第五幕 面倒をみると言うこと
「とりあえず一回、座りなさい。いい加減にしなさいよ、あんた」
男は闘志をむき出しにして、肋骨の浮いた体をベッドから起こした。
部屋には、湿布と古い布団とポータブルトイレのにおいが混ざっていた。窓は開いていたが、風はほとんど入ってこない。枕もとには読みかけの本が何冊か積まれ、その横に、丸めたティッシュと飲み残しの水が置かれていた。
カヂルグミは床に座っていた。正座のつもりだったが、片膝だけがすこし浮いていた。
「じゃあ、聞くがね」
「はい」
「責任を持って我々の面倒を見ると、あんたはそう言うんだな?」
「はい」
カヂルグミはうなずいた。
「我々の住む場所を用意して、飯の支度もしてくれるんだな?」
「はい」
「掃除も洗濯も、やるんだな?」
「はい」
「俺のクソも始末すると、おたくは言ったぞ。忘れたとは言わせないからな」
「ええ。記録しています」
「記録してるのか」
「はい」
「医者の手配から治療費まで、もろもろ面倒をみてくれるんだよな?」
「もちろん」
「あまった湿布は近所に配れ、だったか?」
「それは、冗談が過ぎました」
カヂルグミは目をふせた。
「旅行に連れて行ってくれるんだよな。外国だろうが、宇宙だろうが、どこにでも連れて行ってくれるんだろ。土産の請求書も、おたくに回していいんだよな」
「それは、まあ、はい……」
「そこまでして、あんたはなにも受け取らないと。一円たりとも」
「そうです」
カヂルグミは、そこだけははっきりと答えた。
「お金の話ではありませんから」
「まったく、馬鹿馬鹿しい」
男は鼻で笑った。信じる気など、はじめからなかったらしい。皮脂でくもった眼鏡の奥で、目だけは妙に生きており、弱った体の中に、相手を疑う力だけがきちんと残っているようだった。
「聞かせてもらいたいんだが」
「はい」
「それで、あんたに何の得があるって言うんだ?」
カヂルグミは少し考えた。たぶん悪手だとは思ったのだろうが、それでも正直に答えた。
「私自身、それで何かを得ようとは考えていません」
「そういうきれい事はいらないんだよ」
男の声は静かだったが、静かなぶんだけよく通った。カヂルグミは口答えをせず、そのまま黙った。
「私は我慢したつもりだ」
男は身を乗り出し、ふるえる指でカヂルグミの胸を小突いた。
「おたくらが、私のことを赤ん坊扱いしてくることについては、もうすでに十分に我慢してきた。おたくが仕事で私の相手をしていることも理解している。だから我慢した。しかし、いくらなんでも、私を馬鹿にしすぎだとは思わないか?」
男はティッシュを一枚取り、舌にからんだ痰をそこへ押しつけた。
「私を対等な人間だと思えないのであれば、それで構わない。しかし、それにしたってひどすぎるだろうよ。敬意の欠片もない。うそをつくのだって仕方ないんだろうが、もう少しまともなうそをつく気にはなれないのか。そりゃあ、あんたらには、私がもうろくしているように見えるのかもしれんし、実際、私はもうろくしているのかもしれない。それでもね、そんなホラ話は絶対に信じない。子どもだましですらないじゃないか」
こいつは困ったぞ、とカヂルグミは思った。
「試しに一度だけ、奥さまと一緒に来てもらうことはできませんか?」
「できない」
男は即答した。
「行かない。私は自分の家にいたい。そこが病院だか、老人ホームだか、天国だか知らんが、絶対に行かない。貴様のような連中がいるところなら、なおのことな」
「心苦しいです」
「馬鹿が」
話は終わった、という顔で、男は枕もとの本を手に取り、ページを開いた。内容を読んでいるというより、カヂルグミを見ないためにそうしているようだった。
