35話 王女
謁見が終わり、貴族たちが静かに退席していく。
その様子を、一人の女性が静かに見つめていた。
アルデバラン王国第一王女。
マーガレット。
二十四歳。
長い金髪と澄んだ青い瞳を持ち、その美しさは王都でも広く知られていた。
しかし、人々が最も評価しているのは、その容姿ではない。
幼い頃から政治や経済、歴史を学び、王国の未来を真剣に考え続けてきた。
貧しい領地には救済を。
努力する者には機会を。
民が安心して暮らせる国を築きたい。
その志を持つ才女だった。
だからこそ、これまで幾度となく縁談が持ち込まれても、心が動くことはなかった。
王族だから。
公爵だから。
侯爵だから。
その程度の理由で相手を選ぶ気にはなれなかったのである。
だが、今日だけは違った。
謁見の間で侯爵位を授かった青年。
アーク。
二十六歳。
王国中へ教導を広げ、人々を育てた男。
爵位を授かる瞬間でさえ、自分には相応しくないと言い切った青年だった。
「私は教えただけです。」
その言葉が、何度もマーガレットの胸に蘇る。
普通なら功績を誇る。
爵位を喜ぶ。
権力を求める。
しかし、アークは違った。
評価されたことよりも、自分が育てた人々の努力を語っていた。
マーガレットは思わず小さく微笑む。
「不思議な方……。」
これまで見てきた貴族とは、まるで違う。
侯爵となっても旅を続け、人を育てたいと願う。
その姿に、心が強く惹かれていた。
ふと隣を見ると、騎士団長アイクが歩いてくる。
「殿下。」
「アイク。」
マーガレットは静かに尋ねた。
「アークという方は、昔からあのような方なのですか。」
アイクは少し笑う。
「ええ。」
「最初に会った頃から変わりません。」
「自分の利益より、教えた相手の成長を喜ぶ男です。」
「王国騎士団の教導でもそうでした。」
マーガレットは頷く。
その話は何度も報告書で読んでいる。
わずかな期間で王国騎士団七百名が大きく成長したこと。
さらに近衛騎士団二百名も教導を受け、王都の守りが大きく変わったこと。
合わせて九百名の騎士たちが、短期間で変革を遂げた。
その報告を最初に読んだ時、マーガレットは信じられなかった。
だが今日、本人を目の前にして理解した。
人は命令だけでは育たない。
信頼され、学び、考える機会を与えられてこそ成長する。
アークは、それを誰よりも理解している。
「……素敵な方ですね。」
思わず口から漏れた言葉だった。
アイクは少し驚いたようにマーガレットを見る。
だがすぐに優しく微笑んだ。
「殿下がそう思われるのも、不思議ではありません。」
マーガレットは自分の胸へ手を当てる。
鼓動が少し早い。
これまでどんな王侯貴族と会っても感じたことのない感覚だった。
胸の奥が温かい。
もっと話をしてみたい。
もっと、その人を知りたい。
その想いは、ゆっくりと、しかし確かに一人の女性の心を満たし始めていた。
その夜。
王城の一室で、マーガレットは一人窓辺に立っていた。
王都の灯りが静かに揺れている。
だが、その景色を眺めながらも、心に浮かぶのは一人の青年だけだった。
アーク。
侯爵となったばかりの青年。
「どうしてなのでしょう……。」
自分でも不思議だった。
これまで多くの王子や公爵家の嫡男、侯爵家の嫡男と会ってきた。
誰もが優秀だった。
武勇に優れた者。
政治に秀でた者。
学問に長けた者。
しかし、誰一人として心は動かなかった。
それなのに今日初めて会った青年が、心から離れない。
爵位を授けられても驕ることなく、自らの功績ではないと言い切った姿。
旅を続け、人を育てたいと願った姿。
王国全体の利益を考え、自分の利益を後回しにする姿。
どれもマーガレットが理想としてきた統治者の姿だった。
その時、部屋の扉が静かに叩かれる。
「マーガレット。」
王妃だった。
「お母様。」
王妃は穏やかに微笑みながら娘の隣へ立つ。
「何を考えていたのですか。」
マーガレットは少し照れたように笑う。
「分かっておられるのでしょう。」
王妃は小さく頷いた。
「ええ。」
「アーク殿のことですね。」
マーガレットは驚いたように母を見る。
