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猫が隠した星  作者: Junbi


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9/32

第八幕 ひとりで行ける?

 女はソファに寝転がり、タブレットで漫画を読んでいた。もう何度も読んだ作品らしく、ページをめくる指だけが早かった。読んでいるというより、知っている場面を確認しているようだった。

 カヂルグミは台所で皿を拭いていた。洗ったものを布巾で拭き、食器棚へ戻す手つきは、ずいぶん地球人らしくなっていた。ただ、茶碗と小鉢を同じ仲間として重ねようとするので、食器棚のなかは相変わらず不安定だった。

「この人、昔の嫌なやつに会いに行くらしいよ」

 女はタブレットの画面をカヂルグミへ向けた。

 カヂルグミはちらりと振り返った。

「嫌なやつに、わざわざ会いに行くの?」

「うん。ケリをつけに行くんだって」

「殴りに?」

「違う。話をしに行くみたい」

「嫌なやつを、言葉で叩きのめしたいわけだ」

「そういう感じじゃない。なんか、自分の気持ちを打ち明けに行くみたい」

「嫌なやつに?」

 カヂルグミは布巾を持ったまま、すこし考えた。

「……どっちも嫌なやつって話?」

「漫画の話、下手?」

 女はおもしろくなさそうな顔で、タブレットを腹の上へ置いた。頭の後ろで両手を組み、足をばたばたと動かしながら、カヂルグミの横顔を見ていた。

 続きを聞かれるのをすこし待ったが、カヂルグミは皿拭きへ戻りかけていた。

「わたしも、そろそろトラウマを払拭しようと思うんだけど」

「へえ。どうやって?」

 カヂルグミは皿と布巾を置き、換気扇の下に置かれた椅子へ腰かけた。タバコをくわえて火をつけ、換気扇に向かって煙を吐いた。おいしそうではなかったが、換気扇の下でタバコを吸う地球人のふりとしては、だいぶ自然だった。

 女は、すこしだけ考えるふりをした。

「また、あいつらを呼ぶってのは?」

「あいつらっていうのは?」

「あいつらだよ」

「血縁上の両親と、手続き上の父親のこと?」

「手続き上の父親ってなに」

「ほら、小さかった君にタイマンを仕掛けたほうの」

「それはわかってるよ」

 女は不満げに、タブレットの角を人差し指の腹で叩いた。思っていたような反応ではなかったのだろう。

「呼べるの? 呼べないの?」

 そこでようやく、本題の声になった。

 カヂルグミはすこし黙った。

「また、こっちに呼ぶってことだよね?」

「そう」

「あれと同じことは、もうできない」

「なんで?」

「あのときは、君が子どもで、ひとりで家に残されていた。だから、幼体保護の手続きで関係者を呼び戻せた」

「幼体保護」

「子ども用のずるみたいなもの」

「あれって、ずるだったの?」

「ルール上のずる」

「じゃあ、もう一回ずるしてよ」

「今は使えない。もう、あのときと同じ条件じゃないから」

「おしゃぶりとかすればいけるんじゃないの? あんた、よく誤認するでしょ」

「誤認しようと思って、誤認していたわけじゃないよ」

 カヂルグミは苦笑して、タバコの灰を落とした。

 女はタブレットを脇へ置き、ソファの上で体を起こした。もうすこし簡単に話が進むと思っていたらしい。

「あのとき三人を呼んだのは、謝らせるためじゃなかった」

「じゃあ、何のため?」

「三人を見たあと、君がどうしたいと思うのか確かめるため。向こうへ行くか、ここに残るかも含めて」

「私の扉のため?」

「うん。扉が出るかどうかも含めて」

「三人に謝らせるためじゃなくて?」

「謝るかどうかは、あの人たちの話だよ。君がどうするかとは別」

 女はすこしだけ口を曲げた。

「あのときは、三人が向こうへ戻れば、君もついていくかもしれないと思った」

「安易だね」

「うん。そういう子が多いから、君もそうかもしれないと思った」

「ついて行かなかった私が悪いってこと?」

「違う。僕の見立てが外れただけ」

 女は視線をそらし、宙の一点をしばらく睨んだ。なにかを言おうとして、やめた。

 扉の先に大人がいれば、それを案内だと思える子どももいる。けれど、少女のまわりには、そういう大人がいなかった。大人のいるほうへ進んで、よいことがあったためしもない。そういう家で育った子どもなら、扉の向こうに大人がいると知っただけで、足を止めてもおかしくなかった。

