239 本国を見たい
第78の視察を終え、カイゼルたちはシュタインフェルト王国へ帰国した。
出発したのは、その日の朝だった。
わずか一日の視察だったが、得たものは多い。
道路。
市場。
卸売市場と倉庫。
農地。
紡織工場。
製鉄と金属加工。
冒険者ギルド。
そして、そこで暮らす人々。
報告書で読んでいたものを、実際に自分の目で見ることができた。
だが翌朝、王宮に集まったアイゼルと軍務卿を前に、カイゼルは結論を出さなかった。
「どう思った?」
軍務卿が答える。
「一国として見ても、相当に強い国です」
「軍をほとんど見ていないぞ」
「軍だけを見ても意味がありません」
昨日と同じ答えだった。
「食料を生産できる。集められる。保管できる。運べる。市場へ流すこともできる。街道も整備されている。働いている者の多くが魔法を使い、飛行までできる」
軍務卿はそこで言葉を切った。
「何より、それらが特別なものとして扱われておりません」
カイゼルが頷く。
視察のために集めた魔法使いではなかった。
畑で働く者が魔法を使う。
荷を扱う者が魔法を使う。
街中では、人が普通に空を飛んでいる。
それが第78の日常だった。
「アイゼルは?」
「まだ分かりません」
公爵の答えに、カイゼルは僅かに笑った。
「私もだ」
分からないからこそ、見に行った。
そして実際に見た結果、分からないことが増えた。
アイゼルが続ける。
「我々が見たのは第78だけです」
「ああ」
「確認されているだけでも百三十国。その中の一国に過ぎません」
シュタインフェルト王国に直接隣接しているため、第78は最も見やすかった。
だが、そこだけを見てアルデバラン全体を理解したつもりになるのは危険だった。
第78にはクラディエールという王がいる。
この国の行政があり、産業があり、人々の生活がある。
アルデバラン王国の一地方ではない。
「三十五億人か」
カイゼルが呟いた。
百三十国。
約三十五億人。
それほどの人間が教導を受けている。
昨日見た第78が、その巨大な仕組みの一部に過ぎない。
「教導は、どこから始まった?」
カイゼルが尋ねる。
「アルデバラン本国です」
アイゼルが答えた。
「保護された者を大規模に受け入れたのも?」
「本国です」
「国を立て直す仕組みもか」
「少なくとも、源流はそこにあると考えるべきでしょう」
カイゼルは黙った。
第78を見て分かったことがある。
救済とは、食料を与えて終わるものではなかった。
保護された人間が教導を受ける。
仕事を持つ。
生産する。
商売をする。
自分で生活できるようになる。
ロルフもその一人だった。
元奴隷だった男が、今では自分の店を持ち、料理を作り、客から代金を受け取って暮らしている。
だが、その仕組みを最初に作った場所を、まだ見ていない。
「軍務卿」
「はい」
「昨日の視察だけで報告をまとめられるか?」
「第78についてであれば」
「アルデバランについては?」
軍務卿は少し考えてから首を振った。
「無理でしょう」
「そうだな」
カイゼルは椅子の背にもたれた。
百三十国の一つを見ただけで、三十五億人が動く仕組みを理解したとは言えない。
まして、その源流を見ていない。
しばらく考えた後、カイゼルが口を開いた。
「本国を見たい」
アイゼルが王を見る。
「陛下自らですか?」
「ああ」
カイゼルは迷わなかった。
「第78だけを見て、アルデバランを判断する方がおかしい」
軍務卿も反対しない。
「正式な訪問になさいますか?」
「当然だ。クラディエール王へ連絡してくれ。本国への取り次ぎを頼みたい」
「承知いたしました」
シュタインフェルト王国から第78へ、正式な連絡が送られた。
それを受けた第78から、さらにアルデバラン本国へ。
隣国シュタインフェルトの国王が、本国への訪問を希望している。
その知らせが、オーキス王のもとへ届けられることになった。
アルデバラン王国王宮。
シュタインフェルト王国からの申し入れは、第78を経由して本国へ届けられた。
書面を手に、クレインがオーキスの執務室へ入る。
「陛下、第78から連絡が入りました」
「シュタインフェルトか?」
