196 気持ちの変化
百十万人まで増員されたアルデバラン王国騎士団は、五十カ国調査を一気に加速させた。
次の対象は十カ国。
ローゼンブルク王国。
ラグナリア王国。
グラン・ヴァリア王国。
エステル王国。
ソールディン王国。
ミストレイク王国。
フェルディニア王国。
フィリア王国。
ドラグノア王国。
アースバーン王国。
いずれも人口約二千万人。
そして、それぞれが約二千万人もの奴隷を抱えていた。
十カ国を合わせれば国民約二億人。
奴隷も約二億人になる。
国家の制度には多少の違いがあった。
だが、人間を所有物として扱っていることに違いはない。
奴隷を使って食料を生産する。
鉱山で働かせる。
武器を作らせる。
運搬をさせる。
人間を売買し、逆らえば罰する。
逃げれば捕らえる。
調査済みの情報を確認したアイク、アッシュ、ロックウェルの判断は一致していた。
人類の敵国家。
十カ国の調査と討伐に投入される騎士は十万人。
一カ国につき一万人。
十カ国で同時に作戦を進める。
その中には、これまで調査を担当してきた若手騎士たちの姿もあった。
ポリー、スカーレット、レベルの一班。
アメリア、アドリアーナ、クリスティの二班。
フェビー、レキシー、アビー、イザベラの三班。
十人は保養を終えていた。
十分に休んだ。
神官と話した者もいる。
何も話さず過ごした者もいる。
大聖堂の前で、ヴェロン王国から保護された孤児たちが飛行魔法を使いながら清掃する姿を眺めていた者もいる。
そして十人は、自分たちの意思で再び調査への参加を希望した。
アイクは確認した。
「参加を強制するつもりはない。本当にいいのだな?」
ポリーが答えた。
「はい。行きます」
スカーレットも頷く。
「私も行きます」
残る八人も同じだった。
アイクはそれ以上聞かなかった。
「分かった。ただし無理はするな」
「はい」
十カ国で作戦が始まった。
やることはこれまでと同じだった。
まず、アボートの嵐。
十カ国で徹底的に行う。
同時に馬の回収も始まった。
軍が所有する馬。
貴族が所有する馬。
各地にいる馬が次々と回収されていく。
武器も残さない。
武器工房。
武器庫。
兵舎。
城。
貴族の屋敷。
確認できる武器を徹底的に回収した。
そこまで終えてから鑑定に移る。
一人ずつ確認する。
数が多くても手順は変えない。
国籍だけで判断しない。
身分だけでも判断しない。
奴隷だからという理由だけで保護することもない。
一人一人を鑑定する。
そして念話。
『ここから離れたいですか?』
『はい』
『保護を希望しますか?』
『お願いします』
本人の意思を確認する。
保護を望む者だけを保護する。
何度繰り返しても、ここだけは省略しなかった。
十カ国で次々と人々が保護されていった。
そして最後に残った者たち。
鑑定によって悪人と判断された者たちだった。
悪人討伐が始まる。
ポリーは目の前にいる者を見た。
以前と同じだった。
これから人を屠る。
その事実は何も変わっていない。
怖くなくなったわけでもない。
「大丈夫?」
スカーレットが尋ねた。
ポリーは頷く。
「大丈夫」
以前とは少しだけ意味が違った。
平気になったわけではない。
慣れたわけでもない。
屠った人間のことも覚えている。
忘れたわけではなかった。
保養中に何度も思い出した。
それでも、今は知っている。
ヴェロン王国から保護された孤児たちは生きていた。
飛行魔法で空を飛び、オリハルコンの大聖堂を清掃していた。
笑っていた。
自分たちの仕事を見つけていた。
そして何も知らないまま、疲弊した騎士たちの心まで癒していた。
保護の先に何があるのか。
それを自分の目で見た。
ポリーは前を見る。
悪は許したくない。
許さない。
それだけだった。
人を屠ることを好きになる必要などない。
慣れる必要もない。
忘れる必要もない。
それでも、やらなければならないことはある。
十万人の騎士たちの心は、以前より少し軽くなっていた。
強くなったからではない。
何のために自分たちがここにいるのか。
その答えを、以前より知っていたからだった。
十カ国で悪人討伐が始まった。
