180 孤独死
三つの国から、人が消えていた。
独裁国家ゼノ・バルト帝国。
王宮の玉座には、国王グスタフ・アドルフが座っていた。
かつては衛兵が並び、門兵が出入りする者を監視し、文官たちが命令を受けるために廊下を行き交っていた。
今は誰もいない。
「誰かおらんのか!」
グスタフの怒声が広い謁見の間に響いた。
返事はなかった。
立ち上がり、廊下へ出る。
「衛兵!」
誰も来ない。
「門兵! 文官! 誰でもいい! 食事を持ってこい!」
声だけが石壁に反響した。
グスタフは強かった。
大柄な身体と怪力を持ち、逆らう者を力で押さえつけてきた。
だが、その力では麦を育てられない。
パンを焼くこともできない。
誰もいない厨房には、空になった保存容器が転がっていた。
最後にまともな食事を取ってから、すでに一週間が過ぎていた。
それでもグスタフは、自分が何を失ったのか理解していなかった。
自分は王だ。
命令すれば人は動く。
それが当然だった。
ただ、命令を聞く人間が、もういなかった。
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灰塵の荒野ヴォルガ。
女帝イルザ・フォン・シュタールもまた、誰もいない宮殿に残されていた。
五万人を送り出した。
戻らなかった。
次に二十万人を送り出した。
それも戻らなかった。
武器も、防具も、兵站物資も戻ってこなかった。
その後、兵が消えた。
役人が消えた。
民が消えた。
命令を出しても、それを実行する者がいなくなった。
奪いに行く兵もいない。
奪った物を運ぶ者もいない。
そもそも、奪うための軍隊そのものが消えていた。
イルザは食料庫へ向かった。
何もなかった。
棚の奥まで探したが、食べられる物は残っていない。
「役人は何をしている……」
呟いても答える者はいなかった。
イルザは壁にもたれ、その場に座り込んだ。
腹が減っていた。
だが、食料を作るという発想はなかった。
不足すれば、どこかから持ってくる。
これまで、それで生きてきた。
しかし今は、持ってくる人間がいなかった。
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神聖アーリア王国。
ザルヴァール・フォン・アウレリウスは、薄暗い玉座の間にいた。
美しく整えられていた衣服は汚れ、頬は痩せていた。
それでも王冠だけは外していない。
「愚かな者どもだ」
弱々しい声が漏れた。
神に選ばれた民でありながら国を捨てた。
王に仕える栄誉を捨てた。
自分たちが世界の上に立つべき存在であることさえ忘れた。
ザルヴァールには、そうとしか考えられなかった。
自分が捨てられたとは思わない。
自分が間違っていたとも思わない。
最後まで、自分は選ばれた王だった。
ただし、その王を王と呼ぶ者は、もう一人もいなかった。
三国の王宮で、三人の支配者がそれぞれ息を引き取った。
誰にも看取られなかった。
誰かに討たれたわけでもない。
処刑されたわけでもない。
二十万人を送り出した二度目の侵攻から、ちょうど一月。
三人は、ただ飢えて死んだ。
その頃。
アルデバラン王国では朝を迎えていた。
街道を人々が行き交い、工房から仕事を始める音が聞こえる。
市場には朝早くから食材が並び、食堂では湯気が上がっていた。
三国から流入した亡命者は、それぞれ五百万人。
合わせて千五百万人に達していた。
アルデバラン王国の人口は、八千五百万人となった。
かつて三人の支配者の下にいた民たちは、その朝も元気に仕事へ向かっていた。
三国から亡命してきた人々の生活は、すでに動き始めていた。
千五百万人という膨大な人数が流入したが、アルデバラン王国の街や村が混乱することはなかった。
食料は十分にある。
住居は土魔法を使える者たちが次々と建てている。
衣服は各地の紡織工場から供給され、公衆浴場も増設された。
