第八幕 ひとりで行ける?
女はソファに寝転がり、タブレットで漫画を読んでいた。もう何度も読んだ作品らしく、ページをめくる指だけが早かった。読んでいるというより、知っている場面を確認しているようだった。
カヂルグミは台所で皿を拭いていた。洗ったものを布巾で拭き、食器棚へ戻す手つきは、ずいぶん地球人らしくなっていた。ただ、茶碗と小鉢を同じ仲間として重ねようとするので、食器棚のなかは相変わらず不安定だった。
「この人、昔の嫌なやつに会いに行くらしいよ」
女はタブレットの画面をカヂルグミへ向けた。
カヂルグミはちらりと振り返った。
「嫌なやつに、わざわざ会いに行くの?」
「うん。ケリをつけに行くんだって」
「殴りに?」
「違う。話をしに行くみたい」
「嫌なやつを、言葉で叩きのめしたいわけだ」
「そういう感じじゃない。なんか、自分の気持ちを打ち明けに行くみたい」
「嫌なやつに?」
カヂルグミは布巾を持ったまま、すこし考えた。
「……どっちも嫌なやつって話?」
「漫画の話、下手?」
女はおもしろくなさそうな顔で、タブレットを腹の上へ置いた。頭の後ろで両手を組み、足をばたばたと動かしながら、カヂルグミの横顔を見ていた。
続きを聞かれるのをすこし待ったが、カヂルグミは皿拭きへ戻りかけていた。
「わたしも、そろそろトラウマを払拭しようと思うんだけど」
「へえ。どうやって?」
カヂルグミは皿と布巾を置き、換気扇の下に置かれた椅子へ腰かけた。タバコをくわえて火をつけ、換気扇に向かって煙を吐いた。おいしそうではなかったが、換気扇の下でタバコを吸う地球人のふりとしては、だいぶ自然だった。
女は、すこしだけ考えるふりをした。
「また、あいつらを呼ぶってのは?」
「あいつらっていうのは?」
「あいつらだよ」
「血縁上の両親と、手続き上の父親のこと?」
「手続き上の父親ってなに」
「ほら、小さかった君にタイマンを仕掛けたほうの」
「それはわかってるよ」
女は不満げに、タブレットの角を人差し指の腹で叩いた。思っていたような反応ではなかったのだろう。
「呼べるの? 呼べないの?」
そこでようやく、本題の声になった。
カヂルグミはすこし黙った。
「また、こっちに呼ぶってことだよね?」
「そう」
「あれと同じことは、もうできない」
「なんで?」
「あのときは、君が子どもで、ひとりで家に残されていた。だから、幼体保護の手続きで関係者を呼び戻せた」
「幼体保護」
「子ども用のずるみたいなもの」
「あれって、ずるだったの?」
「ルール上のずる」
「じゃあ、もう一回ずるしてよ」
「今は使えない。もう、あのときと同じ条件じゃないから」
「おしゃぶりとかすればいけるんじゃないの? あんた、よく誤認するでしょ」
「誤認しようと思って、誤認していたわけじゃないよ」
カヂルグミは苦笑して、タバコの灰を落とした。
女はタブレットを脇へ置き、ソファの上で体を起こした。もうすこし簡単に話が進むと思っていたらしい。
「あのとき三人を呼んだのは、謝らせるためじゃなかった」
「じゃあ、何のため?」
「三人を見たあと、君がどうしたいと思うのか確かめるため。向こうへ行くか、ここに残るかも含めて」
「私の扉のため?」
「うん。扉が出るかどうかも含めて」
「三人に謝らせるためじゃなくて?」
「謝るかどうかは、あの人たちの話だよ。君がどうするかとは別」
女はすこしだけ口を曲げた。
「あのときは、三人が向こうへ戻れば、君もついていくかもしれないと思った」
「安易だね」
「うん。そういう子が多いから、君もそうかもしれないと思った」
「ついて行かなかった私が悪いってこと?」
「違う。僕の見立てが外れただけ」
