233 カイゼル・シュタインフェルト王
王宮の謁見室で、カイゼル・シュタインフェルト王はローゼンクランツ公爵から大陸情勢についての報告を受けていた。
机上には何枚もの報告書と大陸地図が広げられている。
五十四カ国から保護された約十四億人。
さらに百を超える国家が清算され、その地域から保護されたと推測される約二十一億人。
現在確認されているアルデバラン王国は百三十。
総人口は、およそ三十五億人。
「数字については分かった」
カイゼルは資料を置いた。
「だが、数字だけでは国は見えんな」
「はい」
アイゼルが頷く。
「そこでアリッサを連れてまいりました。実際に第78アルデバラン王国で生活しております」
カイゼルの視線がアリッサへ向いた。
「アリッサ」
「はい、陛下」
「先ほどまで我々はアルデバランの能力について話していた。今度は別のことを聞きたい」
「何でしょうか」
「民は何を食べている?」
予想していなかった質問だった。
アリッサは一瞬だけ目を瞬かせる。
「食事、でしょうか?」
「そうだ。王や騎士が何を食べているかではない。普通に暮らしている者たちだ」
「豊かでした」
「具体的に」
アリッサは第78で見たものを思い返した。
「肉も魚も野菜もありました。パンもあります。料理を売る店も多く、品数も豊富でした」
「値段は?」
「むしろ安価だと感じました」
「貧しい者には手が出ない、ということは?」
「少なくとも、私が見た範囲では、そのような印象はありませんでした」
カイゼルは次の質問をする。
「市場は?」
「賑わっていました」
「物が不足していた店は?」
「見ませんでした」
「行列は?」
「特には」
「配給で食わせているわけではないのだな?」
「私が見た範囲では違います。普通に店で買っていました」
カイゼルは小さく頷いた。
軍隊の数を聞くより、はるかに重要な情報だった。
「治安は?」
「良かったです」
「兵士が多いからか?」
アリッサは考えてから首を横に振った。
「そういう印象ではありません」
「では、何が治安を守っている?」
「冒険者もいますし、警備をしている人もいました。ただ……」
「ただ?」
「皆、自分で身を守れます」
カイゼルの目が細くなった。
「教導か」
「はい」
六属性魔法。
索敵。
鑑定。
飛行。
捕縛。
治癒。
それらを持つ者が特別な兵士として存在するのではない。
普通に暮らしている。
「人々はアルデバラン王国を恐れていたか?」
「いいえ」
今度は即答だった。
「本当に?」
「少なくとも私には、そうは見えませんでした」
「三十五億人を抱える巨大な国家群だ。王や役人を恐れて口を閉ざしている可能性は?」
「それも感じませんでした」
「なぜそう思う?」
アリッサは少し考えた。
「普通だったからです」
「普通?」
「はい。働いて、買い物をして、食べて、話していました。王国に怯えながら暮らしている人々には見えませんでした」
カイゼルは黙って聞いている。
「元奴隷は?」
アリッサの表情が僅かに変わった。
「おります」
「どう扱われている?」
「普通に暮らしています」
「保護施設のような場所に集められているのか?」
「いいえ」
「王国から仕事を与えられている?」
「そういう者もいるかもしれませんが、私がよく知っている者は違います」
「誰だ?」
「ロルフです」
アイゼルが娘を見る。
カイゼルも、その名前には聞き覚えがあった。
「先ほど話していた料理人か」
「はい」
「元奴隷だったな?」
「はい」
「今は?」
アリッサは答えた。
「料理人として、自分の店で働いております」
カイゼルの動きが止まった。
「自分の店?」
「はい」
「国営の食堂ではないのか?」
「違います」
「誰かに命じられて料理をしているわけでもない?」
「違います。自分で料理を作って、お客に出しています」
「客から金を受け取る?」
「もちろんです」
カイゼルは椅子へ深く座り直した。
「元奴隷が、店を持って商売をしている」
「はい」
「それを誰もおかしいと思わない?」
アリッサは第78での日々を思い返した。
「少なくとも、私はそのことでロルフが何か言われているところを見ませんでした」
カイゼルはアイゼルへ視線を移す。
