第三幕 向こうで待ってますよ
救済の扉を開けたあと、カヂルグミは、だれもいなくなった通りを歩いていた。
星がひとつ救われたあとの道は、たいていこうなる。だから、パチンコ屋の喫煙スペースにひとりの男が入っていくのは、すこしだけ目立った。
なんとも、くたびれた男だった。
若くもなければ、老人というほどでもない。二十年くらいの洗濯と日常にだまって耐えつづけた服は、もう、かんしゃくを起こす寸前だった。はねた髪は、寝ぐせなのか、くせ毛なのか見分けがつかない。どちらであっても、あまり見栄えはよくなかった。
カヂルグミは、男のあとを追って喫煙スペースに入った。
男は、入ってきたカヂルグミをちらりと見た。
そのとき、男の目にどんな姿が映っていたのかは分からない。
カヂルグミの外見は、見る者によって違った。知っている顔だったり、知らない顔だったり、むかつく顔だったり、好きな顔だったりした。そもそも、人の姿に見えるとは限らない。ピエロだったり、しゃべる牛だったり、まんま宇宙人だったりすることもあった。
それでも、胸についた名札だけは、だれの目にも同じものとして見えた。
『ぶらざぁ・かぢるぐみ』
男は、その目立つ名札にも目をやった。
それでも、自分と同じ負け犬を見る目をしていた。
カヂルグミは、いぶかしげな顔をした。そんな目で見られたことが不服だったわけではない。ただ、その名札なら、つい先ほどまで地球中の人間が見ていたはずだった。
にもかかわらず、男は、まったく知らぬ存ぜぬという顔をしていた。
なにも言わずにタバコを一本吸った。
二本目を吸った。
三本目まで吸うと、吸いがらを灰皿に押しつけ、ホールの方へ戻っていった。
カヂルグミも、そのあとについていった。
従業員は、どこにもいなかった。景品カウンターにも人はいない。呼び出しランプは、もうだれも呼ばないための赤い光になっていた。
それでも台は光り、玉は流れ、ごちゃ混ぜの音楽は律儀につづいていた。
救済の入り口を開け忘れた可能性は、すぐに否定できた。ホールの奥、男が戻った台からそう遠くない通路に、曇りガラスの自動ドアが立っていた。左右に壁はなく、天井から電源が伸びているわけでもない。それでも、人が近づくと律儀に開いた。
男が前を通ると、ドアは音もなく左右に分かれた。
男は、そのあいだをくぐらなかった。
開いたドアの手前を横切り、当たり前のようにパチンコ台の前へ座った。
男が離れると、自動ドアは静かに閉じた。
これは、おかしい。
カヂルグミはそう思った。
男は救済を目前にして、本当にパチンコをはじめている。
カヂルグミは、男の真後ろに立った。
玉が流れる。
光が跳ねる。
大げさな音が鳴る。
当たりなのか外れなのか、カヂルグミにはよく分からなかった。ただ、男の顔を見るかぎり、少なくとも幸福ではなさそうだった。
「あの」
声をかけたが、男は振り返らなかった。
「扉は、目の前にありますよ。通れます」
「ああ」
男は、顔だけをすこしこちらへ向けて答えた。
しゃべることはできるらしい。
カヂルグミは、ひとまずほっとした。
「向こうにも、遊技施設は用意できます」
「遊技施設って?」
「パチンコ屋です」
「用意できるの?」
「必要であれば」
男は無表情のまま、視線を台へ戻した。
「いや、いいよ」
「いい?」
「俺は、いいよ」
いいとは、どういう意味か。
カヂルグミは、すこしだけ考えた。
考えうるかぎりの幸福は、あと数歩の位置にある。トイレや喫煙スペースまで歩くよりも少ない手間で、男は必要なものを、ほとんどすべて手に入れられる。
それ以上にパチンコをしたいというのなら、ひとまず扉をくぐって、向こうにある好みの台で打てばよかった。
「この店では、パチンコは成立していません」
カヂルグミは言った。
「成立?」
