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猫が隠した星  作者: Junbi


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10/32

第九幕 行けば分かるんですか?

 薬局の自動ドアは開いたままで、店の奥まで白く見えていた。向かいのコインパーキングには、精算されないままの車が何台か残っている。その明るい店先と車止めのあいだで、ひとりの女が、かつて上司だった男にくってかかっていた。

 上司という呼び方は、もう正確ではない。会社も役職も、救世のあとでは古い道具になった。けれど女の中では、その男だけが、まだ古い席に座っていた。

「どいてくれないか?」

 男の声は低かった。頼んでいるというより、大きな声を出したくない人間の声だった。

「どくわけないでしょ」

 女はすぐに返した。

 男の扉は、女の背後にあった。男が二、三歩も進めば、手が届く距離である。

「あれが、私の扉です」

 女は、男の背後を指さした。

 もう一枚の扉は、ずっと向こうにあった。交差点をいくつか越えなければならない場所だった。見えていることが、かえって腹立たしかった。

「確認しました。遠いです」

 カヂルグミは女の扉を一度見て、そう言った。

「で?」

「この男性の扉が、あなたの後ろにあります。近いです」

「だから?」

「ひとまず、道を譲ってあげてくれませんか?」

 女は振り返り、男の扉を見た。

 二、三歩で届く。その近さだけで、腹の底に熱いものが落ちた。

「私の扉は、あんなに遠いんですよ!」

「ええ、その通りです」

「なんで、わたしの扉はあんなに遠いの? そいつは近いのに!」

「最適化の結果ですね」

「最適化? これが?」

「はい」

「最適化した人を呼んでください」

「人ではありません」

「では責任者を呼んでください」

「責任者という形式ではありません」

「苦情はどこへ言えばいいんですか」

「私でよければ聞きますが」

「聞いてどうするんですか」

「記録します」

「それで?」

「記録が一件追加されます」

 女の口の中に、言ってはいけない種類の言葉がたまった。

 怒る言葉ならいくらでも出るのに、何を求めているのかと問われると、なにも出てこなかった。

 足元で、猫用のキャリーケースが小さく鳴った。中には薄い毛布が敷かれていて、猫が動くたび、持ち手がほんの少し揺れる。女は足元を見て、持ち手にかけていた指を強くした。

「困っていることがあればお手伝いするので、先にこちらの方を通してあげてください」

「なんで私がどかなくちゃいけないの」

「通路に立っているので」

「通路?」

「この方にとっては通路です」

 女は短い息を吐いた。笑いにも怒鳴り声にもならない音だった。

 それまで黙っていた男が咳払いをした。

「いつになったら、どいてくれるんだ?」

 女は男をにらみつけた。

 男は、まだ道を譲られると思っているように見えた。そういう態度だけは、会社にいたころからうまかった。自分ではなにも決めていないように見せて、誰かが勝手にどいてくれるのを待つ。

「先に行くつもりですか?」

 それまで散っていた怒りが、急に一つの形になった。

「あなたが? 私より先に?」

 男の唇が少し動いた。

 けれど、そこから出てきたのは、女が待っていた言葉ではなかった。

「どいてくれ」

「どかないと言ったでしょう」

 女は男に詰めよって、これまで飲み込んできたものをあらいざらい吐き出した。会社で言えなかったこと、電話口で引き受けた沈黙、男が黙ったせいで女だけが片づけたこと。いまさら役職も机も残っていないのに、残っていたのは言葉ばかりだった。