そして亡命者たち自身が、教導を受けた直後から働き始めていた。
農業。
建築。
料理。
紡織。
商業。
運送。
新しく教導を受けた者の中から、さらに教師になる者も現れている。
保護された人間が、次に来た人間を支える。
千五百万人をいつまでも誰かが養う必要はなかった。
二度の侵攻で捕虜となった元兵士たちも同じだった。
鑑定と教導を受けた彼らの多くが、新しい仕事を選んだ。
魔物狩りである。
ただし、冒険者ではなかった。
冒険者ギルドからクエストを受けることはない。
護衛もしない。
採取もしない。
依頼を求めて各地を渡り歩くこともない。
彼らの仕事は、人々の生活圏に入り込んだ魔物を狩ることだけだった。
街道。
農地。
牧草地。
村や町の周辺。
人口が八千五百万人まで増えれば、人間の生活圏も広がる。
新しい農地が拓かれ、新しい街道が延びれば、それまで人が入らなかった場所にも生活圏が広がっていく。
そこに現れる魔物を狩る者が必要だった。
守備兵とも少し違う。
騎士でもない。
魔物狩りを専門とする兵。
まだ正式な呼び名すら決まっていなかったが、彼ら自身はその仕事を気に入っていた。
剣も槍も持たない。
鎧も着ない。
六属性の魔法に加え、テレキネシス、テレパシー、レビテーションを使える。
そして移動には飛行魔法を使った。
ある日の朝、農地から離れた森でオークの群れが確認された。
知らせを受けた十人が飛行魔法で現地へ向かう。
上空から森を見下ろし、索敵を行う。
「二十三体だ」
一人の声がテレパシーで仲間へ伝わった。
「奥に五体いる」
「確認した」
長い作戦会議など必要なかった。
十人が散開した。
森から出てきたオークが頭上を見上げる。
武器を構える暇もなかった。
テレキネシスで身体が宙へ浮いた。
そのまま首が捻られる。
別の場所でも二体のオークが浮き上がった。
抵抗しようと手足を振り回すが、何にも触れられない。
次々と動かなくなっていった。
二十三体の討伐に、それほど時間はかからなかった。
地上へ降りた元兵士たちは魔石を取り出し、食用になる肉を回収する。
「終わったな」
「ああ。昼までには戻れる」
彼らの表情は明るかった。
かつては命令されるまま他国へ侵攻していた者たちである。
今は違う。
人が暮らす場所を守るために魔物を狩り、その対価として給金を受け取る。
その中には、三国で作戦参謀を務めていた者たちもいた。
最初の五万人が敗れた時点で、アルデバラン王国との戦力差に気づき、側近や家族を連れて亡命した者たちである。
今では階級も肩書も捨て、同じように魔物を狩っていた。
それで困ることはなかった。
仕事を終えれば家へ帰る。
休日には家族と街へ出る。
食堂で好きな料理を食べ、公衆浴場へ向かう。
湯船につかりながら、次の侵攻作戦を考える必要もない。
明日の食料を奪うために、誰かの土地へ攻め込む必要もなかった。
別の場所では、イメルダ・シュトラウス伯爵夫人が忙しく働いていた。
彼女の前には三国から亡命してきた未亡人たちが並んでいる。
イメルダは一人の女性に尋ねた。
「再婚する気はあるの?」
女性は少し迷ってから答えた。
「あります。ただ、子どもが二人おりますので……」
「それがどうしたの?」
イメルダは不思議そうに首を傾げた。
「あなたと子ども二人を家族として迎えたい男性を探せばいいでしょう」
そして次の情報を確認する。
年齢。
仕事。
住んでいる場所。
本人の希望。
子どもとの生活を望んでくれる相手。
三国が消えても、人々の暮らしは続いていく。
いや、彼らにとっては、ようやく自分で選べる暮らしが始まったところだった。
イメルダは次の女性を呼んだ。
彼女には彼女で、やるべきことが山ほどあった。
イメルダ・シュトラウス伯爵夫人の忙しさは、以前とは比較にならないものになっていた。
三国から流入した亡命者は千五百万人。
当然、その中には独身者も多い。
夫を失った女性。
妻を失った男性。