「それに、あのときは君の両親と継父にも、まだこっちへ来られるだけのものが残っていたんだ。いまは、それも難しいと思う」

「どういうこと?」

 カヂルグミはタバコを灰皿に押しつけてから、説明した。

「向こうへ行ったばかりのころは、こっちでやったことが、耳鳴りみたいに残るんだ。楽しいことに夢中なら聞こえないけど、ふと静かになると、また戻ってくる」

「耳鳴り?」

「みたいなもの。あのときの三人には、まだそれがあった。だから呼べた」

「いまは?」

「たぶん、もう聞こえていない」

「つまり、あの気持ち悪い三人は、いまはなんの気兼ねもなく遊んでいるから、こっちには来られないってこと?」

「そういうことだね」

 女は不満そうに眉を寄せた。

「いま、あいつらは何にも気にしてないってこと?」

「君が思っている形では、たぶん」

「苦しんでないの?」

「耳鳴りは、もうしていないと思う。仮にもう一度呼び出せたとしても、あのときと同じ状態では来ない」

「なにそれ」

 女の声が大きくなった。

「向こうに行けば、みんな親切で優しい人になるんじゃないの?」

「なるよ」

 女は、三人の善良そうな顔を思い出した。

 玄関で靴をそろえる手、低い声、きれいな服、子どもの話を最後まで聞くような顔。そういうものが、ひとまとめになって戻ってきた。女は何かを言おうとして、何度か口を閉じた。理解しようとするより先に、別のものがこみ上げたらしい。

「それって、ほんとうに正常に作動してるの? 壊れてない? 親切で優しい大人って、子どもをこっちに残して、平然と遊び回れるものなの?」

「平然と遊び回れるんだ。そこが、あっちのよいところでもあるから」

「納得できない」

「うん」

 カヂルグミは、それ以上、納得させようとはしなかった。

 女はソファから立ち上がり、タブレットを置いたまま部屋を出た。怒って出ていったようにも見えたが、ドアを強く閉めるわけでも、二階へ逃げるわけでもなかった。廊下へ出て階段の下まで行き、しばらくすると戻ってきたが、なにも言わなかった。

 その日の夕方、カヂルグミはリビングに椅子を三つ並べた。食卓の椅子を二脚と、来客用の折りたたみ椅子を一脚。高さがすこしずつ違っており、並べると、なにかに失敗した面接会場のように見えた。

 カヂルグミは、ソファでまたタブレットを見ている女に言った。

「これ、君の両親と、殴ってたほうの父親」

 女は一瞬、あっけに取られた。

 それから、カヂルグミがどういうつもりで椅子を並べたのかわかったらしく、タブレットを隣へ置いた。腕を組み、足も組んで、ソファへ深く座る。断る形だけは作ったが、立ち上がりはしなかった。

「バカじゃないの?」

「バカみたいだけど、本物は呼べないし。それに、本物より安全だと思う」

「これ、そういうやつ?」

「嫌ならやめるけど」

「嫌とは言ってない」

 女は、組んだ足の先をすこし揺らした。出ていく気配はなかった。

 カヂルグミはいったん台所へ戻り、ハンバーガー屋の紙袋を持ってきた。すこしまえ、二人でファーストフードを食べたときのものである。店に従業員はいなかったので、注文を取り、番号札を渡し、商品を袋へ入れたのはカヂルグミだった。