カヂルグミは、しばらく床に座っていた。ここで引き下がるのも、あとあと面倒になる。しかし、これ以上押せば、男の態度はもっと固くなるだろう。かといって、持ち上げて扉まで運べば済む話でもなかった。
男の扉は、まだ出ていなかった。
カヂルグミは立ち上がって部屋を出た。廊下まで来ても、においはすこしついてきた。
「早いわね」
男の妻は、台所で茶の準備をしていた。
「駄目だったでしょう?」
はなから期待していない声だった。会話も聞こえていたのか、カヂルグミの返事を待つ気配すらない。
「あの人、ひねくれ者だから」
「怒らせてしまいました」
「平気よ。そもそも、怒ってないときがないんだから」
女は居間に湯呑みをふたつ置いた。茶菓子の皿には割れたせんべいが何枚かのっており、お客用というより、そこにあったものを出しただけに見えた。
座るように言われたので、カヂルグミは腰を下ろした。今度は、いくらか自然に座れた。
女はタバコを取り出し、火をつけた。
「最近、またはじめたの」
たぶんタバコのことだろうとカヂルグミは思ったが、その言葉に含まれているものまでは、よくわからなかった。
「どうにもならないでしょう、あの人」
「いえ」
カヂルグミは湯呑みを手に取りかけたが、熱そうだったので、すぐに置いた。
「こちらの配慮が足りませんでした」
初手を間違えたことは、本人も認めていた。ぞんざいに扱ったつもりはなかったが、男の言う赤ん坊扱いについては、心当たりがある。
カヂルグミは、地球人の幼体と老体の区別がかなり怪しかった。女の夫であることは事前に聞いていたのに、実物を見た瞬間、処理がすこしずれたのである。か弱く、細く、すぐ壊れそうで、だれかの手がなければ食事も排泄も難しい。そこだけを見ると、カヂルグミの中では幼体に近かった。地球人からすれば、たいへん失礼な話である。
「我慢、我慢、我慢。あれで我慢しているつもりみたいよ」
女は皮肉っぽく言って、煙を吐いた。
「ほんとうに、だれにだってああなの。胸の血管が詰まって苦しそうにしていても、救急隊の人を怒鳴り散らして、追い返そうとしたことがあるんですから」
「その時は、どうやって病院に?」
「あのときは……救急隊の人が、辛抱強く説得してくれたのかな。あの人も、そのうち抵抗する気力がないくらい、ぐったりしてしまって。病院に向かう途中で、本当に心臓も止まりかけたの」
女は灰皿に灰を落とした。
「いっそ、あのまま死んでいてくれたらよかったのにね」
そういう手もあるな、とカヂルグミは思った。
男は、自分の家にとどまりたいらしい。いまよりずっと環境のよい場所があるとわかっても、現状を変えることを望んでいない。とはいえ、もっと弱って、考える余地そのものが減れば、話も変わるかもしれなかった。
そういう考えが浮かぶあたり、このころのカヂルグミは、まだかなり雑だった。
カヂルグミが男について思案していると、奥の部屋で男が騒ぎはじめた。しきりにだれかの名を呼び、しばらくすると怒鳴り声に変わった。喉が擦れ、途中で何度も咳き込んだが、それでも怒鳴るのをやめなかった。
「だれのことです?」
「さあ」
女は興味なさそうに首を傾げた。
女が動かなかったので、カヂルグミも動かず、ふたりは黙ってタバコを吸った。
すこしして男の声が止んだが、女はそれを確かめるでもなく、茶をすすった。
「扉の先には、死んだ人もいるの?」
声の調子が、それまでとすこしだけ変わった。
この女は、蔵へ行くことに前のめりだった。彼女の扉はすでに出ており、あとは、いくつかのチェックポイントを通るだけだった。
「います」
カヂルグミは答えた。
「私の両親や、祖父母も?」
「はい」
「その前のご先祖様も?」
「おそらく」
「はあ」
女は口を開けたまま、煙を吐いた。
「想像もつかない」
「よく言われます」
「それって、どういう仕組みなの?」
