人が文字を覚え、計算を覚え、自立できるよう導いたこと。」
「辺境伯様から高く評価されていることも存じています。」
サーシャは目を丸くした。
それらは確かに自分がやってきたことだった。
しかし、それは先生が残してくれた教えを受け継いだだけだと思っていた。
マーガレットは静かに続ける。
「王都で改革を行っている私と。」
「村々で教導を続けてきたあなた。」
「立場は違います。」
「ですが、人を育てる教師であることは同じです。」
「私は、そのことを心から尊敬しています。」
サーシャの瞳に涙が浮かんだ。
王女から尊敬していると言われるなど、考えたこともなかった。
「私は……。」
「先生に教えていただいたことを続けただけです。」
マーガレットは微笑んだ。
「それが一番難しいことなのです。」
「教わる人は多くても、教える側になれる人は多くありません。」
「あなたは立派な教師です。」
その言葉に、サーシャは涙を拭った。
一方、アークは二人のやり取りを静かに聞いていた。
マーガレットがここまでサーシャのことを調べているとは思っていなかった。
「……いつの間に。」
思わず小さく呟く。
マーガレットはその声を聞き逃さなかった。
「もちろん事前に調べました。」
「アークさんが信頼している方ですから。」
「辺境伯様にもお話を伺いました。」
「えっ?」
アークは思わず声を上げる。
「辺境伯様にも?」
「はい。」
「『サーシャ殿は優秀な教師だ。村々の発展に大きく貢献している。』と、お聞きしております。」
アークは思わず額に手を当てた。
「そこまで……。」
マーガレットは何事もないように頷く。
「当然です。」
「アークさんの大切な方を、お迎えするのですから。」
「きちんと調べるのは当たり前でしょう?」
その言葉にアークは返す言葉が見つからない。
サーシャも驚きのあまり言葉を失っていた。
マーガレットはそんな二人を見渡し、にこりと微笑む。
「ですから安心してください。」
「私は最初から決めていました。」
「サーシャさん。」
「あなたもアークさんのお嫁さんになりなさい。」
再び部屋の空気が止まる。
サーシャは顔を真っ赤にし、言葉にならない声を漏らした。
そして、その場で一番困惑していたのは、やはりアークただ一人だった。
「あなたもアークさんのお嫁さんになりなさい。」
マーガレットの言葉に、サーシャは完全に固まってしまった。
「わ、私が……先生の、お嫁さん……。」
顔は耳まで真っ赤である。
視線は泳ぎ、両手は落ち着かない様子で握ったり開いたりを繰り返していた。
一方のアークも負けてはいない。
「いやいやいや!」
「話が飛びすぎです!」
「私は何も聞いていません!」
珍しく大きな声を上げるアークに、マーガレットは不思議そうな顔をした。
「申し上げませんでしたか?」
「聞いてません!」
「そうでしたか。」
マーガレットは悪びれる様子もなく頷く。
「ですが、必要な方々にはお話をしております。」
アークは嫌な予感しかしなかった。
「……必要な方々?」
「はい。」
「まず国王陛下です。」
「『アークなら反対はせんだろう。』と仰っていました。」
「いや、反対してます!」
思わず即座に否定する。
マーガレットは気にせず続けた。
「王妃殿下は、『サーシャさんも素敵な女性ですね。』と喜んでくださいました。」
「王妃殿下まで……。」
「宰相閣下は、『教師同士なら互いを支え合えるでしょう。』とのお考えでした。」
アークは天井を見上げた。
もう誰も止めてくれる人はいないらしい。
マーガレットは話を続ける。
「さらに辺境伯様にもご相談いたしました。」
「えっ?」
今度はサーシャが驚く番だった。
「辺境伯様にまで?」
「はい。」
「サーシャ殿は人格も実績も申し分ない。教師としても十分信頼できる方だ、と仰っていました。」
サーシャは信じられないという表情になる。
自分の知らないところで、そこまで評価されていたとは思ってもいなかった。
マーガレットは優しく微笑む。
「ですから、誰一人反対する方はいらっしゃいませんでした。」
「残る問題は一つだけです。」
そう言って、視線はアークへ向く。
アークは嫌な予感しかしない。
「……まさか。」
「はい。」
「アークさんだけです。」
その場が静まり返った。
サーシャは思わず吹き出しそうになるが、必死に我慢する。
アークは深いため息をついた。
「どうして私だけ最後なんですか。」
マーガレットは首を傾げる。
「アークさんは、ご自分のことになると後回しになさるでしょう?」
「だから先に周囲へご相談しました。」
「完全に包囲されていますよね……。」
「はい。」
にこやかに即答するマーガレット。
アークは思わず頭を抱えた。
「私に拒否権はあるんでしょうか。」
「もちろんございます。」
マーガレットは笑顔のまま答える。
アークは少し安心した。
「よかった……。」
「ですが、国王陛下、王妃殿下、宰相閣下、辺境伯様、そして私に理由をご説明いただくことになります。」
「重い!」
思わず机へ突っ伏すアーク。
その姿を見て、サーシャはついに笑ってしまった。
「ふふっ……。」
マーガレットも口元へ手を添え、小さく笑う。
部屋には穏やかな空気が流れていた。
これまで多くの困難を冷静に乗り越えてきたアークだったが、この日ばかりは違った。
魔物との戦いでもなく、王都改革でもない。
最も困難な相手は、隣で微笑む婚約者だった。
そして、その光景を見ながらサーシャは思う。
王女でありながら誰よりも優しく、人の心を大切にする女性。
だからこそ、先生はこの人を選んだのだと。
しかし、その場で最も困惑し、最も追い詰められていたのは――最後までアークただ一人だった。