女は視線をそらし、宙の一点をしばらく睨んだ。なにかを言おうとして、やめた。
扉の先に大人がいれば、それを案内だと思える子どももいる。けれど、少女のまわりには、そういう大人がいなかった。大人のいるほうへ進んで、よいことがあったためしもない。そういう家で育った子どもなら、扉の向こうに大人がいると知っただけで、足を止めてもおかしくなかった。
「それに、あのときは君の両親と継父にも、まだこっちへ来られるだけのものが残っていたんだ。いまは、それも難しいと思う」
「どういうこと?」
カヂルグミはタバコを灰皿に押しつけてから、説明した。
「向こうへ行ったばかりのころは、こっちでやったことが、耳鳴りみたいに残るんだ。楽しいことに夢中なら聞こえないけど、ふと静かになると、また戻ってくる」
「耳鳴り?」
「みたいなもの。あのときの三人には、まだそれがあった。だから呼べた」
「いまは?」
「たぶん、もう聞こえていない」
「つまり、あの気持ち悪い三人は、いまはなんの気兼ねもなく遊んでいるから、こっちには来られないってこと?」
「そういうことだね」
女は不満そうに眉を寄せた。
「いま、あいつらは何にも気にしてないってこと?」
「君が思っている形では、たぶん」
「苦しんでないの?」
「耳鳴りは、もうしていないと思う。仮にもう一度呼び出せたとしても、あのときと同じ状態では来ない」
「なにそれ」
女の声が大きくなった。
「向こうに行けば、みんな親切で優しい人になるんじゃないの?」
「なるよ」
女は、三人の善良そうな顔を思い出した。
玄関で靴をそろえる手、低い声、きれいな服、子どもの話を最後まで聞くような顔。そういうものが、ひとまとめになって戻ってきた。女は何かを言おうとして、何度か口を閉じた。理解しようとするより先に、別のものがこみ上げたらしい。
「それって、ほんとうに正常に作動してるの? 壊れてない? 親切で優しい大人って、子どもをこっちに残して、平然と遊び回れるものなの?」
「平然と遊び回れるんだ。そこが、あっちのよいところでもあるから」
「納得できない」
「うん」
カヂルグミは、それ以上、納得させようとはしなかった。
女はソファから立ち上がり、タブレットを置いたまま部屋を出た。怒って出ていったようにも見えたが、ドアを強く閉めるわけでも、二階へ逃げるわけでもなかった。廊下へ出て階段の下まで行き、しばらくすると戻ってきたが、なにも言わなかった。
その日の夕方、カヂルグミはリビングに椅子を三つ並べた。食卓の椅子を二脚と、来客用の折りたたみ椅子を一脚。高さがすこしずつ違っており、並べると、なにかに失敗した面接会場のように見えた。
カヂルグミは、ソファでまたタブレットを見ている女に言った。
「これ、君の両親と、殴ってたほうの父親」
女は一瞬、あっけに取られた。
それから、カヂルグミがどういうつもりで椅子を並べたのかわかったらしく、タブレットを隣へ置いた。腕を組み、足も組んで、ソファへ深く座る。断る形だけは作ったが、立ち上がりはしなかった。
「バカじゃないの?」
「バカみたいだけど、本物は呼べないし。それに、本物より安全だと思う」
「これ、そういうやつ?」
「嫌ならやめるけど」
「嫌とは言ってない」
女は、組んだ足の先をすこし揺らした。出ていく気配はなかった。
カヂルグミはいったん台所へ戻り、ハンバーガー屋の紙袋を持ってきた。すこしまえ、二人でファーストフードを食べたときのものである。店に従業員はいなかったので、注文を取り、番号札を渡し、商品を袋へ入れたのはカヂルグミだった。
紙袋には赤と黄色のロゴが入り、持ち手のあたりだけが、油ですこし透けていた。