「仕組み」
「扉を通った先って、もともと死んだ人たちが行く場所なの?」
女は自分で言ってから、すこし笑った。
「私たちが、そっちに行くの? それとも、あなたたちが造った夢みたいな場所を目指して、幽霊とか魂とか、そういうものが移動したの? お墓なのか天国なのか知らないけど、そこからお父さんやお母さんが這い出てきて、そっちへ行ったってこと?」
「違います」
カヂルグミの返事は、珍しく早かった。
「かなり違います」
「かなり」
「はい」
得意そうというより、ここを間違えると面倒になると思っている顔だった。
「石があります」
「石?」
「比喩です」
「比喩」
「正確な言葉ではありません。ただ、地球語では、その方が近いです」
「魂みたいなもの?」
「魂という語を使うと、誤解が増えます」
「じゃあ何なの」
「本人の記録の核です」
「記録の核」
「はい」
「石じゃなくて、記録の核って言えばいいんじゃない?」
「意味としては、石の方が近いです」
「わからないわ」
「でしょうね」
カヂルグミは、湯呑みをすこし横へずらした。熱いものを手元に置いたまま説明するのが、不安だったらしい。
「その石には、本人の情報が残ります」
「情報」
「はい。あなたが、いつどこで尻をかいたか。何色の靴下を穿いたか。だれを好きだったか。だれを忘れたか。何を恥じたか。だれの世話をして、だれにうんざりしたか。そういうものが、全部そこにあります」
「尻をかいたことも?」
「あります」
「いらないでしょ」
「いります。本人なので」
女は嫌そうな顔をした。
「その石は、どこにあるの」
「生きているあいだは、本人にあります」
「死んだら?」
「肉は止まります。石は残ります」
「その辺に?」
「あります」
「今、この辺にも?」
「あります。ただ、人間の石は、今は我々が回収しています」
「人間の石、は?」
「はい。生命体すべてに石があります」
女は、畳と灰皿と、勝手口の方へ順番に目を向けた。
「嫌なこと言わないでよ」
「嫌なものではありません」
「そういう問題じゃないのよ」
カヂルグミはそこで少し考えた。言葉を選んでいるというより、倉庫の棚から、いちばん合いそうな道具を探しているような間だった。
「死ぬと、肉は止まります。石は残ります」
「それはさっき聞いた」
「はい」
「それで?」
「肉は体です。脳も、骨も、内臓も、表情も、声も、その人を出力していたものです」
「出力」
「はい。石は記録です。肉は、それを出す装置です」
「装置」
「正確ではありません」
「でしょうね」
「蔵では、その石に合う肉を、もう一度置きます。病気や損傷や、うまく出力できなくなっていた部分は、石に合わせて整え直します」
女は煙を吐かず、口の中にすこし溜めていた。
「つまり、死んだ人を作り直すってこと?」
「かなり違います」
「そんなに違わないでしょ」
「明確に違います。作り直すのではなく、本人を出します」
「それは作り直すのと、どう違うの?」
「違います」
「説明して」
「いまの地球語では、たぶん無理です」
女はあきれたように笑ったが、カヂルグミはまじめな顔のままだった。
「その見えない石を、あなたたちは回収しているの?」
「はい。石は見えませんが、こちらで観測できます。回収して、蔵へ通します」
「どうやって」
「地球語でいちばん近い道具は、掃除機です」
「掃除機」
「吸います」
「やめてよ」
「比喩です」
「比喩が下手なのよ」
「はい」
カヂルグミは、そこは素直に認めた。
「今の説明は、四十五点くらいです」
「半分もないじゃない」
「地球語にしたので」
「地球語のせいにしないで」
「では、私の説明能力にも問題があります」
「そっちでしょうね」
「はい」
カヂルグミはすこしだけ肩を落とした。