 紙袋には赤と黄色のロゴが入り、持ち手のあたりだけが、油ですこし透けていた。

 カヂルグミはそれを、真ん中の椅子へ置いた。

「それは?」

「君のお母さん」

 女は肩で笑い、口の端に出かけたものを飲み込むように天井を見た。笑う場面ではないと思ったのか、笑ったら負けだと思ったのか、そのあたりはわからなかった。

 次に、カヂルグミは左の椅子のまえで止まった。封筒を置こうとしてやめ、クリアファイルを置こうとしてやめた。水の入ったコップを持ってきて、椅子のまえでしばらく考えたあと、それもやめた。

「これ、何の時間? 儀式?」

「いや、お父さんを探してる」

 そこで女の肩が、とうとう小さく跳ねた。

「そこは、何もなくていいよ」

 笑いがすこし残った声で、女は言った。

 カヂルグミは、コップを持ったまま女を見た。

「いいの?」

「ないし」

「ない?」

「うん。そこ、何もない」

 左の椅子には、何も置かれなかった。カヂルグミは水を台所へ戻した。

 女はもう笑っていなかったが、さっきほどふてぶてしくもなかった。組んでいた腕の片方がほどけ、タブレットの黒い画面を指でなぞっていた。

 最後の椅子は、すこし離して置かれた。リビングの輪から外れ、そこだけ夕方の光が届きにくかった。

 カヂルグミはしばらく手ぶらで立っていたが、やがて片方だけの手袋を持ってきた。黒い、安い手袋だった。

 それを椅子の座面へ置いた。

「最悪」

 女は、すぐに言った。それまで口もとに残っていた笑いの余韻も、そこで消えた。組んでいた足が床へ下り、背中がソファからすこし離れた。逃げるほどではなく、泣くほどでもない。ただ、頭で考えるより先に、体のどこかが手袋を見つけていた。

「やめとく?」

「いいよ。続けて」

 女は、手袋から目をそらさないまま答えた。

「このあとは?」

「このあと?」

 カヂルグミはすこし黙った。

「え? ないの?」

「ここからは、君が何か言うのかと」

「知らないよ」

「そうか」

「そうか、じゃないでしょ。ちゃんとしてよ」

 カヂルグミは、三つの椅子を見た。テイクアウトの紙袋と、何もない椅子と、片方だけの手袋。

「こういう記憶への対処を調べたら、無理に進めないことと、自分の反応を確かめることが、何度も出てきた」

「雑に調べたでしょ」

「雑に調べたけど、そこは本当に何度も出てきたよ」

「それで?」

 カヂルグミは、手袋の置かれた椅子を指さそうとして、やめた。

「いま、何を思ってる?」

「雑だなあ」

 女は、しばらく答えなかった。

 手袋だけを見ているわけではなかった。紙袋も、何もない椅子も、部屋の隅に置かれた手袋も、どれも本人ではない。それでも、あの日、そこにいた大人たちの並び方だけは似ていた。

 椅子の上の紙袋は、母親そのものではない。何かを持ってきたような顔をして、中身はない。袋の口だけが、やけにていねいに折られている。

 何もない椅子には、何もなかった。

 手袋の置かれた椅子は、すこし離れている。そこにだけ、部屋の隅の暗さがついていた。

 三人がきれいになったことだけなら、まだよかった。

 ろくでもない連中が、普通の大人のような顔をしていた。玄関で靴をそろえ、手土産らしきものを持ち、低い声で謝り、子どもの話を最後まで聞くような顔をする。

 下手だったなら、まだよかった。

 その一つ一つが、下手ではなかった。

「キモい」

 女は言った。

 カヂルグミは、うなずかなかった。

「怖いとか、怒ってるとかじゃなくて?」

「そういうのもあるんだろうけど」

 女は手袋から目をそらした。

「キモい」

「そっか」

「そっかで片づけないでよ」

「ごめん」

「でも、まあ、そう」

 女は立ち上がった。

「終わり」

「終わり?」

「終わり。片づけてよ」

 椅子のことは、それで終わった。カヂルグミは椅子を戻し、紙袋をたたんだ。手袋をどうするかだけはすこし迷い、結局、玄関の棚の上へ置いた。

 それからしばらく、何も片づかないまま、生活だけがつづいた。

 朝はパンを焼いた。女は焦げたところをカヂルグミの皿へ乗せ、カヂルグミはそれを食べた。最初のころは、焦げた部分に何か地球人の作法があるのかと思っていたが、いまは、ただ押しつけられているだけだとわかっていた。

