168 王国功労表彰
ある日の王都。
夕刻を過ぎた酒場は、多くの客で賑わっていた。
仕事を終えた職人。
冒険者。
商人。
騎士。
様々な者が酒を飲み、料理を楽しんでいる。
その一角で、一人の男が給仕の女性に絡んでいた。
「お前、アーデン出身なんだろ?」
酒に酔った男が、料理を運んできた女性を見上げる。
「はい」
「やっぱりな」
男は酒杯を置いた。
「俺は生まれも育ちもアルデバランだ。お前らとは違うんだよ」
女性は何も答えなかった。
空になった皿を持ち、その場から離れようとする。
「待てよ」
男が呼び止めた。
「誰のおかげでここで暮らせると思って――」
「お前のおかげではない」
低い声が割って入った。
男が振り向く。
「あ?」
別の卓に座っていた王国騎士が立ち上がっていた。
男が騎士を見る。
「何だよ」
「俺も生まれも育ちもアルデバランだ」
「だったら分かるだろ。こいつは――」
「何が分かるんだ?」
騎士は静かに男を見据えた。
「お前は王国に何をした?」
「俺は王国民だぞ」
「それは功績ではない」
男が黙った。
周囲の客たちも会話を止め始める。
「陛下が受け入れ、宰相閣下たちが行政を整え、教師たちが教導し、冒険者ギルドが支援した」
騎士は淡々と続ける。
「お前は何をした?」
「…………」
「何もしていないなら、他人の功績を自分のものみたいに使うな」
騎士は給仕の女性を見る。
「今、この人は働いている。税も納めている。同じ王国民だ」
そして男へ視線を戻した。
「先に生まれただけのお前と、自分でこの国を選んで来たこの人。どちらが偉いなんて話ではない」
男の顔に不満が浮かぶ。
「俺はプロパーだぞ」
「俺もだ」
騎士は即答した。
「だから何だ。ここで生まれたことが偉いのか?」
「……」
男は答えられない。
「彼女はもう王国民だ。働いて、自分で生活している」
騎士が一歩前へ出る。
「それに酒場で女に絡むのが、アルデバラン王国のプロパーだと思われたら迷惑だ」
周囲から小さな笑いが漏れた。
男の顔が引きつる。
騎士は笑わなかった。
「俺もプロパーだ。だから昔の王国も知っている」
男が黙る。
「飢えはしなかった。それだけだ」
騎士は酒場を見渡した。
卓には焼いた魔物肉。
香辛料を使った料理。
焼きたてのパン。
酒。
今では珍しくもない光景だった。
「盗賊もいた。魔物に襲われて死ぬ者もいた。今みたいに美味いものが、そこら中で食えたわけでもない」
「…………」
「今の王国を、お前が作ったのか?」
しばらくして、男が小さく答える。
「いや……」
「俺も作ってない」
騎士は給仕の女性へ視線を向けた。
「陛下や王妃陛下、王女殿下、宰相閣下。それに教師、冒険者、商人、職人、農民。外から来た連中も一緒になって作った国だ」
酒場は静かになっていた。
誰も騎士の言葉を遮らない。
「先にここに生まれただけで、その成果がお前の手柄になるのか?」
「…………」
「ならないだろ」
男は俯いた。
騎士はそれ以上責めなかった。
「帰れ。恥を晒すな」
男は何も言い返さなかった。
代金を置き、酒場を出ていく。
◇
残された給仕の女性が騎士へ頭を下げた。
「ありがとうございました」
「礼はいらん」
「でも……」
「俺は騎士だ。それに、あいつと同じプロパーでもある」
騎士は自分の席へ戻る。
「だから余計に放っておけなかっただけだ」
女性はもう一度頭を下げ、仕事へ戻った。
酒場にも少しずつ喧騒が戻ってくる。
だが、その場にいた者たちの耳には、騎士の言葉が残っていた。
『今の王国を、お前が作ったのか?』
翌日。
一人の客が冒険者ギルドを訪れていた。
「昨日、ちょっといいものを見たんだ」
「何ですか?」
職員が話を聞く。
最初は酒場で起きた小さな出来事に過ぎないと思っていた。
だが、話を最後まで聞いた職員の表情が変わった。
「その騎士、本当にそう言ったんですか?」
「ああ。俺も聞いてた」
職員は少し考えた。
王国の人口は六千六百万人まで増えている。
元々の王国民だけではない。
