237 ロルフ
アリサの案内で、一行は一軒の店の前に着いた。
「ここです」
カイゼルが店を見る。
特別に大きな店ではない。
王侯貴族を迎えるような格式のある料理店でもなかった。
第78の町にある、ごく普通の飲食店だった。
「ここにロルフがいるのか?」
「はい。ロルフさんのお店です」
「自分の店なのか」
カイゼルが僅かに眉を上げた。
アリッサから聞いていた。
元奴隷の男。
第78で救済され、教導を受け、今は料理人として暮らしている。
だが、話で聞くことと実際に見ることは違う。
「入ろう」
一行が店へ入った。
「いらっしゃいませ」
声をかけたロルフが、アリサに気づいた。
続いて、その隣にいるアリッサを見る。
「アリッサさん」
「こんにちは」
「戻ってきたんですね」
「はい」
ロルフの表情が少し緩んだ。
だが、すぐに後ろにいる一行へ気づく。
見慣れない者ばかりだった。
服装を見ても、普通の客ではないことくらいは分かる。
アリサが紹介する。
「シュタインフェルト王国から来られた方々です。こちらがカイゼル・シュタインフェルト国王陛下」
ロルフの動きが止まった。
「……国王陛下?」
「ああ」
カイゼルが答える。
ロルフは慌てて姿勢を正した。
「し、失礼いたしました」
「構わない。食事をいただきたい」
「はい」
返事はした。
だが、明らかに緊張している。
外国とはいえ、自分の店に国王が来たのだ。
ロルフは一度息を整えた。
「何になさいますか?」
声は少し硬い。
アリサが品書きを見る。
「今日はレッサードラゴンステーキがあるんですね」
「はい」
カイゼルが聞き返した。
「レッサードラゴン?」
「美味しいですよ」
アリサが答える。
アリッサも頷いた。
「私も食べました」
「そうなのか」
カイゼルはもう一度品書きを見た。
「ならば、それをもらおう」
「はい」
アイゼルたちも同じ料理を頼む。
注文を受けたロルフは厨房へ戻った。
肉を用意する。
切り分ける。
焼く。
国王がいる。
そう考えれば手が固くなりそうになる。
だが、目の前にあるのはいつも扱っている肉だった。
焼き加減を見る。
味を整える。
皿へ盛る。
料理を始めてしまえば、やることは普段と変わらない。
ローゼンクランツ公爵アイゼルは、その様子を黙って見ていた。
元奴隷。
娘からそう聞いている。
しかし、目の前にいる男から過去を知ることはできなかった。
厨房に立っている姿は、ただの料理人だった。
自分の店がある。
自分で料理を作る。
客に出す。
それで生活している。
しばらくして、香ばしい匂いが店内へ広がった。
ロルフが皿を運んでくる。
「お待たせしました。レッサードラゴンステーキです」
厚く切られた肉が皿に載っていた。
カイゼルがナイフを入れる。
一口食べる。
「うまい」
ロルフの表情が僅かに緩んだ。
「ありがとうございます」
アイゼルも肉を口へ運ぶ。
確かに美味い。
軍務卿も黙って食べている。
カイゼルがロルフを見る。
「料理人になって長いのか?」
「いいえ。ここへ来てからです」
「ここへ来てから?」
「はい」
ロルフはそれだけ答えた。
カイゼルも、それ以上は聞かなかった。
元奴隷だったことはアリッサから聞いている。
過去を本人に語らせるために来たわけではない。
今、目の前にいるロルフを見ればいい。
救済された人間が料理を覚え、自分の店で客に料理を出している。
三十五億という数字では見えなかったものが、ここには一人の人間として存在していた。
そしてアイゼルは、カイゼルとは少し違う目でロルフを見ていた。
元奴隷だからではない。
料理人だからでもない。
もっと単純な理由だった。
娘が気になっている男。
父親としては、どうしても気になる。
アイゼルが隣を見る。
アリッサは何事もないようにステーキを食べている。
ロルフが近くを通った時だけ、その視線が僅かに動いた。
アイゼルは何も言わなかった。
今は公務の途中である。
ただ、ロルフを見る理由が、カイゼルとは一つだけ違っていた。
カイゼルはもう一口、レッサードラゴンステーキを食べた。
肉は柔らかく、噛むほどに旨味が広がる。
「ドラゴンの肉とは、もっと硬いものだと思っていた」
「部位によります」
ロルフが答えた。
「これはステーキに向いているところを使っています」
「なるほど」
先ほどまでの硬さが、ロルフの声から少し消えていた。
