第十八幕 その他の欄
ある日から、だれのものか分からない草地に家が建った。
建った、というより、置かれたことになっている。流しもある。風呂もある。小さな冷蔵庫もある。窓は閉めると本当に閉まり、戸は閉めたあとで戻らない。雨は一滴も入らず、風は必要なぶんだけ通った。最初は、雨をしのげる程度の小屋でよかったのだが、カヂルグミに頼んだら、そうはならなかった。
草地の奥には、見えないサルがまだ挟まっていた。地球を隠していた猫の覆いに引っかかり、所有者から返事がないため、カヂルグミは小指をかけることもできない。作業そのものは簡単だという。その簡単さのまま、もうかなり経っていた。
最初は、数十年かかるという説明を大げさだと思っていた。
いくらなんでも、そんなにはかからない。この家ができあがるより先に、サルを外す手続きのほうが終わるだろうと、どこかで思っていた。
ぜんぜんそんなことはなかった。
カヂルグミは、地球の段取りに従って、まず図面を引いた。僕は、その時点ですこし嫌な予感がしていた。次に、どこからか重機を持ってきた。重機は草地の手前で一度止まり、錆びたガードレールを傷つけない角度を探してから入ってきた。そこだけは、やけにていねいだった。
僕もなにも考えないわけではないので、基礎にセメントが流し込まれる段階で確認はした。
「ここに建てていいんですか」
「土地の所有者は不明です」
カヂルグミは、図面から顔を上げずに答えた。
定規で線を一本引き、端に小さくなにかを書き込んでいる。そのまじめさが、すこし腹立たしかった。
「あなた、いま覆いに触れるか触れないかで、えらく手間取ってますよね」
「はい」
「所有権がどうのと」
「ええ」
「小指も引っかけられないと」
「そのとおりです」
「でも、所有者の分からない土地に家を建てることには、抵抗を感じないんですか」
「はい」
カヂルグミは、事務作業の延長みたいにうなずいた。
そして、図面の端を指で押さえた。
「覆いの所有者は分かっています」
「猫なんですよね」
「はい」
「土地は」
「土地の所有者は、いまのところ分かっていません」
「それなら建てていいという理屈になるんですか」
「建てていません」
「は?」
「待機設備を置きました」
「家に見えますけど」
「家に見える待機設備です」
そう言って、カヂルグミは図面を丸めた。
その言い方のまま、柱が立ち、屋根が乗り、窓が入り、流しがついた。施工途中で屋根の角度を長く確認し、一度、図面の一部を書き直している。
家を建てるのは初めてではありません、と彼は言った。
僕は、建てていないのではなかったのか、とは言わなかった。細かいことを聞く気にもなれなかった。でも、手ぎわがよいのは確かだった。柱の向きも、窓の高さも、戸の重さも、迷う時間が短い。僕がまだ、雨をしのぐ小屋のつもりで立っているあいだに、カヂルグミはそれを家にしてしまった。
あと、心なしか楽しそうに作業していた。
彼が小指を引っかけるのを見届けたら、僕はすぐに扉をくぐるつもりだった。なのに、気づけば勝手口の高さについて意見を求められていた。
「僕は、すぐ向こうに行くつもりなんですけど」
「では、すぐ出られる勝手口にします」
「そういうことではなく」
カヂルグミは、勝手口の位置に印をつけた。
家に見える待機設備は、すぐに完成した。
そして、それからあっという間に一年が過ぎた。
ある朝、僕はその家の台所で味噌汁を作っていた。鍋のなかには、大根と葉物と、すこし育ちすぎた葱が入っている。どれも、草地の隅を勝手に耕して作ったものだった。味噌は、町のどこかに残っていたものを使った。賞味期限はすこし過ぎていたが、味噌ならばと信用した。
火を弱めたところで、カヂルグミが来た。
白いヘルメットをかぶっていた。手には点検用紙を持っている。胸にはいつもの名札があり、その下には鉛筆を差していた。
「なんのつもりですか」
「一年点検です」
「一年点検」
「新築なので」
「だれが頼んだんですか」
「必要だと思いました」
「君が?」
「はい」
カヂルグミはまじめにうなずき、用紙のいちばん上に日付を書いた。
そこまでしておいて、僕の同意を待つ様子はなかった。
彼は玄関の戸を開け、閉めた。
もう一度、開けて、閉めた。
小さくチェックを入れる。
窓を開け、閉める。
またチェックを入れる。
床の端を踏み、廊下を歩き、勝手口の段差を見て、戸棚の扉を二回動かした。壊れているところを探しているというより、自分が作ったものが、まだ自分の作ったものとして立っていることを確かめているようだった。
「楽しそうですね」
「点検です」
「楽しそうな点検ですね」
カヂルグミは、戸棚の扉を静かに閉めた。
「そうですね。いまのところ、問題はありません」
僕の皮肉に気づいているのか、気づいていないのか分からないが、満足そうに点検用紙に丸をつけている。わざとらしいヘルメットの下で、目だけが妙に真剣だった。
「この紙、どこで手に入れたんですか」
「作りました」
「自作なんですか」
「この家用です」
「この家用」
「はい」
カヂルグミは、点検用紙をこちらに見せた。
玄関、窓、床、戸棚、勝手口、屋根、外壁、その他、と項目が並んでいる。その他の欄だけ、やけに広い。
「その他が広いですね」
「一年経つと、いろいろあります」
「なにか、ありました?」
「今のところ、ありません」
屋根を見るために外へ出ると、彼は家からすこし離れ、腕を組んで全体をながめた。
点検というより、鑑賞に近かった。
僕もとなりに立った。
草地の向こうでは、錆びた郵便受けと、蓋のない衣装ケースと、片方だけの長靴が、まえと同じように置かれている。そのさらに奥に、見えないサルが挟まっている。その片隅には、いつの間にか僕の食卓を支える畑があり、育ちすぎた葱がほかの野菜を圧倒していた。
「一年ですか」
僕が言うと、カヂルグミは紙面から顔を上げた。
「はい」
「早いですね」
「早いです」
カヂルグミは、ヘルメットの縁をすこし持ち上げ、空を見た。
「こちらの一年というのは、思っていたよりも短いですね」
「僕には長いですよ」
「そうですか」
「手続きは進んでいますか」
「進んでいません」
僕は肩を落とし、畑のほうへ歩いた。
育ちすぎた葱を一本抜こうと腰をかがめる。土は思ったより固かった。
「最近、調子はどうですか」
背中のほうからカヂルグミが言った。
「僕の?」
「はい」
おかしな質問のように聞こえたが、僕は普通に答えた。
「体調は悪くないです。気分は悪いですけど」
「そうですか」
カヂルグミは、点検用紙に小さくなにかを書き込んだ。
たぶん、「その他」の欄を埋めていた。
「あなたは、先に行っても構いません」
カヂルグミは、点検項目のひとつを確認するように言った。
「行っても構わない、というのは?」
「扉の向こうです。サルに関しては、手続きが済み次第、私が外しておきます」
そう言われるのを、どこかで待っていた気がした。
けれど、実際に言われると、僕はすこし困った。
カヂルグミがあとで外してくれるなら、それで済むはずだった。手続きとしては、たぶんなにも間違っていない。
ただ、僕はもう、ずいぶん長く、あれの近くにいた。
ずっと見ていたわけではない。離れたこともあるし、忘れたふりをしたこともある。それでも、結局ここへ戻ってきた。
挟まっていたものを、最後だけ他人に任せて先に行く、というのは、すこし手順が違う気がした。
僕は返事をしないまま立ち上がり、葱の泥を払って家に戻った。