「これは大きいぞ」
「私もそう思います」
三十五億という数字よりも。
六属性魔法よりも。
レッサードラゴン五十体を狩れる力よりも。
元奴隷だった一人の男が、自分の店で料理を作り、客から代金を受け取って暮らしている。
その事実の方が、国の姿を雄弁に語っていた。
「保護しただけではない」
カイゼルが呟く。
「はい」
「教導しただけでもない」
アリッサは黙って王を見る。
「その後に、自分の人生へ戻している」
ロルフはアルデバランの兵士ではない。
役人でもない。
誰かに養われ続けているわけでもない。
料理人だった。
ただ、自分の料理を作って暮らしている。
カイゼルが静かに息を吐いた。
「なるほど」
アルデバランを見るなら、軍隊ではない。
王宮でもない。
「見るべきは、こういう男なのだろうな」
その一言に、アリッサは素直に頷いた。
カイゼルは、しばらくロルフについて考えていた。
「アリッサ。その男は今の生活を誰かに与えられたのか?」
「与えられた、という意味によります」
「店も仕事も王国が用意したのではないのか?」
「違います。ロルフは料理人です。料理が好きで、自分で料理を作っています」
「教導を受ける前から?」
「はい」
カイゼルは僅かに眉を上げた。
「では、アルデバランは料理人にしたわけではない?」
「違います」
アリッサははっきり答えた。
「ロルフは元から料理人です」
「なるほど」
アイゼルがその意味に気づいた。
「教導で新しい生き方を押しつけたのではなく、元々持っていたものを捨てさせなかったのか」
「そうだな」
カイゼルが頷いた。
「奴隷だった者を保護し、強力な魔法を教えた。それなら我々は、その力を国のために使わせようと考える」
軍務卿なら兵士として欲しがるだろう。
土魔法を使えるなら工兵。
治癒が使えるなら衛生兵。
索敵が使えるなら斥候。
飛行までできれば、なおさら手放したくない。
だが、ロルフは料理をしている。
「陛下。ロルフはレッサードラゴン五十体を、私と一緒に狩っています」
「ああ」
「それでも料理人です」
カイゼルが笑った。
「そこが面白い」
「面白い、ですか?」
「それほどの力を持つ者を、料理人のままにしておける国ということだ」
アリッサは少し考えてから頷いた。
「本人も、戦士になったとは思っていないはずです」
「だろうな」
カイゼルは机を指先で軽く叩いた。
「では、元奴隷だった者は皆、ロルフのように暮らしているのか?」
「そこまでは分かりません」
アリッサは首を横に振った。
「私が第78で見た範囲しかお答えできません」
「それでいい。見ていないものまで答える必要はない」
「はい」
「では、見た範囲でいい。元奴隷だった者と、そうでない者を見分けられたか?」
アリッサは答えようとして、止まった。
思い返す。
市場。
店。
街を歩く人々。
働く者たち。
「……分かりませんでした」
「服装で?」
「分かりません」
「住む場所で?」
「分かりません」
「仕事で?」
「それも」
カイゼルがアイゼルを見る。
「これも大きいな」
「はい」
奴隷から解放した。
それだけなら珍しい話ではない。
だが、解放された者がいつまでも「元奴隷」という集団として扱われるなら、身分が消えたとは言い難い。
「ロルフを紹介された時、お前は元奴隷だと聞いたのか?」
「後から知りました」
「最初に見た時は?」
「料理人だと思いました」
「それだけか?」
「はい」
カイゼルは静かに頷いた。
「それで十分だ」
アリッサには、その言葉の意味がすぐには分からなかった。
アイゼルが代わりに言う。
「元奴隷のロルフではなく、料理人のロルフとして見たということだ」
「あ……」
アリッサにも分かった。
自分は第78で、ロルフの過去を先に見ていなかった。
料理をする男。
少し変わった料理人。
一緒にレッサードラゴンを狩った男。
イメルダに散々からかわれた相手。
それが先だった。
「アルデバランの者たちも同じでした」
「何がだ?」
「ロルフが元奴隷だからという理由で、特別に扱っているようには見えませんでした」
「哀れんでもいない?」
「少なくとも私は見ていません」
「蔑んでもいない」
「はい」
「英雄扱いも?」
「していません」
