231 教導
シュタインフェルト王国国王カイゼル・シュタインフェルトは、机の上の報告書からアリッサへ視線を移した。
三十五億人、教導済み。
その意味を理解するには、教導を受けた本人を見るのが早い。
「アリッサ。先ほど見せてもらったもの以外にもあるのだな?」
「はい。父上、少し場所をお借りします」
「ああ」
アイゼル・ローゼンクランツ公爵は娘を見つめた。
数日前までのアリッサを知っている。
だからこそ、今の娘がどれほど異常なのかも分かる。
アリッサが右手を上げた。
火球が生まれ、消える。
続いて水、風、土、光、闇。
「六属性です」
「しかも無詠唱か」
「はい」
「魔力は?」
「消費しています。ただし魔力切れは起こしません」
アイゼルが眉を寄せる。
「なぜだ?」
「魔力循環と魔力吸収を教わりました」
アリッサは説明した。
「魔力は人や魔物の体内だけにあるものではありません。大気にも、大地にも、水にも、植物にもあります。この世界の至るところに存在しています」
「それを吸収するのか?」
「はい。体内の魔力を循環させながら、周囲の魔力を吸収します」
「使った分を補充できる?」
「それ以上に吸収することもできます」
カイゼルが目を細めた。
「では実質的には……」
「無限に近い魔力を使えます」
沈黙が落ちた。
「それも教導か?」
「はい」
アイゼルの視線が、三十五億人と記された報告書へ向かった。
「次をお見せします」
アリッサの身体が浮かび上がった。
前後左右へ自在に移動して着地する。
「飛行です」
続いて意識を周囲へ広げる。
「扉の外に四人。左右に二人ずつ。廊下の先から一人こちらへ向かっています」
侍従に確認させると、その通りだった。
「索敵です。そして鑑定」
アリッサは父を見る。
「アイゼル・ローゼンクランツ。健康状態は良好です」
「名前まで分かるか」
「はい」
机の上の本が宙へ浮いた。
「テレキネシスです」
本が空中を移動し、元の場所へ戻る。
次にアリッサは父を見る。
『父上。聞こえますか?』
アイゼルの眉が動いた。
「……聞こえる」
「テレパシーです」
カイゼルが息を吐いた。
「まだあるのか?」
「あります」
アリッサは用意された訓練用の剣を手に取った。
一歩踏み込む。
鋭い斬撃。
返す刃から次の斬撃へ繋ぎ、身体を回転させる。
剣を置くと、今度は槍を持った。
突き。
払い。
石突を返し、間を置かず次の突き。
アイゼルが立ち上がった。
「待て」
アリッサが止まる。
「お前、いつからそれほど剣と槍を扱えるようになった?」
「教導を受けてからです」
「数日前まで、その練度ではなかった」
「はい」
アリッサは剣と槍を戻した。
「身体強化と筋肉強化も使っています」
「筋力まで?」
「強化できます」
アリッサは室内に置かれていた重い訓練用の鉄塊へ手を掛け、片手で持ち上げた。
アイゼルの顔から表情が消えた。
「次は捕縛です」
訓練用の人形へ指を向ける。
「バインドバレット」
魔法が命中した瞬間、人形の身体が拘束された。
「相手を殺さずに動きを封じられます」
「対人用か」
「はい。そしてウォーターマスク」
今度は人形の頭部が水で覆われる。
「これは?」
「呼吸を封じます」
軍務を預かる重臣が反応した。
「窒息させるのか?」
「はい。解除もできます」
水が消えた。
「殺傷だけではない。捕縛、拘束、無力化までできるのか」
「そうです」
アリッサは自分の腕へ小さな傷を作った。
「何をする?」
「ヒールバレット」
治癒魔法が当たり、傷が塞がる。
「治癒まで……」
「はい」
アイゼルは娘を見つめた。
六属性。
無詠唱。
実質無限に近い魔力。
飛行、索敵、鑑定。
テレパシー、テレキネシス。
剣術、槍術。
身体強化、筋肉強化。
捕縛、拘束、窒息。
そして治癒。
「これが……数日か?」
「はい」
「ロルフという料理人も?」
「はい。本国で教導を受けています」
「三十五億人の一人だな」
「はい」
軍務を預かる重臣が呟いた。
「三十五億の兵士……」
「違う」
アイゼルが即座に否定した。
カイゼルが公爵を見る。
「どう違う?」
「三十五億人すべてが娘と同じだとは確認できておりません。それに、そういう意味ではありません」
アイゼルは報告書を指した。
