232 雨を作る国
アリッサの話を聞き終えたアイゼル・ローゼンクランツ公爵は、別の報告書を取り出した。
「アリッサ。今度はこちらが掴んでいる情報を聞いてくれ」
「はい」
「お前が第78に滞在している間にも、アルデバランについていくつか報告が入っている」
アイゼルは大陸地図を広げた。
指先が一つの地域で止まる。
「灰塵の荒野ヴォルガを覚えているな?」
「もちろんです」
「どんな土地だった?」
「砂漠です。人が暮らすには厳しい土地だったはずです」
「ああ。私の認識も同じだ」
かつて灰塵の荒野ヴォルガと呼ばれていた地域。
五百万人ほどが暮らしていたが、乾燥した土地が広がり、水も農地も乏しかった。
「現在はアルデバラン王国の一つになっている。第80いくつかだったはずだ」
「そこまで増えていた時期ですね」
「問題は番号ではない」
アイゼルは一枚の報告書を娘へ渡した。
「読んでみろ」
アリッサが目を通す。
途中で手が止まった。
「……緑豊かな土地?」
「ああ」
「ヴォルガが?」
「現在は草木が育ち、農地もある。少なくとも、我々が知っている灰塵の荒野ではなくなっている」
アリッサはもう一度報告書を読んだ。
父が続ける。
「雨を降らせているという報告もある」
「雨……」
「水を確保し、土地を整えた結果らしい。詳しい方法までは分かっていない」
アリッサは地図を見つめた。
しばらく考えてから口を開く。
「父上」
「なんだ?」
「おそらく、何か特別な方法を使ったわけではないと思います」
「なぜそう思う?」
「私でもできると思うからです」
アイゼルの眉が上がった。
「お前が砂漠を緑にできると?」
「時間はかかると思います。でも、方法は想像できます」
「聞かせてくれ」
アリッサはヴォルガの跡地を指した。
「まず土魔法で天地返しをします」
「土を掘り返すのか?」
「はい。深いところまで土を動かし、固くなった土地を何度も混ぜます。その後、水魔法で散水します」
「それだけで足りるか?」
「光魔法も使います」
「光?」
「ヒールバレットとピュリフィケーションバレットです。広い範囲にばら撒きます」
アイゼルは娘を見る。
「土地に治癒と浄化を使うのか」
「はい。そして、また天地返しをして散水します。必要なら治癒と浄化も繰り返す」
アリッサは少し考えた。
「私一人なら、広大な砂漠を変えるには相当な時間がかかるでしょう」
「当然だな」
「でも一人でやる必要はありません」
アイゼルの表情が変わった。
「多数でやるのか」
「はい。百人、千人、一万人。それ以上でも」
アイゼルは地図へ視線を戻した。
「しかも魔力切れを起こしにくい」
「そうです。周囲から魔力を吸収できますから」
土魔法で天地返しをする。
水魔法で散水する。
治癒と浄化を行う。
それを多数の人間が繰り返す。
未知の大魔法を使う必要などない。
「……教導された者を大勢投入したのか」
「実際にどうしたのかは分かりません。ただ、私ならそうします」
「なるほど」
アイゼルは報告書へ目を落とした。
雨を降らせられる。
砂漠だった土地を緑へ変えられる。
最初にその報告を読んだ時は、巨大な魔法を使ったのだと思った。
だが違う可能性がある。
先ほど娘が見せた能力を、大勢の人間が使えばいい。
「また同じか」
「何がです?」
「我々は一人の強大な魔法使いを想像する。だがアルデバランは人数でやっている可能性がある」
231話で見えたものと同じだった。
特別な英雄一人ではない。
できる人間が多数いる。
「そうなると軍事だけを見ている場合ではないな」
アイゼルが呟いた。
土魔法は城壁を壊すためだけにあるのではない。
農地を作れる。
水魔法は敵を攻撃するだけではない。
水を確保できる。
治癒と浄化は負傷兵のためだけではない。
医療や衛生にも使える。
「ゴーレムも物流や土木に使われていると言ったな?」
「はい。第78では普通に荷物を運んでいました」
「ならば農業、水、食料、物流、医療、復興……」
アイゼルはそこで言葉を止めた。
大陸地図を見る。
百を超える国が清算された。
そこから保護されたと推測される約二十一億人。
「二十一億人」
「はい」
「我々は保護された人数ばかり見ていた」
アリッサにも父が何を考えたのか分かった。
「保護した後の方が大変です」
「ああ」
食料が必要になる。
水が必要になる。
住居が必要になる。
病人や怪我人も出る。
