第六幕 今日の留守番
和尚は、半分だけ救済されていた。
そう言うとありがたい話のようだが、実際には、本堂のまえに立つ古い引き戸の合わせ目に、袈裟の裾が噛んでいただけである。和尚自身はすでに扉の向こうへ行っているのに、立派な袈裟の裾だけが、まだこちら側に残っていた。
弟子は、それを冷めた目で見ていた。朝から何度も見ているが、見たところで、なにかが変わるわけでもない。扉のなかは見えず、袈裟は抜けず、和尚の声だけが、ありがたくもないのに隙間から漏れてくる。
扉の向こうから、和尚が言った。
「――押せ」
弟子は、袈裟の裾と、閉じきらない扉の隙間を見比べた。
「押すんですか? こちら側に挟まっているのに?」
「押せ」
「引くのでは?」
「引くと破れる」
「では、和尚様が少し戻って」
「それは嫌じゃ」
「嫌?」
「湯が、ちょうどよい」
「いま、湯にいるのですか?」
「湯ではない。無我じゃ」
扉の隙間から、ほんのり甘い湯気のようなものが漏れてきた。
「湯気が出ていますが」
「無我にも湯気は立つ」
「そうですか」
納得はしなかったが、和尚がいつもの調子を崩していないことだけはわかった。
あの日、蔵の鍵が開いた音を聞くと、和尚と兄弟子たちは、ためらうことなく中へ入っていった。生前は欲を捨てよ、執着を離れよ、粗食に耐えよと説いていたのに、だれよりも早かった。本人たちは信徒を導くためだと言っていたが、いまのところ、和尚は信徒を導くどころか、快適な蔵のなかから一歩も戻りたがらない。
弟子はいちおう、袈裟に手を伸ばした。
「では、こちらから引きます」
「待て。手を洗ったか」
すこし迷ってから、弟子は答えた。
「洗っていません」
「触るな」
「では、引けません」
「洗ってから引け」
「私は留守番です」
「留守番なら引け」
「袈裟係ではありません」
「袈裟係などない」
「では、なおさら私ではありません」
そのあたりで、山門のほうから砂利を踏む音がした。境内に入ってきたのは、胸に『ぶらざぁ・かぢるぐみ』と書かれた名札をつけ、まだ消していないタバコを手にしたカヂルグミだった。名札だけは、だれの目にも同じように見える。
本堂のまえまで来ると、カヂルグミは扉と袈裟を見た。
「閉鎖不良を確認に来ました」
弟子は、挟まっている袈裟を指さした。
「これです」
「そのようですね」
カヂルグミは扉の合わせ目をのぞき込むようにした。それから袈裟には触れないまま、すこし首を傾けた。
「壊れているようには見えません」
先にそう言われたので、弟子はすこし拍子抜けした。
「故障ではないのですか?」
「はい」
「では?」
「たぶん、価値の置き場所を間違えています」
「価値の置き場所」
弟子は、すこしだけ身構えた。寺にいると、こういう言い方をする人間が、ときどき訪ねてくる。形に意味はあるのか、祈りはどこに届くのか、仏は外にいるのか内にいるのか。そういう話をしたがる人間は、たいてい茶を二杯飲んで帰る。
けれど、カヂルグミはそういう話をしに来たようには見えなかった。扉の隙間を見たまま、ただの業務連絡のようにつづけた。
「蔵の中では、これはただの布です」
「はあ」
「こちらでは袈裟と呼ばれています」
「つまり?」
「袈裟の所有者が、こちら側の意味を離したくないようです」
和尚が、扉の向こうから意見した。
「由緒ある袈裟じゃ!」
カヂルグミはうなずいた。
「このように」
弟子は反応に困りながら、扉の隙間へ視線を戻した。和尚は、由緒ある袈裟を、由緒あるまま蔵のなかへ持ち込みたがっているらしい。しかし、蔵のなかでは、それはただの布になる。由緒の置き場所が見つからず、裾だけが扉に噛んでいる、ということだった。
「それだけ聞くと、含蓄のある話に聞こえますね」
「ええ。でも実際には、古い引き戸に古い布が挟まっているだけです」
含蓄は、そのあたりで途切れた。
「桃じゃ!」
扉の向こうで、和尚が叫んだ。