多くの国から移民や亡命者を受け入れてきた。
これから必要になるものは何か。
職員は判断した。
「これは共有した方がいいですね」
酒場で起きた小さな出来事が、教導管理システムへ報告された。
まだ、この時点では誰も知らない。
一人の騎士が口にした言葉が、やがて六千六百万人の王国民へ届くことになるとは。
冒険者ギルドから教導管理システムへ送られた報告は、数ある情報の一つとして記録された。
事件と呼ぶほど大きなものではない。
怪我人はいない。
犯罪組織が関わっているわけでもない。
酒に酔った王国民が、アーデン出身の給仕の女性に絡んだ。
そこへ居合わせた王国騎士が入り、男を諫めた。
それだけなら、王宮まで届くような話ではなかったかもしれない。
だが、記録された発言に目を留めた者がいた。
クレインだった。
「……これは」
報告を読み進める。
『俺もプロパーだ。だから昔の王国も知っている』
『今の王国を、お前が作ったのか?』
『彼女はもう王国民だ』
クレインはもう一度、最初から報告を読んだ。
そして席を立った。
◇
「陛下。少し興味深い報告があります」
執務室にいたオーキスが顔を上げた。
「何だ?」
「酒場で、アーデン出身の女性に絡んでいた王国民を、騎士団の者が諫めたそうです」
「それだけか?」
「発言の内容が重要です」
クレインが教導管理システムの記録を表示する。
オーキスは読み始めた。
最初は普通の顔だった。
だが、途中で表情が変わる。
『俺も生まれも育ちもアルデバランだ』
『それは功績ではない』
『何もしていないなら、他人の功績を自分のものみたいに使うな』
オーキスは黙って続きを読む。
『今の王国を、お前が作ったのか?』
『俺も作ってない』
『外から来た連中も一緒になって作った国だ』
最後まで読み終えた。
「この騎士を探せ」
「既に照合しています」
クレインの返事は早かった。
「名前はアギト。王国騎士団所属です」
「そうか」
オーキスは椅子にもたれた。
「良いことを言うではないか」
「はい」
「余が気に入ったから褒める、では駄目だな」
クレインが僅かに笑う。
「今回は、正式な功績として扱えるかと」
「余もそう思う」
オーキスはもう一度記録を見る。
王国の人口は六千六百万人まで膨らんだ。
アルタリア帝国。
ダークライト魔導公国。
神聖ラトリア。
アーデン王国。
ロクス王国。
他にも様々な土地から人々が流入している。
法律上は同じ王国民。
だが、それだけでは足りない。
「法律で差別を禁じれば終わり、とはならんからな」
「はい」
クレインが頷いた。
「人の意識まで法律だけで統一することはできません」
「なら、良い行いをした者を評価する」
「それが王国の価値観を示すことになります」
オーキスは笑った。
「分かりやすくていい」
◇
そこへエミリーが呼ばれた。
「酒場での出来事を確認してほしい」
「承知致しました」
エミリーは記録された日時と場所を確認した。
ポストコグニション。
過去に起きた出来事を辿っていく。
そしてソートグラフィー。
酒場で交わされた実際のやり取りが映像として再現されていく。
酔った男。
給仕の女性。
そして席を立つアギト。
『お前のおかげではない』
報告に書かれていた内容と一致していた。
『俺もプロパーだ』
『だから何だ。ここで生まれたことが偉いのか?』
『今の王国を、お前が作ったのか?』
オーキスは映像を黙って見ている。
最後まで確認すると、エミリーが映像を教導管理システムへ保存した。
「記録を完了しました」
「これなら事実関係にも問題はないな」
「はい」
クレインも頷いた。
誰かが話を誇張したものではない。
アギト自身が実際に発した言葉だった。
オーキスは立ち上がる。
「表彰するぞ」
「名目はいかが致しましょう?」
少し考えてから、オーキスが答えた。
「王国民の模範となる行動だ」
クレインが文面を整える。
やがて教導管理システムに一つの案が表示された。
《王国功労表彰》
王国騎士アギト。
