第十六幕 最後から二番目の男
僕は、空き地に大きなテレビを置いて映画を見ていた。あと、ソファと机と冷蔵庫、そして灰皿も並べていた。どれも僕のものではない。だれのものでもないと言い切るには、まだすこし早い気もしたが、取りに来る人間はいなかった。電源も、どこかから適当に引っぱってきた。
テレビの下には、黒く焦げた基礎の跡があった。草のあいだから、曲がった金具や、割れたタイルや、燃え残った木片がすこしだけ出ている。昔、ここに家があったころの名残だった。今では屋根も壁もなく、雨はそのまま落ち、風は好きに通った。
ソファのまわりには、VHSのケースや、DVDのパッケージや、フィルム缶や、酒瓶や、菓子の袋が散らばっていた。机の上には、映写機と、ビデオデッキと、何台かの再生機が並んでいる。新しいものから古いものまで、使えるものはなんでも使った。フィルムでも、テープでも、ディスクでも、データでも、映画なら、ほとんど見た。
足もとに転がった古い映画の箱には、今でも大勢の人間が写っている。
走ったり、笑ったり、泣いたり、銃を構えたり、抱き合ったり、喧嘩したり、だれかをにらんだり、遠くを見たりしている。そこに描かれている人たちは、まだ自分の扉を知らなかった。
僕は、となりに座っていたカヂルグミに聞いた。
「向こうに映画はあるの?」
「あるよ」
カヂルグミは、あまり迷わずに答えた。
「新作は?」
「もちろん」
「こっちの映画も?」
「あるよ」
「失くなったやつは」
「あると思う」
「燃えたフィルムは」
「ある。だれかが作って、途中で作るのをやめたやつも」
「便利だね」
「うん」
「でも、向こうには映画よりすごい娯楽があふれてるんだろ?」
「そうだね」
カヂルグミはタバコに火をつけて、うなずいた。
「強い体験ができるものなら、いくらでもあるよ」
「強い体験ねえ」
「興味ある? 映画の世界に入れるし、結末を変えられるよ。見たい場面だけを、見たい濃さで扱うこともできる」
「楽しそうだな」
「楽しいよ。ちょっと行って、体験してきなよ」
僕は軽口には付き合わず、タバコに火をつけた。
「向こうで、映画を見る人なんているの?」
「いるよ」
「いるかなあ」
「いるよ。映画として見たい人が、映画として見るよ」
「わざわざ平べったい映像を見るの?」
「うん」
「見るかなあ」
「映画じゃなくて、映画のサントラを聴いている人もいるだろ? 似たようなもんだよ」
「ああ」
僕は思わず納得してしまった。たとえがうまくなったな、と思った。
カヂルグミはタバコを灰皿の縁に置き、冷蔵庫のまえまで行った。それから、勝手に扉を開けた。
「お酒は?」
「ないよ」
「まえはあったよ」
「まえに君が飲んだんだよ」
「ああ」
カヂルグミはうなずき、冷蔵庫のなかをあさりはじめた。
冷気が、焦げたコンクリートの上を流れた。
「ああ、ところで」
カヂルグミは、冷蔵庫に入っている缶を雑に動かしながら言った。
「君が最後になったよ」
「なんの」
「まだ、ここに残ってる地球人」
「そう」
「驚かないんだね」
「まあ、それで状況が変わるわけじゃないしね」
カヂルグミは冷蔵庫から缶を一本取り出し、表示を読んでから戻した。それから冷蔵庫を閉め、灰皿のタバコを取り上げて、ソファに戻ってきた。
タバコの灰は、まだ落ちそうで落ちなかった。
「どんな人だったの?」
「君のひとつまえまで残っていた人?」
「うん」
「死ぬまで、扉のことを避けてたよ」
「なんか、いたよね。バイクに乗って扉をくぐろうとして、先にバイクだけ行っちゃった人。あと、料理の失敗した回数にこだわっている人とか」
「いたね」
「あれと同じ?」
「共通点はあるね」
映画のなかでは、男が駅のホームを走っていた。
こちら側にまだ人がいたころ、駅のホームでは、よく人が走っていた。走らなくてもいいことのほうが多かったはずなのに、みんな、なにかに間に合おうとしていた。
カヂルグミは煙を吐いた。