男は、感情のない目を台へ向けたままだった。
「景品と交換できません」
「うん」
「景品係がいませんし、景品を補充する者もいません」
「ああ、そうだな」
「換金する者もいません」
「分かってるよ」
「掃除をする者もいません」
「それは見れば分かるだろ」
カヂルグミは、男がまだ分かっていないと思った。
「あなたは、ゲームをしに来たわけではなく、ギャンブルをしに来ているのでは?」
「そうだけど」
「では、条件のよい場所へ移動できます」
「いいって。俺は、この店でいいよ」
男はハンドルを握ったまま答えた。
カヂルグミには、その違いが分からなかった。
設備だけを比べれば、向こうの方がいいに決まっている。音も光も望みどおりに調整できる。酒もタバコも出せる。負けたときに、ちょうどよく悪態をつける隣の客も用意できる。好みの顔をした店員も置ける。望むなら、負けた日の帰り道まで用意できる。わざわざ、こちら側の台で打つ理由は、ひとつもないはずだった。
「どうしてですか?」
カヂルグミはたずねた。
「うーん」
男は、答えるのも面倒だという顔をした。
「そのうち、みんな戻ってくるんだろ?」
「戻ることはできます」
「じゃあ、戻ってくるだろ」
「まだ、だれも戻ってきていません。しばらくは戻らないと思います」
「いいよ」
男は、あっさりと言った。
「待ってる。どうせ打つなら、この店がいいんだ」
この男には、からめ手が必要だった。
「扉の向こうでは、お金を配っています」
「金?」
男は、そこではじめて興味を示した。
「いくら?」
「必要なだけです」
「好きなだけってことか」
「はい」
「だったら、いらねえよ」
男は、しゃらくさい顔をした。
「俺はギャンブルがしたいだけで、金が欲しいわけじゃないからさ」
「なるほど」
カヂルグミはうなずいた。
「損失感がなくなることを心配されているんですね」
「損失感?」
「大丈夫です。向こうでも、賭けの形式を保ったまま、勝敗と損失感を再現できます」
「さっきから、なにを言ってんだよ」
男は不機嫌に言った。
「よく分かんねえよ」
カヂルグミは、つかみ損ねた感触にこだわらず、別の条件を提示した。
「パチンコをしながら、酒やタバコも楽しみたくはありませんか?」
遊技台に貼られたステッカーを指さした。
「それは、まあ」
「向こうの店なら、遊技中の飲酒と喫煙ができます」
「ほう」
「健康被害もありません」
「健康被害」
「パチンコをしながら寿司を食べたくないですか」
「寿司は、寿司で食いたいな」
「パチンコをしながら性的なサービスを受ける予定は」
「お前、一回座れよ。そこに黙って座ってろよ」
男がそう言うので、カヂルグミは、おとなしく隣の遊技台の前に座った。
座れと言ったからには、なにかしらあるのかと思ったが、男はそれ以上なにも言わなかった。押し黙ったまま、ひとりで玉を打ちつづけている。
手持ちぶさたになって、カヂルグミも玉を打ちはじめた。
玉の飛ばし方は、すぐに分かった。
勝ち方は、よく分からなかった。
ハンドルを握ると玉が飛ぶ。玉が飛ぶと、台の中で光が動く。光が動くと、なにかが起こりそうになる。なにかが起こりそうになって、たいていなにも起こらない。
ずいぶん地球人らしい遊びだと、カヂルグミは思った。
しばらくすると男が立ち上がり、喫煙スペースへ向かった。
カヂルグミもついていった。
男は、さきほどとまったく同じ場所に腰かけると、自分のタバコを一本差し出した。
カヂルグミは、すこし迷ってから受け取った。
男が火を差し出したので、そのまま黙って吸った。
うまいのか、まずいのか、カヂルグミにはよく分からなかった。燃やした草を吸う行為としては、まあ、こういうものなのだろうと思った。
次の休憩では、男は小さな缶の酒もよこした。