カヂルグミはそれを、真ん中の椅子へ置いた。
「それは?」
「君のお母さん」
女は肩で笑い、口の端に出かけたものを飲み込むように天井を見た。笑う場面ではないと思ったのか、笑ったら負けだと思ったのか、そのあたりはわからなかった。
次に、カヂルグミは左の椅子のまえで止まった。封筒を置こうとしてやめ、クリアファイルを置こうとしてやめた。水の入ったコップを持ってきて、椅子のまえでしばらく考えたあと、それもやめた。
「これ、何の時間? 儀式?」
「いや、お父さんを探してる」
そこで女の肩が、とうとう小さく跳ねた。
「そこは、何もなくていいよ」
笑いがすこし残った声で、女は言った。
カヂルグミは、コップを持ったまま女を見た。
「いいの?」
「ないし」
「ない?」
「うん。そこ、何もない」
左の椅子には、何も置かれなかった。カヂルグミは水を台所へ戻した。
女はもう笑っていなかったが、さっきほどふてぶてしくもなかった。組んでいた腕の片方がほどけ、タブレットの黒い画面を指でなぞっていた。
最後の椅子は、すこし離して置かれた。リビングの輪から外れ、そこだけ夕方の光が届きにくかった。
カヂルグミはしばらく手ぶらで立っていたが、やがて片方だけの手袋を持ってきた。黒い、安い手袋だった。
それを椅子の座面へ置いた。
「最悪」
女は、すぐに言った。それまで口もとに残っていた笑いの余韻も、そこで消えた。組んでいた足が床へ下り、背中がソファからすこし離れた。逃げるほどではなく、泣くほどでもない。ただ、頭で考えるより先に、体のどこかが手袋を見つけていた。
「やめとく?」
「いいよ。続けて」
女は、手袋から目をそらさないまま答えた。
「このあとは?」
「このあと?」
カヂルグミはすこし黙った。
「え? ないの?」
「ここからは、君が何か言うのかと」
「知らないよ」
「そうか」
「そうか、じゃないでしょ。ちゃんとしてよ」
カヂルグミは、三つの椅子を見た。テイクアウトの紙袋と、何もない椅子と、片方だけの手袋。
「こういう記憶への対処を調べたら、無理に進めないことと、自分の反応を確かめることが、何度も出てきた」
「雑に調べたでしょ」
「雑に調べたけど、そこは本当に何度も出てきたよ」
「それで?」
カヂルグミは、手袋の置かれた椅子を指さそうとして、やめた。
「いま、何を思ってる?」
「雑だなあ」
女は、しばらく答えなかった。
手袋だけを見ているわけではなかった。紙袋も、何もない椅子も、部屋の隅に置かれた手袋も、どれも本人ではない。それでも、あの日、そこにいた大人たちの並び方だけは似ていた。
椅子の上の紙袋は、母親そのものではない。何かを持ってきたような顔をして、中身はない。袋の口だけが、やけにていねいに折られている。
何もない椅子には、何もなかった。
手袋の置かれた椅子は、すこし離れている。そこにだけ、部屋の隅の暗さがついていた。
三人がきれいになったことだけなら、まだよかった。
ろくでもない連中が、普通の大人のような顔をしていた。玄関で靴をそろえ、手土産らしきものを持ち、低い声で謝り、子どもの話を最後まで聞くような顔をする。
下手だったなら、まだよかった。
その一つ一つが、下手ではなかった。
「キモい」
女は言った。
カヂルグミは、うなずかなかった。
「怖いとか、怒ってるとかじゃなくて?」
「そういうのもあるんだろうけど」
女は手袋から目をそらした。
「キモい」
「そっか」
「そっかで片づけないでよ」
「ごめん」
「でも、まあ、そう」
女は立ち上がった。
「終わり」
「終わり?」
「終わり。片づけてよ」
椅子のことは、それで終わった。カヂルグミは椅子を戻し、紙袋をたたんだ。手袋をどうするかだけはすこし迷い、結局、玄関の棚の上へ置いた。
