134 視察という名の観光旅行
王都にも、亜人街で生まれた菓子の噂が広がっていた。
ブランデーを使ったケーキ。
果実の砂糖煮。
葡萄のワイン煮。
林檎のシードル煮。
エルフの蜂蜜を使った焼き菓子。
ベリーから作ったジャムを使う菓子。
エルフが持ち込んだ果実と、ドワーフの酒造技術。
そこへ人間や亜人の料理人が加わり、新しい菓子が次々と生まれていた。
その噂は当然、王宮にも届いている。
マーガレットはバイオレットの部屋を訪れていた。
「お母様」
「何でしょう?」
「亜人街の状況を、一度確認しておいた方がよろしいと思いますわ」
バイオレットは娘を見る。
「そうですね」
「外国から亡命してきた亜人も増えておりますし、種族ごとの街もできました。共有街も随分と発展しているそうです」
もっともらしい理由だった。
バイオレットは頷く。
「視察は必要でしょう」
二人の視線が合う。
少し間があった。
マーガレットが続ける。
「あちらに、新しい菓子店ができたそうです」
「それは視察しなければなりませんね」
即答だった。
話は決まった。
今回は公式訪問にはしない。
護衛を大量に連れて歩けば、住民も店主も緊張する。
普通の街の様子を見るためにも、お忍びの方が都合がいい。
側室たちにも話が伝わった。
「亜人街の視察ですか?」
「ええ」
「新しい菓子店も?」
「視察対象ですわ」
参加者はすぐに増えた。
さらにサーシャまで誘われた。
当日。
マーガレット、バイオレット、数人の側室、サーシャは地味な服へ着替えて王宮を出た。
装飾品も最低限。
王族らしい豪華な衣装ではない。
とはいえ、長年身についた立ち居振る舞いまでは隠せなかった。
亜人街へ到着すると、サーシャが周囲を見回した。
獣人。
エルフ。
ドワーフ。
ダークエルフ。
魔族。
人間。
大勢が同じ通りを歩いている。
「随分と賑やかになりましたね」
「ええ。まず街の様子を見ましょう」
マーガレットが答えた。
一行は共有街を歩く。
市場を見る。
商店を見る。
公衆浴場。
学校。
宿屋。
工房。
確かに視察はしていた。
だが、やがてマーガレットの足が一軒の店の前で止まった。
甘い香りが漂っている。
「お母様」
「何でしょう?」
「新しい菓子店のようですわ」
バイオレットが看板を見る。
「視察しましょう」
「ええ」
サーシャが二人を見る。
「皆様、何をなさっているのですか……」
「視察ですわ」
マーガレットは真顔だった。
店へ入る。
店員は一行を見て少し緊張したものの、王族とは気づかなかった。
席へ案内される。
献立を見る。
ブランデーケーキ。
葡萄のワイン煮。
林檎のシードル煮。
蜂蜜と木の実の焼き菓子。
ベリージャムを使った菓子。
見慣れない名前が並んでいた。
「せっかくですから、少しずつ頼みましょう」
バイオレットの提案に反対する者はいなかった。
やがてテーブルが菓子で埋まった。
マーガレットがブランデーケーキを食べる。
「……美味しいですわ」
バイオレットは林檎のシードル煮を口へ運んだ。
「こちらも良いですね」
側室たちも次々と手を伸ばす。
「この蜂蜜、美味しいわ」
「ベリーの酸味もいいですね」
「葡萄をワインで煮るなんて考えたこともありませんでした」
一人の側室がブランデーケーキを見ながら言った。
「これ、王宮でも作れないかしら」
マーガレットが即座に答えた。
「駄目ですわ」
「なぜ?」
「王宮で作れるようになったら、ここへ来る理由がなくなります」
バイオレットが真顔で頷いた。
「マーガレットの言う通りです」
サーシャは呆れたように二人を見た。
「視察ではなかったのですか?」
「視察していますわ」
「ええ。重要な視察です」
サーシャは小さく息を吐いた。
十分後。
「すみません」
サーシャが店員を呼んだ。
「このブランデーケーキ、もう一ついただけます?」
マーガレットが笑った。
「サーシャも気に入ったのね」
「これは仕方ありません」
さらに注文が増えた。
視察は、まだ始まったばかりだった。
菓子店を出た一行の手には、いくつもの包みがあった。
もちろんアイテムボックスへ収納できる。
それでも側室の一人は、買ったばかりの焼き菓子を手に持ったまま歩いていた。
「次はどちらを視察なさいます?」
サーシャが尋ねる。
言葉だけを聞けば真面目だった。
マーガレットは通りの先を見る。
「エルフ街へ行きましょう。果実の栽培と加工について確認しておきたいですわ」