騎士たちが選んだ方法は、これまでにも使ってきたものだった。
「バインドバレット」
拘束の魔法が次々と放たれる。
逃げようとする者。
抵抗しようとする者。
騎士たちは一人ずつ拘束していった。
そしてウォーターマスク。
拘束された者たちを水が覆う。
十カ国で同じ処理が進められていった。
ポリーも魔法を放つ。
スカーレット。
レベル。
三人は互いの位置を確認しながら進んだ。
別の国ではアメリア、アドリアーナ、クリスティ。
さらに別の国ではフェビー、レキシー、アビー、イザベラ。
十人だけではない。
今回参加した十万人の騎士たちが、それぞれの担当区域で悪人を屠っていく。
騎士たちは笑わない。
歓声も上げない。
討伐数を競う者もいない。
淡々と進める。
だが、以前とは違っていた。
手が止まる者が少なくなっていた。
人を屠ることに慣れたからではない。
目の前の者が何をしてきたのかを、すでに鑑定で確認している。
奴隷を売った者。
奴隷を傷つけた者。
人間を所有物として扱ってきた者。
それを当然だと思い続けてきた者。
騎士たちは、その一人一人を確認した上でここに立っている。
ポリーの前に、一人の男が拘束されていた。
鑑定した内容は覚えている。
何人もの奴隷を扱ってきた男だった。
ポリーは目を逸らさなかった。
以前なら考えただろう。
自分がこの男を屠っていいのか。
その問いが消えたわけではない。
ただ、その前に別のものを考えるようになった。
この男を放置すれば、また誰かが苦しむ。
保護された者たちを、再び同じ場所へ戻すわけにはいかない。
「ウォーターマスク」
魔法を使った。
男の命が失われる。
ポリーはそれを見届けた。
何も感じないわけではない。
胸の奥に重いものは残る。
だが、以前のように自分の行為だけを見続けることはなくなっていた。
少し離れた場所でスカーレットも討伐を続けている。
レベルも同じだった。
しばらくして三人が合流した。
「大丈夫?」
今度はポリーが尋ねた。
スカーレットが答える。
「大丈夫」
レベルも頷いた。
「私も」
それ以上は聞かなかった。
本当に苦しくなれば報告する。
眠れなくなれば休む。
食欲がなくなれば休む。
屠った者の顔が離れなくなれば休む。
そのための場所があることを知っている。
神官もいる。
仲間もいる。
そして休んだからといって、騎士でなくなるわけでもない。
それだけでも違っていた。
討伐は続いた。
「バインドバレット」
拘束する。
「ウォーターマスク」
屠る。
また次へ進む。
十万人の騎士たちが、十カ国で同じことを繰り返した。
一方、保護された人々は次々と安全な場所へ移されていた。
長い間奴隷だった者もいる。
生まれたときから奴隷だった者もいる。
自由というものを知らない者までいた。
一人の女性が念話で尋ねた。
『本当に働く場所を自分で選べるのですか?』
騎士が答える。
『はい』
『農業でも?』
『もちろんです』
『途中で変えても?』
『構いません』
女性からしばらく返事がなかった。
やがて、
『ありがとうございます』
短い言葉が返ってきた。
それを聞いた騎士は、目を閉じた。
ほんの僅かな時間だった。
そして次の仕事へ戻った。
守るだけでは終わらない。
保護した者には、その先がある。
ヴェロン王国から来た孤児たちがそうだった。
いつか、この女性も誰かを助けるかもしれない。
そんなことは分からない。
分からなくてもよかった。
今は保護する。
そして悪を残さない。
騎士たちの気持ちは変わっていた。
屠ることへの抵抗を失ったのではない。
人の命を軽く見るようになったのでもない。
むしろ逆だった。
人の命を軽く扱う者を、以前より許せなくなっていた。
悪は許したくない。
許さない。
その思いを抱いたまま、十万人の騎士たちは任務を続けた。
十カ国での調査と討伐は続いていた。
鑑定。
念話。
意思確認。
保護。
そして悪人討伐。
手順を変える者はいなかった。
やがて、十カ国から保護された人々の数が二億人を超えた。
その中には、親を失った子供たちも大勢いた。
孤児だけで五千万人を超える。
以前なら、その数字を聞いた騎士たちは言葉を失っていただろう。
一万人。