「ロルフ殿は料理人です。兵士ではない。料理人として暮らしながら、必要ならレッサードラゴンを狩れる」
「なるほど」
「我々は兵士、騎士、魔法士、冒険者と民間人を分けて戦力を考えます」
アイゼルは静かに続けた。
「アルデバランでは、その分類自体に意味がなくなる可能性があります」
カイゼルはしばらく考え、頷いた。
「三十五億の兵士がいるのではない」
「はい」
「兵士を数えるという我々の物差しが、最初から通用しないかもしれない」
「その通りです」
カイゼルは報告書を閉じた。
「分かった。アルデバランを見るなら軍だけを見てはならんな」
アイゼルも頷いた。
見るべきものは軍隊ではない。
その力を日常の中に抱えている、社会そのものだった。
カイゼルは閉じた報告書の上に手を置いたまま、しばらく考えていた。
「ローゼンクランツ。仮に我が国で同じことが起きれば、どうなる?」
「同じこと、と申しますと?」
「国民がアリッサのような能力を持った場合だ」
アイゼルはすぐには答えなかった。
「軍制そのものを考え直すことになります」
「やはりそうか」
「はい。我が国の軍は、それぞれの役割を分けることで成り立っています」
剣士。
槍兵。
弓兵。
騎兵。
魔法士。
治癒術師。
斥候。
それぞれが自分の役割を果たし、足りない部分を他の兵が補う。
「ですが、先ほどのアリッサをご覧ください」
アイゼルは娘へ視線を向けた。
「剣を扱える。槍も扱える。身体強化と筋肉強化が使える。六属性魔法を無詠唱で放てる」
「ああ」
「しかも魔力循環と魔力吸収によって、周囲から魔力を取り込める」
カイゼルが頷く。
「世界の至るところにある魔力を使う、だったな」
「はい。従来の魔法士なら、自身の魔力が尽きれば戦えなくなります。ですがアリッサには、その前提が通用しない」
軍務卿が腕を組んだ。
「魔力を使わせ続け、枯渇を待つこともできんか」
「通常の使用量なら、消費しながら補充できます」
アリッサが答えた。
「飛行もある」
軍務卿が続ける。
「騎兵が使う馬も、地形によっては意味を失う。城壁や崖すら障害にならん」
「索敵もできます」
アイゼルが言った。
「斥候だけに頼る必要がなくなる」
「テレパシーがあれば伝令も減らせるな」
カイゼルが言う。
「離れた場所へ直接意思を伝えられるのだろう?」
「はい」
「敵はバインドバレットで拘束できる」
「はい」
「ウォーターマスクなら殺さずに降伏を迫ることもできる」
「その通りです」
「負傷すればヒールバレット」
軍務卿が小さく息を吐いた。
「一人でいくつの役割を兼ねるのだ」
「そこなのです」
アイゼルが答えた。
「一人の兵士が強くなった、というだけではありません。これまで複数の専門職に分けていた役割を、一人の人間が持てる」
カイゼルは椅子へ深く腰を下ろした。
「厄介だな」
軍務卿が苦笑する。
「敵として考えれば、非常に」
「いや」
カイゼルは首を振った。
「敵としてだけではない。理解すること自体が難しいのだ」
アイゼルも同意した。
既存の軍制へ当てはめようとするから分からなくなる。
「アリッサ」
「はい」
「第78では、民が武装して歩いていたのか?」
「いいえ」
「毎日戦闘訓練をしている?」
「そのような様子もありませんでした」
「では何をしている?」
「普通に暮らしています」
「普通に?」
「はい。料理人は料理をしています。商人は店を開き、職人は働いています。冒険者は依頼を受けています。市場では普通に買い物をしている人たちがいました」
カイゼルがアイゼルを見る。
「やはり三十五億の兵士ではないな」
「はい」
「三十五億の国民だ」
「その方が正確です」
軍務卿が尋ねた。
「だが、必要になれば戦える者が相当数いる可能性はある」
「あります。ただし、どの程度の人数がどこまで教導されているかは確認が必要です」
アイゼルはあくまで慎重だった。
アリッサとロルフだけを見て、三十五億人すべてが同じだと決めつけることはできない。
「だから見に行く」
カイゼルが言った。
「はい」
アリッサは少し考えてから口を開いた。
「陛下。私自身、教導を受けていて不思議に思わなかったことがあります」
「なんだ?」
「戦争のために力を与えられているとは感じなかったことです」
アイゼルが娘を見る。
「これだけの能力を得てか?」