王国民間の不当な差別的行為を制止し、王国民の融和に寄与した。
オーキスは内容を確認した。
「これでいい」
「では正式に?」
「ああ」
ただ騎士一人を褒めるだけではない。
何を王国が良しとするのか。
誰を同じ王国民として扱うのか。
国王自身が六千六百万人へ示す。
「王国中へ流すぞ」
クレインがオーキスを見る。
「表彰式を生中継なさるので?」
「それだけではない」
オーキスは保存された映像を指した。
「これも見せる」
酒場で起きた小さな出来事。
一人の騎士が当然だと思って行ったこと。
それを今度は、王国そのものが評価しようとしていた。
数日後。
王宮へ呼び出されたアギトは、ひどく困惑していた。
自分が何か失敗したのか。
最初はそう考えた。
だが、案内された場所にはオーキスとクレインがいる。
さらにエミリーまでいた。
「王国騎士アギトです」
アギトが姿勢を正える。
「うむ」
オーキスはアギトを見た。
「酒場での一件について聞きたい」
アギトはすぐに思い当たった。
「あの件でしょうか?」
「そうだ」
「申し訳ございません。騒ぎを大きくするつもりは――」
「違う」
オーキスが遮った。
「叱るために呼んだのではない」
「は?」
アギトは意味が分からなかった。
クレインが教導管理システムを操作する。
目の前に文字が表示された。
《王国功労表彰》
王国騎士アギト。
王国民間の不当な差別的行為を制止し、王国民の融和に寄与した。
アギトが固まった。
「……私が、ですか?」
「他に誰がおる」
「しかし」
アギトは困った顔をした。
「私は当然のことをしただけですが」
「その当然が重要なのだ」
オーキスは即答した。
アギトが国王を見る。
「六千六百万人だ」
オーキスが言った。
「今の王国には、それだけの人間が暮らしている」
昔からアルデバラン王国に住んでいた者だけではない。
アルタリア帝国から来た者。
ダークライト魔導公国から亡命した者。
神聖ラトリアから来た者。
アーデン王国。
ロクス王国。
様々な場所から人々が集まった。
「法律で同じ王国民だと定めることはできる」
オーキスは続ける。
「だが、法律に書いただけで人の考えまで変わるわけではない」
「はい」
「お前は、あの女を同じ王国民として扱った」
「当然です」
「だから、その当然を褒めると言っておる」
アギトは黙った。
まだ納得しきれていない顔だった。
クレインが補足する。
「アギト殿。王国が何を功績として認めるのか。それを示すことにも意味があります」
「私の行動を?」
「はい」
アギトは少し考えた。
「……分かりました」
ようやく頭を下げる。
「謹んでお受け致します」
オーキスが満足そうに頷いた。
◇
表彰式の日。
王都だけではなかった。
王国中で投影魔法の準備が進められていた。
町。
村。
冒険者ギルド。
商業施設。
公衆浴場。
人々が集まれる場所に巨大な映像が映し出される。
風魔法による拡声も用意された。
王国中へ同じ映像と音声を届ける。
やがて巨大な投影に王宮の様子が映った。
「始まるぞ」
「何の表彰だ?」
「騎士らしい」
「戦功か?」
「いや、違うらしいぞ」
人々が足を止める。
そこへオーキスが姿を現した。
その隣にはアギトが立っている。
「王国民の皆に見てもらいたいものがある」
オーキスが告げた。
映像が切り替わる。
エミリーがポストコグニションとソートグラフィーによって再現した、酒場での実際の出来事だった。
『お前、アーデン出身なんだろ?』
酒場の客たちが映る。
給仕の女性。
酔った男。
そしてアギト。
『俺は生まれも育ちもアルデバランだ。お前らとは違うんだよ』
王国中で人々が黙って映像を見ていた。
アーデン出身者もいる。
生まれも育ちもアルデバランの者もいる。
『お前のおかげではない』
アギトが立ち上がった。
『俺も生まれも育ちもアルデバランだ』
『だったら分かるだろ』
『何が分かるんだ?』
映像は続く。
『お前は王国に何をした?』
『俺は王国民だぞ』
『それは功績ではない』