仕事を作り、生活を立て直さなければならない。
「二十一億人を助けた、ではない」
アイゼルが呟いた。
「二十一億人を保護し、教導し、生活を再建できる」
三十五億人の教導とは、その結果でもある。
アイゼルは報告書をまとめた。
「これは私一人で判断していい話ではない」
「陛下へ?」
「ああ」
アイゼルは立ち上がった。
「これは陛下に直接報告する」
アルデバランの異常さは、戦える人間が多いことではなかった。
砂漠すら生活できる土地へ変え、膨大な人間をそこで再び暮らせるようにする。
その力まで含めて考えなければ、この隣国の本当の姿は見えてこなかった。
アイゼルはアリッサを伴い、再びカイゼルのもとを訪れた。
先ほど教導について話したばかりだった。
それでも時間を置かなかった。
「陛下。追加でご報告したいことがございます」
「アルデバランについてか?」
「はい」
カイゼルは二人に着席を促した。
軍務卿も同席している。
「今度は何だ。三十五億人の次なら、多少のことでは驚かんぞ」
「灰塵の荒野ヴォルガについてです」
カイゼルの表情が変わった。
「あの砂漠か」
「はい。現在はアルデバラン王国の一つになっております。第80いくつかだったと記憶しておりますが、重要なのは番号ではありません」
アイゼルは持参した報告書を差し出した。
「現在のヴォルガ跡地は、緑豊かな土地になっております」
「待て」
軍務卿が口を挟んだ。
「ヴォルガは砂漠だぞ」
「我々もそう認識しておりました」
「では、この報告は?」
「複数の経路から似た情報が入っております。少なくとも、以前のような荒れ果てた土地ではありません」
カイゼルが報告書へ目を通す。
「雨まで降らせているのか」
「そのような報告もございます」
「天候を操る魔法でもあるのか?」
「私も最初は、その可能性を考えました」
アイゼルはアリッサを見る。
「ですが、娘は別の見方をしております」
「アリッサ?」
「はい」
アリッサは大陸地図のヴォルガを指した。
「陛下。実際に何が行われたのかは分かりません。ただ、砂漠を緑にするだけなら、私にもできると思います」
「お前一人でか?」
「一人では時間がかかります」
「では、どうする?」
「大勢で行います」
カイゼルは黙って続きを待った。
「土魔法で天地返しをします。固くなった土地を深く掘り返し、何度も土を動かします」
「次は?」
「水魔法で散水します」
「水そのものを魔法で出すのか」
「はい。その後、ヒールバレットとピュリフィケーションバレットを広い範囲へ使います」
軍務卿が眉を寄せる。
「治癒と浄化を土地へ?」
「はい。そして、また天地返しをして散水する。必要なら治癒と浄化も繰り返します」
「それで土地を変える?」
「できると思います」
カイゼルが尋ねた。
「どれほどの期間が必要だ?」
「私一人なら分かりません。ですが、千人なら千人で同時にできます。一万人なら一万人でできます」
そこでカイゼルは気づいた。
「しかも、お前たちは魔力切れを起こさない」
「実質的には、はい」
「……そういうことか」
カイゼルが椅子へ背を預けた。
軍務卿も理解したらしい。
「一人の大魔法士が砂漠を緑にしたのではない」
「実際の方法は確認できておりません」
アイゼルが釘を刺した。
「ですが、少なくとも我々が未知の大魔法を想定する必要はありません。アリッサが今使える魔法だけでも、人数がいれば可能性がある」
「教導か」
カイゼルの一言に、アイゼルが頷いた。
「はい」
カイゼルは地図を見た。
「軍務卿。仮に一万人の魔法士がいたら、我が国なら何に使う?」
「戦場へ投入いたします」
「私もそう考える」
カイゼルはヴォルガを指した。
「向こうは砂漠を耕すのか」
誰も答えなかった。
同じ力でも使い方が違う。
土魔法なら城壁を崩せる。
水魔法なら敵を攻撃できる。
光魔法なら戦場で負傷者を治療できる。
だが、それを農地へ使う。
「アリッサ。第78で食料が安かったと言ったな」
「はい。むしろ安価だと感じました。どの店も品数が豊富でした」
「三十五億人を抱えているのに?」
「はい」
カイゼルは再びヴォルガを見る。
「少し繋がったな」
アイゼルも同じことを考えていた。
「農地そのものを増やせるのであれば、食料生産の前提が変わります」
「水不足も魔法で補える」
「はい」
「土木は?」
「土魔法があります。ゴーレムも使われています」
「物流にもゴーレム」
「第78では荷物を運んでいました」
