第九幕 行けば分かるんですか?
薬局の自動ドアは開いたままで、店の奥まで白く見えていた。向かいのコインパーキングには、精算されないままの車が何台か残っている。その明るい店先と車止めのあいだで、ひとりの女が、かつて上司だった男にくってかかっていた。
上司という呼び方は、もう正確ではない。会社も役職も、救世のあとでは古い道具になった。けれど女の中では、その男だけが、まだ古い席に座っていた。
「どいてくれないか?」
男の声は低かった。頼んでいるというより、大きな声を出したくない人間の声だった。
「どくわけないでしょ」
女はすぐに返した。
男の扉は、女の背後にあった。男が二、三歩も進めば、手が届く距離である。
「あれが、私の扉です」
女は、男の背後を指さした。
もう一枚の扉は、ずっと向こうにあった。交差点をいくつか越えなければならない場所だった。見えていることが、かえって腹立たしかった。
「確認しました。遠いです」
カヂルグミは女の扉を一度見て、そう言った。
「で?」
「この男性の扉が、あなたの後ろにあります。近いです」
「だから?」
「ひとまず、道を譲ってあげてくれませんか?」
女は振り返り、男の扉を見た。
二、三歩で届く。その近さだけで、腹の底に熱いものが落ちた。
「私の扉は、あんなに遠いんですよ!」
「ええ、その通りです」
「なんで、わたしの扉はあんなに遠いの? そいつは近いのに!」
「最適化の結果ですね」
「最適化? これが?」
「はい」
「最適化した人を呼んでください」
「人ではありません」
「では責任者を呼んでください」
「責任者という形式ではありません」
「苦情はどこへ言えばいいんですか」
「私でよければ聞きますが」
「聞いてどうするんですか」
「記録します」
「それで?」
「記録が一件追加されます」
女の口の中に、言ってはいけない種類の言葉がたまった。
怒る言葉ならいくらでも出るのに、何を求めているのかと問われると、なにも出てこなかった。
足元で、猫用のキャリーケースが小さく鳴った。中には薄い毛布が敷かれていて、猫が動くたび、持ち手がほんの少し揺れる。女は足元を見て、持ち手にかけていた指を強くした。
「困っていることがあればお手伝いするので、先にこちらの方を通してあげてください」
「なんで私がどかなくちゃいけないの」
「通路に立っているので」
「通路?」
「この方にとっては通路です」
女は短い息を吐いた。笑いにも怒鳴り声にもならない音だった。
それまで黙っていた男が咳払いをした。
「いつになったら、どいてくれるんだ?」
女は男をにらみつけた。
男は、まだ道を譲られると思っているように見えた。そういう態度だけは、会社にいたころからうまかった。自分ではなにも決めていないように見せて、誰かが勝手にどいてくれるのを待つ。
「先に行くつもりですか?」
それまで散っていた怒りが、急に一つの形になった。
「あなたが? 私より先に?」
男の唇が少し動いた。
けれど、そこから出てきたのは、女が待っていた言葉ではなかった。
「どいてくれ」
「どかないと言ったでしょう」
女は男に詰めよって、これまで飲み込んできたものをあらいざらい吐き出した。会社で言えなかったこと、電話口で引き受けた沈黙、男が黙ったせいで女だけが片づけたこと。いまさら役職も机も残っていないのに、残っていたのは言葉ばかりだった。
男は言い返さなかった。うなずきもせず、謝りもせず、女の言葉が落ちるたびに、ほんの少しだけ目を伏せた。
その反応は、女が思っていたよりずっと弱かった。
怒りをぶつけても、音がしなかった。
女は一歩下がった。
「気持ちが悪い」
そう言って、男の扉の前から離れた。
「通れます」
カヂルグミの声がした。
女は、もう自分の扉に向かって歩き出していた。
行きたいなら行けばいい。目の前に扉があるのだから、あとは取っ手に触れれば済む。
そう思ったのに、濡れた地面を踏む足音が後ろからついてきた。
「どうしてついてくるんですか」
女は振り返らずに言った。
男は答えなかった。
少し後ろで、カヂルグミの靴音も増えた。