これも、うまいのか、まずいのか、カヂルグミにはよく分からなかった。缶に描かれた果物と、中身の味があまり一致していないことだけは分かった。
はじめのうちは、男はタバコを吸うたびに喫煙スペースへ行った。
しかし二日目の昼ごろから、台の前で吸うようになった。
台の脇には、赤い禁煙マークが貼ってあった。そのとなりには、「飲食はご遠慮ください」とも書いてあった。
「喫煙禁止では?」
カヂルグミはたずねた。
「そのルールは、もうない」
男は鼻で笑いながら答えた。
「更新されたんですか」
「あ? そうだよ。いま、なくなった」
「喫煙スペースは、どうなりますか」
「どうなる?」
男は顔をしかめた。
「おかしなことを気にするな」
「ゾーニングは解除されたんですか」
「ゾーニ……なに?」
「喫煙区域の区分です」
「解除された。解除されたよ」
カヂルグミは、店内の表示をもう一度見た。
禁煙マークは、そのままだった。喫煙スペースも、まだ喫煙スペースとしてそこにあった。
シールを貼りかえる者も、もういなくなったのだろう。
カヂルグミは、そう納得した。
それから男は、ハンドルを握ったまま煙を吐いた。
やはり、だれも注意しに来なかった。
カヂルグミも、すこし遅れて同じようにした。
台の前で吸うタバコは、喫煙スペースで吸うものと味が変わらなかった。
男はパチンコをつづけた。ときどき思い出したように立ち上がっては、いつも同じものを外から取ってきた。店の外には、まだ動いている自動販売機があったらしい。コンビニの棚にも、酒やタバコが残っていたのだろう。
「いつも同じ銘柄ですね」
カヂルグミは言った。
「これがいいんだ」
男は同じタバコを吸い、同じ酒をなめた。
それから、くだらない玉遊びをつづけた。
カヂルグミは数日、男に付き合った。
数日である。
地球の救済者が、歴史的なスピーチの直後に、場末のパチンコ屋で数日を溶かした。
あとで彼は、そのことを僕の前ですこしだけ恥じた。もっとも、恥じたのは数日を溶かしたことではなく、三日で二十万円負けたことの方だった。
男の扉は、そのあいだも、ずっと店内にあった。
男は何度も、その前を通った。
決まった銘柄の酒とタバコを取りに行く。小便をする。自動販売機の前でぼんやりする。腹が減れば、近くのコンビニからなにか持ってくる。たまに、だれもいない道路を見る。
そのたびに、自動ドアは律儀に開いた。
男はそれを横目に見て、また同じ台へ戻った。
カヂルグミは、しだいに、らちが明かないと思いはじめた。
ほかの通過保留者とは違い、男には、通れない理由が見当たらない。扉は出ている。本人も場所を知っている。危険もない。明確に拒んでいるわけでもない。
あるのは、台の前から立ち上がるまでの、ほんのわずかな遅れだけだった。
男が台の前でタバコを差し出してきたとき、カヂルグミは、それを受け取らなかった。
「もう行きます」
男は、火をつける手を止めた。
それから、見捨てられたような目でカヂルグミを見た。
「もうちょっと、いてくれよ」
その顔を見て、カヂルグミはすこし困った。
パチンコがしたいわけではない。
金が欲しいわけでもない。
楽しい場所へ行きたいわけでもない。
みんなが戻ってくると、本気で信じているわけでもない。
ただ、もうすこし、だれかと同じ店に座っていたかった。
それだけだった。
カヂルグミは、その「それだけ」の扱いを、まだ知らなかった。
「向こうで待っていますよ」
男は返事をしなかった。
同じタバコの煙だけが、台の前で薄く伸びていた。
カヂルグミは、パチンコ屋を出た。
その足で、近くのコンビニと自動販売機をまわった。男がいつも吸っていた銘柄のタバコと、いつも飲んでいた酒を、ほとんど根こそぎ回収した。
それから、すこしだけ遠いところに置いた。




