第十七幕 挟まったサル
古い道の突き当たりに、僕はいた。地図アプリでは、その道はまだ先へつづいていたが、実際には錆びたガードレールで行き止まりになっていて、その向こうには、だれのものか分からない草地が広がっていた。
そこは役所に聞けば管轄外で、警察に聞けば私有地かもしれないと言われる場所だった。地主は見つからない。私有地なのか、公有地なのかも分からない。だから、だれも触らなかった。地図には載っているのに、だれもそこへ行く用事がない道だった。
草地には、錆びた郵便受けと、蓋のない衣装ケースと、片方だけの長靴が雨ざらしになっている。色あせた看板には、犬のフンを持ち帰れという文字が、まだかろうじて残っていた。
僕は、ガードレールの手前に立っていた。
待ち合わせをしたわけではない。呼び出したわけでもない。ただ、ここにいれば、あの異星人が来るような気がした。名前も、胸の名札に書かれた文字でしか知らなかった。蔵の扉は、もう開いている。通れるはずの人間が通らずに、こんな場所につっ立っているのだから、それだけで彼には用事になるはずだった。
しばらくして、本当にカヂルグミが来た。
彼はガードレールの手前で足を止め、僕と、草地の向こうを順番に見た。
「なにか、お手伝いできることはありますか?」
「あれを外してください」
うまく説明できる自信がなかったので、僕はガードレールの向こうを指さした。
「あれ、とは」
カヂルグミは草地の奥を見た。しかし、そこにあるのは郵便受け、衣装ケース、長靴、看板、伸びすぎた草だけだった。
僕にも、それしか見えない。
だから、本当になにかが引っかかっているという確証はなかった。
「あそこに、なにか挟まっていませんか?」
「なにか?」
「たぶんサルだと思うんですけど」
僕は自信なく言った。
口に出してから、自分でもすこし馬鹿みたいだと思った。
「サル」
「はい」
カヂルグミは、何度かまばたきをした。
「見えません」
「そうですよね」
徒労だったかな、と僕はあきらめかけた。ため息を吐こうかと思っていると、カヂルグミが僕の目をのぞき込んでいることに気づいた。怪しんでいるとか、小馬鹿にするような感じではない。発言の意図を正確に理解するために、僕のことを見ているだけだった。
確認を終えると、カヂルグミは草地の奥に目を向けた。
今度は、すこし気合を入れているように見えた。
見えないことは分かっていたが、いちおう僕も目を凝らした。伸びすぎた草のあいだに、コンビニのビニール袋が引っかかっている。手巻きおにぎりのフィルムと、菓子パンの空袋があった。サルらしいものは、やはりどこにもいない。
なにもない場所を見るには、すこし長かった。
「ああ……」
やがてカヂルグミはうなずいた。
「確かに、サルですね」
僕は間を置いて驚いた。
「見えるんですか」
「見えません」
「見えない?」
「見えませんが、たぶんサルです」
「見えないのに、なんでサルって分かるんですか?」
僕も見えていないが、なんとなくサルだと思っていた。
「挟まり方です。挟まり方がサルです」
よく分からないし、いまいちピンとこなかったが、僕はすこしだけ安堵した。少なくとも、長い孤独のなかで、僕が正気を失って妙なことを言っているわけではなかった。
カヂルグミは目を細めたまま言った。
「あのサルを外せばいいんですか?」
「はい」
「なるほど」
「外せますか?」
「外せます」
カヂルグミは、ふたたび僕に視線を向けて答えた。
「しかし、サルは救済の対象ではありません」
僕は、その言葉の意味を計りかねた。救済の対象ではないとしたら、外してもらえないというふうにも聞こえた。
「救済の対象ではないと、外せないんですか?」
「そんなことはありません」
カヂルグミはまじめに答えた。
「外して、扉の向こうへ持っていくつもりですか?」
彼も、僕の真意を計りかねているようだった。
「持っていきません」
「外したあとは、どうしますか?」
「野生に返してあげてほしいです」
「あなたは?」
「それを見届けてから、扉を使って向こうに行きます」