「はい。カイゼル・シュタインフェルト王より、正式な訪問の申し入れです」
オーキスが書面を受け取る。
「第78を見たばかりだろう?」
「その上で、本国も見たいとのことです」
「理由は?」
「第78は百三十国の一つに過ぎない。本国を見ずにアルデバランを判断するべきではない、と」
オーキスは書面から顔を上げた。
「なるほど」
他人から聞いた話だけでは判断しない。
自ら第78へ足を運び、それでも結論を急がなかった。
「ちゃんとした王様みたいだな」
「少なくとも、慎重な方ではあるようです」
「断る理由はないな」
「私もそう考えます」
「歓迎すると返事をしてくれ。日程は向こうの都合もあるだろうから、希望を聞いて調整しよう」
「承知いたしました」
クレインが書面を受け取る。
その時、執務室へアイクが入ってきた。
「失礼します」
「ちょうどいいところに来た」
オーキスが声を掛ける。
「シュタインフェルト王が本国へ来たいそうだ」
「カイゼル王が?」
「ああ。第78だけでは判断できないから、本国も見たいらしい」
アイクは僅かに考えた。
「訪問はいつ頃ですか?」
「これからクレインが調整する」
「でしたら、その前にシュタインフェルト王国の情報を更新しておきましょう」
クレインがアイクを見る。
「広域索敵を?」
「はい」
アイクは近くに控えていた騎士を呼んだ。
「騎士団へ伝えろ。シュタインフェルト王国を広域索敵で再調査する。映像記録も残せ」
「承知しました」
「王都、主要都市、農村、街道、国境、軍施設。産業、物流、市場、物価、治安、経済状態もだ」
騎士が指示を書き留めていく。
「民の暮らしも見ろ。食事、住居、仕事、街の様子。民がどの程度安定して暮らせているのか、幸福度も可能な限り調べろ」
「はい」
「周辺諸国との関係も洗い直せ。交易、対立、国境問題、軍事的緊張。シュタインフェルトが周辺諸国からどう見られているのかも必要だ」
アイクはそこで一度言葉を切った。
大陸の情勢を知らないわけではない。
これまでアルデバランは各地で大規模な救済を行ってきた。
アイク自身も司令官として、その中心にいた。
二十一億人もの人々を保護する過程で、各国の情勢も、群雄割拠する地域の勢力関係も見ている。
だが、それは救済を行うために必要だった情報だ。
今度は目的が違う。
「大まかな情勢は分かっている」
アイクが言った。
「今回必要なのは、シュタインフェルト王国そのものだ」
「はい」
「カイゼル王がどういう国を治めているのか。二千万の民がどのように暮らしているのか。既に持っている情報の解像度を上げろ」
「承知しました」
「知り得る限り全部だ。軍事だけに偏るな。一つの国家として調べろ」
「はい!」
騎士が一礼して退出した。
オーキスがアイクを見る。
「そこまで調べるのか?」
「国王を迎えるのです。相手の肩書だけ知っていればいいというものではないでしょう」
「まあ、そうだな」
「それに、陛下」
「何だ?」
「カイゼル王も同じことをしています」
オーキスが少し考え、笑った。
「第78を見たことか」
「はい。知らないまま判断せず、自分の目で見た。それでも足りないから、本国まで見ようとしている」
「なら、こっちも相手をちゃんと見ておくか」
「その方がよろしいかと」
クレインが書面を手に立ち上がる。
「では私は返答を送ります。訪問を歓迎する旨と、日程の調整について第78を通じてシュタインフェルト側へ」
「ああ、頼む」
「承知いたしました」
クレインが執務室を出ていく。
アイクも騎士団へ詳細な指示を出すため、その後に続いた。
訪問を受け入れる準備と、相手を知るための調査。
二つが同時に動き始めた。
シュタインフェルト王国。
人口二千万を抱える武の国。
既に知っているその名前を、今度は一つの国家として見る。
アルデバラン側もまた、カイゼルを迎える前に動き始めていた。
騎士団はすぐに動いた。
シュタインフェルト王国は未知の国ではない。
人口約二千万。
武を重んじ、強力な騎士団を持つ王国。
アイク自身、二十一億人の保護を指揮した過程で、この地域の情勢は把握していた。
今回必要なのは、新しい国を調べることではない。
