第38話 星への道は、遥か彼方に
「治して、みせるから……」
掠れた声が、静かな手術室に残った。
誰へ、どこへ向けたのか、黒ずんだ手を伸ばしていた。
先ほどまで、部屋を染めていた闇はない。
ひび割れた純白の壁から細い光が差し込み、空中に残った黒い粒子を、ひとつひとつ柔らかく照らしていた。
戦闘の残滓ばかりが、そこにあった。
傾いた棚と、無残に砕け散った薬瓶。
硝子片が、そこら中に散らばっていた。
それらの中心で、エルフィスは膝をついていた。
黒石のような角が、先端から崩れていく。
景色を映さなかった瞳は、まるでようやく朝陽を拝めたかのように、小さな星屑の欠片を映し始めていた。
ルフィーナは、剣を下ろした。
すぐ隣では、水色の星光が揺れていた。
そのとき、一冊のカルテが落ちた。
戦闘中も、ずっと書き綴っていたカルテ。
何を書いていたのかわからないが、手放すことだけはできなかったような、強く綴られた文字だった。
ルフィーナは、そっと手を伸ばす。
何が起こるかは、もうわかっていた。
その瞬間。
カルテは、無数の星光へとほどけた。
ふわりと舞い上がると、ルフィーナの胸に溶けていく。
ゆっくり、瞳を閉じる。
まぶたの裏に、何かが浮かび上がる。
最初に見えたのはーー。
炎だった。
◯
何もかもが、燃えていた。
空までもを赤く染めていた。
ぱちぱちと火の粉が弾ける。
小さな家が、音を立てて崩れ落ちた。
何かが割れて、誰かが叫んで、視界が歪んだ。
アスティラ村。
だけど、幻とはずっと違った。
炎の向こうーー。
夜空よりも遥かに闇に近く、光の欠片さえをも持たない影が、翼を広げてこちらを見下ろしていた。
顔も、声も思い出せない。
けれど、唯一わかることがあった。
(……魔神)
ただ、恐ろしいということはわかった。
幼いころの自分が、震えていた。
近くには、弱々しい水色の星光もあった。
そのときだった。
「ーールナ!!」
背後から、声が聞こえた。
それだけ、不思議なくらい鮮明だった。
けれど。
闇黒の影が、ゆっくり手をかざした。
淡い紫色の煌めきが視界を包みーー。
◯
「……っ!」
大きく息を吸った。
ルフィーナは、胸元をぎゅっと押さえる。
呼吸が浅い。
鼓動が早くなっているのがわかる。
まだ頭に、黒い影が残り続けていた。
その瞬間、視界に瘴気の塵が紛れ込む。
エルフィスの身体から、崩れ散ったものだった。
思わず、肩を跳ねさせた。
人として生きた面影を残した姿。
それでも彼は、とうの昔に人ではなくなった。
そして、胸に蘇った光景を重ねた。
あの夜、魔神の姿を前にした。
エルフィスもきっと、同じように魔族を前にして何をすることもできず、瘴気に染められてしまったのだろう。
それなのに。
ルフィーナは、自分の手を見つめた。
瘴気にも染まっておらず、人としての色がある。
記憶は、失っているけれど。
魔族にはなっていない。
こうして、ティターニアと生きている。
(……どうして?)
あのとき。
自分たちの前にいたのは、魔族ではなかった。
ーー魔神だったのに。
“星の子”だけが、倒せる相手だった。
脳裏に、声が浮かぶ。
『ーールナ!!』
聞き慣れた声だった。
(……セルが、いたから?)