「その人がいた場所には、最初、十人くらい残ってた。村でも、教団でもなかったよ。ただ、行かなかった人たちが、同じ場所に集まってただけ」
「なんか聞いたことあるな」
「まえに話したよ」
「そうだっけ?」
「怒っている人。悲しんでいる人。だれかを許せない人。自分の罪を、そのまま持っていたい人。向こうで楽になることを、逃げることみたいに感じていた人。そういう人が残ってた」
「面倒くさそうだな」
「面倒くさかったよ。悪い人たちじゃなかったけどね」
「その人たちは、君をどう扱ったの」
「どうって?」
「君は扉の手先だろ?」
「悪意があるな」
「事実だろ」
「神父さんって呼ばれてた」
「神父?」
僕は聞き間違いかと思った。
「うん」
「神父じゃないだろ」
「神父ではないよ」
「なんで?」
「名札に、ブラザーって書いてあったからじゃない?」
「あだ名か」
「悪い気はしなかったよ」
共同体は、カヂルグミを悪魔としては扱わなかったらしい。だからといって拝んでいるわけではなかったし、彼の話も聞きたがってはいなかった。
ただ、カヂルグミはうそをつかないし、手続きも知っている。発電機や配線の知識もあり、壊れた屋根も簡単に直せた。緊急時には飛行機も飛ばせた。邪険にしたり、追い払ったりするには、すこし便利すぎる存在だった。
「こき使われたよ」
「へえ」
「発電機が止まったとか、熊を追い払ってこいとか、薬や湿布を取ってこいとか。お産も頼まれたよ」
僕はタバコを吸う手を止めた。
「え、子どもを取り上げたの?」
「うん」
「すごいな」
「僕も、そう思った」
「便利屋どころじゃないな」
「神父でもないしね」
カヂルグミは、笑うでもなく言った。
「その取り上げた子が、最後の子」
「ネタバレが早いな」
「男の子だったよ」
「子守りもしたんだろ? 幼体の扱いなら、君はちょっとしたもんだしな」
「子守りは好きだけど、させてもらえなかったよ」
「なんで?」
「子どもは扉が好きなんだよ。開けたり閉めたりするのが好きだし、扉の向こうに好きなものがたくさんあったら、そのまま行っちゃうだろ?」
「勝手に扉をくぐるかもしれないって?」
「失いたくなかったんだと思う。子どもが、ふっと行ってしまいそうで母親が怖がってたんだ。それで扉とセットで、僕には近づくなと教えられてた。だから彼も、小さいころから僕のことを避けてた」
僕は、その母子のことを想像しながら、灰皿に灰を落とした。
灰皿は、割れたタイルの上に置いていた。こぼれた灰は、黒い目地に混じって、すぐ分からなくなった。
映画のなかの駅は、人でいっぱいだった。画面の端の人間にも、それぞれ行き先があるように見えた。階段を上る人、売店に寄る人、柱のまえで待つ人、なにかを落として振り返る人。けれど、その人たちの行き先まで、映画は追わなかった。
「その子のそばには、ずっと母親がいた。母親は、自分の怒りを大事にしていた人だった。自分が向こうへ行くことにも、最後まで抵抗していたし、息子を連れていかれることも怖がっていた。本当に、ずっとそばにいたんだ。トイレにもついて行った。寝るときも同じ部屋にいた。ひとりになると、扉に近づくかもしれないと思っていた。あと、僕が子どもに話しかけるとも」
母親は、子どもにしつこく言い聞かせつづけた。
こっちで生きるんだよ。
痛みも苦しみも、こっちにあるものだから。
向こうへ行ったら、人生を見失うことになる。
「大人たちは、ひとりずついなくなった」
「死んだの?」
「死んだ人もいる。くぐった人もいる」
「へえ」
「最後に残ったのが、その親子。でも母親は年を取り、病気になった。身動きが取れなくなって、ずっと息子についていることはできなくなった」
カヂルグミは、言葉を探した。
「ある日、その人が外から戻ると、僕が家にいて、母親を抱えていた」
「君が?」
「うん。母親の扉が出ていた。でも、母親は自分で動けなかった。僕は保護搬送として、体を支えていた」
「神父さんが母親を抱いていたわけだ」
「うん」
