能力がなくても、宛先は選べる
夜明け前、種苗商の荷車が温室の裏門を出た。
ノーラの日誌の写しは、種芋の箱に結ばれている。宛先は王都ではなく、隣領の集配局だ。そこから別の荷便へ渡し、さらに二つの局を経て、エダのいる監査室へ届けるという。
「ずいぶん遠回りですね」
灰色の外套の男が、護送馬車の窓からそれを見送った。
「集配停止を避けるためです」
リネットが答えると、男は肩をすくめた。
「能力を失った迷い便係が選んだ道に、何の保証があるのです」
胸元の職務印は白いままだった。封筒へ触れても、もう何も聞こえない。その沈黙に足を取られそうになって、リネットは膝の上の運送表を見た。
「保証するのは私ではありません。荷を受けた人が時刻を書き、次の人が署名する。それを最後までつなぎます」
向かいのカイが手帳を開く。
〈一つの耳ではなく、いくつもの目で運ぶ〉
馬車は昼前、街道の継立所へ着いた。護送役が馬を替える間、リネットは窓口の老局員に、一枚の私信を差し出した。職務命令ではない。四つの受取地へ、控えの有無を問い合わせる手紙だった。
老局員は白い職務印を見て、手を止めた。
「停止中の職員から、業務便は受けられんよ」
「はい。ですから私の印を信用しないでください」
リネットは運送記録と、カイの確認票と、ノーラが記した命令書の空欄の写しを順に置いた。
「これは私個人からの問い合わせです。読んだ上で、引き受けるかはあなたが決めてください。受取人にも、自分の記録をどこへ届けたいか選んでもらいたいのです」
「証拠提出を誘導している」
灰色の男が口を挟む。
老局員は手紙を最初から読み直した。やがて、新しい運送票を取り出す。
「差出人の自由意思を確かめた。わしは王立郵便院の監査官と、公開守護更新式の記録席へ届けたい。二通に分けよう」
彼自身の職務印が、二枚の票へ赤く押された。
能力で正解を言い当てたのではない。事情を示し、問い、相手の答えを記録した。それは迷い便係として、リネットがずっとしてきたことだった。
馬車が一つ先の宿場へ着くころ、返事が追いついた。
地図から消されていた町の局員は、復帰した町名簿と最初の受領簿の写しを送った。塩の荒野を巡る人々は、隊商長だけでなく、あの日その場にいた七人の署名を一枚ずつ別の商隊へ託した。岬からは灯台守の受領印と、守護灯が戻った時刻を記した当直帳が、漁師の荷に交じって北の港を発っていた。
そして温室からは、ノーラの日誌が種苗商、荷役人、隣領の局員へ渡ったことを示す三つの署名が届いた。
どれも魔法便ではない。封印へ尋ねても答えない、ただ宛名の書かれた紙だ。けれど、誰が誰から受け取ったか、一つとして空欄がなかった。
「能力がなければ、真の宛先は分からないはずだ」
灰色の男の声には、朝の余裕がなかった。
「分からないものは、分からないままです」
リネットは答えた。
「私は心を読めません。能力があった時も、聞こえた断片だけで宛先を決めたことはありませんでした。差出人に尋ね、土地を歩き、記録を照らし、受取人の同意を確かめた。今は最初の手掛かりがないだけです」
カイの紙が、窓辺へ差し出された。
〈君の仕事は、消えていない〉
その一行を見ても、白い印は青く戻らなかった。それでも今度は、胸の奥まで白く凍りはしなかった。
日暮れ、王都手前の大集配局で、エダからの封書が二人を待っていた。表に並ぶ中継署名は九つ。封を開くと、短い監査通知が現れた。
『四地方の控えを受領。相互照合を開始した。原本と護送記録を、公開更新式の証言台へ。なお経路局は今夜零時をもって、王都へ入る全郵便路の閉鎖を命じた』
更新式まで、あと二日。通常便では門の外までしか届かない。
カイは通知を読み終えると、局舎の屋上へ上がった。夜便隊長の銀笛を三度吹く。遠い街道で一つ、二つ、青い配達灯が応えた。
彼は新しい運送票をリネットへ差し出した。
〈宛先を〉
リネットは白い職務印には触れず、ペンを取った。
『王都中央広場、公開守護更新式、証言台』
聞こえなくても、書ける。命じられなくても、選べる。
青い灯は街道の向こうで、次々と増えていった。




