第四幕 足のむくみ
パチンコ屋をあとにしてから、カヂルグミは、ただのひとりともすれ違わなかった。男からもらったタバコをくわえたまま、だれもいなくなった住宅街を歩いていた。
胸には、『ぶらざぁ・かぢるぐみ』と書かれた名札がついていた。その名札だけは、だれの目にも同じように見える。ただ、火のついたタバコをくわえているせいで、どうしても仕事を抜け出してきたモラルの低い人に見えた。見えただけで、本人は仕事中だったし、モラルも決して低くはなかった。現地に対する理解と関心が、すこし足りなかっただけである。
「ちょっと、すみません」
家から出てきた女が、カヂルグミを呼び止めた。
「タクシーを呼びたいんですけど」
女は真顔だった。
「呼びたいけど、なんです?」
カヂルグミは、どこへ吐けばいいのかわからない煙を横に逃がしながら、門扉の前まで歩み寄った。
「タクシーを呼びたいの」
「タクシーですか?」
カヂルグミは親切のつもりで調べたが、近所で営業中のタクシー会社はなかった。
「どうやら、このあたりでは営業していないようです」
一台だけ、海を渡ったところで個人タクシーが走っていたが、たぶんここまでは来てもらえないだろう。
女は、その場で玄関ポーチに腰かけた。
「タクシーも、介護タクシーも、全然つながらないの。救急車も来ないし」
「どこも、もう動いていないようですね」
カヂルグミも残念そうに肩をすくめた。
「困ったわ」
「なにがです?」
「友達と、全然つながらないの」
「友達を探しているんですか。名前は?」
「病院の日は、いつも近所の人が乗せていってくれるんだけど……」
女は大きなため息をついて、足をさすった。
「病院に行きたいんですか?」
「足がね、むくんでるのよ。だから、あんまり長い時間は歩けなくて」
「病院に行きたいんですか?」
「市役所も役に立たないし」
「まあ、そういうこともありますね」
カヂルグミは仕方なくタバコを落とし、足で踏み消した。
「バスが出ているのよ、病院から」
「バスに乗りたいんですか?」
「ほら、みんなあそこに行ってるんでしょう?」
「ああ……」
カヂルグミは、女の扉までの経路を確認した。線は病院のあたりで何本にも分かれ、どれも途中で途切れている。女の扉は、そのずっと先にあった。
「すごくいいところなんでしょう?」
「ええ。きっと気に入ると思います」
「行ったことあるの?」
「はい。そこから来ました」
「へえ」
「あっちにも病院があるから、診てもらったらどうです。きっと子どもみたいに、また走り回れるようになりますよ」
「行ってみたいんだけど、足がむくんでるのよ。あんまり長い時間は歩けなくて」
「そうですか」
カヂルグミは、女の扉までの経路を調べ直した。公共の交通機関は全滅していた。タクシー会社も、救急車も、市役所も、すでに人類の都合に付き合うのをやめている。病院へ行ったところで、バスも残っていなかった。近くには、仕事を続けている人間もほとんどいない。
「車の運転はできますか?」
「免許がないの」
女はしょぼくれた顔で答えた。
「自転車は?」
「もう、しばらく乗ってないから……」
「じゃあ、歩いて行くしかないですね」
「でも足が」
「むくんでるんですよね」
「そうよ」
「では、歩きはやめましょう」
カヂルグミは少し考え、女の体を簡単に確認した。むくみはあった。長く歩けば痛みも出るだろうが、目的地までたどり着けないほどではない。それでも女は、玄関先から動かなかった。
「ちょっと待っていてください」
カヂルグミは肩を回し、女の家から三軒隣に停めてあった電動式のシニアカーを借りてきた。持ち主は、もう自分の扉をくぐっていた。玄関先には、使いかけの軍手と、半分だけ水の入ったじょうろが残っている。
カヂルグミは家の方へ頭を下げ、近くにあった不在票の裏に、『移動補助具として一時借用します』と書いて、シニアカーのあった場所に置いた。返すつもりはあったらしい。
それからシニアカーを押して戻り、充電の残量を確認した。問題はなかった。運転席にスマホを固定して、女の扉までの経路を表示した。余計な操作ができないようにもした。
「これで行けます」