「はい」
アリッサは自分の手を見る。
「飛行は移動に使えます。索敵は人や魔物を探せます。テレキネシスなら重い物を運べます。テレパシーなら離れた人と話せます」
「治癒も戦場だけのものではないな」
「はい。怪我をした人を治せます」
「身体強化と筋肉強化は仕事にも使える」
「そうです」
「六属性魔法も同じか」
「水を出すことも、火を起こすこともできます。土を動かすこともできます」
アイゼルはそこで気づいた。
自分たちは武家の人間だ。
娘が見せた能力を見て、真っ先に軍事利用を考えた。
だが、その力は戦争のためだけに存在するものではない。
「アリッサ」
「はい」
「お前は自分を兵士になったと思うか?」
カイゼルの問いに、アリッサは少し考えた。
「思いません」
「これほど戦えるのに?」
「はい。私は冒険者です」
簡単な答えだった。
「必要なら戦います。でも、飛べるようになったから兵士になったわけではありません。治癒ができるから治癒術師になったわけでもありません」
カイゼルが小さく笑った。
「なるほどな」
アイゼルもようやく言葉を見つけた。
「陛下。先ほど申し上げたことを、少し訂正いたします」
「兵士という分類の話か?」
「はい。兵士という分類に意味がなくなる、では正確ではありませんでした」
「では?」
「兵士という職業は残るでしょう」
アイゼルは続けた。
「ただし、戦える者と兵士が同義ではなくなる」
カイゼルの表情が変わった。
「料理人は料理人のまま戦える」
「はい」
「冒険者は冒険者のまま治癒もできる」
「はい」
「ならば兵士の人数だけを調べても、その国が持つ力は測れん」
「その通りです」
カイゼルは報告書を開いた。
三十五億人、教導済み。
「これは軍事報告として読むから分からなくなるのだな」
軍務卿も頷いた。
「社会そのものを見る必要があります」
「ああ」
カイゼルは三十五億という数字を指でなぞった。
「軍隊が巨大なのではないかもしれん」
そして静かに続けた。
「我々が軍隊にしか持たせていない能力を、社会の側が持っているのかもしれんな」
アイゼルは深く頷いた。
その違いを確かめるには、報告書を読むだけでは足りなかった。
カイゼルは報告書を閉じなかった。
三十五億人、教導済み。
その一文を見ながら、先ほどアリッサが見せたものを一つずつ思い返していた。
「ローゼンクランツ」
「はい」
「仮にアルデバランと戦うことになった場合、我が国はどう戦う?」
アイゼルは少し考えた。
「現時点では、作戦を立てること自体が困難です」
「そこまでか?」
「敵の戦力構成が分かりません」
軍務卿も頷いた。
「通常なら騎士団の規模、魔法士の人数、騎兵の数、兵站能力を調べます」
「ああ」
「ですが、料理人がレッサードラゴンを狩れる国です」
カイゼルが苦笑した。
「そこへ戻るか」
「重要な点です」
アイゼルは真顔だった。
「ロルフ殿が将軍なら話は簡単なのです。英雄でも、剣聖でも、大魔法士でも構わない。特別な一人として計算できます」
「だが料理人だ」
「はい」
しかも元奴隷。
保護され、本国で教導を受け、今は料理人として暮らしている。
「そのロルフ殿が、アリッサと二人でレッサードラゴン五十体を同時に狩れる」
「はい」
アリッサが答えた。
軍務卿が腕を組む。
「軍人ではない者を戦力として数えなければならんとなると、諜報の方法から変えねばならん」
「そうなる」
アイゼルが答えた。
「騎士団の駐屯地を調べても、それだけでは何も分からない」
「市場の料理人まで調べるのか?」
カイゼルの問いに、軍務卿が困った顔をした。
「それを始めれば、農民も職人も商人も調べる必要が出てまいります」
「三十五億人をか?」
「不可能です」
即答だった。
カイゼルは小さく笑った。
「ようやく分かってきた。三十五億という数字の厄介さは、人数そのものだけではないのだな」
「はい」
アイゼルが頷く。
「どこまでが戦力なのか、境界が見えません」
アリッサが口を開いた。
「父上。おそらく向こうの方々は、自分たちを戦力だとは考えていないと思います」
「なぜそう思う?」
「ロルフは料理人です」
「それは聞いた」
「本人も、それを疑っていません」
アリッサは第78で過ごした時間を思い出す。
ロルフは料理を作る。