女はしばらく黙っていた。奥の部屋では、男が何かを落とした音がした。
「その石どおりに、肉や骨がくっつくとしたら」
女はタバコを灰皿に押しつけた。
「あの人は天国に行っても、あのままなの?」
「あの人とは、旦那さんのことですか」
「他にいないでしょ」
女の目が細くなった。
「もともとがわからないので……」
カヂルグミは、答えに困った。
「意味ならわかるでしょ。頭の中身が認知症のままなら、天国に行っても意味がないじゃない。天国でも、あいつのケツを拭けって言うの?」
「それは大丈夫です。病気は治ります」
「でも、あの人の石は認知症の形をしているんじゃないの?」
「いつから認知症を患ったか、という記録は残っているでしょう。でも認知症は、肉が抱える病気です。石そのものではありません」
「本当に?」
「本当です」
カヂルグミは、すこしだけ身を乗り出した。
「そうでなければ、これからあなたたちが悠久の時を過ごす場所は、認知症の人だらけになります」
「ああ」
女は、すこし嫌な納得の仕方をした。
「まあ、そういうことならいいんだけど」
安心したようにも、がっかりしたようにも見えた。たぶん、その両方だった。
夕方の鐘が鳴ると、女は思い出したように立ち上がり、夕食の支度を始めた。タバコをくわえたまま台所に立ち、レトルトのハンバーグを湯煎で温める。味噌汁に入れる長ネギは、勝手口の前にある小さな畑から引き抜き、土のついたまま流しへ持ち込んで、雑に洗った。
「地獄はあるの?」
女は包丁を握ったまま言った。
「ありません」
カヂルグミはすぐに答えた。
「早いわね」
「よくある質問です」
「掃除機に吸い込まれた先には、部屋がふたつあったりするわけじゃないの」
「ありません。部屋はひとつだけです。みんな一緒です」
「そう」
女は長ネギを切る手を止め、天井を見上げた。何かを考えているようでもあり、ただ煙が目に入っただけのようでもあった。
「トイレに行ってくる」
そう言って、女は台所を出た。
そして二度と、自分の家には戻らなかった。
翌日の早朝には、身内や子どもや友人や、元カレと合流したそうである。その時点で、カヂルグミが思い描いていたプランは、もろくも破綻した。
あまり褒められたやり方ではなかったが、カヂルグミは妻の助けを借りるつもりだった。男の扉は男のものであり、だれかの入り口へ放り込めば済む話ではない。それでも妻がそばにいれば、男の怒りも、家に残る理由も、いくらか扱いやすくなると考えていた。
しかし妻は先に行き、男の扉は出なかった。
自分のケツも拭けない男だけが残された。
かくしてカヂルグミは、本当に男のクソの始末をすることになった。
ある日、男はカヂルグミに尋ねた。
「形の違う、見えない石が、その辺に転がっている理由は?」
「それは哲学です」
カヂルグミが答えると、男は不満そうな顔をした。けれど、連れ合いに逃げられたと知ってからは、悪態をつく元気も、すこしだけ減っていた。
カヂルグミは最後まで、男と心を通わせることはできなかった。男の方にも、そのつもりはなかった。
それでも、食事も掃除も洗濯も必要だった。医者の手配をし、湿布を整理し、体を拭かなければならない日もあった。
男は最後まで、自分の家にいることに固執した。蔵には行かない。行くとしても、自分で決める。そう言い張る力は、すこしずつ減っていった。
それでもカヂルグミは男を運ばず、扉が出るのを待った。待ちながら台所に立ち、洗濯機を回し、医者を探し、男の本を積み直し、あまった湿布を箱へ戻した。ポータブルトイレの処理も、何度もした。
男は文句を言い、カヂルグミはそれを記録した。たいていの場合、言い返さなかった。
男は扉をくぐらなかった。
最後には、石だけが残った。