料理について聞かれれば答えられる。
相手が国王であっても、料理人として知っていることに変わりはない。
軍務卿も肉を切りながら尋ねる。
「焼くのは難しいのか?」
「普通の肉より火加減には気をつけます。でも、何度も焼いていれば分かるようになります」
「失敗もしたか?」
「最初は何度も」
ロルフが苦笑する。
「焼きすぎたり、逆に火が足りなかったりしました」
「それで今はこれか」
「はい」
軍務卿はもう一切れ食べた。
「大したものだ」
「ありがとうございます」
ロルフが頭を下げる。
カイゼルはそのやり取りを聞いていた。
教導を受けたから、突然料理人になったわけではない。
覚えた。
失敗した。
繰り返した。
そして客に出せる料理を作れるようになった。
目の前の一皿だけでも、それくらいは分かる。
「店は繁盛しているのか?」
カイゼルが尋ねた。
「おかげさまで」
ロルフは店内を見る。
「来てくださるお客さんも増えました」
「自分の料理を食べてもらえるのは嬉しいか?」
「はい」
今度の返事は早かった。
「美味しかったと言ってもらえると、やっぱり嬉しいです」
ロルフが笑った。
カイゼルも僅かに笑う。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
元奴隷だった男に、過去がどれほど辛かったのかを尋ねる必要はない。
今の顔を見ればいい。
自分の仕事を持っている。
自分で作った料理を客が喜ぶことを嬉しいと思っている。
カイゼルには、それで十分だった。
一方、アイゼルは別のところを見ていた。
ロルフがアリッサの近くへ来る。
「焼き加減、大丈夫でしたか?」
「はい。美味しいです」
「よかった」
短いやり取りだった。
ロルフはそれだけ言うと、他の客のところへ向かう。
アリッサも呼び止めない。
特別な会話など何もない。
だが、アイゼルは娘の表情を知っている。
ロルフが離れた後、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。
「アリッサ」
「はい」
「美味いか?」
「美味しいですよ」
「そうか」
アイゼルもステーキを食べる。
アリッサが父を見る。
「何ですか?」
「何も言っていないだろう」
「顔が何か言っています」
「気のせいだ」
アリッサは疑わしそうに見たが、それ以上は言わなかった。
公務の途中である。
アイゼルも娘をからかうつもりはなかった。
ただ、父親としてロルフを見ている。
仕事ぶり。
客への態度。
国王を前にした時の振る舞い。
緊張はしていた。
それでも、自分の仕事から逃げなかった。
料理を始めれば手を動かし、客に出し、聞かれたことには自分の言葉で答えている。
少なくとも、真面目に働く男ではあるらしい。
「公爵閣下」
突然ロルフに呼ばれ、アイゼルが顔を上げた。
「何だ?」
「お口に合いませんでしたか?」
「なぜそう思う?」
「先ほどから、あまり料理を見ておられないので」
アイゼルが一瞬黙った。
隣でアリッサが俯く。
笑いを堪えているのが分かった。
「いや、美味い」
「よかったです」
ロルフは安心したように厨房へ戻っていく。
カイゼルがアイゼルを見る。
「料理を見ずに何を見ていた?」
「陛下」
「何だ?」
「ステーキが冷めます」
「そうだな」
カイゼルは追及せず、肉を口へ運んだ。
アイゼルもようやく自分の皿へ視線を落とす。
アリッサはまだ少し笑っている。
「アリッサ」
「はい」
「何がおかしい?」
「何も」
今度は父親が娘に返される番だった。
店の中では、いつも通り客が料理を食べている。
外国の国王がいても、ロルフの仕事は変わらない。
注文を受け、料理を作り、客へ出す。
カイゼルはその姿を眺めながら、残っていたレッサードラゴンステーキをゆっくりと食べた。
食事が進むにつれて、ロルフもようやく国王がいる状況に慣れてきた。
もちろん意識していないわけではない。
カイゼルの皿が空けば気になるし、料理について何か聞かれれば普段より少し姿勢が固くなる。
それでも仕事はできていた。
「ごちそうさま」
最初に食べ終えたのはアリサだった。
「美味しかったです」
「ありがとうございます」
「前に食べた時より上手くなってません?」
「分かりますか?」
「分かりますよ」
ロルフが嬉しそうに笑った。
「焼き方を少し変えたんです」
「やっぱり」
