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戦わずに世界を変えた男――教育と物流で“循環国家”を作ったら、いつの間にか大陸が一つになっていた  作者: 慈架太子


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170 適齢期

 イプシオ領の発展は、ゴーレム馬車の生産だけでは終わらなかった。


 インゴットの物納によって税収は安定した。


 王都へ納めるゴーレム馬車の生産も軌道に乗り、多くの領民が安定した収入を得るようになっている。


 だがイプシオは、一つの産業だけに領地を依存させるつもりはなかった。


「土地はまだある。農地を増やそう」


 領民たちを集め、大規模な農地造成が始まった。


 一面は十メートル四方。


 それを十万面。


 土魔法で土地を均し、石を取り除く。


 水魔法で水路を作る。


 ゴーレムも投入され、広大な土地が次々と農地へ変わっていった。


 栽培する作物も一種類ではない。


 綿花。


 大豆。


 小麦。


 根菜。


 そして砂糖黍。


 農夫たちは作物ごとに分かれて作業を始めた。


 六属性を扱える彼らの農業は、かつてのものとは違う。


 土魔法で土壌を整え、水魔法で必要な水分を与える。


 さらに畑へ向かってヒールバレットとピュリフィケーションバレットをばら撒いていく。


 光弾が広大な畑を飛び交った。


 作物の生育を助け、病害を抑える。


 そして鑑定する。


「この区画は水が少ない」


「こっちは肥料を追加しよう」


「砂糖黍はまだ早いな」


 経験や勘も大切だが、それだけに頼る必要はない。


 作物の状態を鑑定し、必要な処置を施す。


 砂糖黍では糖度まで確認した。


「こっちは十分だ。収穫できるぞ」


「了解!」


 収穫した作物はアイテムボックスへ収納され、そのまま加工施設へ運ばれていった。


 ◇


 イプシオは農作物をそのまま売ることもしなかった。


「加工すれば、もっと仕事が増える」


 農地の近くに工房や工場が建ち始めた。


 綿花は糸へ。


 糸は布へ。


 布は衣服へ。


 紡織工房には多くの領民が雇われ、糸紡ぎ、織り、裁断、縫製を学んでいった。


 大豆を扱う工房では調味料の生産が始まる。


 小麦は製粉され、パンや麺の材料になる。


 一部は酒房へ送られ、酒造にも使われた。


 根菜は食品加工工房や領内の飲食店へ流れていく。


 そして最も大きく伸びたのが砂糖だった。


 砂糖黍を搾る。


 汁を煮詰める。


 ピュリフィケーションで不純物を取り除く。


 精製された砂糖が次々と袋詰めされていった。


「また注文です!」


「今度はどこだ?」


「王都の菓子工房です!」


 砂糖は売れた。


 菓子。


 パン。


 料理。


 酒。


 用途はいくらでもある。


 生産量を増やしても注文が途切れない。


 やがて砂糖は、イプシオ領を代表する特産品になっていった。


 ◇


 商業ギルドも誘致した。


 領内で生産された商品を王国各地へ売るためである。


 冒険者ギルドも支部を開いた。


 領内にはダンジョンがある。


 冒険者が訪れれば宿屋や飲食店にも客が増える。


 商人が来る。


 冒険者が来る。


 商品が動く。


 さらに仕事が増える。


 ゴーレム馬車。


 金属加工。


 農業。


 畜産。


 紡織。


 酒造。


 調味料。


 食品加工。


 物流。


 商業。


 複数の産業が互いに仕事を生み出していた。


 領民は与えられた仕事に就くのではない。


 増え続ける仕事の中から、自分に合うものを選べるようになっていた。


「人手が足りないくらいだな」


 イプシオは賑わう工房街を眺めて笑った。


 ◇


 その様子を見たエース、レビン、トレノ、スレットも動いた。


「俺の領でもやる」


 エースの言葉に、イプシオは頷いた。


「やればいい」


 レビンは紡織よりも加工工房に興味を示した。


 トレノは食品加工と酒房を熱心に見て回る。


 スレットは農地と商業ギルドの流通を確認した。


 そのまま真似るわけではない。


 自分の領地に合う形へ変える。


 それぞれの領で農地が増え、工房が建ち、領民の雇用が増えていった。