カイゼルが笑った。
「本当に料理人なのだな」
「はい。料理人です」
今度はアリッサも笑った。
それが妙に可笑しかった。
レッサードラゴン五十体を同時に狩れる。
六属性魔法も使える。
飛行も索敵も鑑定もできる。
それでもロルフを説明する言葉は、料理人だった。
「アリッサ」
「はい」
「お前は第78で、王を見たか?」
「いいえ」
「高位貴族は?」
「身分を確認しておりませんので、分かりません」
「では王国について、誰から説明を受けた?」
アリッサは考えた。
「特に……誰かから詳しく説明された記憶はありません」
「それなのに、お前は第78が豊かで、治安が良く、人々が怯えていないと判断した」
「はい」
「なぜだ?」
今度は答えられた。
「見れば分かったからです」
市場に物がある。
料理を買える。
人々が働いている。
元奴隷だった料理人が自分の店を持っている。
誰もそれを不思議に思わない。
「なるほどな」
カイゼルは大陸地図ではなく、アリッサを見た。
「国を知るのに、王を見る必要はないのかもしれんな」
アイゼルも頷いた。
「民を見れば分かることもあります」
「ああ」
三十五億人。
百三十のアルデバラン王国。
その巨大さばかりに目を奪われていた。
だが、カイゼルが知りたいものは、次第にはっきりしていた。
「視察では市場へ行こう」
アリッサが目を瞬いた。
「市場ですか?」
「ああ。それから食堂だ」
「王宮ではなく?」
「王宮も必要なら見る」
カイゼルは笑った。
「だが最初に見たいのは、王がどう暮らしているかではない」
その国で普通に生きる者が、何を食べ、何を買い、何を仕事にしているのか。
「三十五億人の暮らしを見に行く」
それが、シュタインフェルト王の視察目的になっていた。
カイゼルは視察について話を進める前に、もう一つ確認しておきたいことがあった。
「アリッサ。第78では税について何か聞いたか?」
「税、ですか?」
「ああ。市場に品物が豊富で、食事も安い。それだけでは民の暮らしが豊かだとは判断できん。稼いだ後に大半を持っていかれるなら同じことだ」
アリッサは記憶を探った。
「税率までは確認しておりません」
「それでいい。知らないことは知らないと答えろ」
「はい」
「では、金に困っている者は見たか?」
「少なくとも、私が見た範囲では」
「物乞いは?」
「見ていません」
「食事を買えずにいる者は?」
「それも見ませんでした」
「働いている者の様子は?」
「普通でした」
カイゼルが少し笑う。
「また普通か」
「申し訳ありません。ですが、本当にそうとしか……」
「いや。それが聞きたい」
王が求めているのは制度の説明ではなかった。
アリッサが実際に何を見たか。
それだけだった。
「店の主人は客に怯えていたか?」
「いいえ」
「役人が来れば態度を変えた?」
「そのような場面は見ていません」
「兵士が商品を持っていくことは?」
「ありませんでした」
「代金を払わずに?」
「見ていません」
アイゼルが静かに聞いていた。
娘の答えはどれも派手ではない。
だが、だからこそ意味がある。
「ロルフの店は繁盛していたか?」
「はい」
その質問にはアリッサも迷わなかった。
「料理は美味かった?」
「美味しかったです」
「値段は?」
「安いと思いました」
「それで商売になるのか?」
「なっていました」
カイゼルが腕を組む。
「食材が安い?」
「それもあると思います。市場には肉も野菜も豊富にありました」
「魔物の肉も?」
「はい」
「自分で狩れば仕入れ代すら減るな」
軍務卿の言葉に、アリッサが頷いた。
「ロルフならできます」
「料理人が自分でレッサードラゴンを狩ってくる国か」
軍務卿が苦笑する。
「商人泣かせだな」
「でも、ロルフは市場でも食材を買っていました」
「なぜだ? 自分で狩れるのだろう?」
「必要なものを全部、自分で用意する必要はないからだと思います」
カイゼルがアリッサを見る。
「なるほど」
狩れるから狩る。
作れるから作る。
それだけでは社会にならない。
自分にできることが増えても、他人の仕事が不要になるわけではない。
「野菜を作る者がいる。売る者がいる。料理する者がいる。そして食べる者がいる」
「はい」