「承知しました」
カヂルグミは業務確認のようにうなずくと、僕のとなりを通り過ぎ、ガードレールをまたいで草地に入った。赤い錆が異星人の手につくのを見て、僕はようやく、ひと仕事が終わったという気になった。
彼は草を踏み分けて、二、三歩進んだ。
郵便受けの横を通り、蓋のない衣装ケースの手前で足を止める。カヂルグミはなにもない場所へ手を伸ばしかけ、そのまま指先を止めた。
「あ」
すこし間の抜けた声だった。
「駄目ですね」
「駄目?」
「今は触れません」
その返事を聞いて、僕は楽園が遠のいた気がした。
「触れない?」
「作業自体は簡単です」
カヂルグミは、伸ばしかけた手を下ろした。指先には、なにも触れていないように見えた。
「でも、今は外せません」
「今は?」
「はい」
「いつになったら外せるんですか?」
「覆いの所有者が応じれば、すぐにでも外せます」
「覆いの所有者?」
「はい。サルが挟まっているのは、この草地ではなく、この地球を隠していた覆いです」
「覆いってなんですか」
カヂルグミは、覆いについて説明してくれた。
地球の外側には、救済管理の仕組みから見つかりにくくするための層があるらしい。カヂルグミは、それをブラインドに近いものだと言った。窓ではなく、星に取りつけられたブラインドだった。猫が勝手に設置したものだという。
そのころの僕には、宇宙の事情なんてなにも分からなかった。教団の存在も知らない。知っていたのは、猫の顔をした邪悪な異星人が地球を支配していた、ということだけだった。地球人の支配者階級は、その虎の威を借りる形で好き勝手にやっていた。
「覆いをかけた目的は?」
「発見を避けるためです」
「だれに」
「我々にです。救済管理の仕組みから、見つからないようにしていました」
「救済管理」
「猫も、救済対象の知的生命体です。ただ、彼らは扉をくぐらない道を選びました」
「選んで、そのあとは?」
「分かりません」
カヂルグミは、草地の奥を見た。そこに答えが落ちているわけでもないのに、落とし物を探すような目だった。
「地球に、勝手に隠れ住んでたということ?」
「結果としては、そうです」
「地球人ごと?」
「はい」
「最悪だな」
「はい」
その覆いのせいで、地球人の発見は数千年か、数万年ほど遅れたらしい。本来なら、もっと早い段階で扉が開いていたはずだった。
そして今、その救済遅延の原因になった覆いのどこかに、サルが挟まっている。
カヂルグミはたずねた。
「どうして、あのサルは挟まっているんですか?」
「僕が聞きたいですよ」
「少なくとも、構成部品として扱われているわけではなさそうです。野生のサルが、うっかり挟まってしまったのかもしれませんね」
僕は、地球という星が覆いで隠され、地球人の救済が遅れたという事実を聞かされたばかりだった。
正直、野生のサルが一匹、どんな事情で引っかかっていたのかは、どうでもよかった。
「で、どうやったら外せるんですか?」
僕は無性にアホらしくなって、ため息を吐いた。
「覆いの所有者に、外してかまわないか確認します」
「それで外せるんですね?」
「了承さえいただければ、すぐに外せます」
「お願いします」
「分かりました」
カヂルグミはうなずいて、そのままどこかに行った。
それで、僕は待つ羽目になった。
覆いの所有者である猫に、サルを外してよいかを確認する。
わけの分からない話だったが、楽園を目前にした今となっては、ささいな謎だった。カヂルグミの確認とやらも、明日くらいには片がつくだろうと、僕は勝手に思った。
しかし、翌日になっても僕は待っていた。
その次の日も待った。
ガードレールの手前に座り、立ち、また座った。朝には草が濡れ、昼には錆びたものの影が短くなり、夕方には、犬のフンを持ち帰れという看板が赤くなった。雨が降れば、草地のくぼみに水がたまった。夜になると、地図にはまだ道として残っている暗がりのなかで、ガードレールだけが白く浮いた。
サルは見えなかった。
手続きも見えなかった。
一か月近く経って、カヂルグミが戻ってきた。