結婚する機会そのものがなかった者。
子どもを連れて亡命した未亡人も少なくなかった。
イメルダにとって、それは放っておける話ではなかった。
結婚斡旋ギルドには、亡命者専用の受付が設けられていた。
「次の方」
呼ばれて入ってきた女性は、まだ若かった。
隣には十歳ほどの少年と、それより幼い少女がいる。
イメルダは三人を見てから尋ねた。
「仕事は?」
「今は紡織工場で働いています」
「楽しい?」
女性は少し驚いた顔をした。
仕事の有無を聞かれると思っていた。
だが、楽しいかどうかを聞かれるとは思っていなかった。
「はい。覚えることは多いですが、楽しいです」
「それなら結構」
イメルダは頷いた。
「再婚は?」
女性は子どもたちを見る。
「できるなら……でも、この子たちがいます」
「だから何なの?」
また同じ答えだった。
イメルダには、それが再婚を諦める理由には思えない。
「子どもが二人いる。それを最初から相手に伝える。あなた一人ではなく、三人を家族として迎えたい男性を探す。それだけでしょう?」
女性は返事ができなかった。
難しい話ではない。
少なくともイメルダにとってはそうだった。
端末を操作し、条件に合う登録者を確認する。
独身男性。
子どもとの生活を希望。
居住地は同じ町。
仕事は食品加工。
年齢も近い。
「この人、一度会ってみる?」
女性が端末に表示された情報を見る。
「私が選んでもいいのですか?」
「あなたの夫でしょう。私が選んでどうするのよ」
イメルダは呆れたように言った。
女性はしばらく画面を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「会ってみたいです」
「では決まりね。会ってから嫌なら断ればいいわ」
それで話は終わった。
次の女性が入ってくる。
イメルダは休む暇もなく話を聞き始めた。
その様子を見ていた結婚斡旋ギルドの職員たちも、次々と登録情報を整理している。
千五百万人が移り住めば、新しい出会いも生まれる。
亡命によって壊れた家族もあれば、亡命したからこそ生まれる家族もあった。
一方、王都の共同管理システムには、三国に関する情報が集まり続けていた。
王宮ではオーキス、バイオレット、クレイン、アイクたちが端末を確認している。
三国の人口移動。
旧軍人の状況。
亡命者の就業状況。
食料供給。
住宅建設。
学校。
公衆浴場。
医療施設。
確認する項目は多かった。
三人の首脳が死亡したことも、すでに記録されていた。
オーキスは表示を見た。
「餓死か」
クレインが頷く。
「そのようです」
それだけだった。
誰かが喜ぶこともない。
勝利を祝う者もいない。
三人を討ち取った英雄もいなかった。
そもそもアルデバラン王国は、三人を倒すための兵を一人も送っていない。
アイクが別の情報を表示した。
「旧三国領からの亡命希望者は、まだ残っています」
オーキスの視線はすぐにそちらへ移った。
「受け入れを続けろ」
「はい」
「食料と住居は?」
クレインが確認する。
「問題ありません。農地の拡張も進んでいます」
「教師は?」
「亡命者の中から育っています」
オーキスは頷いた。
三人の死について、それ以上の話は出なかった。
王が三人死んだ。
だが、今生きている人間の方が重要だった。
その日の王都でも、人々はいつも通り働いていた。
食堂では料理人が鍋を振るい、紡織工場では布が織られ、学校では教師が子どもたちに文字を教えている。
魔物狩り専門の兵たちは、次の担当区域へ飛行魔法で向かっていた。
三人の王がいなくなっても、何も止まらなかった。
むしろ三人がいなくなったことに気づかない者の方が多かった。
三国の首脳が死んだという事実は、共同管理システムを通じて各地へ伝えられた。
だが、それによって仕事を止める者はいなかった。
旧ゼノ・バルト帝国の兵士だった男は、朝から農地の近くを飛行していた。
索敵に反応がある。
