第27話 「無純の堕天」
闇より暗い、巨大な影が両側から迫り来る。
視界が覆われそうなほど、逃げ場のない瘴気。
それは、巨大なだけの腕だった。
黒く濁った瘴気が混ざり合い、歪な腕を形作る。
指先は異様に長く、爪のように鋭かった。
けれど。
ゆっくりとした動きは、どこか優しかった。
まるで、大切なものを抱きしめようとするみたいに。
「えへへ、影抱だよ!」
無邪気な声が、雨音の隙間から届いた。
少し照れるように、頬を赤らめたまま。
包み込むような両腕が、ルフィーナへ閉じる。
「くっ・・・星閃!」
星の煌めきを纏った剣が、斬り払う。
僅かに揺らいだ瘴気は、形を崩していく。
けれど斬る感覚より先に、“想い”が流れ込んできた。
ーーおいていかないで。
ーーひとりにしないで。
小さな子どもの声が、胸の奥で重なる。
斬ったはずなのに、心はぎゅっと締めつけられた。
届け方を忘れてしまった、微かな哀しみだった。
「無純の堕天」の技は、戦意だけで暴れてはいない。
むしろ、行き先を失った想いの表れだった。
「ぎゅーってしてくれないの?」
小さく首を傾げ、問いかける。
再び、瘴気の腕を大きく広げた。
おもちゃ箱をひっくり返したみたいに、景色が歪む。
幻影の子どもたちが、互いに抱きしめ合っていた。
「無純の堕天」は、はにかんで見せた。
照れながらも、甘えようとしているみたいに。
「あのね、ぼくのママはね」
自慢しようとしているようだった。
けれど、歪んだ笑顔に背筋がゾクっと冷える。
「怒ってても、ぎゅってしたら笑うの!」
無邪気すぎる声に、剣を握る手が震える。
脳裏に蘇るのは、自らが斬った人の姿だった。
思い出すたび、斬らなければよかったのではと考える。
魔族になっていても、残っていた笑顔。
小さく名を呼ぶ、優しさ。
そっと抱いてくれた、暖かさ。
そんなの。
(ーー私だって、知ってるよ)
本当なら、抱きしめてあげたかった。
名前を呼んで、笑顔を見せてあげたかった。
ティターニアが縋った、幻影のお母さんのように。
それでも。
彼は、ルキオスではない。
ルフィーナは、剣を強く握りしめた。
星光を纏い、斬りかかるーー。
その瞬間。
「無純の堕天」の足元に、波紋が広がった。
水たまりが、どろりと濁っていく。
思わず、足を止めてしまった。
彼は空を見上げたまま、微かに震えていた。
何かを訴えようとするみたいに、口を開いては閉じる。
雨の音色が変わり、小さな声が聞こえる。
零れ落ちたような、かき消されそうな声。
「泣童斬・・・」
ぽつり、と声が落ちた。
直後、空を裂くように雨粒が溢れた。
きぃん、と耳鳴りのような音が響いた。
無数の雨粒が、戦場を穿ち抜く。
ルフィーナの眼前を、雫が掠めた。
気づいたときには、それは地面を貫いていた。
石畳が砕け散った。
木馬が、つみきが、裂けていた。
恐怖から生まれた、涙だった。
それでも。
「無純の堕天」は、輝くような笑顔だった。
それが何よりも、不気味に思えて指先が震える。
「焔月!」
ルナシアが、宙を舞った。
横向きに剣を振りかざし、焔が弧を描いた。
赤紫色の月は、雫から騎士を護る。
ルフィーナが視線を向けるより早く。
透き通る羽が、まばゆい星光を纏った。
ティターニアは両手を胸元で組み、目を瞑る。
零れた雫が、淡い煌めきを宿した。
「ーー星涙」
星空のような紫色の光が、涙のように落ちた。
騎士たちの傷が、瞬く間に癒えてゆく。
とても優しい、涙の雫だった。
降り注ぐ“恐怖の涙”に、寄り添おうとしていた。
そっと、小さな子どもの涙を拭うみたいに。
静かに包み込んでいった。
2種類の雫は、触れ合う瞬間に溶けてゆく。
ブランコを裂いた雨粒も。
騎士の剣を穿ち抜いた雫も。