彼はまえと同じようにガードレールの手前で足を止め、僕と、草地の向こうを順番に見た。
僕は電子タバコをくわえたまま、立ち上がった。長く座っていたせいで、膝のあたりがすこし固まっていた。吸い口には、もうほとんど味が残っていない。
「じゃあ、お願いします」
僕は、ガードレールの向こうを指さして言った。カヂルグミが来たということは、手続きが終わったということだと思った。
しかし、カヂルグミは動かなかった。
「まだです」
「まだ?」
「はい」
僕は、指をさしたまま止まった。
言葉が、思っていた場所に落ちなかった。手続きが終わったら外してもらう。そのつもりで待っていたので、まだ、という返事をどう受け取ればよいのか、すこし分からなかった。
「一か月近く待ちましたけど」
「はい」
「手続きは」
「進んでいます」
「終わってはいない」
「はい」
「どうして」
「覆いの所有者から返事がありません」
カヂルグミは、事務的に答えた。冷たくはなかったが、申し訳なさそうでもなかった。返事をしていないのは所有者であって、自分ではない、という区別が、彼のなかではきちんとついているようだった。
僕はガードレールに手を置いた。錆が指についた。待っているあいだに何度も触ったせいで、手のひらの同じところがすこしざらついていた。
「サル一匹ですよ」
「はい」
「しかも、見えないサルです」
「たぶんサルです」
「どっちでもいいんですよ」
すこし声が荒くなった。
「サルでも、サルじゃなくても。とにかくなにかが挟まっている。さっさと外してください」
「サルを外すには、覆いに触る必要があります」
「その覆いは、まだ地球を隠しているんですか」
「作動はしています」
「作動してるんですか」
「はい」
「でも、君たちにはもう見つかってる」
「はい」
「じゃあ、隠す役には立ってない」
「我々に対しては、もう役に立っていません」
「だったら、すこしくらい触ってもいいんじゃないですか」
「無理です」
「触れたら壊れるとか?」
「壊れません」
僕は、いっそのこと壊れると言ってほしかった。
「まえに、作業自体は簡単だと言いましたよね」
「はい」
「どの程度の作業なんですか」
カヂルグミは、こちらに通じる大きさを探すように黙った。
「小指をかける程度です」
僕も、すこしだけ黙った。
その程度のことのために一か月近く待っていたのかと思うと、怒るより先に力が抜けた。草地の奥では、ビニール袋の切れ端が風に揺れていた。
「だったら、外してください」
「できません」
「小指をかけるだけなのに」
「はい」
「どうして」
「所有権の問題です」
「所有権」
「はい」
「嫌な話ですね」
「はい」
「でも、小指で済むんですよね」
「はい」
「それでも、触れない」
「構造の話ではありません」
「なんです?」
「所有権の話としては、家の塀だと想像してください」
「家の塀」
「はい。家の塀に、あなたの帽子が引っかかっている。帽子を取るには、小指を引っかければ済みます。でも、引っかかっている塀は、他人の塀です」
「他人の塀に、帽子だか洗濯物が引っかかってると言いたいんですか?」
「そのとおりです」
「それで、あなたは馬鹿正直に家主に声をかけてから、小指を引っかけたいと」
「はい」
「本気で言ってます?」
「はい」
ブラインドにも、塀にも見えなかった。
ここは古い道の突き当たりで、草が伸びすぎていて、犬のフンを持ち帰れという看板だけが、かろうじて看板の形をしている場所だった。
地球は、猫のものではないはずだった。
少なくとも、僕はそう思っていた。
それでも、地球の外側にかかった見えない覆いには、猫の持ち物としての扱いが残っているらしかった。
僕はうつむき、目を閉じた。
「どれくらいかかりますか」
「覆いの所有者が応じれば、すぐです」
「応じなければ」
「数十年ほど見てください」
「小指をかけるだけで?」
「小指をかけるための手続きです」
草地の奥では、なにも変わらなかった。拒否も許可もなく、サルが身じろぎするような気配さえなかった。
猫は、本当に、すこしも返事をしなかった。




