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星の子 〜護るとは、一緒にいたいと願うこと〜  作者: 猫様のしもべ
第3章 “星の子”が灯すもの
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第37話 「幻夢の堕天」

果てしなく、澄み渡った碧空が広がっていた。


草花の香りを乗せて、風が頬を撫でた。

小さな家から立ち昇る白煙を流れさせ、木々の隙間から葉を揺らしながら、涼やかな音を立てて吹き抜けた。


どこかで響く、子どもの笑い声。

優しくて、穏やかな雰囲気があった。


なぜだろう。


胸の奥が、どうしようもなく寂しかった。

この場で膝をついて、泣き崩れたくなるような。


「アスティラ村、だよね」


灰に包まれた村ではない。

緑が生い茂り、どこも焼け焦げていない。


本当は、こんな景色なのだろうか。


記憶の中を、どれほど探してもわからない。

知らないはずなのに、陽光に照らされて煌めく小川も、少し傾いた木の柵も、村の奥で揺らめく“流星の泉”も、どうしてか初めて見たものだとは思えなかった。


ルフィーナは、ゆっくり歩き出した。

進むごとに、足元でサワリと音がした。


そのとき。


「ーールフィーナ」


すぐには、振り返れなかった。

心の奥底では、再び失うことになるとーー。


また、名前を呼ばれたら。


また、抱きしめられたら。


それでも、ほんの少しだけーー

ここを、本当の故郷だと信じていいだろうか。


気づけば、腰に提げていたはずの剣がない。


もう戦わなくていいのか。

記憶がなくても、また作れるから。

みんな、ここにいるなら。


もう、何もいらない気がした。


ゆっくりと振り返る。

女性と、小さな守護神獣の姿があった。


「……うん」


微かに煌めく星屑が零れた。

黒曜石のような瞳に、星空が映っていた。


ーーずっと、ここにいたい。


その瞬間だった。


「主様、一緒に遊びませんか?」


世界が凍りついた気がした。


風も吹いていて、水も流れていた。

でも、ルフィーナだけは動けなかった。


彼女は、不思議そうに首を傾げる。


「……主様?」


小さな声が、胸に深く突き刺さった。


「……そっか」


わかっていたんだ。


ここへ、招かれたときから。

何も失われていない、優しい場所。


本当は、わかっていた。


信じたくないだけだった。


認めてしまえば、消えてしまうから。


『ルナ、だいじょうぶ!?』


忘れたことはなかった。

記憶を失って、やっと目覚めた日。


涙を浮かべた彼女にーー。


『だれ……?』


そう、返してしまったのだから。


ルフィーナは、胸元をぎゅっと握る。

涙をこぼさないように、強く力を込めて。


何度も、後悔していた。


覚えていなかったとしても。

せめて、別の言葉を返せていたら。

手を伸ばせていたのなら。


“ルナ”ではなく、“主様”とーー

呼ばれるようには、ならなかったかもしれない。


「……ここにいたいな」


ようやく、わかったんだ。


星が遠くて、影がない場所で。

幻だと知っても、縋りついた彼女の想い。


「……私は、一度幻を破った」


彼女の手を引いて。


「すごく、後悔している」


微かに声が震えていた。


それでも。


ルフィーナは、手を伸ばした。


「ーーそれでも、またあなたの手を取るよ」


何もない場所へ、さらに伸ばす。

いつも隣にいるはずの、彼女へ向けて。


風景から、色が抜けた。


風の音も、水のさざめきも遠くなって。


ふたりの姿が光に溶けた。


胸の深いところが痛んでいた。

それでも、二度と独りにしないと誓ったから。


その瞬間。


ーーふわり、と何かが触れた。


「……ティターニア」


空に溶けてしまいそうな毛並み。

それでも、ルフィーナに伸ばされていた。


返事はなくても、わかった。


彼女も、きっと同じように幸せな幻を見た。

何も失われていない、優しい幻を。

手放したくないものが、たくさんあったはず。


なのに、手を伸ばした。

記憶を失った、ルフィーナへーー。


だから、離さない。


小さな手をぎゅっと握った。

引かれるままに、足を踏み出した。


次の瞬間。


どこまでも広い青空に、亀裂が走った。

音もなく枝分かれしていった。

村を覆って、家を切り離して、泉を裂いた。


それでも、まだ優しい。

最後まで、残りたいと思ってしまう。


送り出されるようにーー。


「……また、ね」


そんなもの、ないとわかっていた。


それでも。


“さようなら”とは、言いたくなかった。


左右に走った亀裂が、合流する。

瞬間、眩いばかりの光が溢れた。


思わず、目を瞑った。


次にまぶたを開いたとき。

目の前にあったのは、煌めく星屑だった。


「主様……っ!」


黒曜石のような瞳に、星のような雫が溜まっていた。


周囲には、純白の手術室が残っている。