「教導を受けても、それは変わらないのか」
アリッサは少し考えた。
「むしろ、できることが増えているだけだと思います」
「どういうことだ?」
「ロルフは料理人です。でも、魔物が出れば自分で対処できます。怪我をすればヒールバレットが使えます。汚れればピュリフィケーションバレットが使えます」
「だからといって、農家になるわけではない」
「はい」
「兵士にもならない」
「はい」
カイゼルは小さく頷いた。
「教導は職業を変えるものではないのか」
アイゼルが言葉を継ぐ。
「その職業のまま、生きるためにできることを増やしている?」
「私が見た限りでは、そう思います」
アリッサの答えに、カイゼルはしばらく黙った。
三十五億人が教導済み。
その情報を最初に聞いた時、誰もが戦力を考えた。
六属性を使える者が三十五億人。
飛行できる者が三十五億人。
索敵できる者が三十五億人。
だが、それだけではなかった。
「農民は農民のままかもしれん」
「はい」
「商人は商人のまま」
「おそらく」
「料理人は料理人のまま」
「ロルフはそうです」
軍務卿が笑った。
「戦争になれば、その料理人にすら勝てんかもしれんがな」
「そこが重要なのだろう」
カイゼルが答えた。
「戦える者が多いからといって、戦う者が多いとは限らない」
軍務卿の笑みが消えた。
「なるほど」
「我々は三十五億という数字を見て、三十五億の兵士を想像した」
「はい」
「だが実際には、三十五億の生活者なのかもしれん」
その言葉に、誰も反論しなかった。
農地を耕す者。
物を作る者。
商品を運ぶ者。
店を開く者。
料理を作る者。
子を育てる者。
その一人一人が、自分を守る力も持っている。
「軍事力という言葉だけでは測れんな」
アイゼルが呟いた。
「ああ」
カイゼルは地図を見る。
「軍隊が強い国なら理解できる」
だが、アルデバランは違うのかもしれない。
民を兵士にしたのではない。
民のまま、できることを増やした。
「アリッサ」
「はい」
「第78へ行ったら、まずロルフの店へ案内してくれ」
「ロルフの店へ?」
「ああ」
カイゼルは笑った。
「三十五億人の国を知るなら、王宮より料理人の店から始めるのも悪くない」
アリッサは少し驚いた後、頷いた。
「分かりました」
王が最初に会おうとしている相手は、王でも貴族でも将軍でもない。
元奴隷だった、一人の料理人。
だが今のカイゼルには、それが最もアルデバランを知ることのできる場所に思えていた。
カイゼルは、もう一度アリッサへ視線を向けた。
「最後に確認しておきたい。お前は第78で、外国人として不自由を感じたことはあったか?」
「ありません」
「外国人だからという理由で、何かを断られたことは?」
「ありませんでした」
「冒険者ギルドでは?」
「普通に依頼を受けられました」
「市場では?」
「普通に買い物ができました」
「そして教導も受けた」
「はい」
軍務卿が首を振った。
「我が国なら考えられません」
カイゼルが軍務卿を見る。
「そこまでか?」
「陛下。普通の魔法使いが扱える属性は一つです。二属性を扱える者でも珍しい。三属性なら天才と呼んで差し支えありません」
アイゼルが続けた。
「四属性ともなれば異常です。五属性以上など、実際に目の前で見せられなければ信じないでしょう」
「そしてアリッサは六属性か」
「はい」
軍務卿の視線がアリッサへ向いた。
「六属性すべてを無詠唱で扱う。しかも魔力循環と魔力吸収によって、実質的に魔力切れを起こさない」
「はい」
「飛行、索敵、鑑定、テレパシー、テレキネシス。身体強化と筋肉強化。剣と槍まで扱える」
「教導を受けて身につけました」
「一人いるだけでも国を挙げて秘匿する」
軍務卿は断言した。
「その育成方法まで分かっているなら、間違いなく国家最高機密です」
アイゼルも頷く。
「ですが、娘はそれを教わった」
「外国から来たCランク冒険者として、です」
アリッサが付け加えた。
カイゼルが確認する。
「身分を明かしていなかったのだな?」
「はい」
「それでも教導を受けられた」
「はい」
「アルデバランへ忠誠を誓えと?」
「言われていません」
「帰国を禁じられた?」
「いいえ」
「習得した能力を国外で使うなとも?」
