300 目ざとい者たち
ホルモン豆腐は、産後の女性の回復食として広く勧められるようになった。
だが、その料理を産後の女性だけのものにしておくほど、人々はおとなしくなかった。
そして、バイオレット王妃がその存在を見逃すはずもなかった。
目の前には、湯気を立てるホルモン豆腐がある。
柔らかな豆腐。
ドラゴンホルモン。
血液まで溶け込んだ濃厚なスープ。
バイオレットは一口食べた。
「美味しいわ」
もう一口食べる。
そして傍らに置かれたウィスキーのハイボールを飲んだ。
バイオレットの手が止まった。
もう一度ホルモン豆腐を食べる。
今度はすぐにハイボールを飲む。
「これ、お酒にも合うわ」
産後の回復食。
それは間違っていない。
だが、体調を回復させる料理だからといって、体調を崩した者だけが食べる必要はない。
何より美味い。
しかも酒に合う。
ハイボールを広めたバイオレットが、そこに気づかないはずがなかった。
そして、料理人たちも同じだった。
マルセルがホルモン豆腐を食べた。
一度食べれば、料理人として考え始める。
豆腐は煮込んだスープを吸う。
ならば、味の作り方を変えればいい。
ホルモンの切り方を変える。
煮込み方を変える。
合わせる食材を変える。
同じホルモン豆腐でも、料理人が変われば別の料理になる。
マルセルは自分の店で、アレンジしたホルモン豆腐を出し始めた。
プロキシーも見逃さなかった。
ホルモン豆腐だけではない。
豆腐そのものが面白い食材だった。
強い味を持たないからこそ、他の食材と合わせることができる。
煮てもいい。
焼いてもいい。
崩して使ってもいい。
プロキシーも自分の店で豆腐料理を作り始めた。
食品ギルドが生み出した豆腐を、二人の料理人がそのまま出すはずがない。
それぞれが自分の料理にした。
客の反応は早かった。
「これ、酒に合うな」
「ホルモン豆腐をもう一つ頼む」
「こっちの豆腐料理もくれ」
酒を飲む。
豆腐を食べる。
ドラゴンホルモンを食べる。
また酒を飲む。
ホルモン豆腐は、いつの間にか酒場のつまみとしても食べられるようになった。
それまでの経緯など、客にとってはどうでもよかった。
美味ければ食べる。
酒に合えば注文する。
しかも安い。
腹にもたまる。
さらに食べれば疲れまで取れる。
これほど酒場向きの料理もなかった。
仕事を終えた農夫が酒場へ入る。
一日、農地で身体を動かしてきた。
「ホルモン豆腐と酒を頼む」
建築作業を終えた職人たちもやって来る。
「こっちもホルモン豆腐を頼む」
紡織産業で一日働いた女工たちも席についた。
酒と一緒にホルモン豆腐を注文する。
温かいスープを飲む。
豆腐を食べる。
ホルモンを噛む。
そこへ酒を流し込む。
一日の疲れが消えていく。
「これがいいのよね」
「明日も仕事だからな」
食べれば身体が回復する。
だからといって、特別な食事をしている感覚はなかった。
仕事が終わった。
酒場へ行く。
酒を飲む。
ホルモン豆腐を食べる。
ただ、それだけである。
農夫も。
職人も。
女工も。
仕事を終えた者たちが、夕食にホルモン豆腐を食べながら一杯飲む。
そんな光景が珍しくなくなった。
産後の女性の回復食として勧められた料理は、誰かが用途を決めたわけでもないのに別の場所へ広がっていた。
旨い。
安い。
疲れが取れる。
そして酒に合う。
ホルモン豆腐は万能だった。
マルセルとプロキシーの店でホルモン豆腐が売れ始めれば、それを見ている者たちがいる。
他の料理人たちだった。
客が何を注文しているのか。
どの料理を食べながら酒を飲んでいるのか。
料理人なら当然見る。
酒場の店主たちも同じだった。
「最近、ホルモン豆腐を頼む客が多いな」
「うちでも出せないか?」
食品ギルドへ行けば豆腐を仕入れることができる。
ドラゴンホルモンも大量に流通している。
特別に手に入りにくい材料ではなかった。
ならば作ればいい。
料理人たちは食品ギルドから豆腐を仕入れ、自分たちの店でもホルモン豆腐を出し始めた。
もちろん、どの店も同じ味にはならない。
煮込み方が違う。
使う食材も違う。
料理人によって味付けも違う。
客は自分の好みに合う店を探した。
「俺はここのが好きだな」
「向こうの店も美味かったぞ」
「なら今度行ってみるか」
それだけで客が動く。
評判を聞いた者が別の店へ行く。
その店でまた別の料理を見つける。
豆腐料理そのものも増えていった。
マルセルもプロキシーも、新しい使い方を試し続けている。
それを食べた料理人が、自分ならどうするかを考える。
誰かが作った料理をそのまま真似るだけではない。
自分の店の客に合うように変える。
酒を飲む客が多い店なら、酒と一緒に食べやすい料理にする。
