第64話 世界が、燃えている
その日の朝も、いつも通りだった。
台所から、卵焼きのいい匂いが漂ってくる。
瑠花さんが、鼻歌まじりに、フライパンを振っている。
その隣で、ステラが皿を並べていた。
ノアは、俺の肩でまだ眠そうにしていた。
……平和だ
コルヴスの事件から何日か経って、俺たちの日常はすっかり元通りになっていた。
いや、元通りより、少しだけ、にぎやかになった。
「蓮くん、卵焼きできたよ! 多めに焼いときました!」
「ありがと」
「ステラちゃんも、たくさん食べてね」
「……かたじけない、であります」
この日常がずっと、続けばいいと思っていた、いつもの朝だった。
——そのとき、ノアが、ぴくりと動いた。
『……マスター』
声から、いつもの「(笑)」が、消えていて真剣な声だった。
「ん?」
『ニュースを、見てください。今すぐ』
ノアがテレビをつけて、部屋の空気が一瞬で変わった。
◆ ◆ ◆
画面に、見慣れない街並みが映っていた。
高層ビル。広い道路。英語の看板。
……ここはアメリカ?
でも、その街が燃えていた。
ビルが崩れ、道路が裂け、人々が逃げ惑っている。
空には、黒い煙
画面の下に、赤いテロップが流れていた。
『アメリカ西海岸 複数都市で同時多発ブレイク 犯行声明:国際犯罪組織"Null"』
……Null
……なんでアメリカを襲ったんだ?
「……うそ」
瑠花さんが、フライ返しを握ったまま、立ち尽くしていた。
ステラの目が、鋭くなる。
「……これは、規模が異常でありますね」
「いくつもの都市で、同時に。これだけのブレイクを一度に起こすなど、今までのNullの手口とは桁が違うであります」
俺も、そう思った。
Nullのブレイクは知っている。日本でも何度かあった。でも、こんなふうに街ひとつを、まるごと飲み込むようなものじゃなかった。
◆ ◆ ◆
画面が、誰かのスマホが撮った揺れる映像に切り替わった。
崩れたビルの屋上に、二つの人影が立っている。
ひとりは、痩せた黒いコートの男。
……コルヴスだ
間違いなかった。殴り殺したはずの——いや、あれは分身か。あの男のたぶん本物だ。
その隣に、もうひとりの影があった。
見上げるほどの、巨漢だった。
丸太みたいな腕。岩みたいな体
そいつが拳を振り下ろすたびに、ビルが、紙くずみたいに潰れていく。
地面が割れ、ゲートが裂けて、モンスターが噴き出す。
搦め手も魔法らしい魔法もない。
ただ、力だけで。街を壊していた。
「……あの、二人」
ステラが、低い声で言った。画面を見据えたまま。
「黒コートは、コルヴスであります。ゲートを開いて、ダンジョンからモンスターを出しているのでありますね。彼がダンジョンのゲートの管理人なので。」
「そして、その隣の巨漢は——オリオン」
ステラの声が、苦々しげになった。
「彼は、正面からの戦闘なら、Null随一の力。頭は単純な男でありますが、その分、ためらいがない。『壊せ』と言われれば、街ひとつ、平気で更地にするであります」
「あの男に、小細工は通じません。ただ、ひたすら、力で押し潰してくるであります。」
『……策士のコルヴスと、力のオリオン』
ノアが、肩の上で、低く言った。
『その二人が揃って動いた。本気でアメリカを潰す気ですよ、これは』
◆ ◆ ◆
俺は、もう一度、画面を見た。
逃げる人たち。子供を抱えた母親。崩れた瓦礫の隙間から、助けを求める手
探索者の部隊が出ているのが映る。でも、オリオンの一振りの前に、近づくことすらできずに薙ぎ払われていく。
……これは、ゲームじゃない。
俺の配信が、ゲームだと思われているのとは——まるで逆だった。
本物の災害が、止められないまま、広がっている。
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SNS・速報(抜粋)
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>【速報】Nullによる大規模同時ブレイク。西海岸の複数都市で被害拡大。広域避難勧告発令
>【海外SNS】Nullの仕業なのはわかってる。でも、こんな規模、今まで一度もなかった。街がまるごと消えていく
>【海外SNS】探索者部隊も軍も出てる。それでも、止まらない。誰か、誰か助けて
>【攻略ガチ勢】あの黒コートの男、前にRENの配信に映ってた奴に似てないか……?
