179 無策 あまりにも愚かしい。バカすぎる。2
第二次侵攻の敗北は、三国の軍に第一次侵攻とは比較にならない衝撃を与えていた。
ゼノ・バルト帝国。
灰塵の荒野ヴォルガ。
神聖アーリア王国。
三国合わせて六十万の兵を送り出した。
帰ってきた者はいない。
五十四万人が捕虜となり、六万人の指揮官と司令官が処刑された。
第一次侵攻で処刑された三千人を合わせれば、六万三千人。
その数字を最も重く受け止めたのは、三国の軍人たちだった。
特に指揮官級、司令官級の者たちである。
ゼノ・バルト帝国の軍施設では、数人の指揮官が人目を避けて集まっていた。
「六万三千人だ」
一人が低い声で言った。
誰も答えない。
「次に侵攻を命じられたら、俺たちが指揮することになる」
「断れば?」
「陛下が許すと思うか?」
答えは分かっていた。
命令に従えば、アルデバラン王国へ行く。
三度の警告を無視して侵攻すれば、今度は自分たちが処刑される。
命令を拒否すれば、グスタフ・アドルフに処罰される。
残っている限り、どちらへ進んでも先がない。
「俺は出る」
一人が立ち上がった。
「アルデバランへ行く」
別の男も頷いた。
「俺もだ」
それが始まりだった。
指揮官が消える。
司令官が消える。
その副官も消える。
さらに、その家族まで国を離れ始めた。
グスタフは激怒した。
「逃亡者を捕らえろ!」
命令を受けた兵士たちは動かなかった。
「聞こえなかったのか! 捕らえろ!」
将校が兵士たちを怒鳴る。
それでも動かない。
兵士の一人が口を開いた。
「捕まえて、どうするんです?」
「見せしめにする!」
「誰のために?」
将校が言葉を失った。
兵士たちは第一次侵攻も第二次侵攻も知っている。
五万を失った。
次は二十万を失った。
敵の破壊不能ゴーレムは一体も壊せなかった。
それでも国王は攻撃を命じた。
そして責任を取ったのは、戦場へ送られた指揮官と司令官だった。
兵士たちの中で、何かが切れていた。
灰塵の荒野ヴォルガでも同じだった。
「脱走者を処刑しなさい」
女帝イルザ・フォン・シュタールが命じた。
だが、処刑する兵が集まらない。
「命令よ!」
兵士たちは互いの顔を見るだけだった。
一人が小さく呟いた。
「次は俺たちかもしれない」
二十万を失った。
大量の武器と防具も失った。
兵站部隊が運んだ物資まで失った。
それでも女帝は何の責任も取っていない。
命令した者は王宮にいる。
死ぬのは前線へ送られた者だった。
神聖アーリア王国でも、ザルヴァール・フォン・アウレリウスが同じ問題に直面していた。
「逃亡者を捕らえろ!」
兵士たちは動かなかった。
「これは王命だぞ!」
それでも動かない。
ついには一人の兵士が武器を地面へ置いた。
「もう嫌です」
「何だと?」
「俺も亡命します」
周囲の兵士たちが、その男を捕らえることはなかった。
それどころか、もう一人が武器を置いた。
「俺も行く」
さらに一人。
また一人。
三国の首脳は、ようやく異変の大きさを知った。
命令を出しても兵が動かない。
見せしめにしようとしても、その見せしめを実行する兵がいない。
ならば自分で捕らえるしかない。
自分で処刑するしかない。
支配者の命令を実行する者そのものが消え始めていた。
その時、三国の空に巨大な映像が現れた。
『アルデバラン王国より告げる』
風魔法によって声が広がる。
街にも。
農村にも。
軍施設にも。
『我が国への亡命を希望する者を受け入れる』
映像には、第二次侵攻で捕虜となった兵士たちが映っていた。
温かい食事を食べている。
負傷者は治療を受けている。
『武器を捨て、敵対意思を持たず国境へ来る者には危害を加えない』
放送が終わる。
しばらくすると、また最初から始まった。
『アルデバラン王国より告げる』
何度も。
何度も。
投降と亡命を勧める映像と風魔法放送が、三国の空で繰り返された。
そして、その放送を聞くたびに兵士が消えた。
民が消えた。
指揮官が消えた。
三国の首脳には、それを止める方法がなかった。
ゼノ・バルト帝国では、亡命の流れが軍人だけでは収まらなくなっていた。
最初に動いたのは、次の侵攻で指揮を命じられる可能性が高い指揮官や司令官だった。
その家族が続いた。
さらに兵士たちが続く。