「医療は先ほど見たヒールバレットか」
「浄化もあります」
カイゼルは指を折るのをやめた。
「農業、水、食料、土木、物流、医療、衛生……」
「復興もです」
アイゼルが加えた。
そこで話が二十一億人へ戻った。
「陛下。我々は清算された国家から約二十一億人が保護されたと推測しております」
「ああ」
「二十一億人を保護するだけなら、一時的には可能かもしれません」
「だが食わせ続けなければならん」
「水も必要です」
軍務卿が続ける。
「住居も必要だ」
「病人も出ます」
「仕事もいるな」
カイゼルが言った。
「はい」
アイゼルは頷いた。
「そして最終的には、保護された者が自分で生活できなければならない」
カイゼルの視線が止まった。
「教導」
「はい」
二十一億人を囲って養い続けるのではない。
教導する。
能力を与える。
自分たちで水を得られる。
土地を耕せる。
家を作れる。
怪我を治せる。
物を運べる。
「なるほど」
カイゼルが低く呟いた。
「だから二十一億人を受け入れられるのか」
「可能性としては」
アイゼルは断定しなかった。
だが、今まで別々に見えていた情報が繋がり始めていた。
三十五億人の教導。
砂漠の緑化。
豊富で安価な食料。
ゴーレムによる物流。
二十一億人の保護と生活再建。
「軍事大国だから三十五億人を抱えられるのではない」
カイゼルが言った。
「三十五億人が自分たちで社会を支えられるようにしているから、抱えられる」
「私も、その可能性を考えております」
カイゼルは地図から目を離した。
「ますます自分の目で見る必要が出てきたな」
軍務卿が頷く。
「騎士団だけを調べても、何も分かりません」
「ああ」
カイゼルは笑った。
「どうやら我々が見に行くべきなのは、城ではないらしい」
市場。
農地。
工房。
街道。
冒険者ギルド。
そして、そこで普通に暮らしている人々。
アルデバランの力は、軍営の中だけにあるのではなかった。
カイゼルは大陸地図を見つめたまま、しばらく考えていた。
三十五億人を教導する。
清算された国家から約二十一億人を保護する。
砂漠だったヴォルガを、人が暮らせる土地へ変える。
どれも規模が大きすぎる。
だが、教導という一つの要素を置くと、別々だった情報が繋がり始める。
「ローゼンクランツ」
「はい」
「仮に今の推測が正しいとして、二十一億人を保護した直後に必要になるものは何だ?」
「まずは水と食料でしょう」
「住居も必要です」
軍務卿が加えた。
「だが、まず生き延びさせなければならん」
カイゼルがアリッサを見る。
「水は?」
「水魔法で確保できます」
「食料は?」
「当面なら、森で狩ればいいと思います」
「狩りか?」
「はい。魔物も獣もいます。索敵で見つけて狩ればいい」
軍務卿が眉を上げた。
「簡単に言うな」
「私はロルフと二人で、レッサードラゴン五十体を同時に狩れました」
「……そうだったな」
「レッサードラゴンである必要もありません。食べられる魔物や獣を狩れば、当面の食料にはなります」
アリッサは少し考えて付け加えた。
「ゴブリンでも構いません」
「ゴブリン?」
軍務卿が露骨に顔をしかめた。
「あれを食うのか?」
「美味しくはありません」
「なら、なぜ食う」
「ピュリフィケーションバレットを使えば、食料にはできます」
アリッサは平然と答えた。
「もちろん、美味しい魔物や獣がいるなら、そちらを優先します。でも、大勢の人を保護した直後なら、まず飢えさせないことの方が重要です」
アイゼルが頷いた。
「森で食料を確保して、その間に農地を作る」
「はい」
「索敵で獲物を探すこともできる」
「鑑定もあります。食用にできるかどうかも調べられます」
カイゼルが地図へ目を落とした。
「森そのものを当面の食料庫として使うわけか」
「そう考えればいいと思います」
「その間に恒久的な食料生産へ移る」
「はい」
アリッサはヴォルガの跡地を指した。
「土魔法で天地返しをします。水魔法で散水する。ヒールバレットとピュリフィケーションバレットを広い範囲へばら撒く。それを繰り返して土地を整えます」
「一人では時間がかかる」
「ですが、大勢ならできます」
「しかも魔力切れを起こしにくい」
「はい」
軍務卿が腕を組んだ。
「住居には土魔法。運搬にはゴーレム。怪我人にはヒールバレット。衛生にはピュリフィケーションバレット」
「そうなります」
「……随分と揃っているな」