でも。
相手は、魔神だったのに。
銀色の髪と、赤白の瞳が浮かぶ。
帝国の象徴ともされている、神聖な色。
ふと、ルビアスの技を思い出す。
瘴気から生まれた刃を、光に変えた。
あんなことができるなんて、知らなかった。
ネフィラは、知っていたのに。
胸に、小さな“空白”が広がっていく。
(私、セルのこと……)
知らない、ではなかった。
(何も、覚えていないんだ)
ずっと、隣で護ってくれているのに。
大切な人のことだけ、零れ落ちてしまっていた。
そのとき、声が聞こえた。
「……治らなかった」
微かな声だった。
隙間風に呑み込まれてしまいそうな。
僅かに、星光が寄り添った。
ティターニアが、胸に手を当てた。
黒曜石のような瞳が小さく揺れ、何かを思い出したかのように、そっと彼のそばに近寄っていた。
エルフィスが、ふたりを見つめる。
もう“治す”ことに囚われた瞳ではなかった。
沈黙が漂う中。
ティターニアは、小さく告げた。
「……私が、治します」
微かに震えながら。
「絶対に……」
言い切ることは、できなかった。
それでも、目を逸らそうとはしなかった。
そんな姿にーー
エルフィスは、穏やかに微笑んだ。
それから間もなく。
彼の身体は、昇りゆく瘴気の塵へと溶けた。
手術室に残されたのは、戦闘の名残りだけ。
ルフィーナたちは、手術室を後にした。
山を下りるころには、陽が傾き始めていた。
山間を吹き抜ける風は少し冷たく、戦いで残された熱を少しずつ身体から奪っていった。
踏みしめた草の香りも、どこか懐かしく思えた。
やがてーー
リウリス村の屋根が見えてきた。
村に足を踏み入れる。
途端に、気づいた村人たちが見つめた。
少しだけ、遠くの純白の建物に視線を送ったあと。
彼らも、きっと気づいている。
もう、“先生”は帰って来ないこと。
傷ついた子どもも、魔族でさえも分け隔てなく治療をほどこし、優しさを与え続けていた彼を待っていた。
ルフィーナは、足を止めた。
なんと、言えばいいのだろう。
彼らから“先生”を奪ってしまったのに。
そのとき。
ひとりの老人が、杖をついて歩み寄った。
“先生”のもとに通っていた、患者のひとりだった。
ゆっくりと、ルフィーナの前まで来た。
何を言われても、受け止めなければ。
ルフィーナが、僅かに拳を作った瞬間。
老人は、深く頭を下げた。
「……ありがとう」
思わず、目を見開いた。
「……どうして、ですか?」
ようやく、答えた声は小さかった。
老人は、しばらく答えなかった。
少しだけ、手術室の方を見つめていた。
「先生は、とても優しかった」
ぽつり、とそれだけをつぶやいた。
そんな、たった一言に。
とても長い時間が詰まっている気がした。
病気になった日。
子どもが泣いていた姿。
多くの助けられた命。
小さな村で、積み重ねられていた。
「我々も、知っていました」
診療所の裏手に咲いていた薬草が揺れた。
「……先生が、誰かを救えなかったこと」
老人は、少し強く杖を握った。
言葉にならない何かが、揺れていた。
ーー絶対に、治してみせます。
心臓病の少年に、そう告げた姿。
彼が誰と重ねていたのかは、わからない。
けれど、とてもまっすぐな瞳だった。
「我々も、先生を救えませんでした」
誰も答えられなかった。
けれど。
ティターニアだけが、羽を震わせた。
「……本当に、救えたのでしょうか」
老人が、僅かに目を見開く。
「彼が、救えなかった人は……」
ーーきっと、もう生きてはいない。
淡い星光が、彷徨うように浮いていた。
叶わない願いを、信じたエルフィス。
けれど、最期に見せたのは穏やかな笑顔。
もしかしたら、彼もわかっていたかもしれない。
でも、想いに寄り添っていた。
彼はずっと、医者であり続けていた。
老人は、もう一度だけ山を見た。
「……なら」
夕陽が、一筋の輝きを残していた。
「彼と、彼が救えなかった人を弔ってやってくれ」
少しだけ、目を見開いた。
けれど、ティターニアは小さく頷いた。
少しずつ、星が煌めき始める。
けれど、診療所に明かりが灯ることはない。
そっと、息を吸う。
微かに震える声で、歌い始めた。
「眠りなさい 小さな星よ
夜に溶けても 消えない声
闇に堕ちても 見えない背
星への道は 遥か彼方にーー」
ふたりの声が重なる。
星と、家の明かりが灯されていく。
歌声が透き通って、村の奥まで響いていた。
遠い彼方の星へと、昇っていった。
いつもお読みくださり、ありがとうございます。
「星の子 〜護るとは、一緒にいたいと願うこと〜」は、第38話をもちまして、第2部を完結とし、書き溜めの期間とさせていただきます。
「星姫 〜天の星、地の人〜」も、
すでに、書き溜め期間に入らせていただいております。
完成度高い物語、共感できる内容をお届けするため、
数ヶ月の書き溜め期間をもって、再開いたします。
再開時は「星姫」を先に再開し、話数が揃い次第、「星の子」も再開します。
必ず戻ってきます。
これからも「これは私の夢物語」シリーズを、どうぞよろしくお願いします。