そして、それを見ていた民が動き始めた。
「本当に受け入れてもらえるのか?」
「昨日、隣の一家が出た」
「捕まらなかったのか?」
「門の兵士が見逃したらしい」
そんな話が街のあちこちで交わされるようになった。
以前なら、亡命を口にしただけでも密告されていた。
今は違う。
監視する側の兵士まで、アルデバラン王国へ行くことを考えている。
帝都の門では、荷物を積んだ馬車が列を作っていた。
門兵が一台を止める。
「どこへ行く?」
御者が緊張した顔で答えた。
「……アルデバラン王国へ」
門兵は黙った。
命令では捕らえなければならない。
だが、男の荷台には妻と幼い子どもがいる。
門兵は周囲を見た。
そして道を空けた。
「行け」
「いいのですか?」
「早く行け」
馬車が門を抜ける。
それを見ていた別の門兵が尋ねた。
「見逃していいのか?」
「なら、お前が捕まえるか?」
返事はなかった。
灰塵の荒野ヴォルガでは、さらに深刻だった。
第二次侵攻で二十万の兵だけでなく、大量の食料まで失っている。
兵站部隊を最前線へ同行させたためだった。
本来なら国内で消費されるはずだった穀物。
干し肉。
塩。
保存食。
それらを大量に積んだ荷車がアルデバラン王国側に残された。
食料庫を確認した役人が青ざめる。
「これでは持たない」
残っている兵士へ十分な食事を与えることさえ難しくなり始めていた。
女帝イルザ・フォン・シュタールは報告を聞いた。
「徴収しなさい」
「どこからでしょうか?」
「民からよ」
役人は顔を上げた。
「すでに徴収しています」
「なら増やしなさい」
「これ以上は――」
イルザが睨む。
役人は口を閉じた。
食料がない。
だから民から取る。
民から取れば、民が食えなくなる。
食えなくなった民は亡命する。
残った民から、さらに取る。
誰にも止められなかった。
神聖アーリア王国でも、ザルヴァール・フォン・アウレリウスが臣下を集めていた。
「次の軍を編成しろ」
誰も答えない。
ザルヴァールの眉が動いた。
「聞こえなかったのか?」
軍務を担当する貴族が恐る恐る答えた。
「陛下……難しいかと」
「何がだ?」
「兵が集まりません」
「徴兵しろ」
「徴兵を命じる兵士が足りません」
ザルヴァールが立ち上がる。
「ならば残っている兵を使え!」
「その兵も、命令に従わなくなっています」
広間が静まり返った。
ザルヴァールには理解できなかった。
王が命じる。
兵が従う。
民が従う。
それが当然だった。
「我々は選ばれた民だぞ」
誰も答えなかった。
「なぜ従わない!」
答えは王宮の外にあった。
上空に再び巨大な映像が現れる。
『アルデバラン王国より告げる』
風魔法による声が街中へ届いた。
『亡命を希望する者を受け入れる』
映像には、先に亡命した者たちの姿も映し出されていた。
食事を受け取る家族。
治療を受ける老人。
仕事について説明を受ける者。
そして第二次侵攻で捕虜となった兵士たち。
『国境へ向かう者を妨害する兵士に告げる』
映像が切り替わった。
『亡命を希望する者への攻撃、拘束を確認した場合、その場で制圧する』
実際に国境へ向かう街道では、亡命者を止めようとした部隊が待ち構えていた。
「止まれ!」
兵士が槍を構える。
その瞬間、身体が地面へ押しつけられた。
グラビティ。
「ぐっ!」
動けない。
殺されることはなかった。
武器だけが取り上げられる。
亡命者の馬車は、その横を通過していった。
それを見ていた別の兵士が槍を捨てた。
「俺も行く」
制圧されていた兵士が顔を上げる。
「お前まで何をしている!」
「ここに残って、どうするんです?」
誰も答えられなかった。
三国の首脳も同じだった。
次の兵を出したくても兵がいない。
兵を集めようにも命令を聞かない。
民から食料を取ろうにも、民そのものが減っていく。
逃亡者を見せしめにしようとしても、それを実行する者がいない。
そして、その間にも空から声が降り続ける。
『亡命を希望する者を受け入れる』
何度止めようとしても、放送そのものを止める手段がない。
次の侵攻どころではなかった。
もう一度同じ規模の軍を出せば、今度こそ自国が維持できなくなる。
兵も少ない。
食料も少ない。
武器も防具も失った。
それでも亡命者は減らなかった。