アイゼルが地図を見た。
「さらに、保護するには人そのものを見つける必要があります」
「索敵か」
「はい」
アリッサが頷いた。
「それに鑑定もあります」
「どう使う?」
「索敵で見つけても、それが誰なのか、何なのかを判断する必要があります」
保護を必要としている人間。
犯罪者。
魔物。
食料にできる獲物。
「索敵で見つけて、鑑定で判別できます」
軍務卿の表情が変わった。
「保護対象なら?」
「助けます」
「犯罪者なら?」
「必要ならバインドバレットで拘束します」
「獲物なら?」
「狩ります」
「遠ければ?」
「飛んで向かえます」
「一人では対処できない場合は?」
「テレパシーで他の人に知らせます」
軍務卿が黙った。
索敵。
鑑定。
飛行。
テレパシー。
捕縛。
治癒。
それぞれ別の能力だと思っていたものが、一つの流れとして繋がった。
「見つける。判断する。知らせる。向かう。そして対処する」
カイゼルが呟いた。
「はい」
「索敵できる者が百人なら百の目。千人なら千の目になる」
軍務卿が地図を見る。
「教導で増やせるなら……アルデバランは、目まで作れるということか」
アイゼルが頷いた。
「可能性としては」
「だから二十一億人もの人間を見つけられた?」
「それも推測です。ただ、今分かっている能力だけでも説明できます」
カイゼルは指を折った。
「人を見つける。鑑定する。救助する。水を与える。森で狩って食わせる。治療する。安全な場所へ移す」
最後に一つ加える。
「そして、教導する」
アイゼルの目が動いた。
「陛下」
「ああ。私も今、気づいた」
カイゼルは三十五億人と記された資料を見る。
「教導された後、その者たちはどうなる?」
「自分で生活できるようになります」
アリッサが答えた。
「水を出せる。獲物を探せる。鑑定できる。狩りもできる。土を動かせる。治療も浄化もできます」
「飛行とテレパシーも?」
「教導されていれば」
軍務卿が理解した。
「では、保護された者が農地を作る側へ回る」
「はい」
「食料を集める側にも」
「はい」
「住居を作り、怪我人を治し、別の保護対象を探すことまでできる」
「できます」
「……救助する側まで増えるのか」
カイゼルは二十一億という数字を見つめた。
最初は巨大な負担にしか見えなかった。
二十一億人を食わせる。
水を与える。
住居を用意する。
それを既存の国家機構だけで行うなら、到底理解できない。
だが、前提が違う。
「最初は助けられる側だった者が、教導を受ければ自立する」
アイゼルが続ける。
「そして余力ができれば、次の者を助ける側にも回れる」
「救助する側まで増えていく」
軍務卿が呟いた。
しばらく誰も話さなかった。
「……ほとんど教導で説明できてしまうな」
「あくまで推測です」
アイゼルはすぐに答えた。
「ヴォルガをどう緑にしたのかも、二十一億人をどう保護したのかも、我々は確認しておりません」
「だが、辻褄は合う」
「はい。合いすぎるほどに」
三十五億人、教導済み。
その一文を置くだけで、不可解だった事実が次々と繋がっていく。
「確かめるしかないな」
「はい」
「我々の推測が、どこまで正しいのか」
三十五億人を養い続けられる巨大な国。
そう考えるから理解できなかった。
もしかすると、アルデバランがしていることはもっと単純なのかもしれない。
助ける。
教える。
自分で生きられるようにする。
そして、その者が次の誰かを助ける。
もし推測が正しいなら、三十五億人という途方もない人口を支えられている理由にも、説明がついた。
カイゼルは三十五億人と記された資料を閉じた。
「ローゼンクランツ。我々の推測が正しいとして、一つ問題がある」
「何でしょうか」
「なぜ外国人にまで教える?」
アイゼルは答えず、アリッサを見た。
その疑問に答える材料を最も持っているのは娘だった。
「アリッサ。お前はシュタインフェルトの人間だ」
「はい」
「しかも身分を隠し、外国から来たCランク冒険者として第78にいた」
「はい」
「それでも教導された」
「されました」
カイゼルが尋ねる。
「アルデバランへ残るよう求められたか?」
「いいえ」
「忠誠を誓えと?」
「言われていません」
「得た能力を国外で使うなとは?」
「それもありません」
軍務卿が腕を組んだ。
「やはり理解できんな」
「何がです?」
「我が国なら、そのような能力を短期間で習得させる方法があれば秘匿する」