 豊かさは、一つの領地だけに留まらなかった。


 ◇


 そして生活に余裕が生まれれば、人は仕事以外のことも考え始める。


 家族。


 恋愛。


 結婚。


 領内の飲食店では、若い男女が二人で食事をする姿も珍しくなくなっていた。


 だが婚姻適齢期を迎えているのは、領民だけではない。


 王国には長年、冒険者として戦い続けてきた者たちがいる。


 二十七人の貴族冒険者。


 結婚しているのは、ガイル。


 その妻であるアレクサンドとアンジェラ。


 そしてエミリアと婚約したガレス。


 残る二十三人は独身だった。


 その多くは、すでに三十代後半である。


 レオン、ミリア、エリックたちもアラサーとなり、十分に婚姻適齢期を迎えていた。


 魔物と戦うことには慣れている。


 領地を守ることもできる。


 人を教導することもできる。


 だが――。


 結婚となると、話は別だった。




 二十七人の貴族冒険者たちは、王国でもよく知られた存在になっていた。


 長年にわたり冒険者として活動し、数々の魔物を討伐してきた。


 今では全員が貴族でもある。


 武闘大会でも、その実力は王国中に知られた。


 生活に困る者など一人もいない。


 むしろ結婚相手として見れば、これ以上ないほど条件の整った者たちだった。


 当然、縁談も来る。


 既存貴族の家から、娘との縁談を望む話が次々と持ち込まれていた。


 だが――。


「また来たぞ」


 レオンが机の上に置かれた書状を見て、困った顔をした。


「今度は?」


 ミリアが尋ねる。


「伯爵家だ」


「昨日も伯爵家じゃなかった?」


「昨日とは別だ」


 隣でエリックが書状の束を見た。


「増えてるわね」


「ああ」


 レオンは剣を持たせれば強い。


 魔物の群れを前にしても動じない。


 ところが縁談の書状を前にすると、どう扱えばいいのか分からなかった。


 それはレオンだけではない。


 二十七人のうち、ガイルとガレスを除く二十三人が似たような状態だった。


 冒険者として生きてきた期間が長い。


 依頼を受ける。


 魔物を狩る。


 仲間と野営する。


 ダンジョンへ潜る。


 彼らにとっては、それが日常だった。


 社交界で令嬢と交流するような人生ではなかったのである。


「会ってみればいいじゃない」


 ミリアが言う。


「簡単に言うな」


「会わないと何も分からないでしょう?」


「そういうお前はどうなんだ?」


 レオンがミリアの前に置かれた書状を見る。


 ミリアも黙った。


 彼女にも縁談は来ている。


 エリックにも同じだった。


「……私は今考えてるところよ」


「俺と同じじゃないか」


「私はちゃんと考えてるの」


「俺だって考えてる」


 エリックが小さく笑った。


「二人とも同じね」


 だが、笑って済ませられる問題でもなかった。


 彼ら自身も結婚を嫌っているわけではない。


 家庭を持ちたくないわけでもない。


 ただ、どう動けばいいのか分からない。


 ◇


 そんな二十三人を、バイオレットは気にしていた。


 王宮へ届けられた資料を眺めながら、眉を寄せる。


「二十三人……」


 マーガレットが母を見る。


「何をご覧になっているのですか?」


「貴族冒険者たちの婚姻状況よ」


「婚姻?」


「ええ」


 ガイルにはアレクサンドとアンジェラがいる。


 ガレスはエミリアと婚約した。


 しかし残る二十三人は独身。


 しかも多くは三十代後半である。


「今まで冒険者として生きてきたのだから仕方ないのでしょうけれど」


 バイオレットは別の資料も見る。


 既存貴族から寄せられている縁談は多い。


 つまり相手がいないわけではない。


「縁談はこれだけあるのに、誰も話を進めていないのね」


「慣れていないのでしょう」


「でしょうね」


 バイオレットにも想像できた。


 魔物の討伐方法なら即座に決める。


 部隊の配置も決められる。


 新人冒険者の教導もできる。


 なのに令嬢から一通の手紙が届いただけで止まっている。


「誰か世話を焼く人が必要ね」


 マーガレットが母を見た。


「誰か心当たりが?」


 バイオレットは少し考えた。


 そして、一人の女性を思い出した。


「いるわ」


「どなたです?」


「イメルダ伯爵夫人」


 マーガレットも名前を知っていた。