弟子は袈裟から目を離さずにたずねた。
「和尚様」
「桃の産毛が光っておる」
「和尚様」
「これは何色というのだ……」
「和尚様、和尚様」
「うるさい!」
「和尚様、いま桃を食べているんですか?」
「桃だ。お前、これが何色というかわかるか?」
「こちらにいたころは、果物を禁じておられましたよね?」
扉の奥で、和尚はしばらく黙った。
「これは桃ではない」
「桃って言ってましたよね?」
「比喩だ。悟りの甘味じゃ」
果汁のはじける音がした。
弟子は袈裟の裾から扉の隙間へ、ゆっくり目を移した。
「……これは、不具合ですか?」
カヂルグミは静かに答えた。
「いえ。肉体適正化の初期段階です」
「初期段階だと思いたいです」
「こちら側由来の癖が残っています」
弟子は堪えていたものを吹き出すように、小さく笑った。笑うのはよくないと思ったが、よくないと思えば思うほど、笑いは喉の奥で小さく跳ねた。
長年、欲を捨てよと説かれ、雑用を押しつけられ、我慢を美徳のように扱われてきた。弟子の腹が鳴れば修行だと言われ、和尚の腹が鳴れば体調管理だと言われた。その和尚が真っ先に蔵へ入り、湯を無我と言い、桃を悟りと言っている。
腹立たしいのに、この状況はすこしだけ愉快でもあった。
しばらくすると、扉の向こうから、また和尚の声がした。
「この肉は、徳のある者にしか噛み切れん!」
「噛み切れているのですか?」
弟子は呆れ笑いを浮かべながら聞いた。
「うむ。徳じゃ」
カヂルグミが首を振った。
「いえ、肉質です。噛み切れているのは、肉質によるものです」
弟子はうなずいただけで、なにも言わなかった。
その日、和尚の声は、ときどき境内まで漏れてきた。それでも寺には、何人かの人が立ち寄った。
彼らは寺に救いを求めているわけではなく、和尚の話や、扉に挟まった袈裟を見に来たわけでもなかった。適正化中の和尚を笑いに来たわけでも、たぶんなかった。みな、すでに自分の扉が見えており、だれかの手を借りなくても、そこまで歩いていける人たちだった。ただ、扉までの距離が人によって違うので、その途中で、たまたま寺へ立ち寄るだけである。
弟子も、それをわかっていた。だから説法はせず、救おうともしなかった。ただ水を出し、座布団を敷いて、すこし休ませた。
「水をいただけますか」
ある人が言った。
「ありがたい水ではありませんが」
弟子は答えた。
「水ならなんでも」
「では、水道の水を」
その人は水を飲み、すこしだけ縁側に座ってから、自分の扉へ向かって歩いていった。座布団には汗の跡も涙の跡も残らず、コップにうすい口紅だけがついていた。
弟子はそれを台所で洗い、水切りかごに伏せた。ありがたい理由はない。そうしなければ、底の水が切れないだけである。
しばらくすると、鞄を持った人も来た。
「この鞄、置いていってもいいですか?」
「持っていかないのですか?」
「扉をくぐったら、たぶん要らなくなるので」
「中身は?」
「だいたい、要らないものです」
「だいたい」
「全部と言うには、まだすこし未練が」
「では、置いていってください」
「捨ててくれますか」
「燃えるものと燃えないものに分けていただければ」
「燃やしてもらえるんですか?」
「いえ、地域のルールなので」
その人はすこし笑って、鞄を置いていった。
弟子は、置かれた鞄と、扉に挟まった袈裟を見比べた。鞄は黙っており、袈裟も、本来なら黙っているはずだった。
黙っていないのは和尚だけである。
弟子自身の扉は、すでに開いていた。本堂の裏手、庫裏へつづく廊下の先に、見慣れない引き戸が一枚立っている。毎朝雑巾をかけてきた床の延長にあるせいで、ありがたい入口というより、片づけ忘れた建具のように見えた。
中は見えない。それでも弟子には、向こうへ行けば、自分が本当に欲しかったものがあるとわかっていた。
だれにも呼ばれない部屋、自分だけの飯、和尚の声がしない布団、なにもしなくていい朝。