王都の広場で、一人の老人が小さく頷いた。
地方の冒険者ギルドでは、亡命してきた者たちが黙って画面を見ている。
『今の王国を、お前が作ったのか?』
『いや……』
『俺も作ってない』
そして。
『陛下や王妃陛下、王女殿下、宰相閣下。それに教師、冒険者、商人、職人、農民。外から来た連中も一緒になって作った国だ』
映像が終わった。
再びオーキスとアギトが映し出される。
オーキスが王国功労表彰の文面を読み上げた。
「王国騎士アギト。王国民間の不当な差別的行為を制止し、王国民の融和に寄与した。その功績をここに表彰する」
アギトが深く頭を下げた。
王国中で拍手が起こった。
それは戦争に勝った英雄への表彰ではない。
巨大な魔物を倒した者への表彰でもない。
酒場で一人の女性を、同じ王国民として扱った騎士への表彰だった。
そして、その事実そのものが、オーキスから六千六百万人へ向けた一つの答えになっていた。
表彰式の中継が終わっても、王国中に映し出された投影を見上げる人々は、すぐには動かなかった。
特に言葉を失っていたのは、国外から来た者たちだった。
アルタリア帝国。
ダークライト魔導公国。
神聖ラトリア。
アーデン王国。
ロクス王国。
故郷を離れ、アルデバラン王国で新しい生活を始めた者は数多い。
地方の冒険者ギルドでは、一人の男が目元を拭っていた。
「本当にこの国に亡命してよかった」
隣にいた女性も涙を流している。
「ええ……」
受け入れてもらった。
仕事を与えてもらった。
住む場所もある。
食べるものにも困らない。
子供は学校へ通っている。
病気になれば治療も受けられる。
それだけでも十分だと思っていた。
だが、今日示されたものは、それとは少し違った。
国王自身が宣言したのだ。
国外から来た者も同じ王国民である。
しかも言葉だけではない。
その考えに従って行動した一人の騎士を、正式な王国の功労者として表彰した。
「俺たちも王国民なんだな」
「ああ」
「ここにいていいんだ」
誰かが呟いた。
周囲にいた者たちも頷いた。
亡命を許されたから住んでいるのではない。
保護されているだけでもない。
働き、税を納め、社会の一員として暮らしている。
同じアルデバラン王国民なのだ。
そのことを国王自身が示してくれた。
涙を流す者が各地にいた。
◇
一方、生まれも育ちもアルデバラン王国という者たちにも、アギトの言葉は強く響いていた。
『俺もプロパーだ』
『だから何だ。ここで生まれたことが偉いのか?』
これほど分かりやすい言葉はなかった。
アギト自身が昔からの王国民なのである。
外から来た者が自分たちの権利を主張したのではない。
昔からこの国に住み、王国騎士として働く男が言った。
「確かにな」
王都の職人が腕を組む。
「俺だって今の王国を作ったわけじゃねえ」
隣の男も頷いた。
「むしろ外から来た職人に教えてもらった技術もあるしな」
「うちなんか隣の家が元帝国民だぞ」
「仲良くしてるじゃねえか」
「だから余計に思ったんだよ。出身なんて今さら関係ねえなって」
そんな会話が各地で生まれた。
誰かに強制されたわけではない。
法律を読み上げられたわけでもない。
一人の騎士の行動を見て、自分たちで考え始めた。
新しい王国民を見下す。
そんな行為そのものが、格好の悪いものとして見られ始めていた。
◇
王宮では、クレインが教導管理システムに集まる情報を確認していた。
「反響はかなり大きいようです」
「そうか」
オーキスはいつもと変わらない。
マーガレットも記録を確認する。
「亡命者や移民の帰属意識が上がっています」
バイオレットが微笑んだ。
「安心したのでしょうね」
「はい」
マーガレットが頷く。
「自分たちはいつまで外から来た者として扱われるのか。口には出さなくても、不安だった者は多かったと思います」
法律上の身分は同じ。
だが、人の心は法律だけでは決まらない。
六千六百万人まで膨らんだ王国だからこそ、今後は文化そのものを作る必要がある。
クレインが表示を切り替えた。
《王国功労表彰》