 男は言い返さなかった。うなずきもせず、謝りもせず、女の言葉が落ちるたびに、ほんの少しだけ目を伏せた。

 その反応は、女が思っていたよりずっと弱かった。

 怒りをぶつけても、音がしなかった。

 女は一歩下がった。

「気持ちが悪い」

 そう言って、男の扉の前から離れた。

「通れます」

 カヂルグミの声がした。

 女は、もう自分の扉に向かって歩き出していた。

 行きたいなら行けばいい。目の前に扉があるのだから、あとは取っ手に触れれば済む。

 そう思ったのに、濡れた地面を踏む足音が後ろからついてきた。

「どうしてついてくるんですか」

 女は振り返らずに言った。

 男は答えなかった。

 少し後ろで、カヂルグミの靴音も増えた。

 しばらくすると、ぽつぽつと雨が降りはじめた。女はキャリーケースを足元に置き、折りたたみ傘を開いた。傘は小さく、女とケースの両方を入れるには足りなかった。

 女は自分の肩を濡らして、ケースのほうへ傘を寄せた。

 中から、か細い鳴き声がした。

「持ちます」

 少し後ろから、カヂルグミが手を出した。

「いりません」

「あの男性が、あなたについて来ています」

「だから?」

「あなたが止まると、彼も止まります」

「止まったからなに?」

「対応が進みません」

「私のせいみたいに言わないで」

「雨のせいです」

 女は不服げに傘を渡した。

 カヂルグミは女とキャリーケースの上に傘を差した。差し方は下手だったが、ケースにはほとんど雨が当たらなかった。

 上司だった男は、手ぶらのまま濡れていた。傘を探すのも、誰かに借りるのも面倒なのだろう。誰かが渡せば差すし、どこかに置いてあれば使う。なければ、濡れる。

 そういうところにも腹が立った。

「あの人の対応は、もう終わりでは?」

「いえ、まだです」

「私はどいたけど?」

「対象者が扉から離れました」

「あっちの勝手でしょ。私の扉はまだ遠いんだけど」

「はい」

「あっちは解決、こっちは未解決」

「いえ。あっちが未解決で、あなたは解決に向かっています」

「遠いんだけど?」

「到達は可能です」

「こんなに遠いのに?」

「到達可能な遠さです」

 言い方が、ひどく腹立たしかった。

 しばらく歩いたところで、道の先にまた扉があった。

 女のものではない。

 男の扉だった。

「なんで?」

 女は立ち止まり、ふりかえった。

 扉は、やはり近かった。男が少しだけ歩けば済む距離だった。

「あれ、あなたの扉でしょ?」

「ああ」

「なら行けばいいじゃないですか。私の前に置かないで」

「俺が置いてるわけじゃない」

「あなたが、ついてきているからでしょう」

 男は黙った。

 怒られる前のような表情をしていた。

「ひょっとして、あなたも怖いんですか?」

 口に出すと、ほんの少しだけ勝ったような気がした。

 けれど、そんなことを思った自分がすぐ嫌になった。

 男はなにか言いたげに眉を寄せたが、結局、言葉にはしなかった。

「好きにすれば」

 女は短く言って、また歩き出した。

 少し遅れて、男の靴音がついてきた。

 女の扉はまだ遠かった。信号を一つ越え、濡れた横断歩道を渡り、閉まった店の前をいくつか過ぎても、距離は縮まらなかった。見えているのに、扉だけが同じ場所に残っている。