そこへ行きたかった。本当に、行きたかった。
残る理由は、つまらないものだった。正直に言えば、見苦しいもの見たさである。湯を無我と言い、桃を悟りと言い、肉質を徳と言い張る和尚は、自分の扉をくぐってしまえば、もう見られなくなる気がした。
惜しいようなものではない。それでも、もうすこしだけ立ち止まって、聞いていたかった。
ところが聞いているうちに、弟子は、すこしわからなくなってきた。
「あれが、極楽ですか」
弟子はカヂルグミにたずねた。口にしてから、自分でもすこし間の抜けた問いだと思った。
カヂルグミは扉の向こうではなく、挟まっている袈裟を見たまま答えた。
「いいえ。あれは蔵です」
「蔵」
「弊社の救済施設です」
弊社、という言葉は、寺の本堂にはあまり似合わなかった。
弟子はすこし黙ってから、もう一度聞いた。
「では、私たちが信じていた極楽とは?」
カヂルグミは、そこで初めて弟子のほうを見た。困った顔ではなく、ちょうどよい答えを探しているように見えた。
「答えかねます」
「答えかねる」
「別件ですので」
「別件」
弟子は、その言葉を口のなかで転がした。冷たい言い方にも聞こえたが、すこしだけ親切にも聞こえた。聞いておいてなんだが、えらそうなことを言われるよりは、いくらかましだった。
「弊社の管理対象ではありません」
弟子は、すこし安堵した。ありがたいと思ったあとで、ありがたいという言葉も、いまはすこし面倒だった。
すこし間を置いて、弟子はもうひとつたずねた。
「修行は、無意味だったのでしょうか」
聞くつもりのなかった問いだったが、言葉にせずにはいられなかった。口に出してから、袈裟のほうを見た。由緒ある袈裟は、まだ扉に噛んでいる。和尚は向こうで、湯や桃や肉や寝床を、ありがたい言葉に置き換えていた。
その時間のすべてが、ただの遠回りだったと言われたら、たぶん腹が立つ。
「わかりません」
カヂルグミは言った。
「わからないんですか」
「はい。どうして、私が知っていると思うんですか?」
弟子はすこし黙った。
言われてみれば、そのとおりだった。目のまえの異星人は、寺の本堂で弊社と言い、極楽を管理対象外だと言い、袈裟をただの布として扱っている。そんな相手に修行の意味を聞いているほうが、すこしおかしかった。
「救済資格には影響しません」
「そこはわかるんですね」
「はい。弊社が定める救済資格ですので」
カヂルグミは扉の隙間を見た。袈裟の裾が、まだすこしだけ持ち上がっている。
「極楽というものに関与するかはわかりません。ただし、粗食、早寝早起き、欲を我慢する癖などが、肉体適正化の時間に影響する場合はあります」
「時間?」
「はい」
カヂルグミは、すこし言いにくそうにした。言いにくそうにしたわりには、結局そのまま言った。
「和尚様は、かなり長めです」
扉の向こうで、和尚が叫んだ。
「この寝床は、涅槃に近い!」
カヂルグミは言った。
「寝具のことを言っています」
弟子はうなずいた。滑稽なままだったので、すこしだけ安堵した。
修行は、蔵へ入るための切符ではなかった。弟子の信じていたものとも、たぶん別の話だった。それでも、湯を無我と言い、桃を悟りと言い張る時間を、すこし短くすることはあるらしい。
その程度でも、ないよりはよかった。それをありがたいと思うには、和尚の声がうるさすぎた。
その日いっぱい、和尚の声はすこしずつ変わっていった。明るいうちは、まだなににでもありがたい名前をつけており、甘いものには悟りが、やわらかいものには徳が、寝心地のよいものには涅槃があった。
夕方になるころには、その言い換えもすこし雑になった。夜には、うまいものをうまいと言い、気持ちのよいものを気持ちよいと言う声が聞こえるようになった。
弟子はそのたびに返事をしたり、しなかったりした。カヂルグミは、ときどき扉の隙間を確認し、ときどき境内でタバコを吸った。