二人の会話をカイゼルが聞いていた。
「今でも変えているのか?」
「はい」
ロルフが答える。
「もっと美味しくできそうなら試します。失敗することもありますけど」
「客に出す料理で試すのか?」
「それはしません」
即答だった。
「自分で食べて、大丈夫だったものだけ出します」
「そうか」
カイゼルは笑った。
「それなら安心だ」
ロルフも笑う。
最初に会った時の緊張した表情とは随分違っていた。
カイゼルは残っていた肉を食べ終え、ナイフとフォークを置いた。
「美味かった」
「ありがとうございます」
「アリッサから料理人だとは聞いていたが、これほどとは思わなかった」
ロルフがアリッサを見る。
「話したんですか?」
「少しだけです」
「そうだったんですね」
アリッサは平静に答えた。
アイゼルが娘を見る。
アリッサは気づいたが、何も言わない。
その代わり、視線だけで父親を牽制した。
アイゼルも黙ってステーキを食べ終える。
娘が気になっているらしい男。
それを抜きにしても、ロルフという人間には興味があった。
「ロルフ」
「はい」
「この店は一人でやっているのか?」
「いえ、手伝ってくれる人がいます」
「そうか」
「仕込みが多い日は一人では無理ですから」
アイゼルは頷いた。
店を持つということは、料理ができれば終わりではない。
材料を仕入れなければならない。
客を迎える。
代金を受け取る。
店を維持する。
必要なら人にも手伝ってもらう。
少なくとも、誰かに食わせてもらっている男ではない。
「何か?」
ロルフが尋ねた。
「いや。立派なものだと思ってな」
「ありがとうございます」
素直に頭を下げた。
アイゼルはそれ以上聞かなかった。
横を見ると、アリッサが少し驚いた顔をしている。
「何だ?」
「いえ」
「何か言いたそうだな」
「父上が普通に褒めたので」
「私を何だと思っている」
「父親です」
即答された。
アイゼルが黙る。
カイゼルが笑った。
「それは間違っていないな」
「陛下まで」
「娘の気になる男を見れば、父親なら気になるだろう」
アリッサの手が止まった。
「陛下」
「ん?」
「公務中です」
「そうだったな」
カイゼルは悪びれる様子もなく答えた。
今度はアイゼルが笑いを堪える側になった。
「父上も笑わないでください」
「私は何も言っていない」
「同じです」
ロルフだけが話についていけず、三人を順番に見ていた。
「何の話ですか?」
「気にしなくていい」
アイゼルが答えた。
「そうですか?」
「ああ」
アリッサも何も言わない。
ロルフは首を傾げながら空いた皿を下げ始めた。
カイゼルはその姿を見る。
今朝、アリッサから聞いた時には、元奴隷の料理人という言葉でしか知らなかった。
だが、実際に会えば違う。
料理について話せば笑う。
より美味しくしようと工夫する。
客に褒められれば喜ぶ。
自分の店を持ち、そこで働いている。
元奴隷というのはロルフの過去であって、今のロルフを表す言葉ではなかった。
「陛下」
軍務卿が食べ終えた皿を前にして言った。
「何だ?」
「先ほど酒は駄目だと仰いましたが」
「まだ言うのか」
「視察が終わった後なら構いませんな?」
カイゼルが呆れた顔をする。
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
「ここへ戻ってくるつもりか?」
「この料理なら、その価値はあります」
ロルフが笑った。
「お待ちしています」
国王も、公爵も、軍務卿もいる。
それでも食事が終わる頃には、そこにいるロルフはいつもの料理人に戻っていた。
カイゼルは立ち上がる。
元奴隷の料理人を見る。
その目的は、もう十分に果たしていた。
食事を終えたカイゼルは、最後に残っていた肉を口へ運んだ。
ゆっくり噛んでから飲み込み、満足そうに息を吐く。
「美味かった」
「確かにな」
アイゼルも頷いた。
軍務卿は空になった皿を見ている。
「レッサードラゴンがこれほど美味いとは思いませんでした」
「お前は途中から視察を忘れていただろう」
「食文化も立派な視察対象です」
「便利な言葉だな」
カイゼルが笑う。
アリッサも食事を終えていた。
ロルフは別の客へ料理を運んでいる。
満席ではないが、夕食には少し早い時間にもかかわらず客は途切れていない。
料理を出し、空いた皿を下げ、厨房へ戻る。
その繰り返しだった。