新しい料理を考える。
食べた者の反応を喜ぶ。
レッサードラゴンを狩ることができても、それを理由に騎士や兵士を名乗ったりはしない。
「レッサードラゴンを狩れるのにか?」
「はい。狩った後も肉をどう料理するかを考えていました」
カイゼルが笑った。
「料理人だな」
「料理人です」
アイゼルもようやく少し笑った。
だが、すぐに表情を戻した。
「それなら、なおさら厄介です」
「なぜだ?」
「戦うことを仕事にしていないからです」
カイゼルがアイゼルを見る。
「騎士団なら配置がある。兵士なら指揮系統がある。駐屯地もある。軍を動かせば食料も必要になります」
「ああ」
「ですが普段から各地で生活している者が、必要な時だけ自分の能力を使うのであれば、我々が知る動員とは意味が違ってくる」
軍務卿が頷いた。
「しかも飛行できる者が多ければ、集合させる時間まで短くなる」
「テレパシーもある」
カイゼルが続ける。
「連絡手段まで違うか」
「はい」
アイゼルはアリッサへ尋ねた。
「お前なら、敵を見つけた時どうする?」
「まず索敵します」
「その後は?」
「相手が犯罪者などで捕縛が必要なら、バインドバレットを使います」
「抵抗したら?」
「身体強化や筋肉強化を使って制圧できます。必要ならウォーターマスクも使います」
「負傷者が出れば?」
「ヒールバレットで治療します」
「逃げたら?」
「飛んで追います」
「仲間へ知らせるには?」
「テレパシーを使えます」
アイゼルはそこで質問を止めた。
軍務卿も黙っている。
一人で索敵し、追跡し、捕縛し、制圧し、治療し、連絡できる。
しかも魔力切れを起こしにくい。
「……兵士一人分ではないな」
軍務卿が呟いた。
「だから人数へ換算してはいけないのです」
アイゼルが答えた。
「アリッサ一人を兵士何人分と数えても意味がない。状況によって役割が変わるのですから」
カイゼルは深く頷いた。
「三十五億人を兵士へ換算すること自体が間違いか」
「はい」
「ならば、我々が知るべきものは能力だけでもない」
「その通りです」
「何をする時に、その力を使うのか」
アイゼルの目がわずかに動いた。
「そこです、陛下」
力があることと、その力を何に使うかは別だった。
三十五億人が何をできるのか。
それだけを知っても足りない。
何を守るのか。
何を許さないのか。
何が起きた時に動くのか。
「アルデバランがこれほどの力を持ちながら、他国を征服していない理由にも繋がるかもしれんな」
「はい」
カイゼルは大陸地図へ目を向けた。
「軍事力を調べるだけでは足りない。国民を見る。暮らしを見る。そして――」
指先が、隣国アルデバランを示す。
「何に対して彼らが動くのかを見る」
アイゼルも頷いた。
アルデバランを理解するための問いが、ようやく変わり始めていた。
どれほど強いのか、ではない。
その強さを、何のために使う国なのか。
カイゼルは大陸地図から視線を戻した。
「アリッサ。もう少し聞かせてくれ」
「はい」
「第78で、お前に教導を行った者は何を命じた?」
アリッサは質問の意味を考えた。
「命じた、ですか?」
「ああ。これだけの力を与えるのだ。アルデバランのために使え、民を守れ、犯罪者と戦え。何かあるだろう」
「ありませんでした」
「ない?」
「はい」
カイゼルだけでなく、アイゼルと軍務卿もアリッサを見る。
「では、何のために教導した?」
「必要なことを教えていただいただけです」
「その後は?」
「特には」
「力の使い方を指定されないのか?」
「されません」
カイゼルが腕を組んだ。
「ますます分からんな」
アイゼルにも同感だった。
軍人ならば、力を与えることには目的がある。
剣を教えるのは戦わせるため。
部隊を訓練するのは命令に従わせるため。
国家が莫大な費用を使って人を育てるなら、その力を国家のために使わせる。
それが当然だと思っていた。
「忠誠を求めない」
アイゼルが確認する。
「はい」
「外国人にも教える」
「私がそうでした」
「そして、得た能力を持ったまま帰国することも止めない」
「はい」
軍務卿が眉を寄せた。
「軍事技術として考えれば、あり得んな」
「だから軍事技術として考えること自体が違うのかもしれん」
カイゼルが答えた。
その言葉に、アイゼルが反応した。