しばらくすると、ぽつぽつと雨が降りはじめた。女はキャリーケースを足元に置き、折りたたみ傘を開いた。傘は小さく、女とケースの両方を入れるには足りなかった。
女は自分の肩を濡らして、ケースのほうへ傘を寄せた。
中から、か細い鳴き声がした。
「持ちます」
少し後ろから、カヂルグミが手を出した。
「いりません」
「あの男性が、あなたについて来ています」
「だから?」
「あなたが止まると、彼も止まります」
「止まったからなに?」
「対応が進みません」
「私のせいみたいに言わないで」
「雨のせいです」
女は不服げに傘を渡した。
カヂルグミは女とキャリーケースの上に傘を差した。差し方は下手だったが、ケースにはほとんど雨が当たらなかった。
上司だった男は、手ぶらのまま濡れていた。傘を探すのも、誰かに借りるのも面倒なのだろう。誰かが渡せば差すし、どこかに置いてあれば使う。なければ、濡れる。
そういうところにも腹が立った。
「あの人の対応は、もう終わりでは?」
「いえ、まだです」
「私はどいたけど?」
「対象者が扉から離れました」
「あっちの勝手でしょ。私の扉はまだ遠いんだけど」
「はい」
「あっちは解決、こっちは未解決」
「いえ。あっちが未解決で、あなたは解決に向かっています」
「遠いんだけど?」
「到達は可能です」
「こんなに遠いのに?」
「到達可能な遠さです」
言い方が、ひどく腹立たしかった。
しばらく歩いたところで、道の先にまた扉があった。
女のものではない。
男の扉だった。
「なんで?」
女は立ち止まり、ふりかえった。
扉は、やはり近かった。男が少しだけ歩けば済む距離だった。
「あれ、あなたの扉でしょ?」
「ああ」
「なら行けばいいじゃないですか。私の前に置かないで」
「俺が置いてるわけじゃない」
「あなたが、ついてきているからでしょう」
男は黙った。
怒られる前のような表情をしていた。
「ひょっとして、あなたも怖いんですか?」
口に出すと、ほんの少しだけ勝ったような気がした。
けれど、そんなことを思った自分がすぐ嫌になった。
男はなにか言いたげに眉を寄せたが、結局、言葉にはしなかった。
「好きにすれば」
女は短く言って、また歩き出した。
少し遅れて、男の靴音がついてきた。
女の扉はまだ遠かった。信号を一つ越え、濡れた横断歩道を渡り、閉まった店の前をいくつか過ぎても、距離は縮まらなかった。見えているのに、扉だけが同じ場所に残っている。
「必要があれば助けます」
カヂルグミが、すぐ斜め後ろで言った。
「必要よ」
女は即座に言った。
早く言いすぎたことに気づいたのか、そのあとで口を閉じた。
「どんな手助けが必要ですか」
女は答えなかった。
何を手伝ってほしいのかは、喉のあたりまで来ていた。けれど、それを言うには、まだ口の形が足りなかった。
足元のケースが、かすかに揺れた。
「不安を感じているんですね」
「悪いことですか?」
「いいえ。方向は合っています」
「方向?」
「あなたは扉に向かっています」
カヂルグミの視線が、女の肩越しに男へ移った。
「ちなみに、後ろの男性は逆行中です」
女はカヂルグミの傘の下から、肩越しに後ろの男を見た。
上司だった男はこちらを向いていたが、目は合わなかった。視線は少し下に落ち、声も足も、どちらへ進むか決めていないように見えた。
その沈黙は、女を少しだけ落ち着かせた。
落ち着かせたというより、男の輪郭を小さくした。
雨足が強まった。
道の脇に、屋根のついたバス停があった。時刻表はまだ貼られていた。平日と休日で欄が分かれていて、いまさら誰が守るのかわからない時刻が、細かい数字で並んでいた。
女はそこに入り、キャリーケースをベンチの下に置いた。
カヂルグミは屋根の下で傘をたたみ、雨粒を払った。傘の骨から落ちた水が、バス停の床に細い線を作った。
上司だった男だけが、屋根の外に半分残ったまま立っていた。濡れるのが好きなわけではなさそうだったが、濡れない場所へ一歩入るのも、誰かの許可を待っているようだった。
「入ればいいじゃないですか」
女は言った。
男は少し遅れて、屋根の下へ入った。
それだけのことに、ひどく時間がかかった。
雨の音が近かった。キャリーケースの中で猫が身じろぎする音まで聞こえた。