それからしばらく、何も片づかないまま、生活だけがつづいた。
朝はパンを焼いた。女は焦げたところをカヂルグミの皿へ乗せ、カヂルグミはそれを食べた。最初のころは、焦げた部分に何か地球人の作法があるのかと思っていたが、いまは、ただ押しつけられているだけだとわかっていた。
昼には昔の映画を観た。女は途中で眠り、カヂルグミは最後まで観たが、主人公が大事な話をするときに部屋の照明を落とす理由だけは、最後までわからなかった。
夜になると、女はタブレットでまた同じ漫画を読み、カヂルグミも隣で読まされた。女は先を知っているので、おもしろい場面が来るすこしまえになると、カヂルグミの顔を見た。カヂルグミは、そこではなく、背景に電柱が多すぎることを気にしていた。
女は漫画を読んでは閉じ、閉じてはまた開いた。
開けるのも、閉じるのも、女の指だった。
何日かすると、女がコミックを欲しがった。
「古いやつ」
「ダウンロードじゃだめなの?」
「紙で欲しいの」
「読めれば同じじゃない?」
「私の勝手でしょ」
カヂルグミは、それ以上聞かなかった。
軽トラックは、まだちゃんと動いた。
女は助手席でリュックを抱えていた。子どものころ、マーケットへ行くときに使っていたものを、いまもそのまま使っている。店へ行くなら、何かを入れるものが要る。
道はほとんど空いていた。車道には、ときどき、だれかが乗り捨てた車が残っていた。コンビニの駐車場には、まだのぼりが立ち、風が吹くたび、弁当だか唐揚げだかをすすめる布が、だれもいない道路へ向かってひらひらした。
「向こうに行ったら、私もキモくなるの?」
女は、窓の外を見たまま言った。
「ならないんじゃない?」
カヂルグミは、ハンドルを握ったまま答えた。
「なんで?」
「だって君、自分より小さい人間を殴ったことないだろ?」
「そこ?」
「え?」
女は助手席の窓をすこし開けた。風が入り、リュックの紐が揺れた。
「そっか」
女は窓を閉めた。
二人が街の古本屋へ到着したころには、陽はすっかり西へ傾いていた。斜めから差す光を受けて、コンクリートの外壁が金色に光っていた。
店の入口は、手で開けることができた。放置されていた期間を考えれば、店内は十分にきれいで、古本屋に特有のにおいだけが濃く残っていた。明日の朝から営業を始めても、特に支障はなさそうだった。
レジの金も、ショーケースも、その中身も無事だった。女が目当てのものを見つけ、セロテープ台をガラスへ叩きつけるまでは。
砕けたガラスのなかから、女は四十六冊のコミックを引っぱり出した。
「手伝ってよ」
そう言われたので、カヂルグミは四十六冊のうち、透明なビニールで包まれていた半分を、軽トラックの荷台へ積んだ。
「ほかに欲しいものは?」
大きな店だったので、たいていのものはそろうはずだった。この店まで何度も運転するのはごめんだったので、できれば一度で済ませてもらいたいと、カヂルグミは思った。
「サインとかがあれば……」
女は店のほうを振り返って言った。
店の奥には、作者の名前が入った色紙や、サイン入りの本もいくつか並んでいた。
「持ってきなよ」
カヂルグミは答え、その場でタバコをくわえた。
女はリュックをつかみ、意気揚々と店へ戻ろうとしたが、ふと思い出したように立ち止まった。
「本人からサインはもらえるのかな?」
「本人に交渉してみたら?」
「握手は?」
くわえていたタバコを指でつまみ、カヂルグミは答えた。
「似顔絵でも描いてもらったらどう?」
「じゃあ、それで」
女は踵を返し、あっさりと助手席へ乗り込んだ。
「ひとりで行ける?」
カヂルグミはたずねた。