「教育……ですか」
「ああ」
カイゼルはアリッサを見る。
「向こうにとっては、剣も魔法も飛行も治癒も、読み書きや計算と同じなのではないか?」
アリッサは少し考えた。
「少なくとも、教導を受けている時に特別な力を授けられているという印象はありませんでした」
「六属性魔法を無詠唱で使い、実質的に魔力切れを起こさなくなるものが、特別ではないのか」
アイゼルが呆れたように言う。
「今になって考えると、かなりおかしな話だと思います」
アリッサの答えに、カイゼルが小さく笑った。
「受けている時には気づかなかったのか?」
「周囲が普通にしていましたので」
その一言で、笑みが消えた。
「周囲が普通にしていた?」
「はい」
アイゼルが身を乗り出す。
「アリッサ。そこは重要だ。お前が教導を受けた時、周囲の者たちは驚いていなかったのか?」
「私が能力を習得したことに、ですか?」
「ああ」
「特には」
アイゼルとカイゼルが顔を見合わせた。
アリッサが特別だったのなら、周囲は驚く。
外国から来たCランク冒険者が数日で六属性を扱い、飛行し、索敵し、念動や念話まで使えるようになった。
シュタインフェルトなら大騒ぎになる。
だが、第78では違った。
「つまり第78では、教導を受ければ人が変わること自体が珍しくない」
軍務卿が言った。
「そう考える方が自然だな」
カイゼルが答える。
「ただし、第78で見た範囲の話だ。三十五億人すべてが同じとはまだ言えん」
「はい」
アイゼルもそこは崩さなかった。
分からないものを勝手に事実へ変えてはいけない。
だが、確認できた事実だけでも十分だった。
アリッサは教導によって変わった。
ロルフも本国で教導を受けている。
三十五億人が教導済みだという記録がある。
そして第78では、その教導が特別なものとして扱われていない。
「陛下」
アイゼルが口を開いた。
「先ほどの問いへの答えが、少し見えてきたように思います」
「何に対して彼らが動くのか、という話か?」
「はい」
アイゼルは娘を見る。
「おそらく、アルデバランは三十五億人を兵士として統制しているのではありません」
「私もそう思う」
「命令で動かすために教導しているのでもない」
「少なくともアリッサの話からは、そう見えるな」
「ならば――」
アイゼルは少し考えた。
「一人一人が、自分で判断して動けるようにしているのではないでしょうか」
カイゼルは答えず、続きを待った。
「料理人は料理をする。職人は物を作る。商人は商売をする。冒険者は依頼を受ける。それぞれが自分の仕事をしながら、必要な時には持っている能力を使う」
「国から命じられなくても?」
「その可能性があります」
軍務卿が低く呟いた。
「それは軍隊より厄介ではないか」
「敵に回した場合はな」
カイゼルが答える。
「命令系統を断てば止まる軍隊とは違う」
アイゼルも頷いた。
「少なくとも、そういう社会である可能性は考えておくべきです」
カイゼルは三十五億人と書かれた報告書を見た。
そして、ようやく数字から目を離した。
「分かった」
静かな声だった。
「三十五億人が恐ろしいのではない」
軍務卿が王を見る。
「では?」
「三十五億人を教導できたことだ」
カイゼルは続ける。
「人を集めただけなら巨大な国だ。三十五億の兵士を抱えているなら巨大な軍事国家だ。だが、今聞いている話はそのどちらとも違う」
飛べる。
戦える。
治せる。
探せる。
意思を伝えられる。
それでも料理人は料理人として暮らす。
「力を持つ者を一か所へ集めているのではない」
アイゼルが言った。
「社会の中へ戻している」
「ああ」
カイゼルは頷いた。
「ならば王宮や騎士団だけ見ても何も分からん」
市場を見る。
工房を見る。
冒険者ギルドを見る。
そこで働く普通の国民を見る。
「アルデバランへ行ったら、まず民を見よう」
「はい」
「軍事施設より先にだ」
軍務卿も異論を唱えなかった。
カイゼルは最後に報告書を閉じた。
三十五億人、教導済み。
もはやそれは、三十五億人分の戦力を意味する言葉ではなかった。
シュタインフェルトが本当に警戒すべきもの。
それは三十五億人を兵士へ変える仕組みではない。
三十五億人を、それぞれの場所で自分の力を使える人間へ変えた仕組みだった。