《王国騎士アギト》
《王国民間の不当な差別的行為を制止し、王国民の融和に寄与した》
記録は教導管理システムに残された。
一時的な中継で終わるものではない。
後から誰でも確認できる。
エミリーが記録した酒場での映像も残っている。
「これから同じような問題が起きた時にも使えますね」
マーガレットが言った。
「うむ」
オーキスは頷く。
「なら残しておけ」
「もちろんです」
クレインが答えた。
◇
アギト本人は、自分が引き起こした反響の大きさに戸惑っていた。
騎士団へ戻れば、仲間から次々と声をかけられる。
「アギト、見たぞ」
「陛下から直々の表彰か」
「大したものだな」
「やめてくれ」
アギトは困った顔をした。
「本当に大したことはしていない」
「それを陛下に言ったんだろ?」
「ああ」
「それで?」
「その当然が重要なのだ、と言われた」
騎士たちが顔を見合わせる。
「なら陛下が正しい」
「そうだな」
「お前たちまで……」
アギトは頭を掻いた。
ただ、悪い気はしなかった。
自分が褒められたことより、自分の行動によって安心した者がいる。
それなら表彰された意味もあるのだろう。
◇
王都の酒場では、今日も多くの人々が働いていた。
あの日絡まれていた女性も、いつも通り料理を運んでいる。
「ありがとう」
「はい」
客から代金を受け取り、笑顔で次の卓へ向かう。
もう彼女を見る目に、アーデン出身だからという特別なものはなかった。
少なくとも、この酒場では。
一つの表彰だけで差別が消えるわけではない。
六千六百万人もいれば、これからも問題は起こる。
だが、王国は一つの基準を示した。
どこで生まれたかではない。
今、同じ国で暮らし、働き、共に社会を作っている。
ならば同じ王国民である。
その考えは少しずつ広がっていった。
新しい王国民には安心を。
昔からの王国民には誇りと自制を。
そして双方に、この国をより良くしようという意識を生んだ。
「陛下があの騎士を表彰したんだってな」
「ああ。いい王様だよ」
「俺もそう思う」
そんな声が王国の各地で聞かれるようになった。
武闘大会で国民と共に競い、自らも精進すると宣言した王。
そして今度は、一人の名も知られていなかった騎士の行動を拾い上げ、王国の模範として称えた。
オーキスへの支持は、もはや出身を問わなかった。
古くからの王国民も。
亡命してきた者も。
移住してきた者も。
同じ王を自分たちの王として見ていた。
この出来事によって、オーキスの人気は不動のものとなった。
そしてアルデバラン王国は、人口が増えただけの巨大国家から、六千六百万人が同じ国の民として暮らす国家へと、また一歩進んだ。
王国功労表彰から数日後。
アレクサンドは王国騎士団の訓練場を訪れていた。
突然の訪問だった。
訓練中だった騎士たちがアレクサンドに気づき、次々と姿勢を正していく。
アレクサンドはかつて、この場所で騎士として過ごしていた。
今では侯爵。
王国のみならず国外でもその名を知られる存在になっている。
それでも本人にとって、この訓練場は懐かしい場所だった。
やがて連絡を受けたアイクがやって来た。
「アレクサンド侯爵閣下」
「団長」
アレクサンドは以前と変わらない呼び方をした。
「突然ごめんなさい」
「いえ。今日はどのようなご用件でしょうか?」
「アギトという騎士を呼んで下さい」
「アギトを?」
「ええ」
アイクにはすぐに分かった。
王国功労表彰を受けた騎士である。
「承知致しました」
ほどなくして、一人の騎士が訓練場へやって来た。
「お呼びでしょうか、団長」
「ああ」
アイクが隣に立つアレクサンドを見る。
アギトもようやく気づいた。
目の前にいる人物が誰なのか。
「ア、アレクサンド侯爵閣下!」
慌てて姿勢を正す。
「そのままでいいわ」
「は、はい!」
そう言われても、そのままでいられるはずがなかった。
アギトにとっては雲の上の人物である。
何のために自分が呼ばれたのかも分からない。
アレクサンドはそんなアギトを静かに見た。