十万人。
百万人。
千万人。
任務を重ねるたびに、途方もない数字が積み上がってきた。
だが、今の騎士たちは数に拘らなくなっていた。
二億人だから助けるのではない。
五千万人の孤児がいるから助けるのでもない。
目の前に一人いれば、その一人に聞く。
『保護を希望しますか?』
『はい』
ならば保護する。
それだけだった。
ポリーたちも同じだった。
端末に表示される保護人数を見ても、以前のように驚くことはない。
スカーレットが言った。
「また増えたね」
「うん」
ポリーはそれだけ答えた。
レベルが次の対象へ鑑定を使う。
まだ終わっていない。
ならば続ける。
二億という数字を見るより、目の前にいる一人を見る。
騎士たちは、いつの間にかそう考えるようになっていた。
アルデバラン王国では、保護された人々への教導が続いている。
住む場所を用意する。
食事を提供する。
魔力操作。
魔力循環。
生活に必要なことを教える。
そして仕事を選んでもらう。
農業。
料理。
紡織。
商業。
行政。
騎士。
冒険者。
神官。
選択肢はいくらでもあった。
一度選んだ仕事を、生涯続けなければならないわけでもない。
自分で選ぶ。
合わなければ別の仕事を選ぶ。
保護された者たちは、少しずつ自分の生活を作り始めていた。
そして季節は秋を迎えていた。
収穫の季節。
王国各地の農地で、作物が一斉に収穫される。
麦。
大豆。
野菜。
果物。
これまで拡大を続けてきた農地から、大量の食料が運び出されていった。
倉庫へ運ぶ者。
仕分けする者。
各地へ送る者。
新しく教導を終えた者たちも、その中で働いていた。
人口は増え続けている。
それ以上の速度で、生産する人間も増えていた。
収穫量が集計される。
その数字を見た行政官が何度も確認した。
食料充足率。
一時的に千パーセントを超えていた。
十倍以上の人口を養えるだけの食料が、秋の収穫によって確保されたことになる。
食料不足を心配する必要はなかった。
むしろ問題になるのは、これほどの食料をどう保存し、どう使うかだった。
そんな中、ミストバルカス公国との協議も進んでいた。
移住するのは希望者だけ。
そして教導を終え、自立して生活できる者。
条件は最初から変わっていない。
希望者は多かった。
最終的に、約一億四千万人がミストバルカス公国への移住を選んだ。
移住の日。
人々は自分の荷物を持ち、新しい土地へ向かう準備をしていた。
強制されている者はいない。
アルデバラン王国に残ることもできる。
別の場所で暮らすこともできる。
その中から、自分で選んだ。
一人の女性が振り返った。
保護されてから暮らした場所を見る。
隣には子供がいる。
「行こうか」
「うん」
二人は笑っていた。
周囲にも同じような人々がいる。
不安がないわけではない。
初めて暮らす国へ行くのだから当然だった。
それでも、その表情は明るかった。
騎士たちは移住していく人々を見送った。
一億四千万人。
以前なら、その数字の大きさに圧倒されていたかもしれない。
今は違う。
笑っている。
それで十分だった。
保護した人数ではない。
移住した人数でもない。
自分で行き先を選び、自分の足で新しい生活へ向かっている。
騎士の一人が小さく呟いた。
「よかったな」
隣の騎士が頷いた。
「ああ」
秋の空の下。
かつて奴隷だった人々が、新しい土地へ向かっていく。
誰かに売られるためではない。
誰かに命令されたからでもない。
自分で選んだ場所へ。
皆、笑顔だった。
ミストバルカス公国への移住が進んでいた頃、アレクサンドのもとへライラ女王から念話が届いた。
『アレクサンド様、お願いがございます』
「なんでしょう?」
『オーキス陛下に謁見をお願いしたいのです』
「分かりました。確認いたします」
アレクサンドはすぐに王宮へ確認を取った。
返事は早かった。
オーキスは快諾した。
「いつでも構わぬ。こちらで迎えよう」
その返事をアレクサンドから伝えられたライラは、すぐに訪問の日程を決めた。
数日後。
ミストバルカス公国から使節団がアルデバラン王国へ転移してきた。
ライラ女王。
アンドリュー宰相。
レイラ防衛大臣。