地面を貫く前に、“慈愛の涙”に触れた。
「無純の堕天」は、小さくつぶやいた。
ほんの、ほんの一瞬泣きそうに、瞳を大きく揺らした。
「・・・あったかいよ」
それだけで、伝わってくる。
ずっと、冷たい雨の中で笑っていたこと。
雨音に紛れてしまいそうな声。
瘴気に呑まれ、消されてしまいそうな声。
それでも届いた、純粋な言葉だった。
「ねぇ、いまのなぁに?」
ぽつり、と彼は問いかけた。
淡い紫色の雫は、雲の隙間から注ぐ月光を捉える。
壊れた木馬や、裂けたつみき、錆びたブランコも。
全てが照らされ、かつての姿を思い出そうとしていた。
「無純の堕天」が、空を見上げる。
頬に落ちる雫を、不思議そうに手で触れた。
「・・・家族を想って流す、涙です」
ティターニアが答えた。
震えてはいない、まっすぐな声だった。
「かぞく・・・?」
確かめるように、言葉を繰り返す。
「・・・愛して、護り、助けてくれる存在・・・だよ」
ルフィーナは、子どもに教えるように言った。
けれど、言葉に出してから分からなくなった。
本当に、そうなのだろうか。
思わず隣に浮かぶ、ティターニアを目で追う。
煌めく羽から、星屑が零れる。
ーー果たして、彼女の“家族”になれているのだろうか。
そんな疑問が、胸の奥をよぎった。
彼女の言う“家族”は、自分なのだろうかと。
「・・・たすけて、くれる?」
溢れるような声が、意識を引き戻す。
その瞬間。
「無純の堕天」の足元にある水たまりが、波打った。
雨に滲んだ絵のように、ぼやけた影が浮かぶ。
どろりと濁った水面が、形を造って映る。
先ほどまでの瘴気の腕とは、違っていた。
もっと、輪郭があって、どこか懐かしむような姿。
ルフィーナは、息を呑んだ。
歪んだ造形だけど、わかってしまった。
彼がつぶやいた言葉が、答えだった。
「・・・親ノ抱擁」
彼は、ゆっくりと振り返る。
ふたつある影が、形を歪めた。
腕を広げるように、影の一部が伸びていた。
両方の影が、「無純の堕天」を包み込む。
護ろうとするように。
助けようとしているように。
けれど。
ルフィーナには、“家族”に見えなかった。
護るというよりは、他を消そうとしているようだった。
(抱擁というよりは、檻みたい・・・)
そう思ってしまうような、冷たさがあった。
「・・・私は、あの子を助けたい」
ルフィーナは、つぶやいた。
結果的に、斬ることになってしまっても。
限りない時間の中で、“家族”に囚われ続ける彼を。
冷たい涙の中から、星明かりの届くところへ。
剣を握りしめ、星光を宿した。
水たまりを踏み込み、駆け出した。
輝かしい霧が、瘴気の中に道を開く。
雨粒が跳ねた。
おもちゃの欠片が、靴に当たる。
どこからか、子どもの声が聞こえる。
遊ぼう、怖いよ、大好き、助けて。
いくつもの声が、胸の奥を締め付ける。
それでも、ルフィーナは止まらなかった。
「ーー星祈斬!」
星への祈りを、煌めきにして。
一度、二度と、影の抱擁を斬った。
瘴気に形作られた影が、肌を撫でる。
冷たい。
無数の手に引き止められているかのよう。
身体が重くて、足を止めたくなる。
けれど奥に、閉じこもった子どもの姿がある。
じわりと、胸に痛みが広がる。
優しい声が、たくさんそばで響いた。
それでも。
「ルキオスくん」
彼は、静かに顔を上げた。
「・・・呼んだ?」
ルフィーナは、深く頷いた。
ふたつの影が、音もなく崩れる。
ほどける暗闇の中に、幼い光があった。
まるで、遊びの終わりを告げるように。
剣に纏った星光が、一際強く輝いた。
紫色の一閃が、迸った
「ーーおかえり」
ひとつの声とともに、剣が貫いた。
胸に秘められていた結晶が、音を立てて砕けた。