シュタインフェルトという一国について、解像度を上げることだった。
広域索敵によって得られた映像と情報が王宮へ集められた。
王都、地方都市、農村、街道、市場、工房、国境。
産業、物流、物価、治安、税、民の暮らし。
翌日。
アイクは整理された映像を見るため、騎士団の一室へ入った。
「始めてくれ」
「はい」
最初に映ったのは王都だった。
石造りの建物が並び、荷馬車が行き交っている。
市場には穀物、野菜、肉、日用品が並び、人の往来も多い。
「経済状態は?」
「裕福とは言えません。しかし、貧しくもありません。食料や生活必需品は安定して流通しています」
「地方は?」
「大きくは変わりません。地域差はありますが、大規模な飢餓や極端に困窮した地域は確認できません」
「民は?」
「王家への信頼は高いものがあります。特に国境地域では、騎士団に対する信頼は相当に高いです」
「理由は?」
「こちらをご覧ください」
映像が切り替わった。
街道を人の群れが埋め尽くしていた。
先頭から後方まで、武器を持った者が延々と続いている。
「何人だ?」
「この集団は約八千です」
剣、槍、弓。
鎧を身につけた者も多い。
装備は統一されていないが、動きを見れば素人ではない。
「旧騎士か」
「旧騎士、旧兵士、剣士、傭兵が中心です」
別の映像へ切り替わった。
さらに大きな集団だった。
「こちらは?」
「約二万三千です」
アイクの表情が険しくなる。
痩せた者が多い。
鎧は傷み、衣服も汚れている。
それでも武器だけは手放していなかった。
「食料は?」
「ほとんど残っていません」
「そうか」
アイクには事情が分かった。
清算された国は百を超えている。
国がなくなれば、王や貴族だけが地位を失うわけではない。
軍も騎士団も消える。
俸給も配給も止まる。
昨日まで国に仕えていた騎士や兵士が、突然、自分で食べるものを探さなければならなくなる。
武器を置き、新しい土地で生活を始めた者も大勢いる。
教導を受け、新しい仕事を得た者もいる。
だが、そこへ辿り着けなかった者も相当数いた。
情報を得られなかった者。
行き場を失った者。
剣を振ること以外に生きる方法を知らない者。
そして、食べなければ死ぬ。
「最初から略奪を目的に集まったわけではないのだな」
「はい。食料を求めて移動しているうちに集団が膨らんだ例も確認されています」
数十人なら、どこかで食料を得られるかもしれない。
だが数千人、数万人となれば違う。
一日に必要な食料だけでも膨大になる。
周辺の疲弊した土地に、それだけの人間を養う余力はなかった。
だから移動する。
まだ食料がある場所へ。
市場が動いている場所へ。
畑に作物がある場所へ。
その先に、シュタインフェルトがあった。
映像の中で騎士団が国境に展開する。
武装集団も止まった。
退けば飢える。
進めば騎士団がいる。
それでも彼らは武器を構えた。
「来るか」
「はい」
数千の人間が走り出した。
死にもの狂いだった。
一人が倒れても止まらない。
槍を失えば剣を抜き、剣を落としても前へ進もうとする。
生きるためだった。
だが、シュタインフェルト騎士団も退けない。
その後ろには町がある。
農村がある。
二千万の民の生活がある。
正面で受け止め、左右から包み、突破しようとする者を押し戻す。
相手にも実戦経験を持つ者が多い。
それでも騎士団の陣形は崩れなかった。
「強いな」
「はい。練度は相当に高いです」
やがて武装集団は制圧された。
映像が変わる。
国境の町を巡回する騎士たちへ、住民が声を掛けている。
商人が笑い、子供が手を振る。
「これなら信頼されるな」
「はい。自分たちの暮らしを実際に守っている者たちですから」
残っている周辺諸国も疲弊している。
国家としてシュタインフェルトへ攻め込める余力を持つ国はない。
今、国境を脅かしているのは国家ではなかった。
百を超える国が清算された後に残された、大量の武装した人間たちだった。
「裕福ではない。だが貧しくもない」
アイクが呟く。
強い。
そして、その強さを民を守るために使っている。
だから民から信頼されている。
武の国という一言だけでは見えなかったシュタインフェルトの姿が、ようやく形を持ち始めていた。