「果実の栽培と加工、ですか」
「ええ」
バイオレットも頷く。
「重要ですね」
誰も反対しなかった。
エルフ街へ入ると、共有街とは少し雰囲気が変わった。
店頭には林檎、梨、葡萄、柑橘、ベリーなどが並ぶ。
蜂蜜を扱う店。
果実を加工する工房。
織物を売る店もある。
マーガレットは葡萄を一粒食べた。
「甘いですわ」
店主のエルフが説明する。
「そちらは生食用です。ワインにするものは別にありますよ」
「違うのですか?」
「酸味や香りが違います」
マーガレットの表情が変わった。
これは本当に視察だった。
品種によって用途を変える。
鑑定しながら適した果実を選ぶ。
農業スキル持ちが栽培方法を調整する。
王国へ持ち込まれた果実は、すでに単に育てる段階から、用途に合わせて作る段階へ進み始めていた。
バイオレットが葡萄を見る。
「ワインもありますか?」
「もちろんです」
一行は酒を扱う店へ移動した。
赤ワイン。
白ワイン。
甘味の強いもの。
酸味の強いもの。
香りを重視したもの。
店主が少量ずつ用意する。
「味見されますか?」
「視察ですから」
マーガレットが答えた。
サーシャは何も言わなかった。
すでに諦めている。
赤ワインを飲む。
白ワインも試す。
さらにシードル。
「これ、先ほどの林檎のシードル煮に使われていたものかしら」
側室の一人が尋ねる。
「同じ種類ですね」
「では一本ください」
「私も」
「こちらの白ワインもお願いします」
次々と注文が入る。
アイテムボックスがあるため、持ち帰る量を気にする必要はない。
店主は嬉しそうに商品を用意した。
次に向かったのはドワーフ街だった。
こちらでは酒造工房を見学する。
大きな樽が並ぶ。
エール。
ラガービール。
蒸留酒。
そしてブランデー。
ドワーフの職人が蒸留器を見せた。
「エルフのワインをこいつで蒸留する」
マーガレットが銅製の装置を見る。
「金属属性で作ったのですか?」
「ああ。細かい部品もすぐ作れるからな」
蒸留した酒を樽へ入れる。
時間を置くと香りや味が変化する。
それを鑑定し、良い状態になったものから出荷する。
エルフの果実。
ドワーフの蒸留技術。
人間の木工職人が作った樽。
複数の技術が一つの商品に集まっていた。
バイオレットが感心したように言う。
「街同士で技術が混ざっているのですね」
「勝手に始めたんだ」
ドワーフの職人が笑った。
「旨いものができるなら、その方がいいだろ」
マーガレットも笑った。
誰かが国家事業として命令したわけではない。
好きな者が作る。
別の者が改良する。
売れれば生産量が増える。
必要な材料を作る者も増える。
帝国で教導が人から人へ広がったのとよく似ていた。
ただ、今度広がっているのは酒や料理だった。
一行はドワーフ街を出た。
そこでサーシャが足を止める。
「何か、とても良い香りがしませんか?」
全員が止まった。
確かに香ばしい匂いがする。
獣人街の方角だった。
マーガレットがサーシャを見る。
「行ってみる?」
「視察ですからね」
今度はサーシャの方から言った。
バイオレットが笑う。
「もちろんです」
獣人街では香辛料を使った肉料理が売られていた。
胡椒。
山椒。
唐辛子。
その隣では乳製品も扱われている。
一行は店へ入った。
「少し辛いですよ」
獣人の店主が料理を置く。
マーガレットが食べる。
「本当に辛いですわ」
そう言いながら二口目を食べた。
バイオレットも続く。
側室たちも食べる。
サーシャは乳製品を使った料理を注文した。
視察する場所が増えるたびに、アイテムボックスの中身も増えていった。
菓子。
果物。
蜂蜜。
ワイン。
シードル。
ブランデー。
香辛料。
織物まで入っている。
それでも誰一人、帰ろうとは言わなかった。
マーガレットは次の通りを見た。
「せっかくですから、魔族街も見ていきましょうか」
「ええ」
バイオレットが即答する。
サーシャも今度は止めなかった。
視察という名の観光旅行は、すっかり本物の観光旅行になっていた。
一行は魔族街へ入った。
ここでも人通りは多い。
魔族だけではない。
人間。
獣人。
エルフ。
ドワーフ。
ダークエルフ。
様々な種族が店を行き来していた。
通りには料理店が多かった。
鶏によく似た鳥を焼く香りが漂っている。
卵料理を売る店もある。
「この鳥ですわね」
マーガレットが店先を見る。
「何がです?」
サーシャが尋ねた。
