第25話 オトモダチ
どんより黒ずんだ雲が、空をさらに沈める。
逃げるような背を追って、濡れた葉をかき分ける。
雨の匂いが、ルフィーナの胸を冷やす。
「どこへ、行くの・・・!」
伸ばした手は、湿った空気だけをつかむ。
草花を踏む音も、雨の弾ける音も聞こえない。
まるで宙に浮いて、透き通っているように。
小さな背は、吸い込まれるように森の奥へ消えた。
雨水が打ちつける音だけが、森の静寂に散る。
ティターニアが、濡れた羽で寄り添った。
「主様、大丈夫ですか?」
深く息を吸い、呼吸を整える。
その瞬間ーー
ふいに、笑い声が響いた。
「ーー子ども?」
小さな子どもが、走り去っていく。
笑顔を浮かべながら、追いかけっこするように。
空気が白く霞んでいた。
冷たい霧が、足元を薄く包んだ。
まるで涙のような雨粒が、子どもたちを護るよう。
ルフィーナは、思わず振り返った。
どこを見ても、子どもがいる。
突然現れては、走って、消えていく。
「ルナ、なんともない?」
セルヴィーロたちが、馬を引き連れて来た。
騎士たちは、子どもに気付いてはびびっている。
外側を押し付け合ったり、抱き合ったり。
なんならユアンの方が、落ち着いているだろう。
呆れたように、セルヴィーロが一言。
「幻影にびびってる場合か?」
シェウや、一部の騎士たちは気付いたのだろう。
鳥の声も、葉のさざめきも聞こえない。
異様なまでの静寂に、子どもの笑い声だけが響く。
深く漂っている霧と、普段ならあり得ない光景。
騎士たちの間に、沈黙が走る。
シェウが、周りを見まわして言った。
「ここ、七堕天の領地っすか・・・?」
「うん、その通り」
笑顔で、さらっと答えたセルヴィーロ。
ほんの少し、喉がひりついた。
けれど、思っていたより落ち着いている。
記憶がまたひとつ、戻るならーー。
「君たち、ユアンくんを孤児院に帰してあげて」
「はいっす」
「あ、じゃあ俺も・・・」
「シェウ。俺と七堕天、どっちにボコされたい?」
「ひぇっ!し、七堕天っす・・・」
セルヴィーロが、一部の騎士に告げた。
シェウは一喝され、とぼとぼ隣に立つ。
頷く騎士たちは、ユアンの手を取った。
羨ましそうに見つめるシェウに、ドヤって見せる。
森の中を引き返そうとしたがーー。
「先生!」
騎士の手を振り払い、ユアンが駆け出した。
幼い足が向かう先には、孤児院の院長がいる。
院長がユアンの肩に、手を伸ばした。
その瞬間。
ルフィーナはユアンを抱き上げた。
さっと飛び下がり、ルビアスの背に乗せる。
「セル、今度こそ間違ってないよね?」
「ああ、そいつは魔族だ」
突如ざわめきだす森の木々。
2羽のカラスが、院長の肩に舞い降りた。
院長の白い長衣が、墨を垂らしたように瘴気で染まる。
カラスの羽で織られたような、黒いマント。
院長魔族は、歪んだ笑顔を浮かべる。
騎士たちが慌てて、ユアンを護るように囲んだ。
「まさかひと目で見破られるなんて」
「幻覚?それで子どもたちを騙したの」
ルフィーナは、そう問いかけた。
けれど院長魔族の笑顔は、歪んだままだった。
柔らかい口調で、優しい声音で、低く言う。
「いいえ、幻覚は『無純の堕天』様よ」
雨音よりも静かに、声が滲んでゆく。
カラスたちが、翼をバサっと広げる。
黒い羽根は雨に濡れ、光を吸い込むように煌めいた。
鈍い輝きを帯びる眼光が、獲物を見定めるよう。
剣先を院長魔族に向け、息をついた。
その瞬間ーー。
「あ、鳥さんだ!」
小さな子どもが、歓声をあげた。
笑って、跳ねて、一斉にカラスへ駆け寄る。
「だめ、危ない!」
ルフィーナは、つま先で地面を強く蹴った。
幻影だとわかっているはずなのに。
護らなければ、という思いが先駆けてーー。
小さな背中に、必死に手を伸ばした。
指先が触れる瞬間、子どもは霧のようにほどけた。
冷え切った空気だけが、指先から伝わってきた。
「主様!」
振り返る間もなく、キィンと音が高鳴った。
光が織りなす膜に、鋭い爪が立てられていた。
カラスは一言、カァと鳴いて飛ぶ。
ルフィーナは、思わず行く先の空を見上げた。
そこには、数えきれないほどのカラスの大群。
雨雲より黒く、瘴気のように空を覆っていた。
雨粒と混ざって、無数の羽が浮いていた。
次の瞬間、それらは騎士団を目掛けて降り注いだ。
まずい、と思ったときにはすでに遅い。
「焔月!」
ルナシアが、空を舞った。
宙で剣を振り、美しい弧を描いた。
赤紫の焔が、雨粒と共に羽を斬り裂く。
けれど、震える声が響いた。
「怖いよ、たすけて・・・!」
「ユアンくん!」
小さな子どもにとって、どれほど恐ろしいことか。
ルフィーナは、森の奥へと飛び下がった。
追ってくるカラスの羽をいなしながら、離れる。
あと少しだけーー。
「えっ・・・?」
踵に何かが当たった。
よろめきそうになり、体勢を整える。
足元にあったのは、木製の小さなつみき。
削れた角、誰かが遊んだのであろう積み上げ方。
確かに感触があったし、すり抜けなかった。
木馬、ぬいぐるみ、ブランコーー。
古びているのに、どれも丁寧に並べられている。
「ルナ、避けろ!」
セルヴィーロが、声をあげると共に飛びかかった。
金色に閃いた刃が、院長魔族のマントを裂いた。
すかさず、ルフィーナの剣が星光を纏う。
数多の羽を、星の軌跡を残して斬った。
そして軌跡は途切れることなく、院長魔族を貫いた。
「星流!」
ぬかるんだ地面を、滑るように走った。
おもちゃに泥が跳ねないように、気をつけて。
黒い羽が散るように、院長魔族の身体が崩れる。
最後に浮かべた笑みは、やはり歪んだままだった。
悲鳴もなく、瘴気の塵が散っていく。
雨に打ち付けられ、空へと昇ることはなかった。
ルフィーナは、そっと手を組んだ。
セルヴィーロたちが、そばに駆け寄る。
「主様、お怪我はないですか?」
「大丈夫だよ、ティターニア」
「よかったです」
ほっと息をついて、笑った。
その瞬間だった。
森の奥から、パシャパシャと水の跳ねる音がした。
まるで、水たまりで遊ぶ子どものようなーー。
純粋で、悪意のない子どもの足音。
濃い霧を割るように、小さな姿が現れた。
雨を花びらのように受けて、屈託なく笑う。
「あ、新しい“オトモダチ”だ!」
無垢で、純粋で、それでいて背筋の凍る笑顔。
ルフィーナは、思わずつぶやいた。
「ルキオスくん・・・?」
太陽のような笑顔が、闇のような瞳を隠した。




