夜便隊長はメモで話す
苔の下から現れた石畳は、馬車一台ぶんの幅しかなかった。
両脇から張り出した木の根が路面を持ち上げ、行く手では枝が低く絡み合っている。夜便車を無理に進めれば、車軸を折るか、白い防魔布の鞄を枝に引っかけるだろう。
カイは馬を道標につなぎ、鞄を自分の肩に掛けた。それから携帯灯を掲げ、空いた手で石盤に書く。
『ここから徒歩。異議は?』
「ありません。ただし、封印に変化があれば、すぐ停止を」
『同意する』
短い言葉の下に、時刻も添えられた。共同配達人として交わした最初の確認だった。
リネットは渡された石筆を握る。
『どうして、夜路では名前を言ってはいけないんですか』
歩きながら話してもよさそうな問いまで、つられて文字になった。カイは一度だけ目元を和らげ、石盤を受け取った。
『使われなくなった夜路は、失った宛先を探している。そこで口にされた固有名を拾い、道標にしようとする』
少し考えてから、さらに書き足す。
『人の名でも、土地の名でも同じだ。拾われれば、別の道へ結び直される。夜が明ければほどけるが、それまで帰れないことがある』
だから、カイは必要な語だけを避けて話すのではなく、勤務中はすべて書くのだ。馬の首の鈴が鳴らないのも、音に交じった呼び声を拾わせないためなのだろう。
『不便では?』
『慣れた。言い間違いより、書き直せるほうが安全だ』
無口なのではない。届けるために黙っている。
リネットは、王立郵便院で彼を見かけるたび、冷たい人なのだと思っていた。けれど、夜光墨の文字は簡潔でも、彼女の問いを置き去りにはしなかった。
石畳はすぐ、二つに分かれた。
右の道には白い土が点々と続き、左の道は黒い落ち葉に覆われている。鞄の中で黒返り便がかすかに脈打つたび、右の白土が青白く浮かんだ。
カイが右を指し、次いでリネットを見る。命令ではなく、判定を求めている。
「待ってください」
リネットはしゃがみ込み、白土を指先でつまんだ。乾いて軽く、落ち葉の上にだけ載っている。黒い宛名札に付着していた白陶土は、もっと粘りがあり、繊維の奥まで入り込んでいた。
左の苔を石筆の柄で持ち上げる。隠れていた轍の底から、乳白色の土がのぞいた。
「こちらが昔から使われた道です。右は、誰かがあとから白く見せたものです」
『便の光まで右を示している』
「外装の宛先は上書きされています。今の反応が正しいとは限りません」
言い切ってから、自分の胸が速く打つのに気づいた。夜便隊長の判断を、初めて止めたのだ。
カイは右の道へ携帯灯を向けた。白い粉の列は十歩ほど先で途切れ、その奥には、泥水をたたえた深い窪地が口を開けていた。
彼はすぐ石盤に記した。
『異議を採用。左へ』
その下に、小さくもう一行。
『判定を頼んで正解だった』
褒め言葉というより、事実の記録だった。だからこそ、リネットの胸にまっすぐ届いた。
二人は左の道を進んだ。踏む者のなかった石畳は、ところどころ意図的に土をかぶせられていた。三つ目の曲がり角では、倒された標柱が茨の下から見つかった。
表面には、かつて文字を刻んだ跡がある。だが、町の名があったはずの中央だけ、鋭い鑿で削られていた。王立郵便院の中継簿と同じだった。
「紙の記録だけではない。道からも、町を消そうとした人がいる」
カイはうなずき、標柱の傷と周囲の足跡を手帳に写し取った。古い削り跡の上に、まだ新しい泥がついている。誰かが最近も、ここを確かめに来ている。
黒返り便が、今度は強く脈打った。
二人は同時に鞄を見た。黒い封蝋からこぼれた細い光が、左の道の先へ伸びている。偽りの白土を離れたせいか、その色は先ほどより澄んでいた。
『進む?』
カイの問いに、リネットは自分の職務印へ触れた。
「進みます。これは私たち二人の判定です」
森を抜けるころ、東の空が薄い藍色に変わり始めた。
尾根の下に、家々の屋根が見えた。二十軒ほどが身を寄せ合い、どの煙突からも細い煙が上がっている。人の暮らしが、確かにそこにある。
けれど、町を示す標識はない。教会らしい尖塔はあっても、鐘を吊るす場所だけがぽっかり空いていた。
――鐘のない町。
声には出さず、リネットはカイを見る。
彼もまた、石盤を使わなかった。
ただ携帯灯を一度掲げ、地図のどこにもない町へ続く道を照らした。




