第36話 癒やすための刃
「ーーそれでは、手術を始めましょう」
病人を安心させる、優しい声。
昨日とまったく変わらない、穏やかな笑顔。
どこまでも広い、純白の空間。
壁際に並べられた、いくつものベッドとカーテン。
中央は照明に明るく照らされ、周囲には見慣れない医療器具の数々が整然と並べられていた。
けれど、“幻夢の堕天”だけは黒かった。
白ばかりの空間では、その瞳が一層際立っていた。
「“幻夢の堕天”エルフィス・セチア……」
ティターニアが、小さくつぶやく。
どこで知ったのかわからない名前を告げた。
騎士たちは、一斉に剣を抜く。
“幻夢の堕天”は、まるで患者を診るかのように騎士たち全員を一瞥したのち、カルテを片手に何かを記入した。
「皆さん、随分と無理をされているようですね」
治療をしていきましょう。
穏やかな言葉が、壁に反響していた。
「心圧」
その瞬間。
「っ……!」
ルフィーナは、胸をぎゅっと押さえた。
痛いわけではなかった。
けれど、見えない何かにゆっくりと押さえつけられているかのような、重い圧迫感が広がっていった。
息が浅く、速くなっていく。
足から力が抜け、剣を床に突き立てて片膝をついた。
騎士たちも、次々に動きを止めた。
“幻夢の堕天”は、変わらずカルテを書いていた。
ただ、診察をしているだけかのように静かな視線。
ルフィーナは、奥歯を小さく噛みしめた。
それでも。
ただ苦しいだけに過ぎない。
限界を超えさせることはなかった。
青色の瞳だけ、“幻夢の堕天”を見つめる。
(……あくまでも、患者として扱ってる)
そのとき、浅い呼吸が聞こえた。
「……余裕そう、だな」
セルヴィーロの低い声だった。
剣先を床につき、ゆっくりと起きる。
彼は、視線を少しずらす。
同じように、立ち上がったネフィラ。
銀髪が額に張り付いているが、剣を握る手は震えない。
ふたりの視線が重なる。
すぐに逸らすーー
直後、ほとんど同時に床を蹴った。
“幻夢の堕天”を、挟み込むように攻撃。
「……神斬」
正面から得意の一撃。
“幻夢の堕天”は、白衣を翻し避けた。
間髪入れず、背後のネフィラが斬りかかった。
思わず、呼吸を忘れて見惚れていた。
彼らの連撃には、合図も打ち合わせもない。
なのに片方の一撃が外れれば、近くにはもう片方の剣が近づき、気づけば白衣が擦り切れていた。
(息ぴったり、なのにどうして……)
銀髪のふたりが、追い詰めていく。
もし彼らがいつも、一緒に戦えていたら。
どれほど強かったのだろうかと、想像してしまう。
けれど。
「負けて、られない……!」
圧迫感が弱まった隙に、立ち上がった。
剣は握れている。
力を込めて飛び上がった。
銀髪が左右から迫る。
“幻夢の堕天”はーー
ただ、困ったように笑うだけだった。
黒く染まった右手が、ゆっくり上がる。
直後銀髪のふたりは、それぞれ“星の子”の前に立った。
息を合わせたように。
次の瞬間。
黒銀色の刃が、宙に浮かんだ。
ひとつ、またひとつ。
数えきれなくなるほどの、光沢のない刃。
磨かれた床に反射し、不気味な光を放っていた。
息を呑む間もなく。
数多の刃が、騎士たちをめがけて降り注ぐのと、彼らが剣を大きく振りかざすのは、ほぼ同時だった。
「星祈斬っ!」
刃全てを、払い落とすことはできない。
いくつかは、後ろに待機する騎士に任せるしかない。
それでも、放てるだけの斬撃を叩き込んだ。
光沢のない刃は、零れる星光を映そうともしない。
まるで、患者に優しい視線を向けるものの、彼らを瞳に映すことはできない“幻夢の堕天”のようだった。
剣の甲高い音が、部屋中に反響して響く。
ルフィーナは、少し離れた場所へ視線を巡らせた。
「ティターニア……!」
彼女は、怪我をした騎士に回復を与えようとしていた。
けれど小さな手に宿った星光は、騎士たちに溶け込んでゆく前に、空中で淡い煌めきを放って消えてしまう。
その度に、ティターニアは瞳を潤ませていた。
彼女のことは、ネフィラが護ってくれていた。
だが、ただの剣術だけで護りきれるほど簡単ではない。
(誰かが、“幻夢の堕天”を止めないと……!)