「どうして……。」
「母ですもの。」
「そのくらいは分かります。」
二人は顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれた。
少し沈黙が流れた後、マーガレットは静かに口を開く。
「お母様。」
「私は……アーク殿に惹かれています。」
「初めて、この方と生涯を共にしたいと思いました。」
王妃は驚かなかった。
むしろ、その言葉を待っていたように優しく頷く。
「そうでしょうね。」
「あなたほど人を見る目がある子なら、きっとそうなると思っていました。」
マーガレットは少し目を伏せる。
「身分や功績だけではありません。」
「王国の未来を、民の未来を本気で考えている方です。」
「その考え方に惹かれました。」
「一緒に歩んでみたいのです。」
王妃は娘の肩へ優しく手を添えた。
「あなたは幼い頃から申していましたね。」
『民を幸せにできる方でなければ結婚したくありません』と。
マーガレットは懐かしそうに微笑む。
「覚えていらしたのですね。」
「もちろんです。」
王妃は優しく笑った。
その時、再び扉が叩かれた。
入ってきたのは国王だった。
「二人とも、ここにいたか。」
国王は娘の表情を見るなり、小さく笑う。
「決心したようだな。」
マーガレットはゆっくりと父へ向き直る。
そして深く一礼した。
「お父様。」
「お願いがあります。」
国王は静かに頷く。
「申してみなさい。」
マーガレットは真っ直ぐ父を見つめた。
「私は、アーク殿へ嫁ぎたいと思っております。」
その言葉を聞いても、国王も王妃も驚くことはなかった。
二人は互いに顔を見合わせ、静かに微笑む。
その表情を見たマーガレットは思わず尋ねた。
「……お二人とも、驚かれないのですか。」
国王は穏やかに答えた。
「正直に言えば、その言葉を聞く日が来るだろうと思っていた。」
「お前は才ある者を誰よりも見抜く。」
「そしてアークは、王国でも比べる者がいないほど大きな器を持った男だからな。」
マーガレットの言葉を聞いた国王は、静かに椅子へ腰を下ろした。
王妃も穏やかな笑みを浮かべながら娘を見つめている。
重苦しい空気ではなかった。
家族だけの、落ち着いた時間が流れていた。
やがて国王が口を開く。
「マーガレット。」
「お前は幼い頃から、人を見る目だけは誰にも負けなかった。」
「だから余も、お前の見る目を信じている。」
マーガレットは静かに頷いた。
「ありがとうございます。」
「ですが、今回は娘としてではなく、一人の女性として申し上げます。」
「私はアーク殿をお慕いしております。」
「この気持ちに偽りはありません。」
王妃は優しく微笑んだ。
「いつからなのですか。」
マーガレットは少し照れたように笑う。
「謁見の途中です。」
「侯爵位を辞退しようとした姿を見た時でした。」
「自分の功績ではなく、人々の努力だと語る姿を見て、この方は本当に民のために生きているのだと思いました。」
「それから目が離せなくなりました。」
国王は小さく笑う。
「やはり、そこか。」
「余も同じことを思った。」
「普通なら侯爵位を授かれば喜ぶ。」
「しかし、あの男は最後まで自分には相応しくないと言っていた。」
「権力に執着がない。」
「だからこそ安心できる。」
王妃も頷く。
「王族へ近づこうとする貴族は数多く見てきました。」
「ですが、アーク殿からは、そのような思惑を一切感じません。」
「それどころか、侯爵になっても旅を続けたいと願っていました。」
「王都へ留まることさえ望まなかったのですもの。」
マーガレットは静かに微笑む。
「そこにも惹かれました。」
「爵位よりも、人を育てることを選ぶ方です。」
「そのような方なら、民も自然とついていくのでしょう。」
国王はゆっくりと頷いた。
「余も同じ考えだ。」
「アークは人を従わせる男ではない。」
「人が自ら集まる男だ。」
「それは王として最も得難い資質でもある。」
少し沈黙が流れる。
やがて国王は娘へ視線を向けた。
「マーガレット。」
「お前も二十四歳になった。」
「これまで多くの縁談を断ってきたな。」