「マルセルという料理人が柑橘蒸しに使っているそうです」
「よくご存じですね」
「報告を受けていますから」
マーガレットは平然と答えた。
アレクサンド領で新しい料理が生まれたことは、端末を通じて王宮にも伝わっている。
一行は食堂へ入った。
焼いた鶏肉。
卵を使った料理。
香辛料を利かせた煮込み。
それぞれ少しずつ注文する。
「これ、美味しいですわね」
マーガレットが焼いた鶏肉を食べる。
「柑橘蒸しにしたくなる理由が分かります」
側室の一人も頷いた。
バイオレットは卵料理を食べていた。
「この卵、菓子にも使われているのでしょう?」
「はい」
魔族の店主が答えた。
「最近は菓子職人からの注文が随分増えました」
「ブランデーケーキの影響でしょうか」
「それもあります。焼き菓子を作る店そのものが増えていますから」
バイオレットは感心したように頷いた。
一つの菓子が売れる。
卵の需要が増える。
蜂蜜が売れる。
果実が必要になる。
酒も必要になる。
それぞれを作る者の仕事が増える。
王宮が何かを命じたわけではない。
人々が欲しがるから、必要なものが作られているだけだった。
食堂を出ると、一行はダークエルフ街へ向かった。
こちらには衣服や装飾品を扱う店が増えていた。
「綺麗ね」
側室の一人が布を手に取る。
ダークエルフの職人が染めたものだった。
隣には人間の仕立職人がいる。
さらにエルフの織物を使った服も並んでいた。
「これも共同で作っているの?」
「はい。布によって得意な人に頼んでいます」
「では、これをいただくわ」
また買い物が増えた。
その頃には、一行を気にする一般客も現れ始めていた。
一人の女性がバイオレットを何度も見る。
隣にいた夫へ小声で尋ねた。
「あの方……王妃様に似ていない?」
夫がちらりと見る。
「まさか」
「でも、その隣の方……マーガレット王女じゃない?」
「王女殿下が、そんな普通の服で菓子を買って歩いてるわけないだろ」
そのマーガレットは、少し離れた店で蜂蜜を選んでいた。
「こちらと、こちらをください」
バイオレットも果実の砂糖煮を追加している。
側室たちは織物を見ていた。
サーシャは再び菓子店を見つけていた。
夫婦は黙った。
「……本人じゃないか?」
「たぶん」
だが、騒ぎにはならなかった。
本人たちが普通に買い物をしている。
店主も普通に代金を受け取っている。
ならば邪魔する必要はない。
ただ、噂は広がった。
王妃様が来ているらしい。
王女殿下もいる。
側室たちも一緒らしい。
誰かが確認する。
本当にいた。
しかし王族一行は演説をしない。
住民を集めもしない。
亜人の店だからと特別に褒めることもしなかった。
美味しいものを食べる。
欲しいものを選ぶ。
代金を払う。
店主に礼を言う。
それだけだった。
夕方。
一行は街の外へ出た。
「転移で帰りますか?」
サーシャが尋ねる。
マーガレットは少し考えた。
「それでは、すぐ着いてしまいますわ」
バイオレットも街道を見る。
「せっかくですから、ゴーレム馬車にしましょう」
側室たちも賛成した。
急ぐなら飛行すればいい。
さらに急ぐなら転移すればいい。
だが今日は急いでいない。
旅そのものを楽しむなら、ゴーレム馬車でいい。
一行は王都行きのゴーレム馬車へ乗った。
座席に腰を下ろす。
窓の外を街並みがゆっくり流れていく。
側室の一人がアイテムボックスから菓子を取り出した。
「食べます?」
「いただきますわ」
「私も」
サーシャも手を伸ばした。
今度は誰も視察とは言わなかった。
車窓を眺める。
菓子を食べる。
シードルを少し飲む。
買ってきた品物の話をする。
ゴーレム馬車は整備された街道を王都へ向かって進んでいった。
そして亜人街には、一つの新しい評判が残った。
王族まで普通に遊びに来る街。
それはどんな差別撤廃の演説よりも、街の信用を高めていた。
王妃と王女が亜人街へ遊びに来ていた。
その噂は、翌日には王都まで届いていた。
しかも公式視察ではない。
地味な服を着て、普通の客として店を回っていた。
菓子を食べた。
ワインを買った。
蜂蜜を買った。
織物を選んだ。
魔族の食堂で料理まで食べた。
帰りは転移でも飛行でもなく、ゴーレム馬車だった。
話を聞いた王都市民の反応は単純だった。
「そんなに面白い街なのか?」
「王妃様が行くくらいだぞ」
「ブランデーケーキっていうのが旨いらしい」
「俺は酒が気になるな」
