第十五幕 接客ではありません
男は、病院のロータリーを出た乗合バスに、両親と一緒に乗っていた。
車内には老人が多かった。杖、膝掛け、薬袋、病院でもらった番号札、湿布のにおい。だれかが血圧の話をしていて、別のだれかは、向こうでも薬を飲むのかどうかを、付き添いの看護師に聞いていた。
母親は小さな鞄を膝に置き、父親は薬局の袋を抱えて窓の外を見ている。男は、その二人のとなりに座っていた。
最初から乗らないつもりだったわけではない。両親に促されて、男も乗った。乗れば、そのまま行けるような気もした。みんなが乗っているバスに、自分も黙って座っていれば、なにかの流れに紛れて、扉のまえまで運ばれるような気がした。
まえの席の老人たちは、のんびり話していた。
「こっちの道、久しぶりだな」
「昔は混んでたのにねえ」
「もう混むこともないだろ」
「まあ、よかったな」
男は窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「いいですね」
老人のひとりが振り返った。
「なにがだい」
「病院も、年金も、制度も、食い潰したぶんも、若い連中に押しつけたものも、全部見なくて済むんだから。バスに乗って、そのまま行けるんだから、気楽なもんですよ」
車内がすこし静かになった。
母親が、気まずそうに男の膝を叩く。やめなさい、というほど強くはなく、ただ、もういいから、という触れ方だった。父親は窓の外を見ていた。
老人は、薬袋を膝の上で直した。怒った顔ではなかった。
「まあ、解決してよかったな」
その言い方に、悪気はなかった。
だから、男は次の言葉をなくした。
母親の手の感触だけが、膝に残った。男は窓の外へ顔を向けたが、車内の空気はもう戻らなかった。
バスが走るうちに、男は自分の座っている場所が分からなくなっていった。老人ではなく、若者でもない。ボランティアの運転手はまえを見ていて、付き添いの看護師は、ときどき、乗っている人の顔を確かめるように車内を見回した。悪意のある目ではなかったが、それが余計に気まずかった。
「付き添いの方も、そのまま扉まで行かれますか」
看護師が聞いた。
「付き添いじゃないです」
「あ、すみません。ご本人も行かれますか」
男は、膝の上に置いた手を見た。
付き添い。本人。
どちらでもあるようで、どちらでもない。
父親が、窓の外を見たまま言った。
「行けばいい」
母親も言った。
「あんたも、このまま行けばいいのに」
男は返事をしなかった。
バスは、次の停留所に近づいていた。
「降ります」
男は言った。
看護師が不思議そうな顔をした。
「まだ途中ですよ」
「分かっています。降ります」
母親が困った顔をした。
「忘れ物?」
「違う」
後ろの老人が言った。
「トイレか」
「違います」
「若いのにねえ」
男は苦い顔をして立ち上がった。若い、と言われるのも嫌だった。
バスが停まり、扉が開いた。男はステップを降り、地面に足を下ろした。すこしだけ息が楽になった。
窓に、母親の顔が見えた。父親は、相変わらず外を見ている。何人かの老人がこちらに手を振ったが、男は手を振らなかった。
バスはそのまま走っていった。後ろ姿はすぐ角を曲がって見えなくなり、男だけが途中の停留所に残った。
会社を辞めたときもこうだった、と男は思った。
新卒で入社した会社は、半年もつづかなかった。なにか決定的な事件があったわけではない。ただ、自分がなにも知らないことに耐えられなかった。
電話の取り方。会議での座り方。冗談の流し方。怒られたときの顔。なにを知らないと恥なのか、どこまで聞いていいのか。まわりは、それを当然のように知っているように見えた。本当に笑われていたかは分からない。ただ、男にはそう見えた。
それで降りた。
社会というものに一度乗って、途中で降りた。それから二十年以上が経ったが、また乗る機会は一度もやって来なかった。
男は実家に戻った。
家には、両親の気配が残っていた。台所のカレンダーには病院の日に丸がついている。冷蔵庫には薬の時間を書いたメモが貼ってあり、母親の湯呑みは水切りかごに伏せられ、父親の読みかけの新聞は椅子に置かれていた。
人がいなくなっただけで、家は急に大きくなる。
男は冷蔵庫を開け、水の入ったペットボトルを一本取った。母親がよく買っていた、安い天然水だった。冷蔵庫の奥にも、同じものが何本か並んでいる。
冷蔵庫を閉めると、暗い画面のテレビが目に入った。男は、そのまえでよく怒っていた。役人の不祥事。政治家のつまらない失言。謝罪会見の言い逃れ。制度の穴。だれも責任を取らない仕組み。ニュースは、毎日なにかしら怒る材料を垂れ流した。
「またこれだよ」
男はよく言った。
「だれも責任を取らないんだよ」
「こんな社会で、まともにやれるわけないだろ」
両親は、最初のうちは相づちを打った。そのうち、聞こえているのかいないのか分からない顔で茶を飲むようになった。