>【陰謀論者】Nullが日本じゃなくアメリカを狙った理由、考えたことあるか?……日本には"いる"んだよ。あれを止められる奴が
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世界中が恐怖していた。Nullによる本物の災害だと
探索者が出ても、軍が動いても、あの男たちの前では何もかもが無力で
そして、その間にも。人は、確かに死んでいた。
◆ ◆ ◆
「ノア。なんで、アメリカなんだ」
俺は、画面を見据えたまま聞いた。
『……おそらく、日本以外を攻めているのでしょう』
「日本は諦めたの?」
『マスターがいる限り、日本は落とせない。前回、コルヴスはそれを思い知らされた。だから——あなたの手の届かない場所を選んだ。遠い、海の向こうを』
俺の、手の届かない場所。そこで、人が死んでいる。
……俺が行けば、止められるなら
俺は、ぐっと拳を握った。体の奥が、静かに熱くなっていく。
昨日まで卵焼きを食べていた、この手で。また戦うのか。
瑠花さんが、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「蓮くん……」
「……大丈夫です」
なるべく、いつもの声で言った。でも、たぶん、うまく笑えていなかった。
◆ ◆ ◆
そのとき、スマホが鳴った。
ビデオ通話だった。
画面に、ひとつの名前が表示される。
『Mercy』
VStream世界ランキング一位。アメリカの配信者で、最近は現実の探索者としても戦い始めた人だ。
『出ますか、マスター』
「うん」
通話をつなぐと、画面の向こうは、煙と瓦礫の戦場だった。
その中心で、褐色の肌の大男が、肩で息をしている。いつも配信で見る、甘ったるい笑顔はどこにもない。服はぼろぼろで、頬には血が滲んでいた。
『……RENくん。突然ごめんなさいね』
低い、切羽詰まった声だった。
『でも、もう……あたしたちだけじゃ、無理みたい。探索者を、何人失ったか、わからない』
画面の向こうで、また遠くのビルが崩れる。地響きが、スピーカー越しに伝わってくる。
『あなたなら……あなたの力なら、止められるかもしれない。お願い。——助けて』
Mercyの背後で、世界が燃えていた。
俺は、ゆっくりと息を吐いて。
「……行きます」
迷いはなかった。
『……ありがとう。本当に……っ』
Mercyの声が少しだけ震えた。
通話が切れる。
『マスター。本気ですね』
「うん。困ってる人がいる。それだけだよ」
ノアは、ふっと笑った。
『……ええ。あなたは、そういう人です』
◆ ◆ ◆
ほとんど、間を置かずに。
今度は、俺のスマホが鳴った。
つむぎさんからだった。
「RENさん! ニュース、見ましたか。私、Mercyさんから連絡が……っ」
「俺もです。今、行くって、返事しました」
「……やっぱり」
電話の向こうで、つむぎさんが、小さく笑った気がした。
「だと思いました。私も、行きます。Mercyさんとは……まあ、ちょっとした、戦友なので。放ってはおけません」
「心強いです」
「すぐ、そっちに合流します。準備して待っててください。——今度は、絶対に、間に合わせる」
最後の一言は、自分に言い聞かせるような、強い声だった。
◆ ◆ ◆
準備は、すぐに整った。
俺は、壁に立てかけた虚空断ちを、肩に提げた。
問題は、ここからだった。
「……瑠花さん」
「うん」
「俺、行ってきます。たぶん、何日か帰れない」
瑠花さんは、しばらく、黙っていた。
ついこの間、コルヴスに攫われたばかりの人だ。怖くないはずがない。
それでも、彼女は、ぎゅっと、両手を握って。
「……行ってらっしゃい」
まっすぐ、俺を見て言った。
「わたしは、ここで待ってます。……だって、わたしが行っても、足手まといになっちゃうから」
「瑠花さん」
「でもね、蓮くん。ひとつだけ」
瑠花さんが、かばんから、小さなペンギンのストラップを取り出した。
水族館で買った、おそろいの、あれだ。
「これ、持ってって。お守り。……絶対、絶対、無事に帰ってきて」
俺は、それを受け取って、ポケットの奥にしまった。
「……うん。必ず」
その横で、ステラが、すっと前に出た。
「REN殿。私は、残るであります」
「ステラ……いいのか?」
「はい。ここで瑠花殿を守るであります」
ステラの目は、いつになく、真剣だった。
「コルヴスは、一度、瑠花殿に手を出した男。あなたが日本を離れた隙を、狙わないとは限りません。……REN殿が世界を守るなら、私は、この家を守るであります」
「私の、大切な居場所を」
ステラが、ぴしりと、頭を下げた。
「瑠花殿は、命に代えても、お守りするであります。だから——どうか、安心して、行ってきてください」
「……ありがとう、ステラ」
俺は頷いた。
守りたいものが、ちゃんと、後ろにいる。
それだけで、不思議と、足が軽くなった。
◆ ◆ ◆
空港
ロビーでつむぎさんが剣のケースを背負って待っていた。
「お待たせしました、RENさん」
「いえ。来てくれて、ありがとうございます」
『搭乗の手配は済ませました。普通のお客さんは今、アメリカに行けませんが、Mercyさんが、特別に現地の受け入れを通してくれたそうです』
ノアが淡々と言う。
窓の外。飛行機が滑走路で出発を待っている。
その先に、燃えている世界がある。
俺は、ポケットの中のペンギンを、そっと握った。
……行ってきます
……世界を守りに
俺たちは、海の向こうへ、飛び立った。