翌朝になると、和尚の声はすこし軽くなった。由緒ある袈裟だと叫ぶ声も、しだいに遠くなっていった。
そして昼前、和尚が小さく言った。
「……もうよい」
袈裟が、扉の隙間からするりと落ちた。扉は音もなく閉じた。
弟子は、しばらく袈裟を見ていた。それから拾い上げ、捨てず、踏まず、燃やさず、いつものようにていねいに畳んだ。
「それは、ただの布です」
カヂルグミは言った。
「はい。そろそろ、ただの布のようです」
「扱いは、袈裟のままですね」
「ええ」
弟子は折り目を合わせながら言った。
「畳み慣れているので」
カヂルグミは、畳まれていく布をしばらく見ていた。
「それ、引っかかりませんか?」
「何にですか」
「あなたの扉に」
弟子は袈裟を膝の上で整えた。
「たぶん、引っかかりません」
「たぶん」
カヂルグミの心配そうな様子を見て、弟子は笑った。
「大丈夫です。引っかかりません」
「本当に?」
「大丈夫です。持っていくつもりがありませんから」
弟子はそう言って、最後の折り目を合わせた。
それで、和尚の問題は終わった。声はもう聞こえず、見苦しいもの見たさで残る理由もなくなった。
けれど、弟子はその日も寺に残った。
翌朝はいつもの時間に起きた。鐘を撞く相手はもうほとんどいなかったが、紐を引けば鐘は鳴った。境内を掃くと、雨で貼りついた葉が箒の先に重く残った。花立ての水を替え、灰をならし、本堂の戸を開けた。
ありがたいことをしているつもりはなかった。ただ、長いこと、そうしてきたのである。
和尚に言われて始めたこともあれば、怒鳴られながら覚えたことも、腹を立てながらつづけていたこともあった。それでも、掃けば境内はすこしきれいになり、水を出せばだれかが飲み、座布団を出せば、疲れた者がすこし休んでいく。
そういうものまで、蔵は奪わなかった。
ありがたい話にしてしまうと、たぶんすこし違う。境内は掃かなければ汚いし、花立ての水は放っておくとにおう。疲れた人間を立たせたままにしておくのも、すこし寝覚めが悪い。
それだけのことでもあった。
弟子は翌日も残り、その次の日も、なぜか寺に残った。そうしているうちに、カヂルグミが、まだ寺にいることに気づいた。
「あなたは、ずっとここにいますね」
「はい」
「他の救済はいいのですか?」
「他の場所にもいます」
弟子は、水桶を持ったまま止まった。
「それは、宗教上のたとえですか?」
「いえ、業務上の理由です」
弟子は、自分の扉があるほうを見た。行けば休めることはわかっているし、行きたいと思う気持ちも変わっていない。
それでも、その日は行かなかった。
翌日も、雨の音がしていた。寺の入口には、また一人、扉まで歩く途中の人が立ち寄った。
「傘を、お借りできますか」
「扉までですか?」
「はい。雨が強くて」
「返さなくていいです」
「いいんですか?」
「ええ。どうせ、返しに来ないでしょうから」
「そうですね」
「ありがたい傘ではありませんが」
「濡れなければなんでも」
弟子は傘を一本差し出した。旅人は頭を下げ、雨のなかへ歩いていった。
雨の音だけが残った。
弟子は、自分の扉を見た。
「行かないのですか」
カヂルグミが聞いた。
「明日にします」
「それは、数日前にも聞きました」
「覚えているのですね」
「記録しています」
「では、明日は言い方を変えます」
その日も、弟子は蔵へ行かなかった。
傘立てを見ると、さっきまであった傘が一本減っている。返ってこない傘なら、もうすこし古いものを渡せばよかったとも思ったが、扉のまえで骨の曲がった傘を差している人間を想像すると、それもすこし嫌だった。
弟子は物置へ行き、まだ骨の曲がっていない傘を一本出して、傘立てに差した。それから本堂へ戻り、和尚の袈裟を入れた箱の上に落ちていた小さなほこりを、指で払った。
袈裟は、もう扉には挟まっていない。
ただの布のようでもあり、まだ袈裟のようでもあった。