男は、怒っているあいだだけ、自分がただ無様なだけの生きものではない気がした。だから怒った。ただし、怒っているときも、両親の目は見られなかった。
男はペットボトルを持ったまま、自分の部屋へ向かった。
廊下の先で、庭に面した掃き出し窓がすこし開いているのが見えた。その外に、カヂルグミが立っていた。靴を脱ぐべきかどうかで迷っている顔だった。
「通過のお手伝いに来ました」
「どこから入ろうとしているんだ」
「ここです」
「玄関から入れよ」
カヂルグミは考えてから、掃き出し窓を離れた。
部屋の一面には、資料がびっしりと並べられていた。印刷した記事、古い新聞の切り抜き、役所からの通知、制度に関するメモ、謝罪会見の文字起こし、配給記録、医療や名簿についての記事、支配者階級について公開された情報、猫について公開された情報。赤い糸が、紙と紙を結んでいた。
狂った部屋ではなかった。日付はあった。出典もあった。文字も、本人なりにそろえてあった。男はなにもかもを支配者階級や、猫のせいにしていたわけではないし、病気だけで片づけられるほど、全部をこじつけていたわけでもない。
ただ、社会の不備と、自分の無様さが同じ部屋にあった。
学生のころに買ったコミックや、途中までしか進めていないゲームが、古い座椅子の横に積まれていた。読み切れなかった高尚な本は、口の開いたティッシュの箱の下ですこし曲がっている。畳には、長く同じ場所に座っていた形だけが残っていた。
そのとなりに、支配者階級、記録管理、猫、医療、配給、名簿、隠された記録、恐怖体験記録、という大きすぎる言葉が貼られていた。
どれもうそではなかった。
ただ、口の開いたティッシュの箱や、途中で止まったゲームや、長く同じ場所に座っていた畳のへこみと同じ部屋にあった。
男の扉は、扉の形をしていなかった。壁に貼られた紙と紙のあいだに、縦に細い裂け目ができている。赤い糸の何本かが、その裂け目の周囲で止まり、紙の端がすこしめくれた奥に暗がりがあった。
引き戸でも、門でもない。
蔵へつづくものには見えなかった。
資料の隙間だった。
男はそれを見ないようにしていた。
しばらくして、カヂルグミが部屋に来た。玄関から入ったのか、庭から回ったのかは分からなかった。どうでもよかった。
カヂルグミは、部屋の壁に目を向けた。
「勝手に見るな」
男に言われ、カヂルグミは視線をそらした。
「失礼しました」
見られたくはなかった。それでも、カヂルグミが完全に目を外すと、それはそれで腹が立った。男はペットボトルのふたを開けた。飲まずに、また閉めた。
「支配者階級は実在しました」
カヂルグミが言った。
男の肩が硬くなった。
「記録管理もありました」
男は黙っていた。
「恐怖体験記録の支配利用も事実です」
「ほらな」
男は、ようやく言った。
「ほらな!」
世界は、ただ正しく動いていたわけではなかった。人間が努力し、知らないことを学び、失敗しても立ち上がればいい、というだけのものではなかった。見えないところで人生や社会が曲げられ、記録は管理され、恐怖は使われていた。
少なくとも、間違っていたのは自分だけではなかった。
この世には、間違いなく悪がはびこっていた。
男は、ペットボトルを握り直した。もう一度、ほらな、と言いたかったが、言わなかった。
カヂルグミも、その続きを言わなかった。
「向こうへ行けば、あなたの怒りは扱いやすくなります」
男は、ペットボトルのふたに親指をかけた。
「だれにとって扱いやすくなる」
「まず、あなたにとってです」
「ほかのやつにとってもだろ」
「結果として、周囲との衝突は減ります」
「俺が静かになるってことか」
「怒りの形が変わります」
「形を変えてくれと頼んだ記憶はない」
カヂルグミは、言葉をつづけようとしてやめた。男の言い分を否定するには、まだ材料が足りないようだった。
男は壁に貼られた紙を見た。カヂルグミの言うとおり、向こうへ行けば、この怒りにも名前がつき、順番がつき、壊れない置き場所が用意されるのかもしれない。
「向こうでも、正義は成立します」
カヂルグミが言った。
「正義?」
「はい。謝罪も、検証も、責任の確認も成立します」
「接客みたいに言うな」
「接客ではありません」
「謝ってもらえるのか?」
「はい」
「謝罪するのはだれだ」
「あなたが謝罪を求める人物です」
「本人が?」
「はい」
「本当に本人が、俺のまえまで来て頭を下げるのか?」
「本人です。ただし、あなたの望む形へ整えられます」
「じゃあ、俺を納得させるための接客だろ」
「接客ではありません」
「俺が欲しい形の謝罪を、俺に出すんだろ。俺が苦しんでほしいと思った相手を、苦しんでいるように見せるんだろ」
「あなたの望みは反映されます」
「それは、俺の望みじゃない」
男は首を振った。
「システムが、俺を納得させてるだけじゃねえか」
「本人です。あなたのために整えられてはいますが、差異はありません」
「あるよ。十分にあるよ」
