第二幕 扉へ向かう道
ブラザー・カヂルグミはスピーチを終えると、蔵の鍵を開け、あとは僕たちの好きなようにさせた。
彼が持ってきた蔵は、ひとつだけだった。けれど、その入り口は、僕たちが必要とするだけ現れた。鼻先に出る者もいれば、三駅ほど先に出る者もいた。四十二・一九五キロメートル先まで走らされる者もいたし、なかには、地球三周分以上も離れた場所に、入り口がぽつんと現れる者までいた。
それは、その人がお楽しみにありつくために必要な距離であり、決して遠すぎたり近すぎたりすることはなかった。
蔵は、僕たちが最初に入る場所だった。
そこには、いずれ地球を本当の楽土へ変えるためのものが、ひととおりしまってあるという話だった。
つまり、蔵は楽園そのものではない。
ただ、地球人が楽園と聞いて思い浮かべるものは、そこにそろっていた。
死なない。
痛くない。
腹も減らない。
望むものは手に入る。
会いたい者に会える。
こちらの楽園観は、案外、その程度で満杯になった。
下ごしらえの段階でそれなら、できあがったものを何と呼べばいいのか。
しかし、蔵の中にあるものをこちらへひっぱり出してくるには、相当の時間が必要なようだった。百年かかるかもしれないし、千年かかるかもしれない。あんがい明日とか明後日には終わるかもしれないが、それは地球人の手つき次第だった。
みんながまじめに働けば早い。酒飲みやなまけ者ばかりなら遅い。そもそも荷を運び出す必要があるのかと言い出す者が増えれば、これはもう先の見えない話だった。
でも、そこまで考えるには、僕たちはまだ扉の手前にいた。
何も考えず、さっさと入る者もいた。
家族で引っ越しの準備をする者もいた。
地元をひと回りしてから向かう者もいた。
腹が減っていたので、とりあえず食事だけでもと飛び込んだ者もいた。
僕の扉は、小一時間ほど車を走らせたところに現れた。
そこへ向かうあいだ、僕は、もう終わってもいいのだと思った。
その時間に、どういう意味があったのかは分からない。ただ、ここに至るまでの苦労を思い返し、肩の荷を下ろすには、ちょうどよい時間だった。途中で何度か休憩をはさみながら、すこしずつ人の気配がうすくなっていく街並みをながめた。法定速度よりも、ほんのすこしだけ速く車を走らせた。
心の中に扉を見つけたときから、ひとつの予感があった。
向こうには、みんなの顔がそろっている。
死んだ息子のことを思い出した。
僕のことを、最後まで弟だと思っていた妻のことも思い出した。
それから、いくつかの人生で親しくした人たちのことも思い出した。
会いたい者ばかりではなかった。できれば遠くにいてほしい顔もあった。それでも、向こうへ入って何日かすれば、どちらからともなく気まずい顔を向け合うことになるのだろうという気がした。
死は、いつの間にか、きっちり閉まるものではなくなっていた。
だれかにそう教えられたわけではない。
扉に近づくと、勝手にそうなった。
涙が浮かび、ひとしきり流れて乾いたところが、僕の目的地だった。
そこは、とくに縁もゆかりもないコンビニの駐車場である。車止めの向こうに、裏店に住んでいたころの、がらくたみたいな引き戸が一枚立っていた。
立派な門ではなかった。
光る入り口でもなかった。
雨の日には湿って重くなり、冬には指を挟み、夏になると虫の死骸が溝にたまるような戸だった。戸車は油を欲しがっているように見えたし、下の方には、いつついたのか分からない黒い染みまであった。
もう一度目にしても、あまり懐かしいという気はしなかった。
近づいてみると、引き戸はすこしだけ開いていた。
そこから、楽しげな雰囲気がもれている。
障子には穴があいていて、その向こうを見知った人影が通り過ぎた。笑い声も聞こえた。だれの声かは分からなかったが、知らない者の声ではなかった。
僕は泣かなかった。
喪失感や無力感のようなものは、いつの間にか僕の手を離れていた。板一枚分のところまで近づいても、身を焦がすような情念が湧いてくるわけではない。
むしろ、どんな顔で入っていくべきかを考えるので忙しかった。
まったく楽しい気分だった。
先にくたばった連中に、いっぱつかましてやるつもりで、僕は戸に手を伸ばした。
指先が、古い木の縁にかかった。
あとは、引くだけだった。
わずかな隙間から、好きだった人たちの笑い声がもれていた。
その隙間を見て、胸の奥で何かがひっかかった。
ここへ来る途中から、ずっと見ないようにしていたものだった。
まだ、こちら側に開いたままの扉がある。
どこにあるのか、どんな扉なのか、僕にもはっきりとは分からなかった。
ただ、開いたままになっていることだけは分かった。
あれを放っておいて、こちらへ入るのは、どうにも具合が悪かった。
扉の向こうでは、だれかが笑っていた。
妻かもしれなかった。
息子かもしれなかった。
ほかの、会いたかった誰かかもしれなかった。
僕は、戸の縁から手を離した。
立派な気持ちは、何ひとつ湧かなかった。
使命感もなかった。
誰かを救わなければならない、などという言葉も出てこなかった。
ただ、具合が悪かった。
それだけだった。
僕はきびすを返し、停めていた車に乗り込んだ。
エンジンをかけ、来た道へ戻った。
バックミラーの中に、引き戸が見えていた。
コンビニの明かりよりも、ずっと地味だった。自動ドアでもない。案内板もない。そこにあると分かっていなければ、粗大ごみと間違えて通報されるような戸だった。
それが、すこしずつ遠ざかった。
遠ざかるにつれて、さっきまで手を離れていたものが、また肉の中に入り直してきた。
死んだ人は、死んだ人だった。
なくしたものは、やはりなくしたものだった。
僕は、家族に会いたくなった。
車を止めれば戻れる。引き返せば、まだ間に合う。あの引き戸は、たぶん僕を待っている。
そう思うたびに、ハンドルを握る手に力が入った。
やがて、引き戸はゆっくりと小さくなっていった。完全に見えなくなるころには、僕は声を出して泣いていた。いい歳をした男が、運転席で鼻水を垂らしながら泣くのは、あまり見栄えのいいものではない。もっとも、それを見る人間も、道にはほとんど残っていなかった。
僕はアクセルを踏みつづけた。
行き先には、楽園も、会いたかった人たちもいなかった。