冷たい壁には微かな黒い粒子が残り、整えられた棚には薬瓶が四方に散らばっていた。


少し離れた場所では、騎士たちが目を開けた。

剣を強く握っていたり、涙を浮かべている者もいた。


銀髪のふたりは、互いに視線を重ねた。


けれど、片方は守護神獣と寄り添っていた。

もう片方は、ひとりで緑色の瞳を逸らした。


「……皆さん」


騎士たちが、とっさに身構える。


“幻夢の堕天”は、変わらない笑顔だった。

白衣をまとって、景色を映さない瞳が揺れた。


「治療を拒んでしまわれたのですか」


責めようとも、叱ろうともしない声。

ただ医者として、治療を拒否されたことを残念に思うような、困っているかのような声だった。


ルフィーナは、静かに剣を抜く。


胸の奥底には、まだ幻のぬくもりがあった。

ずっと幻に浸っていたいとも、思ってしまった。


それでも。


隣には、ティターニアがいる。

それだけは、どんなに美しい幻にも譲れなかった。


“幻夢の堕天”は、静かに目を伏せた。


「……最後の治療を、始めましょう」


白衣が、微かに揺れた。


「ーー終夢拍動(ティルミシア)」


直後、音が消えた。


息遣いの音も、心臓が脈を打つ音も。

誰かが叫んでいたはずなのに、聞こえない。


“音”だけが、切り取られたかのように。


“幻夢の堕天”が、穏やかに微笑む。

怖がっている患者を宥めるかのような微笑みで、僅かに口を動かして何かを喋っていることはわかった。


ーーどくん。


鼓動のような、音が聞こえた。


どこから聞こえているのかもわからない。

まるで手術室が、まるごと心臓になったかのように。


ーーどくん。


カウントダウンのように、響く音。

鼓動のたびに、壁や床までもが微かに震えた。


ーーどくん。


膨大な量の瘴気が、“幻夢の堕天”へ集まる。

部屋に残されていた粒子までもが集って、これまでとは比べ物にならないような瘴気の塊になっていく。


止めなければ。

けれど、うまく身体が動かなかった。


ーーどくん。


鼓動が響くたび、焦りばかり募る。

一撃で仕留められるのか、失敗したらどうなるのか。


そればかりが、頭を支配していた。


ーーどくん。


“幻夢の堕天”の瞳に、一瞬何かが映った気がした。


悲しみなのか、願いなのか。

彼もまた、自身の技で失ったものを見たのだろうか。


ーーどくん。


あと1回。

なぜかそうなのだとわかった。


少しだけ、服の裾を引っ張られた。

ティターニアの小さな手が、そこにあった。

怖いのか、僅かに震えていた。


ルフィーナは、彼女を抱き寄せる。


そして。


瘴気の塊が、一気に膨張していく。

全力で防御の姿勢を取り、ペンダントを握った。


ーードクン。


瞬間、闇黒の光が弾けた。


間もなく、ペンダントが結界を展開した。

柔らかい光の膜に、重苦しい衝撃波がぶつかった。


手術室が、闇に呑み込まれる。


音もなく、ただ闇光が暴れ狂っていた。

壁にヒビが入って、結界ごと飛ばされそうな勢い。

それでも、剣だけは握りしめた。


まぶたを開くと、そこには銀髪のふたり。

結界の前に立って、自らを盾に受け止めていた。


ルフィーナは、僅かに振り返った。


黒曜石のような瞳と、視線を重ねて。

小さく口を動かし、告げた。


ーー支えて、ティターニア。


もちろん、声にはならない。

ただ口の動きだけが、静寂に残った。


けれど、ティターニアはゆっくりと頷いた。


小さな手を、そっと背に合わせる。

聞こえなくても、それだけで伝わっていた。


黒光の衝撃が、放たれ続けている。

それでも動けるのは、結界に護られたふたりのみ。


ルフィーナは、一歩踏み出した。


とても重たい衝撃に、結界で抗いながら。


背中を、小さな手が押していた。

銀髪のふたりが、同時に告げてくれた。


ーー行け。


行動が、全てを示した。

金色の光が、闇光を貫いた。


開けた視界の先に。


“幻夢の堕天”は、ただ微笑んでいた。

まるで、厳しいリハビリを終えた患者が自ら立ち上がるのを、見守っている医者のように柔らかな笑顔だった。


剣に星屑を宿し、刃を向けて構えた。

隣には淡い星光を零す、守護神獣がいる。


ルフィーナは、剣を振り上げた。


(ーー星閃《アスティア》!)


その瞬間。


パキン、と微かな音が聞こえた。


黒い輝きに、一筋の亀裂が走っていた。

幻が壊れるときのように、亀裂が端まで届く。


まるで、長い闘病生活を終えたように。


瘴気の塵が、光へと少しずつ溶けていった。


“幻夢の堕天”の身体が、ゆっくり傾いた。

けれど倒れることはなく、片膝をついただけ。


黒石のような角が、粒子になって崩れゆく。


「……絶対に」


もう、穏やかな笑みはなかった。


「治して、みせるから……」


誰に向けた言葉なのかわからない。

ただ、ひどく悲しみの滲んだ声だった。

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