以前にもアルデバラン王国を訪れた三人だった。
王宮ではオーキスとバイオレット、マーガレット、クレインたちが迎える。
三人はオーキスの前へ進んだ。
以前なら、ここで跪いていただろう。
だが、それは前回の訪問で止められている。
ライラは深く頭を下げた。
「オーキス陛下。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「よく来られた、ライラ女王」
ライラが顔を上げる。
その表情には喜びがあった。
「本日は、ご報告とお礼に参りました」
オーキスは頷く。
「聞こう」
「我が国の人口が、一億五千万人に達しました」
オーキスが僅かに目を見開いた。
ライラは続ける。
「アルデバラン王国から移住してくださった方々のおかげです」
今回だけでも約一億四千万人。
それ以前から暮らしていた者たちを合わせ、ミストバルカス公国の人口は一億五千万人に達していた。
アンドリューも頭を下げた。
「教導を終えた方々ばかりです。農業、商業、行政、建設、様々な分野で、すでに働き始めております」
レイラも続ける。
「我が国だけでは、これほど短期間に国を発展させることはできませんでした」
「いや……」
オーキスは少し困った顔をした。
「移住を決めたのは本人たちだ。余が命じたわけではない」
「それでもです」
ライラははっきり答えた。
「その方々を保護し、食事を与え、住む場所を用意し、教導し、自分で生きられるようにしてくださったのはアルデバラン王国です」
オーキスはますます恐縮した。
「こちらも人口が増えすぎて困っておった。受け入れていただいて助かったのはこちらも同じなのだが」
バイオレットが微笑む。
マーガレットも隣で笑っていた。
ライラたちにとっては大恩だった。
オーキスにとっては、互いに助かっただけだった。
話が一段落したところで、食事が用意された。
この日のために王宮へ呼ばれていた男がいる。
マルセル。
現在は民間で料理人として働いている。
かつて王宮料理人だった男である。
厨房に立つマルセルに、緊張した様子はなかった。
国賓に料理を出す。
それでも、やることは普段と変わらない。
美味いものを作る。
それだけだった。
やがて料理が運ばれてきた。
ライラが一口食べる。
動きが止まった。
アンドリューも続いて口に運ぶ。
レイラも食べた。
三人が顔を見合わせた。
「……美味しい」
ライラが思わず呟いた。
次の料理にも手を伸ばす。
さらに次。
食事が進むにつれ、使節団の表情が明るくなっていった。
「こちらは王宮の料理人なのですか?」
ライラが尋ねた。
オーキスは答えた。
「いや。今は民間の料理人だ」
「民間?」
「以前は王宮料理人だったがな」
ライラが驚く。
アンドリューも料理を見る。
「これほどの料理人が民間に……」
クレインが頷いた。
「今では王都で多くの料理人が腕を磨いております」
ライラはもう一度料理を口にした。
自分たちの国へ一億四千万人もの人々を送り出してくれた。
しかも自立できるよう教導まで終えている。
その上、国賓として迎えられ、これほどの料理まで振る舞われている。
ライラはマルセルへも頭を下げた。
「素晴らしい料理をありがとうございます」
マルセルも頭を下げる。
「喜んでいただけたなら何よりです」
アンドリューとレイラも礼を述べた。
使節団の感謝の温度が、さらに上がっていく。
一方のオーキスは少し困っていた。
助けたという感覚が、それほどない。
保護を希望した者を保護した。
教導を希望した者に教導した。
移住を希望した者の行き先を作った。
ミストバルカス公国は、その人々を受け入れてくれた。
オーキスからすれば、それだけだった。
だが、ライラたちにとっては違う。
一億五千万人が暮らす国になった。
その人々が働き、食べ、笑っている。
ライラは改めてオーキスを見た。
「陛下。本当にありがとうございます」
オーキスは少し照れたように答えた。
「こちらこそ、受け入れていただき感謝する」
誰かが一方的に助けたのではない。
互いに必要なものを補った。
その結果、二つの国で多くの人々が新しい生活を始めていた。




