第十幕 名前を読む人
老人は痩せていたが、弱々しいというほどではなかった。麦わら帽子をかぶり、色の抜けた作業着を着て、腰には古い鍵束を下げている。墓石に柄杓で水をかけ、濡れた雑巾で表面を拭き、花立てから枯れた花を抜き取っては、足もとのバケツに入れていく。その動きは遅いが、迷いはなかった。
カヂルグミは、墓石の列に入らないくらいの距離で立っていた。邪魔にならない場所を選んだつもりらしかったが、その立ち方は見学者というより、何かの不具合を前にした係員に近かった。
「ここは、どういう場所ですか?」
老人は手を止めなかった。
「墓地だよ」
「墓地」
「死んだ人間を置いておく場所だ」
カヂルグミは、墓石と墓石のあいだを見た。そこには石と土と、抜かれた草の湿った匂いがあるだけだった。
「でも、もうみんな向こうにいますよ」
「今はな」
老人は墓石の側面にこびりついた苔を、指先でこすった。
「前は、ここにいることにしていた」
「いることにしていた?」
「そうだ」
「本当はいないけど、いることにしていたんですね」
地球人のやりそうな手口だと、カヂルグミはあとで言った。
「本当のことなんか、誰にも分からなかったからな」
老人は立ち上がり、腰を叩いた。それから、すぐそばの墓誌に刻まれた名前を、ひとつずつ声に出して読んだ。文字が深く残っているものもあれば、雨風で削れて、ほとんど読めなくなっているものもある。老人は読める名前だけを、間違えないようにゆっくり読み上げた。どうしても読めない名前については、無理に音にしようとはせず、そのぶん少しだけ長く手を合わせた。
最後の名前を読み終えると、老人は墓前で短く手を合わせ、花立てを空にし、線香皿の灰を払って、また次の墓へ移った。
「いったい、何をしているんです?」
「閉めてる」
「閉める?」
「墓を閉めている」
「扉じゃないのに?」
老人は、そこでようやくカヂルグミの方を見た。目元だけが、少し笑っているようにも見えた。
「墓も扉みたいなもんだ。向こうにいると思って、こっちの人間が手を合わせる場所だからな」
「でも、もう向こうにいますけどね」
「だから、こっちを閉めるんだよ」
老人は、つまらなさそうに言った。カヂルグミは、墓石の列と老人の顔を見比べた。仕事の手順としては理解できるが、どこから処理すればいいのか分からない、という顔だった。
「向こうにいるなら、もうここはいらねえ。けど、いらなくなったからって、放っておいていいわけじゃない。長いこと、ここにいることにしてきたんだ。最後くらい、ここにはいないってことにしてやらねえと」
「なるほど」
「分かったのか」
「だいたい」
「だいたいは、分かってねえやつの返事だ」
老人はあきれたように笑い、バケツの水を取り替えるために歩き出した。墓地の隅には古い水場があり、そこだけはまだ水が出た。蛇口をひねると、細い水が頼りなく落ちてくる。老人はバケツの底に残った濁りを捨て、新しい水で満たした。
老人は、ゆっくり腰を伸ばした。背骨のあたりで、乾いた枝を踏むような音がした。
「ずっと、これを?」
カヂルグミが尋ねた。
「何が」
「墓を閉めつづけていたんですか」
「ずっとというわけじゃない。最初の二日は、門前でぼんやりしてた」
「ほう」
「誰か来るかと思ってな」
「誰が来ましたか?」
「いや、来なかったよ」
老人は蛇口を閉めた。水場に残ったしずくが、しばらく間の抜けた音を立てていた。
「みんな忙しいんだろう。死んだ親や子に会うとか、若いころの恋人に会うとか、自分が死んだことも忘れてたやつに会うとか。そんなことで、みんな忙しい」
「それは、いいことですよね?」
「ああ、いいことだよ」
老人は、濡れたバケツを持ち上げた。
「だから、ここは俺が閉めるしかない。誰も手伝いに来ねえからな」
カヂルグミは、老人の歩みに合わせて、ゆっくり墓地の中を進んだ。
「見てるだけか?」
「業務中です」
「業務?」
「あなたが、まだ行かない理由を観察しています」
「さっき言っただろ」
「はい」
業務上の確認は済んでいるようにも見えたが、カヂルグミはまだ帰らなかった。手伝うでもなく、急かすでもなく、ただ次の墓までついていく。
閉じていない墓は、まだ残っているようだった。とはいえ、大半はもう片づいている。枯れた花や古い供物は一カ所に集められ、墓石の多くは濡れて、薄く光を返していた。どれも空っぽのように見えたが、空っぽだからこそ妙にきれいだった。
「まだ、行かないんですか?」
カヂルグミは、なるべく穏やかな声を出した。
「まだだ。最後の列が残ってる」
「先に、向こうで休んできたらどうです?」
「休む?」
「腰、痛いんじゃないですか?」
「腰か」
「治りますよ。なにも、大変な思いをしてまで墓を掃除しなくても」
「大変な思いをしたいんだ」
老人は冗談のように言った。
「どうして?」
「治ったら調子に乗るから」
「誰が?」
「俺だよ。俺が調子に乗る。腰が痛くなくなったら、残りの墓をまとめて片づける。雑巾を振り回して、花をひっこ抜いて、はい終わりってな。そういうのは、墓じまいじゃねえ」
「自分を信用していないんですね」
「年寄りは、自分の雑さくらい覚えてるもんだ」
老人は、水場のそばに置かれていた古い腰掛けに座り、茶をすすった。カヂルグミも、少し離れて腰を下ろした。墓石の列に背を向けるのをためらったのか、半分だけ横を向いている。
「向こうに行けば、その腰も、もう少し扱いやすくできると思いますがね」