フォレストウルフの群れだった。
テレパシーで仲間へ知らせる。
ほどなく別の方向から仲間たちが飛んできた。
「十五体」
「農地まで二キロもないな」
「ここで狩ろう」
それだけで動き始めた。
フォレストウルフが気づいた時には、数体がテレキネシスで宙に浮いていた。
別の者が風魔法を放つ。
短時間で討伐は終わった。
死骸を回収し、周辺をもう一度索敵する。
問題がないことを確認すると、一行は帰路についた。
「今日は早かったな」
「昼飯に間に合う」
そんな会話をしながら飛んでいく。
かつて彼らは、命令されれば他国へ侵攻していた。
何のために戦うのかを考えることもなかった。
今は違う。
魔物を狩れば、農民が安心して畑で働ける。
街道を守れば、商人が安全に荷物を運べる。
自分たちの仕事が何につながっているのか、目で見ることができた。
王都へ戻った元作戦参謀の一人も、その日は昼過ぎに仕事を終えた。
家に帰ると、妻と二人の子どもが待っている。
「お父さん、お帰り!」
飛びついてきた娘を抱き上げる。
「ただいま」
以前なら、この時間にも軍議が続いていた。
兵数。
補給。
侵攻経路。
どの村から食料を徴発するか。
どこへ兵を送るか。
それを考えるのが仕事だった。
今は、明日の担当区域を確認すれば仕事は終わる。
その日は休日前だった。
「明日はどこへ行く?」
妻が聞いた。
「昼は外で食べよう。そのあと風呂に行くか」
子どもたちが喜んだ。
それだけの予定だった。
だが、男はその生活を気に入っていた。
一方、結婚斡旋ギルドでは、イメルダがまだ働いていた。
「次」
職員が苦笑する。
「伯爵夫人、少しお休みになってください」
「まだこんなにいるじゃない」
待機者の人数が端末に表示されている。
亡命者が千五百万人もいれば、一日や二日で終わるはずがない。
すでに王国内の独身者との照合も始まっていた。
農民。
職人。
料理人。
商人。
教師。
冒険者。
魔物狩り専門の兵。
職業も出身も問わない。
本人たちが会いたいと思えば、まず会わせる。
合わなければ次を探す。
イメルダにとっては、それだけのことだった。
「この男性は?」
職員が一件の情報を表示した。
三十二歳。
旧ヴォルガ出身。
現在は建築関係の仕事をしている。
未婚。
相手に子どもがいても構わない。
「いいじゃない。近くに希望の合う女性はいないの?」
「三人います」
「なら三人とも情報を見せて。選ぶのは本人よ」
職員が操作を始める。
イメルダは次の登録者へ目を移した。
三つの国がなくなった。
だが、そこに暮らしていた人間まで消えたわけではない。
住む場所が変わった。
仕事が変わった。
付き合う人間が変わった。
家族が増える者もいる。
子どもたちは学校へ通い、大人たちは働き、休日には食事や入浴を楽しむ。
市場では旧三国出身の料理人が店を開き始めていた。
故郷で作っていた料理に、アルデバラン王国で知った調味料を合わせる者もいる。
それを食べた別の料理人が、また違う料理を考える。
紡織工場でも、建築現場でも、農地でも同じだった。
持ってきた知識と、新しく知った技術が混ざっていく。
誰かに命令されたわけではない。
人が動けば、自然にそうなった。
夕方。
王都の大通りには仕事を終えた人々が増えていた。
食堂から料理の香りが漂う。
公衆浴場へ向かう家族もいる。
買い物をする者もいる。
明日の仕事について話す者もいる。
その中に、三国の王の死を話題にする者はほとんどいなかった。
三人は、自分たちこそ国そのものだと思っていた。
だが三人が死んでも、人々の生活は続いている。
誰も三人を倒しに行かなかった。
誰も玉座を奪わなかった。
誰も三国を征服しなかった。
ただ、人々がそこからいなくなった。
そして人々は、自分たちが選んだ場所で新しい生活を始めていた。
三人の王が死んだ日も、アルデバラン王国ではいつもと変わらない一日が暮れていった。