三国の首脳は、初めて何もできなくなっていた。
三国からアルデバラン王国へ向かう人の流れは、日を追うごとに大きくなっていた。
最初は指揮官や司令官。
次に兵士。
その家族。
そして一般の民。
街道には荷物を積んだ馬車が連なり、徒歩で国境を目指す者も増えていた。
三国の首脳も、ただ見ていたわけではない。
ゼノ・バルト帝国では、グスタフ・アドルフが命じた。
「街道を封鎖しろ!」
残っている兵士たちが主要な街道へ配置された。
だが、その命令に従った者たちも積極的に亡命者を殺そうとはしなかった。
道を塞ぐ。
槍を構える。
「戻れ!」
それが精一杯だった。
老人や子どもまで混じった人々を斬れば、次に自分たちがどうなるか。
兵士たちは知っていた。
上空ではアルデバラン王国の投影放送が続いている。
そして街道の様子も、広域索敵によって確認されていた。
『警告する』
風魔法による声が響いた。
『亡命を希望する者への妨害を中止せよ』
兵士たちが空を見る。
『武器を捨て、道を開けよ』
隊長が叫んだ。
「聞くな! 陛下の命令だ!」
兵士たちは槍を握ったまま動かなかった。
『最後の警告とする』
それでも隊長は退かなかった。
「通すな!」
直後だった。
兵士の手から槍が消えた。
「え?」
隣の兵士が持っていた剣も消える。
弓も。
盾も。
腰の短剣まで消えた。
アボート。
街道を封鎖していた兵士たちの武器が、次々と没収されていく。
「俺の剣はどこだ!」
隊長が腰を見る。
何もない。
予備の短剣も消えていた。
後方に積んであった武器まで残らない。
槍。
剣。
弓。
矢。
盾。
亡命者の阻止に使える装備が徹底的に没収された。
兵士たちは素手になった。
その前を、亡命者たちが進んでいく。
誰も止められなかった。
灰塵の荒野ヴォルガでも同じだった。
女帝イルザ・フォン・シュタールは、国境へ続く街道へ兵を配置した。
「一人も通すな」
命令を受けた部隊が検問を作る。
だが亡命者の列は止まらない。
「戻れ!」
兵士が斧を構えた。
次の瞬間、その斧が消えた。
槍も消える。
剣も消える。
弓兵が背負っていた弓まで消えた。
「何だこれは!」
兵士が荷車へ走る。
予備の武器を取ろうとした。
その荷車からも武器だけが消えていた。
食料や衣類は残っている。
消えているのは、人を傷つけるために使おうとしていた武器だった。
一人の兵士が空になった鞘を見た。
「もういいだろ……」
その場に座り込む。
別の兵士が亡命者の列を見る。
「俺も行く」
「おい!」
「ここで何を守るんだ?」
答えられる者はいなかった。
兵士は兜を脱ぎ、亡命者の列へ加わった。
それを見て、さらに数人が続いた。
神聖アーリア王国では、ザルヴァールが亡命者への対応をさらに厳しくするよう命じていた。
「逃亡者を捕らえろ!」
部隊が街道へ出る。
騎士が剣を抜いた。
「王命である! 戻れ!」
剣が消えた。
騎士が固まる。
「なっ……」
隣にいた兵士の槍もない。
弓もない。
盾もない。
武器を取りに戻ろうとしても、駐屯地に残されていた予備装備までアボートによって没収されていた。
兵士たちはようやく理解した。
亡命者を止めようとすれば、武器を失う。
武器を補充しても、また失う。
隠しても同じだった。
アルデバラン王国は、亡命そのものを強制しているわけではない。
残りたい者は残ればいい。
だが、出ていこうとする者を武力で止めることは許さなかった。
やがて三国の軍内部で、別の判断が広がり始めた。
「街道へ出るな」
「どうせ武器を取られる」
「亡命者を見ても放っておけ」
命令を受けても、兵士が動かなくなった。
無理に動かせば脱走する。
街道へ配置すれば、そのまま亡命者の列へ加わる者までいる。
三国の首脳が亡命を止めようとするほど、軍から武器が消えていった。
そして武器を失った兵士たちは、空を見上げる。
『亡命を希望する者を受け入れる』
また風魔法の声が聞こえた。
一人の兵士が兜を脱いだ。
「俺も行くか」
誰も止めなかった。
亡命者を止めようとするたびに武器が消える。
その事実は、三国の軍へ急速に広まった。
ゼノ・バルト帝国では、街道封鎖を命じられた部隊が出発そのものを拒むようになった。
「第三部隊を出せ!」
上官が命じる。