そのとき。
誰に向けたものかーー
ネフィラが、静かに問いかけた。
「……いつまで、迷っているつもりだ?」
誰も、意味を理解できない。
けれど、唯一。
セルヴィーロだけが、苦い表情を返した。
「……ルビアス」
とっさに振り返ると、ルビアスが頷いていた。
「わかった」
ルビアスは、小さくつぶやいた。
赤と白の瞳で、“幻夢の堕天”を見つめる。
部屋に紛れてしまいそうな、純白の翼を広げた。
「……神煌聖霧」
言葉が紡がれた。
その瞬間。
金色の光が、部屋を覆い尽くす。
磨かれた壁床に反射し、照明をかき消すほど輝いた。
思わず、目を瞑ってしまった。
まぶたの裏に、暗闇が戻る。
薄く目を開けると、そこに黒い刃はなかった。
代わりにあったのは、無数の光の刃。
白銀に、赤が少し混ざった色。
それ自体が光り輝き、部屋を照らしていた。
瘴気の粒子が、呑み込まれていった。
“幻夢の堕天”でさえ、袖で軽く目を覆っていた。
景色を映さない瞳にも、輝きが届いていた。
「お返しするよ!」
ルビアスが、声を張り上げた。
同時に、輝く刃が一斉に放たれる。
“幻夢の堕天”に、避ける隙を与えない物量。
先ほどまで穏やかだった彼でも、無数の刃を前にして、ほんの一瞬だけ焦りの色を見せた。
けれど、致命になる分は避けてしまった。
(……ルビアス、こんなことできたの?)
疑問は、それだけに尽きない。
(ネフィラは、これを知っていた?)
けれど、疑問を追う暇はなかった。
“幻夢の堕天”を見て、気づいた。
刃が届いていたはずなのに、もう消えていた。
傷も残っていないし、瘴気も溢れない。
こちらは、回復ができない。
けれど相手の傷は消えている。
「そんなっ……!」
騎士たちも、それに気づいたらしい。
「……一撃で、仕留めなければ」
セルヴィーロがつぶやいた。
けれど。
“幻夢の堕天”は、柔らかく微笑んだ。
身の危険を前にしても、全く動じなかった。
ひとり、またひとりと視線を送る。
回復できず、焦るティターニア。
数々の疑問に、戸惑うルフィーナ。
息は合うのに、視線を合わせられない銀髪のふたり。
「……まだ、迷いがあるようですね」
ティターニアの瞳が、大きく揺れた。
次の瞬間ーー。
“幻夢の堕天”が、両手を広げた。
まるで、幼い患者を抱擁するように。
手袋のはめられた両手から、黒曜石を砕いて散りばめたような、仄暗い煌めきを纏う光が飛び出してきた。
危ないはずなのに、どこか暖かい気がした。
直後、手術室の輪郭が揺れる。
景色を映す水面に、雫が一滴落とされたように。
周りの声が、遠ざかっていく。
銀髪も、星光も、とても遠くに離れていく。
気がついた時にはーー
優しい風が頬を撫で、甘い香りに包まれていた。
「……アスティラ村」
とても、穏やかな風景。
でも。
空気だけは、どこか異様に冷たかった。
「幻心療ーー心の治療を始めましょう」
“幻夢の堕天”の声だけが、静かに響いた。