 昼には昔の映画を観た。女は途中で眠り、カヂルグミは最後まで観たが、主人公が大事な話をするときに部屋の照明を落とす理由だけは、最後までわからなかった。

 夜になると、女はタブレットでまた同じ漫画を読み、カヂルグミも隣で読まされた。女は先を知っているので、おもしろい場面が来るすこしまえになると、カヂルグミの顔を見た。カヂルグミは、そこではなく、背景に電柱が多すぎることを気にしていた。

 女は漫画を読んでは閉じ、閉じてはまた開いた。

 開けるのも、閉じるのも、女の指だった。

 何日かすると、女がコミックを欲しがった。

「古いやつ」

「ダウンロードじゃだめなの?」

「紙で欲しいの」

「読めれば同じじゃない?」

「私の勝手でしょ」

 カヂルグミは、それ以上聞かなかった。

 軽トラックは、まだちゃんと動いた。

 女は助手席でリュックを抱えていた。子どものころ、マーケットへ行くときに使っていたものを、いまもそのまま使っている。店へ行くなら、何かを入れるものが要る。

 道はほとんど空いていた。車道には、ときどき、だれかが乗り捨てた車が残っていた。コンビニの駐車場には、まだのぼりが立ち、風が吹くたび、弁当だか唐揚げだかをすすめる布が、だれもいない道路へ向かってひらひらした。

「向こうに行ったら、私もキモくなるの?」

 女は、窓の外を見たまま言った。

「ならないんじゃない?」

 カヂルグミは、ハンドルを握ったまま答えた。

「なんで?」

「だって君、自分より小さい人間を殴ったことないだろ?」

「そこ?」

「え?」

 女は助手席の窓をすこし開けた。風が入り、リュックの紐が揺れた。

「そっか」

 女は窓を閉めた。

 二人が街の古本屋へ到着したころには、陽はすっかり西へ傾いていた。斜めから差す光を受けて、コンクリートの外壁が金色に光っていた。

 店の入口は、手で開けることができた。放置されていた期間を考えれば、店内は十分にきれいで、古本屋に特有のにおいだけが濃く残っていた。明日の朝から営業を始めても、特に支障はなさそうだった。

 レジの金も、ショーケースも、その中身も無事だった。女が目当てのものを見つけ、セロテープ台をガラスへ叩きつけるまでは。

 砕けたガラスのなかから、女は四十六冊のコミックを引っぱり出した。

「手伝ってよ」

 そう言われたので、カヂルグミは四十六冊のうち、透明なビニールで包まれていた半分を、軽トラックの荷台へ積んだ。

「ほかに欲しいものは?」

 大きな店だったので、たいていのものはそろうはずだった。この店まで何度も運転するのはごめんだったので、できれば一度で済ませてもらいたいと、カヂルグミは思った。

「サインとかがあれば……」

 女は店のほうを振り返って言った。

 店の奥には、作者の名前が入った色紙や、サイン入りの本もいくつか並んでいた。

「持ってきなよ」

 カヂルグミは答え、その場でタバコをくわえた。

 女はリュックをつかみ、意気揚々と店へ戻ろうとしたが、ふと思い出したように立ち止まった。

「本人からサインはもらえるのかな?」

「本人に交渉してみたら?」

「握手は?」

 くわえていたタバコを指でつまみ、カヂルグミは答えた。

「似顔絵でも描いてもらったらどう?」

「じゃあ、それで」

 女は踵を返し、あっさりと助手席へ乗り込んだ。

「ひとりで行ける?」

 カヂルグミはたずねた。

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