そして言った。
「あなたは魂が清廉だわ」
「……はい?」
アギトが固まる。
アイクも隣で目を瞬いた。
アレクサンドは続けた。
「王国功労表彰の映像を見たの」
「は、はい」
「酒場でのあなたの言葉も聞いたわ」
アギトの背筋がさらに伸びた。
「私は……当然のことをしただけです」
「陛下にも同じことを言ったそうね」
「はい」
アレクサンドが僅かに笑った。
「だから、私も陛下と同じことを言うわ。その当然が大切なの」
アギトは何も言えなくなった。
また同じことを言われた。
しかも今度は侯爵からである。
だが、アレクサンドがここへ来た理由は、爵位を持つ者として騎士を評価するためではなかった。
「今日は侯爵として来たわけじゃないの」
アイクがアレクサンドを見る。
「一人の王国民として来たの」
アレクサンドはアギトを正面から見た。
「あなたは、外から来た人も同じ王国民だと言ってくれた」
「はい」
「今の王国は、いろいろな場所から来た人たちと一緒に作った国だとも」
「……はい」
「嬉しかったわ」
アギトの表情が変わった。
アレクサンドは飾らず、そのまま言葉にした。
「王国民として礼を言いたいの」
そして静かに頭を下げた。
「どうもありがとう」
アギトが固まった。
アイクも固まった。
周囲で訓練していた騎士たちまで動きを止めている。
「……侯爵閣下?」
アギトはようやくそれだけ言った。
侯爵が自分に礼を言っている。
しかも、功績を褒めるためではない。
一人の王国民として感謝しているという。
「私は本当に大したことを……」
「したかどうかを決めるのは、あなた一人じゃないわ」
アレクサンドは顔を上げた。
「あなたの言葉で安心した人がいる。自分もこの国の民なんだと思えた人がいる。それで十分でしょう?」
「…………」
アギトには返す言葉がなかった。
「これからも、そのままでいて」
「はい!」
今度の返事は力強かった。
◇
アレクサンドはアイクへ向き直った。
「団長」
「はい」
「これからも立派な騎士を育てて下さい」
アイクもすぐには答えられなかった。
かつて自分の部下だった女性。
その女性は今や侯爵となり、国外にまで名を知られる人物になった。
そのアレクサンドが、自分の部下を褒めるためだけに騎士団まで足を運んできた。
そして、かつての上司である自分に願っている。
立派な騎士を育ててほしいと。
アイクは姿勢を正した。
「承知致しました」
騎士団長として答える。
「ご期待に沿える騎士を、これからも育てて参ります」
「お願いします」
アレクサンドはそれだけ言った。
長居する理由はなかった。
アギトを褒めたかった。
礼を言いたかった。
アイクに願いを伝えたかった。
目的は果たした。
「それでは失礼するわ」
アレクサンドは訓練場を後にした。
誰もすぐには口を開かなかった。
その背中が見えなくなってから、アギトがようやく息を吐く。
「……団長」
「何だ?」
「今、侯爵閣下が私に頭を下げられましたよね?」
「ああ」
「夢ではありませんよね?」
「残念ながら、俺も見ていた」
アギトは頭を抱えた。
「陛下に表彰された時より緊張しました」
「俺もだ」
アイクは苦笑した。
だが、すぐに表情を引き締める。
アレクサンドが残した言葉を思い返す。
『これからも立派な騎士を育てて下さい』
命令ではなかった。
侯爵としての指示でもない。
かつて自分の部下だった一人の騎士から、今の騎士団長へ託された願いだった。
「アギト」
「はい」
「聞いたな?」
「はい」
「これからも恥ずかしくない騎士でいろ」
「もちろんです」
アイクは訓練場を見渡した。
そこには大勢の騎士たちがいる。
強さだけではない。
何のために力を持つのか。
誰のために剣を振るうのか。
アギトが示したものもまた、騎士の在り方だった。
「訓練を再開するぞ!」
「はい!」
騎士たちの声が訓練場に響いた。
アレクサンドはもうそこにはいない。
それでも彼女が残した言葉は、アイクと騎士たちの中に確かに残っていた。