「次はカイゼル王の統治を見よう」
映像が切り替わった。
王都の王宮。
華美ではない。堅牢な石造りの建物で、城壁や門にも武の国らしさが表れている。
「統治に問題は?」
「大きな問題は確認できません」
騎士が資料を開く。
「軍事に偏っている様子もありません。農業、商業、治安、街道整備にも継続して予算が使われています」
「余裕のある国ではないはずだが」
「はい。軍の維持にも相当な費用が必要です。その上で民政を維持しています」
アイクは頷いた。
国境には数千、時には数万の武装集団が押し寄せる。
騎士団を弱体化させることはできない。
だからといって軍だけに金を注げば、国の内側が痩せる。
二千万の民を食べさせ、働く場所を維持し、街道を整え、物資を流しながら国境を守る。
映像が市場へ切り替わった。
商人が声を上げ、客が品物を選んでいる。
次は農村。
畑では農民が働いていた。
さらに工房。
鍛冶師が鉄を打ち、職人たちが品物を作っている。
豊かな国ではない。
だが、暮らしは回っていた。
「民の反応は?」
「王家への信頼は高いです。騎士団への信頼も同様です」
「不満はないのか?」
「あります。税への不満、物価、街道の補修、商売上の問題など、地域によって様々です」
アイクが少し笑った。
「それはあるだろう」
不満がない国などない。
重要なのは、不満があることと国そのものを否定することは別だということだった。
「王家に対する反乱や謀反の兆候は?」
「確認できません」
「貴族は?」
「同様です。反乱を企図している勢力は確認できません」
「そうか」
それ以上聞く必要はなかった。
百を超える国が清算され、その外では旧騎士や旧兵士が食料を求めて彷徨っている。
残った周辺国も疲弊していた。
その状況を知りながら、自分たちの国を内側から壊す理由などない。
食料が流通している。
仕事がある。
街道が使える。
騎士団が国境を守っている。
二千万の民が自分の家で暮らしている。
それを維持している王家を倒したところで、暮らしが良くなるわけではなかった。
「周辺との関係は?」
「こちらです」
大陸の地図が表示された。
清算された国々の領域が広範囲に存在し、その周囲に疲弊した国家が残っている。
「シュタインフェルトからの侵攻は?」
「確認できません」
「清算された土地への進駐は?」
「ありません」
アイクが地図を見る。
軍事力だけなら、奪える土地はいくらでもある。
疲弊した国の中には、シュタインフェルトと正面から戦えるだけの力を失ったところも少なくない。
それでも国境線は動いていなかった。
「武の国が、これだけ力の差があっても動かないか」
「はい」
「理由は?」
「そこまでは確認できません」
「それでいい。カイゼル王本人に聞かなければ分からないことまで推測する必要はない」
分かるのは行動だけだ。
弱った国へ攻め込んでいない。
清算された土地を奪っていない。
国境へ押し寄せる武装集団は止めている。
国内の生産と流通を維持している。
「民の幸福度は?」
「高いと判断できます。この国で暮らし続けたいと考えている民が多いことも確認できました」
アイクは市場の映像を見た。
商品を売る商人。
荷車を引く男。
子供の手を引く母親。
巡回する騎士に声を掛ける老人。
裕福ではない。
だが、貧しくもない。
そして日常が壊れていない。
「強い国だな」
軍が強いという意味だけではなかった。
周囲が崩れても、自分たちの暮らしを維持している。
力を持ちながら、弱った隣国へ手を伸ばさない。
民も貴族も、自分たちの国を支えている。
アイクが立ち上がった。
「まとめてくれ。クレイン宰相へ報告する。陛下にもご覧いただくことになるだろう」
「承知しました」
アイクは最後にもう一度、シュタインフェルトの地図を見た。
昨日まで知っていたのは、大陸情勢の中にある一つの武の国だった。
今は違う。
二千万の民が暮らし、その暮らしを守るために強さを使っている国。
その国を治める王が、アルデバランを自分の目で確かめようとしている。
ならばこちらも、相手を知らずに迎えるわけにはいかなかった。