「嫌な場面だな」
「血の気が引いた顔に見えたよ」
カヂルグミは、画面ではなく、自分の手のあたりを見た。
「母親は言ったんだ。あんたも一緒に来るんだよ、って」
「ずっと近づくなって言ってたのに」
「うん」
カヂルグミは、灰皿の灰を見た。
「最後だけ、反対のことを言った」
「男の扉は?」
「出なかった。僕は説明したよ。母親を抱えたまま、できるだけていねいに。最初に地球で話したことと、ほとんど同じ内容を。病気も、老いも、こちら側のようにはつづきません。扉は本人のものです。無理に通過させることはできません。向こうでは、痛みや苦しみは消えるのではなく、壊れない形に変わります。そういうことを話した」
「男は?」
「行かない、って言った」
「はっきり?」
「痛みも苦しみも人生だから、って」
「母親の言葉だ」
「うん」
「母親は?」
「泣いていた。違う、違うんだよって、何度も言っていた。なにが違うのかは、うまく言えていなかった」
カヂルグミは灰を落としてから、静かにつづけた。
「母親は、僕に抱えられたまま、必死に説得した。お前を、ひとりにしたくないんだ。一緒に行こう。もう近づくなとは言わないからって」
「きついな」
「うん」
「母親は?」
「くぐれなかった。息子を置いていけなかったんだと思う」
「死んだの?」
「数日後に」
カヂルグミの声は、すこし小さくなった。
「その人は、母親をていねいに葬ったよ。墓を作って、名前を刻んだ」
母親は扉を拒み、最後には息子を扉へ誘った。
自分が教えた言葉を否定しながら、それでもこちら側に墓を残した。
息子は、その全部を抱えたまま、ひとりで残った。
「そこから、最後までひとり?」
「うん」
「神父さんは?」
「一緒にいたよ」
「クソの始末まで?」
「そこまで弱るまえに死んだ」
「話は」
「すこしした。扉の話は嫌がられたから、ほとんどしなかった」
「最後は病気?」
「そう。風邪をこじらせた」
「扉は」
「出なかった」
「最後まで」
「うん。最後まで」
「君は説明した?」
「したよ。短く。母親にも会えるかもしれない。苦しみは、こちら側のようにはつづかない。そう言った。肺炎も治るよって」
「男は?」
「母親の墓に話しかけていた」
近づくな。
その言葉は、子どもを守るために強くなった。母親が、息子を失いたくなかったからだ。
けれど、母親は最後に、別のことを言った。
違う、違うんだよ。
近づくな。
違う。
近づくな。
違う。
男のなかには、近づくな、のほうが残った。
「そして死んだの?」
「うん」
カヂルグミは、画面を見たまま言った。
「そして君が最後になった」
僕はテレビを見た。
映画のなかには、まだ人間がたくさんいた。駅で走る人も、売店の列に並ぶ人も、電話をかける人も、電話を取らない人もいた。
彼らは二時間もしないうちに、きれいに作られた結末へ向かう。
こちら側の人間は、そうはいかなかった。病気になり、老い、死に、働き、争い、泣き、怒り、なにかを失うたびに、それを人生と呼んでいた。その人生は、とっくに終わったはずだった。けれど、終わったはずのものを、最後まで大事そうに抱えていた人たちがいた。
「これで、君の話も終わりか」
「あとひとつ、変な話が残ってるよ」
僕は、またタバコに火をつけた。
こちら側で映画を見るのは、贅沢だった。サントラを聴くのとは、まだ違う。僕はまだ、こちら側の席に座っていた。菓子の袋が足もとで鳴り、冷蔵庫が低く唸る。風が吹けば、焦げた基礎の上を灰が動き、画面は一瞬乱れて、肝心な場面の顔がすこし崩れる。
「酒、ないんだね」
カヂルグミは、勝手に冷蔵庫を開けたくせに、結局なにも飲まずに座っていた。
「ないよ」
「今度は持ってくるよ」
「ついでにタバコも頼むよ」
「うん」
僕たちは、そのまま映画を見た。
映画のなかには、まだ人間がたくさんいた。
灰皿には吸い殻が増えていた。どれが僕のもので、どれがカヂルグミのものか、もう見分けがつかなかった。