「何も」
軍務卿が額に手を当てた。
「……理解できん」
それは当然だった。
シュタインフェルト王国の常識に照らせば、一人の六属性魔法使いを生み出す方法だけでも国家の勢力図を変えかねない。
それを外国人へ教える。
しかも、引き留めない。
「だが、結果なら目の前にある」
カイゼルが言った。
「アリッサだ」
軍務卿が顔を上げた。
「アルデバランから見れば、教導済みの人間が一人国外へ出た」
「はい」
「そしてシュタインフェルトには一人増えた」
アイゼルの目が僅かに動く。
「陛下……」
「事実だけを見よう」
カイゼルはアリッサへ尋ねた。
「帰国してから、お前は教導で得たものを何に使った?」
「報告に使いました」
「それだけか?」
アリッサは考えた。
父の前で能力を実演した。
ヴォルガについて考えた。
二十一億人をどう保護したのか推測した。
食料をどう確保するのか。
人をどう探すのか。
その後、どう自立させるのか。
「……考えるためにも使いました」
「どういうことだ?」
「以前の私なら、ヴォルガが緑豊かな土地になったと聞けば、特別な魔法が使われたのだと思ったかもしれません」
アイゼルが娘を見る。
「今は?」
「自分でもできると思いました」
「砂漠を緑にすることを?」
「一人では時間がかかります。でも土魔法で天地返しをして、水魔法で散水する。ヒールバレットとピュリフィケーションバレットを使う。それを大勢で繰り返せばいい」
「二十一億人の食料についてもか」
「はい。森で狩れば当面は凌げます。索敵で獲物を探し、鑑定で食用にできるか確認する。ゴブリンでもピュリフィケーションバレットを使えば食料にはできます」
「人を探す時にも索敵と鑑定を使える」
「はい」
カイゼルは静かに頷いた。
アリッサが持ち帰ったものは、六属性魔法だけではない。
飛行や索敵だけでもない。
得た能力をどう使えば目の前の問題を解決できるのか。
それを考える材料まで持ち帰っていた。
しかも、アリッサが帰国したのは今日だった。
情報量があまりにも多いため、長い時間が経ったようにすら感じる。
だが、まだ一日も経っていない。
それでもシュタインフェルト王国上層部のアルデバランに対する認識は、すでに大きく変わっていた。
「陛下」
アイゼルが口を開く。
「視察の日程を決めましょう」
「ああ」
「護衛はいかがいたしましょう」
軍務卿の問いに、カイゼルは即答した。
「必要最低限でいい」
「しかし、陛下御自ら向かわれるのであれば」
「アリッサ一人に、我が国の騎士が何人いれば勝てる?」
「それは……」
軍務卿は答えられなかった。
「百人なら安全か?」
「分かりません」
「千人なら?」
沈黙が答えだった。
「ならば同じだ」
カイゼルは淡々と言った。
「三十五億人が教導済みだという国へ、護衛を百人、千人と増やして何になる」
「確かに」
「それに我々は戦争をしに行くのではない」
アイゼルも頷く。
「大人数の武装集団で入れば、視察の目的そのものが変わってしまいます」
「少数で編成いたします」
「頼む」
カイゼルは立ち上がり、大陸地図の前へ移動した。
「王宮を見る必要があるなら見る。役人とも話そう」
「はい」
「だが、それだけでは意味がない」
市場。
食堂。
農地。
工房。
商店。
そこで働き、買い、食べ、暮らしている者たち。
「そしてロルフの店だ」
アリッサが少し笑った。
「陛下は随分とロルフに興味を持たれましたね」
「元奴隷だからではないぞ」
「では、なぜです?」
「料理人だからだ」
カイゼルは当然のように答えた。
「六属性を使い、飛行し、索敵し、お前と一緒にレッサードラゴン五十体を狩れる。それでも料理人として自分の店で働いている」
カイゼルは地図から視線を外した。
「私はアルデバランの特別な者を見たいのではない」
三十五億人という数字を作っているのは、一握りの英雄ではない。
「普通に暮らしている者を見たい」
アリッサは静かに頷いた。
カイゼル・シュタインフェルト王が知ろうとしているのは、アルデバランがどれほど強い国なのかではない。
三十五億人が、どのように生きているのか。
その答えを確かめるための視察が、ようやく始まろうとしていた。




