36 王女への教導開始
侯爵叙爵から数日後。
アークは王城の中庭を訪れていた。
今日から、第一王女マーガレットへの教導が始まる。
騎士団長アイクから「陛下のご希望だ」と聞かされていたが、本人は未だに実感が湧いていなかった。
「侯爵になったと思えば、今度は第一王女殿下へ教導とは……。」
思わず苦笑する。
そこへ、一人の女性が歩いてきた。
長い金色の髪を揺らし、上品な所作で近づいてくる。
アルデバラン王国第一王女。
マーガレットだった。
「お待たせいたしました。」
穏やかな声が響く。
アークは深く一礼した。
「本日はよろしくお願いいたします。」
まずは鑑定スキルを発動する。
名前 マーガレット
年齢 二十四歳
身分 アルデバラン王国第一王女
能力を確認しながら、アークは小さく頷いた。
(やはり聡明な方だ。)
落ち着いた立ち居振る舞い。
相手を安心させる柔らかな笑顔。
王族としての気品を備えながらも、威圧感はまるでない。
「突然侯爵に叙爵され、その上、第一王女殿下との縁談までいただき、とても驚いております。」
アークは少し困ったように頭をかいた。
「私は平民として育ちました。」
「王族の方と、どのようにお話しすればよいのか分かりません。」
「このような話し方で、よろしいでしょうか。」
緊張した様子で尋ねる。
するとマーガレットは、小さく口元を緩めた。
「ええ、もちろんです。」
「そのままのアーク様でいてください。」
「無理に話し方を変えられる方が、私は落ち着きませんもの。」
その言葉に、アークは胸をなで下ろした。
「ありがとうございます。」
マーガレットは嬉しそうに続ける。
「実は、ずっと楽しみにしておりました。」
「王国騎士団の皆様が、短期間で大きく成長されたと伺っています。」
「その教導を、ぜひ私も受けてみたいのです。」
アークは少し意外そうな表情を浮かべた。
「剣術や魔法をご希望でしょうか。」
マーガレットは首を横に振る。
「もちろん、それも学びたいと思っています。」
「ですが、それ以上に知りたいことがあります。」
「アーク様は、どうすれば人が自ら学び、自ら成長するようになるのかをご存じなのでしょう。」
「私は、その教導の本質を学びたいのです。」
アークは静かにマーガレットを見つめた。
戦闘技術だけを求めているわけではない。
人を育てるということ、そのものを知ろうとしている。
(この方は、本質を見ておられる。)
自然と笑みが浮かんだ。
「分かりました。」
「でしたら、王国騎士団の皆さんへ最初に教えたことから始めましょう。」
マーガレットの表情が明るくなる。
「はい。」
「よろしくお願いいたします。」
アークはゆっくりと両手を前へ出した。
「教導の最初は、いつも同じです。」
「まずは魔力循環から始めます。」
「これが、すべての基礎になります。」
マーガレットは真剣な表情で頷いた。
王女としてではなく、一人の学び手として。
新しい教導の時間が、静かに始まろうとしていた。
「では、始めましょう。」
アークは穏やかな声で言った。
王城の庭園には朝の澄んだ空気が流れ、小鳥のさえずりが響いている。
マーガレットは真っ直ぐアークを見つめた。
「よろしくお願いいたします。」
アークは軽く頷く。
「教導は難しいことから始めません。」
「最初は魔力循環です。」
「これは王国騎士団の皆さんにも、最初にお教えしたことです。」
マーガレットは興味深そうに耳を傾ける。
「まず、魔力を感じることから始めます。」
「体の中を流れる魔力を意識し、全身へ巡らせるイメージを持ってください。」
「速く動かそうとは考えなくて結構です。」
「ゆっくり、途切れないように巡らせます。」
そう説明すると、アークは自ら魔力循環を行って見せた。
静かな動きだった。
剣を振るうわけでも、魔法を放つわけでもない。
しかし、その落ち着いた所作には一切の無駄がない。
マーガレットも目を閉じ、教えられた通りに意識を集中させた。
最初は何も感じない。
だが呼吸を整え、ゆっくりと意識を巡らせていくと、胸の奥に小さな温かさを感じた。
「……何か温かいものを感じます。」
アークは微笑んだ。
「はい。」
「それで大丈夫です。」
「焦らず続けてください。」
「最初はその感覚を失わないことが大切です。」
マーガレットはそのまま魔力循環を続ける。
時間が経つにつれ、温かな感覚が胸から腕、足先へと少しずつ広がっていく。
「不思議です。」
「心まで落ち着いてきます。」
「魔力循環には、そのような効果もあります。」