「扱いやすく、ねえ」
「痛みは取れます。曲がったところも、たぶん、その人に合う形に落ち着きます」
「ずいぶん便利だな」
「便利です」
「便利すぎるのは、あんまり信用ならねえ」
老人は湯呑みを両手で包み、しばらく墓地の方を見ていた。土の下にあるものを、頭の中で確かめているようだった。
「じゃあ、死んでいた人間はどうなる」
「死んでいた人間?」
「この下にいた連中だよ。あいつらは、自前の腰も目も耳も、もう持っていないだろ。骨なら少しは残ってるかもしれねえが」
「骨はいりません」
「いらねえのか」
「はい」
「じゃあ、どうする」
カヂルグミは、足もとに落ちていた小石を一つ拾った。濡れてもいない、どこにでもある小石だった。
「その人の芯になるものは、残っています」
「芯」
「石、と呼ぶことにしています」
「魂みたいなもんか」
「魂という語は、石より遠いです」
「魂の方がそれっぽいけどな」
「はい。ですが、石よりも意味が半端です」
老人は少し笑った。カヂルグミは、小石を手のひらに乗せたまま続けた。
「死んでいた人は、その石に合うように、向こうで形を持ちます。若くなるというより、その人らしく整うと言った方が近いです」
「生きたまま行った連中は?」
「肉が先にあります」
「面倒そうだな」
「意外と面倒です」
「やっぱり邪魔なのか」
「邪魔というと語弊があります」
「じゃあ何だ」
カヂルグミは少し考えた。
「曲がっています」
「肉がか」
「はい。長く無理をしていた肉は、曲がっていることが多いです」
「俺の腰みたいな話か」
「そうですね」
「なんか、人に言われると腹が立つな」
老人は眉根を寄せて笑い、湯呑みの底に残った茶を飲み干した。カヂルグミは小石をしばらく手のひらの上で転がしていたが、やがて元の場所に戻した。
「ろくでなしも向こうじゃまともになるのか?」
「時間はかかるかもしれません。でも、曲がった肉は、少しずつ石の形に寄っていきます」
「死んだろくでなしは?」
「最初から、石に合う肉を持ちます」
「ずるくねえか」
「ずるい、とは少し違います」
「じゃあ何だ」
「順番が違います」
「墓より気味の悪い話だな」
老人はそう言って、しばらく黙った。風が吹くと、片づけられた枯れ花の束が少しだけ揺れた。カヂルグミはそれを見ていた。飛ばされそうなら押さえるつもりだったのかもしれないが、花はそこに留まった。
「向こうに行ったら、墓はいらねえんだろうな」
「たぶん、必要ありません。本人がいますから」
「本人がいるから、言えねえこともあるだろ」
「どうして?」
「本人は返事をする」
老人は、墓地の方を見た。
「墓は返事をしねえ。謝っても、恨み言を言っても、泣いても、怒鳴っても、黙ってそこにある。だから助かることもあった」
「返事がない方が、いいんですか?」
「いい時もある。返事が来たら、またこっちも返さなきゃならねえだろ」
カヂルグミは、老人の横顔を見た。
「でも、閉めるんですね」
「閉めるよ」
「返事がない場所が、必要だったのでは?」
「必要だったんだろうな」
老人は少し黙り、濡れた墓石の列を見た。
「けど、いつまでも返事のない場所に向かってしゃべってるわけにもいかねえ。本人たちは、もう向こうにいる。ここへ来て泣いてた連中も、もう向こうだ」
老人はバケツを持ち上げた。
「だったら、最後に名前を読んで、閉めるしかねえだろ」
カヂルグミも立ち上がった。
残っている墓は、もう十基ほどだった。どれも古く、墓誌の文字は読みづらい。家名だけが残っているものもあれば、文字のほとんどが削れてしまったものもあった。老人は、読めない名前の前では、少しだけ長く手を合わせた。
「名前が分からなくてもいいんですか?」
「分からねえもんは、分からねえよ」
「それでいいんですか?」
「分からないまま、ここにいたんだろ。だったら、分からないまま閉めるしかない」
老人は、最後から二番目の墓を洗った。最後の墓は、墓地のいちばん奥にあった。
特別立派な墓ではない。むしろ小さく、少し傾いていた。墓石の前には、枯れた菊が二本、倒れかけている。線香皿には古い灰が固まっていた。
老人は、そこに長く立っていた。
「知り合いですか?」
「俺のだ」
「あなたの?」
「うちの墓だよ」
「ああ」
「女房と、親父と、お袋と、兄貴と、知らねえ先祖がいくらか」
「みなさん、向こうにいます」
「知ってるよ」
老人は水をかけた。他の墓石と同じくらい、最後まで丁寧に拭いた。文字のくぼみに詰まった汚れを、爪の先で落とす。花立てを洗い、線香皿を空にし、墓前の小さな石を左右へよけた。
最後に、名前を読んだ。その中には、老人と同じ名字がいくつもあった。老人は一つずつ声に出し、途中で一度つかえたが、咳払いをして続けた。
すべて読み終えると、手を合わせた。長いこと目を閉じていた。
カヂルグミは何も言わなかった。バケツの水面だけが、風に少し揺れていた。
やがて、老人は手を下ろした。
「閉じたぞ」
墓地のどこかで、鍵の開くような音がした。
カヂルグミは、六地蔵の向こうを見た。寺の物置の戸みたいな、なんとも頼りない扉が、少しだけ開いていた。
「開きましたね」
「そうか」
老人は腰を叩き、ゆっくりと立ち上がった。それから、腰に下げていた墓地の鍵を外した。しばらく手の中で見ていたが、どこにも置かず、懐にしまった。
老人は向こうに行った。
門には鍵をかけなかった。