誰も動かない。
「王命だぞ!」
兵士の一人が尋ねた。
「武器を持って行くんですか?」
「当然だ!」
「どうせ没収されます」
上官が言葉に詰まる。
「ならば素手で行け!」
「何をするんです?」
「亡命者を止めろ!」
「どうやって?」
答えられなかった。
武器を持って行けばアボートで没収される。
素手で数百、数千の亡命者を止めることなどできない。
無理に手を出せばグラビティで制圧される。
兵士たちはもう知っていた。
上官が怒鳴る。
「命令に逆らうつもりか!」
誰も返事をしなかった。
以前なら、その言葉だけで兵士たちは動いた。
今は違う。
処罰を命じても、それを実行する兵士が必要だった。
その兵士が動かない。
グスタフ・アドルフは報告を聞き、激怒した。
「反逆者を処刑しろ!」
臣下が黙っている。
「聞こえないのか!」
「……誰に命じますか?」
グスタフが臣下を睨んだ。
「兵に決まっている!」
「その兵が命令を聞きません」
グスタフは立ち上がった。
「ならば俺が殺す!」
それならできる。
圧倒的な体躯と怪力を持つグスタフ自身が、反抗する者を叩き潰すことはできる。
だが、一人だった。
一人を殺せる。
十人を殺せる。
百人を追い回すこともできるかもしれない。
その間に、別の場所から何千人もの民が国境へ向かう。
王一人では国全体を監視できない。
灰塵の荒野ヴォルガでは、さらに深刻な問題が起きていた。
「食料庫の残量は?」
イルザ・フォン・シュタールが尋ねる。
役人は答えに詰まった。
「報告しなさい」
「このままでは、軍への配給を維持できません」
第二次侵攻で兵站物資まで失った影響だった。
「民から徴収しなさい」
「徴収する役人が足りません」
「兵を使えばいいでしょう」
「兵が動きません」
イルザが黙った。
「では、残っている者を使いなさい」
「その者たちも、次々と亡命しています」
食料を取ろうとすれば、民が逃げる。
逃げる民を止めようとすれば、兵の武器がアボートで没収される。
武器を失った兵まで亡命する。
残った民への負担がさらに増える。
そして、また亡命者が増える。
イルザが得意としてきた計算では、もう答えを出せなかった。
神聖アーリア王国でも、ザルヴァール・フォン・アウレリウスが次の侵攻について軍務担当者を問い詰めていた。
「いつ出せる?」
誰も答えない。
「聞いている。次の軍はいつ出せる?」
軍務担当者がようやく口を開いた。
「出せません」
「何?」
「兵が足りません」
「徴兵しろ!」
「応じません」
「武器を持たせろ!」
「武器も不足しています」
第一次侵攻。
第二次侵攻。
さらに亡命阻止のために持ち出した武器まで、アボートで没収され続けている。
「作ればいい!」
「職人も減っています」
ザルヴァールの顔が引きつった。
兵がいない。
武器がない。
作る職人も減っている。
食料を生産する農民まで国を出ている。
次の兵を出せば勝てるかどうかではなかった。
次の兵を出すこと自体が難しくなっていた。
その時だった。
王都の上空に、また巨大な映像が現れた。
『アルデバラン王国より告げる』
ザルヴァールが空を睨む。
同じ放送はゼノ・バルト帝国でも、灰塵の荒野ヴォルガでも流れていた。
『亡命を希望する者を受け入れる』
映像には国境を越えた人々が映る。
食事を受け取る者。
住む場所を案内される者。
子どもを抱いた家族。
元兵士。
元農民。
元職人。
『亡命者には鑑定を行い、敵対意思のない者を保護する』
そして教導が始まる。
文字を知らない者には文字を。
仕事を持たない者には技術を。
自分で生活できる力を身につけさせる。
放送は終わった。
だが、しばらくすると再び始まる。
三国の首脳には止められない。
映像を消せない。
風魔法による声も止められない。
国境へ向かう民も止められない。
兵士も止められない。
指揮官も止められない。
三国はまだ存在していた。
王も女帝も玉座にいる。
命令を出すこともできる。
だが、その命令を実行する者がいなくなり始めていた。
三国の首脳は、気が狂いそうだった。
敵軍は攻めてこない。
城も壊されていない。
領土も奪われていない。
それなのに、自分たちが支配していた国だけが、少しずつ消えていった。