女は、道の先にある自分の扉を見た。
雨にかすんで、まだ遠かった。
「行けば、分かるんですか?」
女はカヂルグミに聞いた。
「何がですか」
女は答えなかった。
答えなければ分からない問いだった。
カヂルグミは待っていたが、女には言葉にできなかった。
言葉にしたら、そのまま手からこぼれそうだった。
背後で、上司だった男がぽつりと言った。
「何のことだ?」
女は振り返った。
男は、女の扉のほうを見ていた。
「君の扉は遠いな」
何気ない声だった。
「大変そうだ」
その言葉で、女の顔から怒りの形が一度だけ消えた。
男には、たぶん分からなかった。
「あなたには関係ありません」
言ってから、女は自分の声がさっきまでと違うことに気づいた。
怒鳴ったわけではない。
けれど、その言葉だけは、男を少しも入れない形をしていた。
男は何か言いたそうにしたが、視線は女の顔まで届かなかった。
それで十分だった。
女は、この男も同じものを怖がっているのだと思っていた。
そう思うことで、少しだけ歩けていたのかもしれない。
違った。
男は何も考えていなかった。
ただ、近い扉の前で濡れていただけだった。
膝の力が抜けた。
濡れた道が急に近くなった。顔を覆うこともできなかった。怒りの置き場所が、ふいになくなった。
背後で、男が一歩だけ動く気配がした。けれど、それ以上は近づかなかった。
その足音が止まるのを聞いて、女はもう顔を上げられなくなった。
カヂルグミが、女の前で少し身をかがめた。
「大丈夫ですか?」
女は答えなかった。
「いま分からなくても大丈夫です。記録は、いつでもできますから」
記録、という言葉が変に遠くて、その遠さだけが少し助かった。
女は泣いていた。泣いているのに、声は出なかった。
しばらくして、女は自分の手を見た。
何を持っていけばいいのか、まだ決まっていない手だった。
女はゆっくり立ち上がった。
うなずかなかった。
それでも、足は扉のほうへ向いた。
目指す先は、まだ先にあった。けれど、さっきまでのように、信号や看板の向こうへ逃げ続けている感じではなかった。
怒りは消えていない。許したわけでも、善良になったわけでもない。ただ、その怒りを上司だった男だけに向け続けるには、もう向きが合わなかった。
カヂルグミが傘を差し直した。
歩き出すと、後ろの足音も動いた。
「まだ、怒っているのか?」
男が言った。
女は振り返らなかった。
「怒っていないと思いますか?」
男は答えなかった。
「怒っています。でも、あなたに構っているヒマはありません。気づくのが遅すぎました」
それだけ言って、また歩いた。
女の扉は、いつの間にか近くなっていた。
取っ手はもう手を伸ばせば届くところにあり、雨に濡れて少し鈍く光っている。
カヂルグミが傘を少し引いた。女が取っ手に触れるための隙間を作ったつもりらしかったが、そのせいでキャリーケースの端に雨が落ちた。
中で猫が動いた。
女は、ほんの一瞬だけ男を見た。
上司だった男は、何か言いたそうに口元を動かした。目は女ではなく、その少し横に落ちている。謝るにも、止めるにも、遅すぎる場所だった。
女は、その口元を見て、待つのをやめた。
もう振り返らなかった。
息を吸うと、胸の奥が少し震えた。女は空いた手を胸の前で強く握った。その手は、何かを抱く形にはならなかった。けれど、開いたままにしておくよりはましだった。
そのまま、扉をくぐった。
扉は静かに閉じた。
上司だった男は、自分の扉の前に残った。
この道を歩いているあいだ、女が何に腹を立てていたのか、男は深く考えなかった。
昔も、そうだった。
かつて女の腹にいたものについても、男は長く考えたことはなかった。
扉は、まだ目の前にあった。
はじめからずっと近かったし、今も近かった。
男はカヂルグミを見た。
「俺は通れるのか?」
「通れます」
「まだ、何も終わっていない気がする」
「通過条件には含まれていません」
男は黙った。
カヂルグミは、男と扉のあいだを見た。
「測定上は近いんですけどね」
男は少し待った。
もう一度、何かが起きるのを待つように。
でも何も起きなかった。
その後、男は案外すぐに扉をくぐった。