アークは穏やかに説明する。
「体に余計な力が入らなくなります。」
「集中力も保ちやすくなります。」
「だから王国騎士団の皆さんにも、毎日続けていただきました。」
マーガレットは目を開き、感心したように頷いた。
「これが、騎士団の皆様が短期間で成長された理由の一つなのですね。」
「はい。」
「剣術や魔法は、その後です。」
「土台ができていなければ、どれだけ技術を学んでも十分には身につきません。」
マーガレットは静かにその言葉を反芻する。
「土台……。」
「ええ。」
「私は教導で一番大切なのは、基礎を身につけることだと思っています。」
「基礎が身につけば、その先は自分で考え、成長していけます。」
マーガレットは思わず笑みを浮かべた。
「だから皆様は、自ら考えて動けるようになられたのですね。」
アークは少し驚いたようにマーガレットを見る。
「その通りです。」
「私は答えを覚えていただきたいのではありません。」
「考え方を身につけていただきたいのです。」
「そうすれば、新しい問題にも自分で答えを見つけられます。」
マーガレットは深く頷いた。
戦闘技術を教えているのではない。
人が成長するための土台を教えている。
その違いを、ようやく理解した気がした。
「アーク様。」
「はい。」
「私は戦い方を教えていただきたいと思っておりました。」
「ですが今は、それ以上に、この教導をもっと学びたいと思っています。」
その瞳には強い意志が宿っていた。
王女としてではない。
これから国を支える一人の人間として学びたい。
そんな真摯な想いが伝わってくる。
アークは静かに微笑み、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。」
「それでは、この教導を一つずつ、一緒に学んでいきましょう。」
その言葉に、マーガレットは心から嬉しそうな笑顔を見せた。
こうして王女への教導は、魔力循環という最も基本であり、最も大切な一歩から始まった。
教導が始まってから一時間ほどが過ぎた。
マーガレットは一度も休むことなく魔力循環を続けていた。
呼吸を整え、ゆっくりと魔力を巡らせる。
最初はぎこちなかった流れも、少しずつ自然になっていく。
アークはその様子を静かに見守っていた。
(飲み込みが早い。)
王女という立場に甘えることなく、人の話を素直に聞き、その通りに実践している。
だから上達も早い。
「アーク様。」
マーガレットが目を開けた。
「何でしょう。」
「王国騎士団の皆様も、このように教導を受けられたのですか。」
アークは頷いた。
「はい。」
「まず魔力循環を覚えていただきました。」
「その後、魔力操作へ進みます。」
「基礎が身についてから、次の段階へ進むようにしています。」
マーガレットは納得したように微笑む。
「だから短期間であれほど成長されたのですね。」
「一つずつ積み重ねていくからこそ、無理がないのですね。」
「そう考えています。」
アークは静かに答えた。
「焦って多くを教えても、身につきません。」
「一つ覚えたら、それを繰り返す。」
「基礎が自然にできるようになれば、その先はずっと楽になります。」
マーガレットはその言葉を何度も心の中で繰り返した。
一歩ずつ積み重ねる。
派手さはない。
だが、最も確実な方法だった。
「では、次へ進みましょう。」
アークはそう言うと、右手をゆっくりと前へ出した。
「次は魔力操作です。」
「魔力循環で巡らせた魔力を、自分の意思で動かします。」
マーガレットは真剣な表情になる。
「難しいでしょうか。」
「最初は思うように動かないかもしれません。」
「ですが、心配はいりません。」
「魔力循環ができるようになれば、必ずできるようになります。」
アークは足元に落ちていた一枚の木の葉を拾った。
「ご覧ください。」
右手の上へ木の葉を乗せる。
魔力をゆっくり流すと、木の葉がふわりと浮き上がった。
風ではない。
魔力だけで支えられている。
マーガレットは目を丸くした。
「浮いています……。」
「これが魔力操作です。」
「力任せではありません。」
「少しずつ魔力を調整しながら支えています。」
木の葉は揺れることなく空中に浮かんでいる。
まるで見えない手に支えられているようだった。
「では、マーガレット様もやってみましょう。」
「はい。」
マーガレットは木の葉を受け取り、手のひらへ乗せた。
魔力循環を続けながら、今度は魔力を手のひらへ集める。
だが木の葉は動かない。
「焦らなくて大丈夫です。」
アークは穏やかに声を掛けた。