「必要があれば助けます」

 カヂルグミが、すぐ斜め後ろで言った。

「必要よ」

 女は即座に言った。

 早く言いすぎたことに気づいたのか、そのあとで口を閉じた。

「どんな手助けが必要ですか」

 女は答えなかった。

 何を手伝ってほしいのかは、喉のあたりまで来ていた。けれど、それを言うには、まだ口の形が足りなかった。

 足元のケースが、かすかに揺れた。

「不安を感じているんですね」

「悪いことですか?」

「いいえ。方向は合っています」

「方向?」

「あなたは扉に向かっています」

 カヂルグミの視線が、女の肩越しに男へ移った。

「ちなみに、後ろの男性は逆行中です」

 女はカヂルグミの傘の下から、肩越しに後ろの男を見た。

 上司だった男はこちらを向いていたが、目は合わなかった。視線は少し下に落ち、声も足も、どちらへ進むか決めていないように見えた。

 その沈黙は、女を少しだけ落ち着かせた。

 落ち着かせたというより、男の輪郭を小さくした。

 雨足が強まった。

 道の脇に、屋根のついたバス停があった。時刻表はまだ貼られていた。平日と休日で欄が分かれていて、いまさら誰が守るのかわからない時刻が、細かい数字で並んでいた。

 女はそこに入り、キャリーケースをベンチの下に置いた。

 カヂルグミは屋根の下で傘をたたみ、雨粒を払った。傘の骨から落ちた水が、バス停の床に細い線を作った。

 上司だった男だけが、屋根の外に半分残ったまま立っていた。濡れるのが好きなわけではなさそうだったが、濡れない場所へ一歩入るのも、誰かの許可を待っているようだった。

「入ればいいじゃないですか」

 女は言った。

 男は少し遅れて、屋根の下へ入った。

 それだけのことに、ひどく時間がかかった。

 雨の音が近かった。キャリーケースの中で猫が身じろぎする音まで聞こえた。

 女は、道の先にある自分の扉を見た。

 雨にかすんで、まだ遠かった。

「行けば、分かるんですか?」

 女はカヂルグミに聞いた。

「何がですか」

 女は答えなかった。

 答えなければ分からない問いだった。

 カヂルグミは待っていたが、女には言葉にできなかった。

 言葉にしたら、そのまま手からこぼれそうだった。

 背後で、上司だった男がぽつりと言った。

「何のことだ?」

 女は振り返った。

 男は、女の扉のほうを見ていた。

「君の扉は遠いな」

 何気ない声だった。

「大変そうだ」

 その言葉で、女の顔から怒りの形が一度だけ消えた。

 男には、たぶん分からなかった。

「あなたには関係ありません」

 言ってから、女は自分の声がさっきまでと違うことに気づいた。

 怒鳴ったわけではない。

 けれど、その言葉だけは、男を少しも入れない形をしていた。

 男は何か言いたそうにしたが、視線は女の顔まで届かなかった。

 それで十分だった。

 女は、この男も同じものを怖がっているのだと思っていた。

 そう思うことで、少しだけ歩けていたのかもしれない。

 違った。

 男は何も考えていなかった。

 ただ、近い扉の前で濡れていただけだった。

 膝の力が抜けた。

 濡れた道が急に近くなった。顔を覆うこともできなかった。怒りの置き場所が、ふいになくなった。

 背後で、男が一歩だけ動く気配がした。けれど、それ以上は近づかなかった。

 その足音が止まるのを聞いて、女はもう顔を上げられなくなった。

 カヂルグミが、女の前で少し身をかがめた。

「大丈夫ですか?」

 女は答えなかった。

「いま分からなくても大丈夫です。記録は、いつでもできますから」

 記録、という言葉が変に遠くて、その遠さだけが少し助かった。

 女は泣いていた。泣いているのに、声は出なかった。

 しばらくして、女は自分の手を見た。

 何を持っていけばいいのか、まだ決まっていない手だった。

 女はゆっくり立ち上がった。

 うなずかなかった。

 それでも、足は扉のほうへ向いた。

 目指す先は、まだ先にあった。けれど、さっきまでのように、信号や看板の向こうへ逃げ続けている感じではなかった。

 怒りは消えていない。許したわけでも、善良になったわけでもない。ただ、その怒りを上司だった男だけに向け続けるには、もう向きが合わなかった。

 カヂルグミが傘を差し直した。

 歩き出すと、後ろの足音も動いた。

「まだ、怒っているのか?」

 男が言った。

 女は振り返らなかった。

「怒っていないと思いますか?」

 男は答えなかった。

「怒っています。でも、あなたに構っているヒマはありません。気づくのが遅すぎました」

 それだけ言って、また歩いた。

 女の扉は、いつの間にか近くなっていた。

 取っ手はもう手を伸ばせば届くところにあり、雨に濡れて少し鈍く光っている。

 カヂルグミが傘を少し引いた。女が取っ手に触れるための隙間を作ったつもりらしかったが、そのせいでキャリーケースの端に雨が落ちた。

 中で猫が動いた。

 女は、ほんの一瞬だけ男を見た。

 上司だった男は、何か言いたそうに口元を動かした。目は女ではなく、その少し横に落ちている。謝るにも、止めるにも、遅すぎる場所だった。

 女は、その口元を見て、待つのをやめた。

 もう振り返らなかった。

 息を吸うと、胸の奥が少し震えた。女は空いた手を胸の前で強く握った。その手は、何かを抱く形にはならなかった。けれど、開いたままにしておくよりはましだった。

 そのまま、扉をくぐった。

 扉は静かに閉じた。

 上司だった男は、自分の扉の前に残った。

 この道を歩いているあいだ、女が何に腹を立てていたのか、男は深く考えなかった。

 昔も、そうだった。

 かつて女の腹にいたものについても、男は長く考えたことはなかった。

 扉は、まだ目の前にあった。

 はじめからずっと近かったし、今も近かった。

 男はカヂルグミを見た。

「俺は通れるのか?」

「通れます」

「まだ、何も終わっていない気がする」

「通過条件には含まれていません」

 男は黙った。

 カヂルグミは、男と扉のあいだを見た。

「測定上は近いんですけどね」

 男は少し待った。

 もう一度、何かが起きるのを待つように。

 でも何も起きなかった。

 その後、男は案外すぐに扉をくぐった。

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