 四十代の伯爵夫人。


 六属性を扱い、鑑定、教導、アイテムボックス、飛行、索敵まで持っている。


 だがバイオレットが思い出した理由は、能力ではない。


「昔から人の縁談に首を突っ込むのが大好きなのよ」


「……それは」


「ええ。少々世話焼きだけれど」


 少々どころではなかった。


 親戚。


 知人。


 使用人。


 領民。


 結婚相手を探していると知れば放っておけない。


 しかも、ただ相手を押し付けるわけではない。


 本人と話す。


 相手とも話す。


 家族を見る。


 生活を見る。


 性格を見る。


 合わないと思えば、どれほど家格の高い相手でも勧めなかった。


「成功させた縁談も多いわ」


「では適任ですね」


「そう思うでしょう?」


 バイオレットが笑った。


 ◇


 数日後。


 イメルダ伯爵夫人は王宮へ呼ばれていた。


「王妃陛下、お召しでしょうか」


「ええ。イメルダ、あなたにお願いしたいことがあります」


「何でございましょう?」


 バイオレットは二十三人の資料を差し出した。


 イメルダが目を通す。


 年齢。


 経歴。


 爵位。


 冒険者としての実績。


 保有能力。


 現在寄せられている縁談。


 読み進めるにつれ、イメルダの眉が上がっていった。


「……皆様、独身なのでございますか?」


「そうなの」


「これだけの方々が?」


「そうなのよ」


 イメルダはもう一度資料を見た。


「縁談も来ておりますね」


「大量にね」


「なのに進んでいない」


「ええ」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがてイメルダは資料を閉じた。


「承知いたしました」


 バイオレットが笑みを浮かべる。


「お願いできる?」


「お任せください」


 返事に迷いはなかった。


「まず二十三名、全員とお話しいたします」


「全員?」


「本人の希望を聞かずに、どうやってお相手を探すのでございますか?」


 当然だと言わんばかりだった。


 バイオレットは満足そうに頷いた。


 二十三人の英雄たちは、この時まだ知らなかった。


 魔物よりも厄介な相手が、自分たちのところへ向かおうとしていることを。




 イプシオ領の発展を見て動いたのは、エースたちだけではなかった。


 ベロニカ、ジリアン、ハーレイ、アレッタ、エミリア。


 それぞれの領地でも、新しい産業を作る動きが始まった。


 五人に共通しているのは、領内に二つのダンジョンを持っていることだった。


 インゴットの生産はすでに軌道に乗っている。


 ゴーレム馬車も月産十万台を王都へ納めていた。


 だが、それだけで領地経営を終わらせるつもりはない。


 ベロニカはイプシオ領を視察し、広大な農地を眺めた。


「私たちの領でもできるわね」


 エルフである彼女は、特に農業との相性を見ていた。


 領地へ戻ると、すぐに農夫たちを集めた。


「土地を調べましょう。作れるものから始めるわ」


 土魔法で農地を造成する。


 水路を整える。


 作物を植えた後は、ヒールバレットとピュリフィケーションバレットを広範囲へばら撒く。


 さらに鑑定。


 水分、土壌、作物の状態を確認しながら必要な処置を施す。


 イプシオ領のやり方をそのまま写すのではない。


 自分の領地に合わせて変える。


 それがベロニカの選択だった。


 ◇


 ジリアン領でも農地造成が始まっていた。


 ダークエルフのジリアンは、農業だけでなく加工まで一体で考えた。


「収穫してから考えるんじゃ遅いわ。先に工房も作りましょう」


 大豆を作るなら調味料工房。


 小麦なら製粉所と酒房。


 綿花なら紡織工房。


 砂糖黍なら製糖工房。


 収穫と同時に加工へ回せるよう、農地の近くへ工房を配置した。


 領民たちもそこで雇用する。


「農業が合わない人まで畑に出る必要はないわ」


 農夫。


 職人。


 料理人。


 運搬。


 商人。


 それぞれが得意な仕事をすればいい。


 仕事を人へ合わせる。


 領内に新しい雇用が次々と生まれていった。


 ◇


 魔族であるハーレイも動いた。


 彼女が力を入れたのは畜産と食品加工だった。


 魔族街との繋がりを利用し、鶏もどきや牛を仕入れる。