「今度の休みに行ってみるか」
数日後。
亜人街を訪れる人間はさらに増えていた。
急ぐ者は飛行する。
家族や友人との旅行を楽しみたい者はゴーレム馬車に乗る。
朝に王都を出る馬車には、菓子や酒を目当てにした客が目立つようになった。
商業ギルドも当然、その動きを見逃さなかった。
ギルド内の会議室。
職員たちが端末に表示された数字を見ていた。
「王都から亜人街へ向かうゴーレム馬車の利用者が増えています」
「休日は?」
「満席になる便も出ています」
「なら増便しよう」
決定は早かった。
だが、それだけでは終わらない。
一人の職員が提案した。
「旅行商品にできませんか?」
「旅行商品?」
「はい。往復のゴーレム馬車と、宿泊、それから食事をまとめるんです」
会議室が静かになった。
すぐに別の職員が端末を操作する。
「エルフ街の果実園見学」
「ドワーフ街の酒造工房も入れられるな」
「獣人街なら香辛料市場」
「魔族街は食事だろう」
「ダークエルフ街は織物と服飾店があります」
次々と案が出る。
誰かが笑った。
「観光旅行じゃないか」
「そのつもりですが?」
こうして商業ギルドによる旅行企画が始まった。
宿屋と交渉する。
食堂と相談する。
ゴーレム馬車の便を確保する。
各街の店にも話を通す。
数日後。
王都の商業ギルドに新しい案内が貼り出された。
――亜人街周遊旅行。
果実と蜂蜜を楽しむエルフ街。
酒造工房を巡るドワーフ街。
香辛料と乳製品の獣人街。
料理を楽しむ魔族街。
織物や服飾店を巡るダークエルフ街。
最後は共有街で自由行動。
宿泊付きのコースまで用意された。
申し込みはすぐに入った。
最初は女性客が多かった。
目的は菓子。
果実。
蜂蜜。
ワイン。
シードル。
織物。
服。
王都の女性騎士たちも休暇を合わせて参加した。
かつて帝国から亡命してきた女性たちもいる。
アレクサンドやアンジェラまで、時間が合えば一緒に遊びに来た。
そして女性が動けば、男たちも動いた。
「ドワーフ街の酒造工房、行ってみたいな」
「魔族料理も旨いらしいぞ」
「獣人街の肉料理も食いたい」
理由は様々だった。
中には別の目的を持つ若者たちもいた。
「ダークエルフ街って自由恋愛なんだろ?」
「だから何だ?」
「いや、別に」
「顔が笑ってるぞ」
そんな会話をしながらゴーレム馬車へ乗り込む。
やがて商業ギルドには、若い独身男性向けの旅行まで相談されるようになった。
職員は頭を抱えた。
「ダークエルフを口説きに行こうツアー、という名前は却下です」
「駄目か?」
「当たり前です」
「じゃあ交流旅行」
「それなら検討します」
そんな企画まで生まれていた。
もちろん、相手が応じるかどうかは本人次第である。
自由恋愛とは、誰でも口説けるという意味ではない。
ただ、種族が違うことを理由に最初から排除されることもなかった。
人間とダークエルフ。
人間とエルフ。
獣人と人間。
魔族と人間。
観光で知り合い、何度も街へ通う者が現れる。
交際する者も出てきた。
そして、その光景を見る王国民の感覚も少しずつ変わっていった。
誰かが差別をやめろと命令したわけではない。
王宮が大々的な演説をしたわけでもない。
王妃が菓子を食べた。
王女がワインを買った。
側室たちが服を選んだ。
サーシャがブランデーケーキをおかわりした。
王族が普通の客として楽しんだ。
それを見た人々も遊びに行った。
商業ギルドが馬車を増やした。
旅行商品ができた。
店が増えた。
宿屋が増えた。
交流が増えた。
亜人街は、もはや亜人だけの街ではなかった。
休日になれば王国各地から人が訪れる観光都市になり始めていた。
王宮では後日、マーガレットが今回の視察報告をまとめていた。
バイオレットが尋ねる。
「成果はいかがでした?」
マーガレットは端末を見る。
商業の活性化。
観光客の増加。
種族間交流の拡大。
新商品の開発。
どれも立派な成果だった。
マーガレットは満足そうに頷いた。
「非常に有意義な視察でしたわ」
サーシャが横から言った。
「ブランデーケーキを三つも買って帰った視察が、ですか?」
マーガレットは少しも動じなかった。
「それも市場調査ですわ」
バイオレットが真顔で頷く。
「その通りです」
サーシャは二人を見た。
そして何も言わず、買ってきたブランデーケーキを一つ取った。
結局、次はいつ行くのか。
三人が考えていたことは同じだった。




