地図から消された町
朝日が尾根を越えるころ、石畳は一枚の板の前で途切れた。
太い門柱に打ちつけられたそれは、かつて町の名を掲げていたらしい。文字のあった部分だけが削られ、ささくれに新しい雨粒が残っている。
カイが板の傷を確かめ、森を振り返った。
「もう夜路の外だ。ここからは話せる」
初めて聞く勤務中の声は、思っていたより穏やかだった。
けれど、その声に答えたのはリネットではない。
「郵便院の人?」
水桶を抱えた少女が、道の先で立ち尽くしていた。驚いて取り落とした木杓子が、乾いた音を立てる。その音に、家々から人が出てきた。
畑仕事の鍬を持つ者、粉のついた前掛け姿の者、白い陶土で両手を汚した者。二十人ほどの視線が、二人の制服と白い防魔布の鞄に集まる。
「何を取り立てに来た」
先頭の老女が少女を背にかばった。
「配達です」
カイはそれだけ告げると、半歩下がった。説明を任せるというようにリネットを見る。
リネットは身分証と職務印だけを出した。鞄には触れない。
「王立郵便院迷い便係のリネット・オーランです。封を開けることも、受領を強いることもありません。宛先を確かめるため、お話を伺わせてください」
「ここには宛先なんてないよ」
老女は削られた板を顎で示した。
「王都の地図じゃ、とうに空き地なんだろう」
町の名はトルヴァといった。
七年前、北の橋が崖崩れで落ちた。経路局は全戸移転済みとして街道を閉じたが、実際に移ったのは三家族だけだった。残った人々は森から木を切り、自分たちで細い橋を架け直した。
「六十二人、ちゃんと暮らしてる」
先ほどの少女が老女の後ろから言った。
「ミナ」
たしなめる声にも、少女は引かなかった。
「だって、いるのに」
リネットはうなずいた。
「ええ。私にも、そう見えます」
老女の顔から、ほんの少し険が抜けた。アデルと名乗った彼女は、共同窯の火を預かり、町の取りまとめもしているという。
郵便が途絶えたのは、街道の閉鎖と同じ日だった。町から出した便は『該当住所なし』で戻り、町へ来る便は南の集配所で止められた。三年前には役人が門の名を削り、古い受領印まで持ち去った。
「鐘も、役人が?」
リネットが空の鐘楼を見上げると、アデルは首を横に振った。
「橋を直す金にした。鐘がなくても、帰ってくる人間は迎えられるからね」
白い陶土、鐘のない町、隠された旧道。すべてが一通目の示す断片と重なる。それでも、似た土地が他にないとは言い切れない。
「昔の郵便記録があれば、見せていただけませんか」
「見たところで、印はないよ」
「能力だけで正しいと言い張るつもりはありません。消される前の記録と、運んできた便に残る痕跡を照合したいんです」
アデルは長くリネットを見た。それから、共同窯の裏にある小屋へ二人を案内した。
小屋は昔の受取所だった。棚には空の仕分け箱が並び、机の脚には、門板と同じ鑿の傷があった。アデルが床板を上げると、油紙に包まれた受取控えが現れた。
カイが携帯灯を置き、リネットは一枚ずつ日付と経路番号を追った。最後の控えに押された淡い印影は、半分だけ欠けた円。その欠け方が、黒い宛名札の端に残る白い跡とぴたり重なった。
「ここです」
胸が熱くなった。それでもリネットは、すぐには鞄を開かなかった。
「ただ、町が正しくても、受取人の同意が要ります。この便は皆さんの守護に関わるものです。事情を説明したうえで、誰が、どこで受け取るかを選んでいただかなくては」
「町を消した王都からの便を、信じろって?」
アデルの問いに、答えを急がなかった。
「信じてほしいとは言いません。確かめて、選んでほしいんです。受け取らないという選択も含めて」
そのとき、外から駆ける足音がした。
薪を背負った若者が森から戻ってきたのだ。ミナが小屋を飛び出し、何度も手を振る。
「おかえり!」
共同窯から、畑から、開いた窓から、同じ言葉が返った。
白い鞄の中で、黒返り便がとくんと脈打つ。黒い封蝋に、金色の細い筋が一本走った。
カイとリネットは顔を見合わせた。
この便が探していたのは、地図に載る名前だけではない。
「受け取る場所なら、ある」
アデルが、朝日に照らされた空の鐘楼を見上げた。
「あそこは今でも、うちの町の者が帰ってくる場所だよ」