カイゼルはしばらくロルフを見ていた。
元奴隷。
アリッサからそう聞いていた。
だが、目の前にいる男を見ていると、その言葉は過去を示しているだけに思える。
今のロルフは料理人だった。
自分の店を持ち、自分で料理を作り、その料理を食べるために客が来る。
特別なことをしているようには見えない。
だからこそ分かりやすかった。
「陛下、そろそろ」
アイゼルが声をかける。
「ああ」
カイゼルが立ち上がった。
軍務卿も続く。
アリッサがアリサを見る。
「先生、ありがとうございました」
「私は案内しただけよ」
アリサが笑った。
そこへロルフが戻ってきた。
「もうお帰りですか?」
「ああ。世話になった」
カイゼルが答える。
ロルフは少し緊張しながら頭を下げた。
「ありがとうございました」
「こちらが礼を言うところだ。いい料理だった」
「ありがとうございます」
今度は料理人として素直に笑った。
アイゼルも声をかける。
「美味かった」
「ありがとうございます」
軍務卿も頷く。
「次はエールも頼む」
「ありますよ」
「そうか」
軍務卿が真顔になる。
「今度は私用で来る」
「好きにしろ」
カイゼルが呆れたように言った。
ロルフが笑う。
アリッサも小さく笑った。
その時、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
ロルフがいつものように声をかける。
入ってきた女性を見て、表情を緩めた。
「こんにちは、イメルダさん」
「こんにちは、ロルフ」
イメルダ・シュトラウス伯爵だった。
結婚斡旋ギルドの初代グランドマスターを務める彼女は、今日は一人で店を訪れたようだった。
ロルフとはすでに一緒に狩りへ出たこともある。
だからといって仕事中のロルフを呼び止めることはない。
短い挨拶を交わすだけで店内へ入る。
そして、そこにいるアリッサに気づいた。
「まあ、アリッサさん」
「イメルダさん」
アリッサも驚いたように目を見開いた。
「お戻りになったのね」
「はい」
今朝、二人はここ第78で会っている。
その後、アリッサはシュタインフェルト王国へ帰国した。
それが同じ日のうちに、再びここへ戻ってきている。
イメルダがカイゼルたちを見る。
アリッサはすぐに気づいた。
「ご紹介します。父のアイゼル・ローゼンクランツ公爵です」
イメルダは姿勢を整え、優雅に一礼した。
「お初にお目にかかります。イメルダ・シュトラウス伯爵でございます」
「アイゼル・ローゼンクランツだ」
アイゼルも礼を返す。
「今朝は娘が世話になったそうだな」
「少しお話をしただけでございます」
「その話を持って、娘は帰ってきた」
イメルダがアリッサを見る。
「それで、もう一度こちらへ?」
「はい」
アリッサが答える。
「帰国して父に報告しました」
それだけで、イメルダには事情の一端が分かった。
だが、アリッサの同行者は父親だけではない。
アリッサがカイゼルへ身体を向けた。
「こちらはシュタインフェルト王国国王、カイゼル・シュタインフェルト陛下です」
イメルダの表情が僅かに変わる。
すぐにカイゼルへ向き直り、伯爵として正式に礼を取った。
「お初にお目にかかります。イメルダ・シュトラウス伯爵でございます」
「カイゼル・シュタインフェルトだ」
「お目にかかれましたこと、光栄に存じます」
「楽にしてくれ。ここは王宮ではない」
「ありがとうございます」
イメルダが顔を上げる。
カイゼルは目の前の伯爵を見る。
「今朝、アリッサに話をしたのはシュトラウス伯爵だったのか」
「はい、陛下」
「そうか」
カイゼルは一度だけ頷いた。
「その話を聞いたアリッサが帰国した。それで私も、自分の目で隣国を見ることになった」
イメルダは少し驚いたようにアリッサを見る。
朝に交わした話が、その日のうちに国王を動かすところまで届いていた。
「そうでございましたか」
「ああ」
「私がお話ししたことがお役に立ったのでしたら、何よりでございます」
「十分に役立った」
カイゼルはそう答えた。
イメルダも静かに一礼する。
それ以上、誰も話を広げなかった。
ここはロルフの店であり、周囲では客が食事をしている。
ロルフも次の注文を受け、すでに厨房へ戻っていた。
イメルダも食事をするためにここへ来た。
偶然、朝に会ったアリッサと再び会い、その父と国王に挨拶をした。
それだけのことだった。