 飼育方法も学ばせた。


 肉。


 卵。


 牛乳。


 そこからさらに加工する。


 飲食店も増やした。


「作って終わりでは意味がないもの。領内でも食べてもらいましょう」


 ゴーレム馬車の製造で収入を得る領民が増えている。


 外食を楽しめる者も増えていた。


 家族で店へ行く。


 仕事仲間と食事をする。


 男女が二人で料理を楽しむ。


 領内で金が動き始める。


 ◇


 アレッタ領では紡織産業が急速に拡大した。


 綿花を育てる。


 糸を紡ぐ。


 布を織る。


 裁断する。


 縫製する。


 さらに染色まで行う。


 アレッタ自身も教導に加わった。


「覚えた人は、次の人に教えて」


「はい!」


 一人が覚えれば、その一人だけで終わらない。


 教導できる者が増えるほど、生産者も増えていく。


 衣服だけではない。


 下着。


 寝具。


 袋。


 日用品として使える布製品が大量に作られた。


 商業ギルドが販路を広げ、商品は他領へも流れていった。


 ◇


 そしてエミリア領。


 サキュバスであるエミリアも、イプシオ領の仕組みを積極的に取り入れていた。


「砂糖は面白いわね」


 砂糖黍の栽培を増やす。


 鑑定で生育状態と糖度を確認し、収穫時期を判断する。


 製糖工房ではピュリフィケーションを利用して不純物を除去する。


 出来上がった砂糖は菓子工房や酒房へ送られた。


 エミリアはそこで終わらせなかった。


「せっかく砂糖があるんだもの。お菓子も作りましょう」


 料理人を集めて教導する。


 甘いパン。


 焼き菓子。


 砂糖を使った保存食。


 商品が増えれば、それを売る店も増える。


 ガレスが領内を訪れた時には、以前とはまるで違う町並みになっていた。


「随分増えたな」


「何が?」


「店だ」


 エミリアが笑う。


「領民がお金を持つようになったのよ。使う場所だって必要でしょう?」


「なるほどな」


「今度、一緒に食べに行きましょう」


「ああ」


 婚約した二人が並んで歩く。


 それを見た領民たちも、自然に笑っていた。


 ◇


 五つの領地でも商業ギルドと冒険者ギルドの誘致が進んだ。


 冒険者がダンジョンへ入る。


 商人が商品を買い付ける。


 宿屋や飲食店へ客が入る。


 工房が商品を作る。


 農家が原料を供給する。


 物流にはゴーレム馬車が使われる。


 一つの産業が、別の産業を支える。


 その産業が、さらに新しい仕事を作る。


 元娼婦だった五人が治める領地だからと、発展の仕方が違うわけではなかった。


 領主として領民を教導し、働ける場所を増やし、作ったものを流通させる。


 その結果として、領民の暮らしが豊かになっていく。


 イプシオ領から始まった流れは、エース、レビン、トレノ、スレットの領地へ広がり、さらにベロニカ、ジリアン、ハーレイ、アレッタ、エミリアの領地へも広がった。


 ただし、同じ領地は一つもない。


 得意な産業も違う。


 作る商品も違う。


 領主の考え方も違う。


 良いところを学び、自分たちに合う形へ変える。


 新しい領地同士が互いを見ながら、それぞれの方法で成長し始めていた。




 イプシオ領の発展を取り入れたのは、さらに九つの領地へ広がった。


 アリー、アレクサ、ゴルディ、ナターシャ、マックス、リッキー、トレイ、シュー、チャド。


 九人も広大な農地を造成した。


 綿花、大豆、小麦、根菜、砂糖黍を育て、収穫物を加工する工房や工場を建設する。


 農夫たちはヒールバレットとピュリフィケーションバレットを畑へばら撒き、鑑定で作物の状態を確認した。


 紡織工房。


 製粉所。


 酒房。


 調味料工房。


 製糖工房。


 食品加工工房。


 商業ギルドと冒険者ギルドも誘致した。


 ゴーレム馬車の生産だけに依存しない。


 領民が自分に合った仕事を選べるよう、産業そのものを増やしていった。


 だが九人には、他の新貴族とは違う経験があった。


 彼らは元神官だった。


 ◇


「教会を建てよう」


 アリーの提案に、八人が頷いた。


 神聖ラトリアを離れたからといって、信仰を捨てたわけではない。


 彼らが否定したのは、信仰そのものではなかった。


 宗教を利用して人を支配すること。


 組織の内部が見えなくなること。