「私もそうします」
アイゼルが同意した。
六属性魔法。
魔力循環と魔力吸収。
飛行。
索敵。
鑑定。
テレパシー。
テレキネシス。
それだけでも国家機密に値する。
「まして外国人へ教えるなど考えにくい」
「ですが、私は教わりました」
アリッサの答えに軍務卿が黙る。
事実として、目の前にいる。
「アルデバランが何を考えているかは分かりません」
アリッサは続けた。
「ただ、私が教導を受けた時、国のために使えとは一度も言われませんでした」
「では、何のためだと思う?」
アリッサはすぐには答えなかった。
第78での出来事を思い返す。
自分は教えられた。
ロルフも教えられた。
だが、二人とも何かを命じられたわけではない。
「……できることを増やすため、でしょうか」
「できること?」
「はい」
アリッサは自分の手を見る。
「水が必要なら出せる。怪我人がいれば治せる。危険があれば索敵できる。重い物ならテレキネシスで動かせる。遠くへ行くなら飛べる」
「戦うこともできる」
「必要なら」
カイゼルが僅かに笑った。
「必要なら、か」
「はい。戦うためだけに教わったとは思っていません」
アイゼルは先ほどまでの推測を思い返した。
二十一億人を保護する。
教導する。
自立させる。
そして、その者が別の誰かを助けられるようになる。
「陛下」
「なんだ?」
「もし我々の推測が正しければ、外国人へ教えることも矛盾しないのではありませんか」
カイゼルがアイゼルを見る。
「続けろ」
「アリッサが帰国すれば、アルデバランにとって一人減ります」
「ああ」
「ですがシュタインフェルトには、教導された人間が一人増える」
軍務卿の目が動いた。
「そういうことか」
「まだ推測です」
「だが、その一人がここにいる」
カイゼルはアリッサを見た。
すでに娘は、ヴォルガ緑化の方法を考えた。
二十一億人の当面の食料をどう確保するかも考えた。
索敵と鑑定を組み合わせれば、保護対象を探せることも理解している。
教導を受けた一人が国外へ出たからといって、教えたものが失われるわけではない。
「囲い込む必要がないのか」
軍務卿が呟いた。
「少なくとも、アルデバランがそう考えている可能性はあります」
アイゼルが答える。
「だが我が国にとっては大問題だぞ」
「はい」
カイゼルが笑った。
「アリッサ一人帰ってきただけで、我々の常識がこれだけひっくり返された」
「申し訳ありません」
「褒めている」
アリッサが少し目を丸くした。
「お前が見てきたものと、身につけたものがなければ、我々は三十五億人を巨大な軍事力としてしか見なかったかもしれん」
アイゼルも頷いた。
「ヴォルガについても、未知の大魔法だと判断していたでしょう」
「二十一億人については、途方もない食料備蓄と国庫があると思っただろうな」
軍務卿が苦笑する。
「私は三十五億の兵士を想像しました」
「それも違った」
カイゼルは立ち上がり、大陸地図の前へ移動した。
シュタインフェルト王国。
その隣には、急速に増えたアルデバラン王国群が広がっている。
「我々はアルデバランを知らなさすぎる」
「はい」
「だが、分からないからといって恐れるだけでは何も始まらん」
カイゼルはアイゼルを見る。
「軍務だけの問題ではない」
「農業、水、食料、物流、医療、衛生、復興」
「そして教育だ」
「はい」
「ならば軍務卿だけ連れて行っても足りんな」
軍務卿が頷いた。
「各分野を理解できる者が必要です」
「ああ。ただし大人数で押しかける必要もない」
カイゼルはアリッサを見る。
「まず我々自身が見る」
「陛下も行かれるのですか?」
「当然だ」
即答だった。
「三十五億人が暮らす仕組みを、他人の報告だけで判断するつもりはない」
アイゼルにも異論はなかった。
推測はかなり進んだ。
だが、推測は推測でしかない。
カイゼルは地図から手を離した。
「アルデバランへ行こう」
軍務卿が頭を下げる。
「承知いたしました」
「アリッサ」
「はい」
「案内できるな?」
「第78までなら」
「十分だ」
カイゼルはもう一度、三十五億人と記された資料を見る。
「強さを見に行くのではない」
その言葉に、アイゼルが静かに頷いた。
「三十五億人が、どうやって暮らしているのか」
それを知らなければならない。
軍隊を見るための視察ではない。
シュタインフェルト王国がこれから何を見るべきなのか。
その答えだけは、すでに出ていた。