食事をする客が多ければ、腹を満たせるようにする。
豆腐は、そのどちらにも使えた。
そして客の側にも変化が起きていた。
仕事を終えた農夫たちが酒場へ入る。
最初の一杯と一緒にホルモン豆腐を頼む。
「今日も疲れたな」
「収穫が終わらなかった」
そんな話をしながら酒を飲む。
ホルモン豆腐を食べる。
しばらくすると身体が軽くなってくる。
翌日も農作業がある。
それでも一杯くらいは飲みたい。
そんな者には都合がよかった。
建築現場で働く職人たちも同じだった。
一日中身体を動かして酒場へ来る。
酒を頼む。
ホルモン豆腐も頼む。
「これを食べるようになってから楽だな」
「酒まで美味くなる」
笑いながら飲む。
紡織産業で働く女工たちも仕事帰りに店へ寄った。
「今日はどこにする?」
「この前の店でいいんじゃない?」
「豆腐料理が増えたって聞いたわよ」
「じゃあ、そっちにしましょう」
店を選ぶ理由にまで豆腐料理が入り始めていた。
酒場にとってもありがたい料理だった。
旨い。
安い。
腹にもたまる。
食べた客の疲れまで取れる。
酒にも合う。
客が喜べば、また来る。
だから出す店が増える。
出す店が増えれば、食品ギルドへの豆腐の注文も増える。
食品ギルドは必要な量を作る。
それを見た大豆を生産する者たちも、増えた需要に応じて動く。
ホルモン豆腐一つから、また別の流れが生まれていた。
バイオレットがハイボールと一緒に食べて気に入った。
マルセルとプロキシーが料理人として目をつけた。
他の料理人たちも客の反応に気づいた。
酒場の店主たちも売れる料理を見逃さなかった。
そして最後に食べるのは、日々働いている人々である。
王妃だから食べる料理ではない。
料理人だけが楽しむ料理でもない。
農夫が食べる。
職人が食べる。
女工が食べる。
一日の仕事を終えた者たちが、酒と一緒に当たり前のように注文する。
「とりあえず、ホルモン豆腐を頼む」
そんな言葉まで酒場で聞かれるようになった。
産後の回復食として注目されたホルモン豆腐は、いつの間にか仕事帰りの人々にも愛される料理になっていた。
誰もそうしろとは言っていない。
旨かった。
安かった。
疲れが取れた。
酒に合った。
だから、人々が勝手に食べ始めたのである。
ホルモン豆腐が酒場の定番になっても、マルセルとプロキシーはそこで止まらなかった。
二人が見ているのは、ホルモン豆腐だけではない。
豆腐そのものだった。
大豆から作られた白く柔らかな食材。
そのままでは味が強くない。
だが、だからこそ使いやすい。
煮込めばスープを吸う。
焼けば食感が変わる。
崩せば他の食材とも合わせられる。
マルセルは厨房で豆腐を眺めながら考えた。
料理人にとって、完成された味を持たない食材は面白い。
自分で味を作ることができるからだった。
ドラゴンホルモンと合わせるだけが正解ではない。
ドラゴン肉と合わせてもいい。
海洋魔物と合わせてもいい。
野菜と一緒に煮込むこともできる。
マルセルは次々と試した。
客に出す。
反応を見る。
また変える。
評判がよければ残す。
それほどでもなければ別の方法を試す。
プロキシーも同じだった。
二人が相談して同じ料理を作っているわけではない。
それぞれが自分の店で、自分の客を見ながら料理している。
だから出来上がるものも違った。
「マルセルの店で食べた豆腐料理とは違うな」
客の一人が言った。
プロキシーは当然という顔をした。
「私の店ですから」
客が笑った。
「それもそうだ」
そしてまた食べる。
違うからこそ、別の店へ行く理由になる。
マルセルの店で豆腐料理を食べた者が、今度はプロキシーの店へ行く。
プロキシーの店で気に入った者が、別の料理人の店も試してみる。
豆腐料理を出す店が増えるほど、それぞれの違いも大きくなった。
料理人たちは客の奪い合いをしているつもりはない。
目の前に面白い食材がある。
なら使ってみる。
それだけだった。
もちろん、酒場の店主たちも見ている。
客が豆腐料理を注文する。
酒も注文する。
食べ終われば、もう一杯頼む者もいる。
ホルモン豆腐を食べながら酒を楽しみ、仕事の話をする。
農夫たちは収穫の話をしていた。
「明日で終わりそうだ」
「こっちはもう少しかかるな」
建築職人たちは次の仕事について話している。
「今日のところは終わった」
「なら飲めるな」
「飲みすぎるなよ」
「ホルモン豆腐がある」
笑い声が上がった。
紡織産業で働く女工たちの席にも、ホルモン豆腐が置かれていた。
「今日は疲れたわ」
「だったら食べなさいよ」
「言われなくても食べるわ」
豆腐を食べ、酒を飲む。
仕事を終えたあとの、ごく普通の時間だった。