 権力を持った者を誰も監視できなくなること。


 その結果を、九人は自分たちの目で見てきた。


「同じ失敗は繰り返さない」


 ゴルディの言葉に、誰も異論を唱えなかった。


 九つの領地で教会の建設が始まった。


 中心となるのは大聖堂だった。


 使われたのはオリハルコン。


 ダンジョンから領民自身が取り出し、精製したものだ。


 金属属性を持つ者が加工し、建築に参加する。


 巨大な柱が立つ。


 広大な礼拝堂が作られる。


 多くの光を取り込める大きな窓。


 数多くの領民を受け入れられる空間。


 オリハルコンで築かれた大聖堂は壮麗だった。


 しかし、権威を見せつけるための建物ではない。


 祈りたい者が祈る。


 悩みを抱えた者が相談する。


 人々が集まり、話し合う。


 教導にも使える。


 領民のための場所だった。


 ◇


 教会の運営方法も、最初から決められた。


 寄付金。


 支出。


 職員への給与。


 建物の維持費。


 食料支援。


 教導に使った費用。


 すべて記録する。


「今月の寄付金はこちらです」


「支出も公開してください」


「分かりました」


 帳簿を教会内部だけで管理することは認めなかった。


 領の行政担当者も確認する。


 領民も閲覧できる。


 誰が責任者なのか。


 どれだけ金が入り、何に使われたのか。


 問題があった場合、どこへ報告すればいいのか。


 すべて分かるようにした。


 寄付も強制しない。


 礼拝への参加も自由。


 教会へ来ないことも自由だった。


「信仰は命令されてするものではない」


 元神官だからこそ、九人はそこを曖昧にしなかった。


 ◇


 教会が担った役割は祈りだけではない。


 領民の心を安定させる場所でもあった。


「最近、昔のことを思い出すんです」


 一人の領民が相談に訪れた。


「話したければ聞きますよ」


 神官は急かさなかった。


 話を聞く。


 困っていることを整理する。


 仕事の問題ならギルドへ繋ぐ。


 生活上の問題なら行政へ繋ぐ。


 家庭の問題なら一緒に考える。


 教会だけですべてを解決しようとはしない。


 必要なところへ繋ぐことも、教会の仕事になった。


 元アルタリア帝国民。


 元ダークライト魔導公国民。


 元神聖ラトリア民。


 元アーデン王国民。


 元ロクス王国民。


 様々な場所から移り住んできた者がいる。


 生活が豊かになっても、過去まで消えるわけではない。


 だからこそ、話せる場所が必要だった。


 ◇


 九人は衛生にも力を入れた。


 領内各地で、公衆浴場の建設が始まった。


 数軒ではない。


 一つの領地に数百軒。


 住宅地。


 農村。


 工房街。


 商業地区。


 人が暮らす場所に合わせて配置していく。


 土魔法で建物を造り、水魔法で浴槽を満たす。


 そして魔力循環。


 担当者が魔力を循環させ、浴槽の水を直接温めていった。


「四十一度です」


「そのまま維持してください」


 鑑定で湯温を確認する。


 温度が下がれば魔力循環で温める。


 上がりすぎれば調整する。


 薪も燃料も必要ない。


 さらにピュリフィケーションで湯を清潔に保った。


 浴場には衛生教室も併設された。


 手洗い。


 洗濯。


 下着の交換。


 掃除。


 食材の保存。


 調理器具の洗浄。


 教導を受けた衛生教師が領民へ教えていく。


 風呂へ入りに来た者が、そのまま衛生教室へ参加する。


 教会へ相談に来た者が、帰りに浴場へ寄る。


 逆に浴場へ来た者が、大聖堂へ足を運ぶこともあった。


 身体を清潔にする場所。


 心を落ち着かせる場所。


 学ぶ場所。


 相談できる場所。


 それらが領民の日常の中へ溶け込んでいった。


 九人は神官だった過去を捨てなかった。


 神聖ラトリアで起きた失敗も忘れなかった。


 失敗を知っているから、同じものを作らない。


 信仰を支配へ使うのではなく、人の心を支えるために使う。


 イプシオ領から学んだ産業と、九人が持っていた神官としての経験。


 二つが重なり、九つの領地はまた違った形で発展を始めていた。





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