「最初は皆さん同じです。」
「力を入れるのではなく、支えるような気持ちで魔力を送ってください。」
マーガレットはもう一度深呼吸をした。
言われた通り、ゆっくりと魔力を送り込む。
すると――
木の葉がわずかに震えた。
「動きました。」
思わず嬉しそうな声が漏れる。
アークも微笑んだ。
「はい。」
「今の感覚を忘れないでください。」
「それが魔力操作の第一歩です。」
マーガレットは何度も繰り返した。
少し浮いては落ちる。
また浮いては落ちる。
それでも先ほどより確実に動いている。
失敗しても表情は明るい。
新しいことを学ぶ喜びが、その笑顔から伝わってきた。
アークは静かに頷いた。
(この方なら、きっと伸びる。)
教導とは、才能を見つけることではない。
学び続ける姿勢を育てること。
マーガレットは、その資質を十分に備えていた。
「今日はここまでにしましょう。」
アークがそう告げると、マーガレットは名残惜しそうに木の葉を手のひらへ戻した。
「もう終わりなのですね。」
「はい。」
「新しいことを一度に詰め込むよりも、今日学んだことを繰り返す方が大切です。」
マーガレットは静かに頷く。
「基礎を疎かにしない。」
「それが教導なのですね。」
「そうです。」
アークは穏やかに答えた。
「魔力循環も魔力操作も、一日で完成するものではありません。」
「毎日少しずつ積み重ねることで、初めて自分の力になります。」
マーガレットはその言葉を胸に刻むように頷いた。
「それでは、今日から毎日続けます。」
「良い心掛けです。」
アークは微笑んだ。
「続けることが一番難しく、一番大切です。」
「才能よりも、毎日の積み重ねが人を成長させます。」
その言葉に、マーガレットは小さく息をのむ。
それは武術だけではない。
政治も、学問も、人としての在り方も同じなのだと理解できた。
「アーク様。」
「はい。」
「王国騎士団の皆様も、この積み重ねを続けられたのですね。」
「ええ。」
「皆さん、本当によく努力されました。」
「私が特別なことをしたわけではありません。」
「毎日欠かさず鍛錬を続けられたのは、騎士の皆さん自身です。」
マーガレットは柔らかく微笑む。
謁見の間でもそうだった。
この人は決して自分だけの功績にしない。
人の努力を認め、その成果を本人へ返す。
だから教えを受けた人は、自ら努力しようと思えるのだろう。
「教導とは、人を信じることでもあるのですね。」
その言葉に、アークは少し驚いたように目を見開いた。
そして静かに笑う。
「はい。」
「私は、人は成長できると信じています。」
「だから教えます。」
「信じていなければ、教導は続けられません。」
マーガレットは深く一礼した。
「ありがとうございます。」
「今日一日で、たくさんのことを学ばせていただきました。」
アークも礼を返す。
「こちらこそ、ありがとうございました。」
「マーガレット様は飲み込みが早く、とても教えやすかったです。」
その言葉に、マーガレットは少し照れたように笑った。
「先生に褒められるのは嬉しいものですね。」
アークも思わず笑みを浮かべる。
「努力された結果ですよ。」
穏やかな空気が二人の間に流れる。
そこへ、庭園の入口から騎士団長アイクが姿を見せた。
「失礼する。」
「教導は終わったようだな。」
「はい。」
アークが答える。
アイクはマーガレットを見ると、その表情の変化にすぐ気付いた。
教導が始まる前よりも、生き生きとしている。
学ぶ喜びに満ちた表情だった。
「殿下、いかがでしたか。」
マーガレットは迷うことなく答えた。
「想像以上でした。」
「戦い方を教わるものと思っていましたが、それだけではありませんでした。」
「人が成長するための考え方を教えていただきました。」
アイクは満足そうに頷く。
「それを理解されたのであれば十分です。」
「私たち騎士団も、まずそこから学びました。」
マーガレットは再びアークを見る。
「明日もよろしくお願いいたします。」
「はい。」
「明日も魔力循環と魔力操作を繰り返し、その先へ進みましょう。」
「基礎を積み重ねることが、何より大切ですから。」
「はい。」
マーガレットは嬉しそうに頷いた。
王女としてではなく、一人の教え子として。
その瞳には、昨日までにはなかった学ぶ喜びと、教導への強い期待が宿っていた。
こうして王国第一王女への教導は静かに幕を開けた。
この学びは、一人の王女を育てるだけでは終わらない。
やがて王国の未来を支える、新たな礎となっていくのだった。