かつてホルモン豆腐は、産後の女性の身体を回復させる料理として結婚斡旋ギルド、薬師ギルド、食品ギルドから勧められた。
その価値は何も変わっていない。
産後の女性にも食べられている。
身体を消耗した者にも喜ばれている。
だが、用途はそれだけではなくなった。
疲れたから食べる。
酒に合うから食べる。
美味いから食べる。
安いから食べる。
理由が増えただけだった。
そしてバイオレットも、当然のようにホルモン豆腐を食べ続けていた。
ハイボールを一口。
ホルモン豆腐を一口。
「やっぱり合うわね」
最初に食べたときと感想は変わらない。
美味いものは美味い。
酒に合うものは酒に合う。
それでよかった。
食品ギルドが海水を煮詰めたところから始まった豆腐は、もう食品ギルドだけのものではなかった。
マルセルが使う。
プロキシーが使う。
他の料理人も使う。
酒場が出す。
農夫が食べる。
職人が食べる。
女工が食べる。
王妃も食べる。
同じ豆腐を前にして、それぞれが自分なりの楽しみ方を見つけていた。
目ざとい者は、一人ではなかった。
豆腐料理を作り続けていた料理人たちは、やがて別のことにも気づいた。
ホルモン豆腐に使うホルモンは、ドラゴンでなければならないのか。
そんな決まりはない。
ドラゴンホルモンが美味いから使っていただけである。
ならば、他の魔物でも試せばいい。
料理人たちはすぐに動いた。
最初に使ったのはオーク系のホルモンだった。
丁寧に処理して大鍋へ入れる。
魔力でじっくり煮込み、豆腐を加える。
出来上がったものを試食する。
「美味いな」
ドラゴンとは味も食感も違う。
だが、ホルモン豆腐として十分に美味かった。
次はボア系。
これも美味い。
ウルフ系も試す。
バッファロー系も使う。
リザード系まで大鍋へ入った。
同じように処理しても、魔物によってホルモンの味も食感も違う。
料理人たちにとって、それは欠点ではなかった。
違うなら、違う味の料理にすればいい。
オーク系。
ボア系。
ウルフ系。
バッファロー系。
リザード系。
試してみれば、すべてのホルモン豆腐が美味かった。
料理人たちはさらに味付けを変えていった。
中でも評判がよかったのが、醤油と砂糖を使ったものだった。
醤油の塩気。
砂糖の甘み。
二つを合わせて甘じょっぱく仕上げる。
そこへ処理したホルモンを入れて煮込む。
十分に味が染みたところで豆腐を加える。
豆腐にも煮汁が染み込んでいった。
料理人が味を見る。
「これは酒が欲しくなるな」
その言葉を聞いた別の料理人も食べてみた。
しばらく噛んでから頷く。
「店に出そう」
判断は早かった。
美味い。
ならば客に出せばいい。
酒場の献立に、新しいホルモン豆腐が次々と加わった。
「今日はドラゴンじゃないのか」
「オークのホルモン豆腐だ」
客が食べる。
甘じょっぱい煮汁を吸った豆腐。
しっかり煮込まれたホルモン。
一口食べれば、すぐに酒へ手が伸びた。
「これも美味いな」
「ボアもあるぞ」
「なら次はそれだ」
一つの店で何種類も出すところも現れた。
別の店では、料理人が得意な魔物に絞って出す。
客の側も楽しみ始める。
昨日はドラゴン。
今日はオーク。
次はバッファロー。
どれが一番好きかを話しながら酒を飲む。
仕事帰りの農夫たちも変わらない。
「今日は何にする?」
「オークにするか」
「俺はボアだな」
建築職人たちの席にも大鍋から料理が運ばれていく。
紡織産業で働く女工たちも献立を見ながら選んでいた。
「この前食べたのは美味しかったわよ」
「じゃあ、それにしましょう」
ホルモン豆腐という一つの料理から、選ぶ楽しみまで生まれていた。
しかも、使える魔物が増えた。
ドラゴンだけを待つ必要もない。
オーク系を狩ればホルモンが取れる。
ボア系からも取れる。
ウルフ系にもある。
バッファロー系にも、リザード系にもある。
これまで食べていた魔物から、新しい料理が作れるようになっただけだった。
料理人たちは、さらに試す。
客は、それを食べる。
美味ければ評判になる。
評判を聞いた別の客が来る。
酒も売れる。
そして別の料理人が、その様子を見てまた考える。
その流れは一つの国だけでは終わらなかった。
百三十二国。
百億人。
すでに食べ転移まで生まれるほど、食を楽しむことが人々の生活へ入り込んでいる。
そこへ何種類ものホルモン豆腐が加わった。
旨い。
安い。
疲れが取れる。
酒に合う。
さらに今度は、選べる。
人々は仕事を終えると酒場へ向かった。
今日は何を食べようか。
どの酒と合わせようか。
昨日とは違う店へ行ってみようか。
百三十二国、百億人の食と酒への渇望は、満たされるどころか、さらに濃くなっていった。