カヂルグミが持ってきたシニアカーを見て、女は眉をひそめた。
「これで?」
「はい」
「こんなの、乗ったことないわ」
「なににでも初めてはあります」
「そういうことじゃないの」
「操作は簡単です。前に倒すと進みます。手を離すと止まります」
「怖いわ」
「怖い場合は、ゆっくり進めます」
「あなたが運転してよ」
「これは一人乗りです」
「じゃあ、車で送って」
「免許がありません」
「異星人なのに?」
「あなたも地球人ですが、持っていません」
女は少し黙った。
「押してくれればいいじゃない」
カヂルグミは念のため、シニアカーの仕様を確認してから回答した。
「これは電動です」
「だから?」
「押す必要はありません」
「必要があるかどうかじゃなくて、押してって言ってるの」
カヂルグミは、そこで少し考えた。女がなにを嫌がっているのかは、乗り物の話だけでは片づかないようだった。
「押す必要はありませんが、横を歩くことはできます」
「横?」
「はい」
「ちゃんとついてきてくれるの?」
「ついていきます」
「置いていかない?」
「置いていきません」
「本当に?」
「はい」
女はまだ疑わしそうにカヂルグミを見ていたが、肩からはすこし力が抜けた。
カヂルグミは、玄関に置かれていた荷物を見た。大きな旅行鞄がひとつと、紙袋がふたつ。あと、鳥のような形をした帽子も置いてある。
女は行くつもりの服を着て、行くつもりの荷物を用意していた。
ただ、迎えが来なかった。
「荷物は、それですか」
「そうよ」
「積みます」
「お願いね」
女は当然のように言った。
カヂルグミは旅行鞄をシニアカーの足元に乗せ、紙袋を後ろにくくりつけた。帽子は女が自分でかぶった。頭に乗せてみると、やはり鳥みたいな帽子だった。
「では、座ってください」
「支えて」
「はい」
カヂルグミが肘を支えてやると、女はゆっくり立ち上がった。玄関先の段差は一人で越えたが、越えてから、すこし遅れて大きく息を吐いた。
「やっぱり足が」
「はい」
「むくんでるのよ」
「はい」
「わかってる?」
「わかっています」
女がシニアカーに腰を下ろすと、座席が小さく沈んだ。
「これ、遅いんでしょう」
「遅いです」
「嫌ねえ」
「急ぐ必要はありません」
「そういうことじゃないの」
「そうですか」
カヂルグミはスマホの画面を見た。目的地までの線は、さっきから落ち着かなかった。女がひとりでシニアカーに乗ることを想定すると伸び、歩くことを想定すれば、もっと遠くまで延びていく。
カヂルグミがシニアカーの横に立つと、線はそこで少し落ち着いた。試しに二歩離れてみると、目的地がまた遠くなった。
「なにしてるの」
「距離の確認です」
「確認しなくていいから、そこにいなさい」
「はい」
シニアカーの横に戻ると、線は一本になった。
「では、前に倒してください」
カヂルグミは言って、道を指さした。
「これを?」
「はい」
「本当に進むの?」
「進みます」
「怖いわね」
「手を離すと止まります」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ」
それでも女は、レバーをほんの少しだけ前に倒した。シニアカーは小さくうなり、歩くよりすこし遅い速度で進みはじめた。
「遅いわね」
「はい」
「こういうものなの?」
「おそらく」
「頼りないわね」
「はい」
カヂルグミは、シニアカーの横を歩いた。押してはいないし、運転もしていない。ただ、女が振り返るたび、そこにいた。
「まだいる?」
女が振り返った。
「います」
すこし進むと、また振り返った。
「いるわね」
「います」
女はスマホの画面へ目を戻し、しばらく黙っていた。
「本当は、車がよかったのよ」
「はい」
「タクシーとか、病院のバスとか」
「はい」
「こういうのじゃなくて」
「はい」
「でも、ないんでしょう」
「はい」
女は小さく息を吐いた。
「じゃあ、ちゃんと横にいて」
「はい」
女はまたレバーを倒した。シニアカーは、歩くよりすこし遅い速度で住宅街を進んでいく。
カヂルグミは、手の届くくらいの距離を歩いていた。
ナビの線は、もう揺れていなかった。