マーガレットは苦笑する。
「申し訳ありません。」
「謝る必要はない。」
国王は穏やかな声で続けた。
「お前は妥協して結婚するような娘ではない。」
「才があり、志も高い。」
「だから釣り合う男がおらんかった。」
王妃も静かに頷いた。
「あなたの隣に立てる方がいなかったのです。」
「ですが、アーク殿なら違います。」
「民を想い、王国を想い、人を育てる。」
「あなたが共に歩みたいと思うのも自然なことでしょう。」
マーガレットは少しだけ目を潤ませた。
両親が、自分の気持ちを否定しない。
それどころか理解してくれている。
そのことが何より嬉しかった。
国王は穏やかに笑った。
「もっとも、結婚は余が決めるものではない。」
「アーク本人の意思が最も大切だ。」
「余は王として命じるつもりはない。」
「一人の男として、自ら選んでもらう。」
マーガレットは深く頷いた。
「はい。」
「私も、それを望んでおります。」
その返事を聞いた国王と王妃は満足そうに微笑んだ。
二人が育ててきた才女は、王女としてではなく、一人の女性として人生を選ぼうとしていた。
翌朝。
国王は執務室へ宰相を呼んでいた。
「マーガレットから話は聞いた。」
国王がそう切り出すと、宰相は静かに頷く。
「やはり、そうなりましたか。」
「驚かぬのだな。」
「はい。」
宰相は穏やかに微笑んだ。
「王女殿下は聡明なお方です。」
「誰よりも人物を見る目をお持ちです。」
「その王女殿下が心を寄せられたのであれば、不思議ではありません。」
国王は椅子にもたれながら、小さく息を吐く。
「余も同じ考えだ。」
「マーガレットはこれまで数え切れぬほどの縁談を断ってきた。」
「公爵家も侯爵家も、近隣諸国の王族もだ。」
宰相も苦笑する。
「どなたも優秀ではありました。」
「ですが、王女殿下が求めていたのは肩書きではありませんでした。」
「共に民のために歩める人物です。」
国王は静かに頷いた。
「その点、アークは申し分ない。」
「王国へこれほどの利益をもたらしたにもかかわらず、自ら報酬を求めたことは一度もない。」
「爵位さえ辞退しようとした。」
「あの姿を見れば、人柄は十分に分かる。」
その時、扉が叩かれた。
「失礼いたします。」
入室してきたのは騎士団長アイクだった。
「陛下、お呼びでしょうか。」
「ああ。」
国王は頷く。
「アイク。」
「お前はアークと最も長く接してきた一人だ。」
「率直に聞こう。」
「マーガレットを任せられる男だと思うか。」
アイクは迷うことなく答えた。
「はい。」
その返答はあまりにも早かった。
国王も宰相も思わず笑みを浮かべる。
アイクは続けた。
「強さだけなら、アーク以上の者が現れる日もあるでしょう。」
「知識だけなら、もっと詳しい学者もいるかもしれません。」
「ですが、人を育てる器だけは違います。」
「教えを受けた者は皆、自ら考え、自ら動くようになります。」
「私はその光景を、この目で見てきました。」
静かな言葉だった。
だからこそ重みがある。
宰相も深く頷いた。
「王国が今変わり始めている理由も、そこにありますな。」
アイクは続ける。
「それに、アークは爵位で人を判断しません。」
「相手が村人でも騎士でも貴族でも、同じように接します。」
「だから皆が信頼するのです。」
国王は満足そうに微笑んだ。
「余も同じ考えだ。」
「マーガレットなら、その器を見誤ることはない。」
そして少し間を置き、静かに言葉を続ける。
「ただし、この縁談を王命にするつもりはない。」
「王女との婚姻は、アーク自身が望んで受けるものでなければ意味がない。」
「無理に結ばれても、誰も幸せにはならぬ。」
宰相とアイクも深く頷いた。
「まずは互いを知る機会を設けましょう。」
宰相の提案に、国王は賛同する。
「それがよい。」
「二人の未来は、二人自身が決めればよい。」
窓の外では、朝日が王都を明るく照らしていた。
王女が初めて心を寄せた青年。
そして、人々を育て続ける若き侯爵。
二人の出会いは偶然だった。
しかし、その出会いはやがて、王国の未来をさらに大きく動かす新たな始まりになろうとしていた。