「駄目ですか」
「駄目に決まってるだろ」
カヂルグミは名札の位置をすこし直した。直す必要はなかったが、手の置き場がそこしかないように見えた。
「もう、みんな向こうにいるのか」
男が聞いた。
「だれのことです?」
「この世界で好き勝手やっていた連中だよ」
カヂルグミの視線が、壁の資料へ寄りかけた。すぐに男の顔へ戻る。
「支配者階級と呼ばれていた方たちなら、みんなあちら側にいます」
「そいつらは謝ったか。一度でも」
「だれにですか」
「だれに、じゃないだろ」
男は、ペットボトルを握り直した。
「あいつらは、なにか言ったのか。記録を使いました。恐怖を使いました。社会を曲げました。人を殺しました。盗みました。すみませんでしたって、だれかに言ったのか」
「個別の場では、謝罪は成立します」
「そうじゃない」
男は、すぐに言った。
「俺のほうへ届く謝罪の話をしてるんじゃない。あいつらが、あいつら自身のなかで、なにか分かってるのかって聞いてるんだ」
カヂルグミは口を開きかけ、遅れて閉じた。正確な答えを選ぼうとしているのが、かえって男には分かった。
「じゃあ、あいつらは、いまなにをしている」
「扉の向こう側で、思い思いに過ごされています」
「自分たちが悪人だったことを悔いているのか?」
「こちらで言う意味では、悔いつづけてはいません」
「ほらな!」
カヂルグミは、軽く息を吸った。反論ではなく、説明のための息だった。
「苦痛を与えつづけることは、救済の目的ではありません」
「じゃあ正義ってなんだよ。俺が見たいのは、俺に都合よく届く謝罪じゃない。あいつらが、自分で分かって、自分で苦しんで、自分で頭を下げるところだ」
「頭を下げるところは見られます」
「苦しむところは?」
「扉をくぐってなお、あなたがそう望むのであれば」
「それは、本人を痛めつけたことになるのか」
「あなたが本人だと認識できる相手です」
「またそれか」
「はい」
「本人かって聞いてるんだよ」
「こちらの言葉では、完全には分けられません」
「こっちの世界では分けるんだよ」
カヂルグミは説得の言葉を探していた。人間の机に置かれた辞書を、頭のなかで一枚ずつめくっているような顔だった。
「あいつらが楽になるために世界が終わったんじゃないだろ」
「世界は終わっていません」
「言い方の話をしてるんじゃない」
男は、壁の裂け目を見た。そこへ入れば、自分の怒りも扱いやすくなる。自分が壊れない形になる。たぶん、それは悪いことではなかった。悪いことではないから、なおさら嫌だった。
「向こうで、あいつらは飯を食ってるのか」
「食べています」
「眠ってるのか」
「眠っています」
「だれかと笑ってるのか」
カヂルグミは答えを遅らせた。
けれど、遅らせても答えは変わらなかった。
「笑っています」
「ふざけるなよ」
男は、ようやくカヂルグミを見た。
「あいつらがのうのうと楽になって、俺の怒りだけが整理されるのか」
「あなたの怒りだけではありません」
「同じだろ。加害者も被害者も、都合よく丸くなるんだろ」
カヂルグミは、名札から手を離した。今度はなにも直さなかった。
「丸くなる、という表現は正確ではありません」
「正確じゃなくていい。俺にはそう見える」
「見え方を否定することはできません」
「だったら、俺の言ってることは間違ってないだろ」
「間違っているとは言いません」
「じゃあ、なんだよ」
「いまは不公平に見える、ということです」
「向こうに行けば、そう見えなくなるのか」
「見え方は変わります」
「なら、行かない」
カヂルグミは、ようやく小さくうなずいた。納得ではなく、理解の印のような動きだった。
「こっちでは、だれも責任を取らなかった。向こうへ行ったら、責任を取らなくても済む形になる。だったら、あいつらはどこで罰を受けるんだ」
「罰が必要ですか?」
「必要だよ。俺の正義は、壊したやつが壊されることだ」
「本人性を持った者では、ご不満ですか」
「ご不満だね」
「あなたが求めているのは復讐ですね」
「そうだよ」
男は、すぐに言った。
「正義じゃなくて復讐だよ。きれいな名前に直すな」
部屋のなかで、赤い糸だけがすこし揺れていた。どこかから風が入っているのかもしれなかった。
「向こうでは、その復讐にも場所が用意されます」
「いらない」
「そのままでは、あなたが苦しいままです」
「苦しいままでいい」
「本当に、そうですか?」
男は答えなかった。
苦しいままでいい、と言った声は、自分でもあまり強く聞こえなかった。ただ、楽になると言われるたびに、腹の底でなにかが汚される感じがした。
「俺が楽になったら、あいつらを許したみたいになる」
男は壁に貼られた紙を見た。
支配者階級。記録管理。猫。怒鳴ったニュース。両親の茶碗。見なかった目。どこから自分の話になったのか、男にも分からなかった。
いつから、自分はこの巨大な敵と戦っていたのだろう。あるいは、戦っていることにしたのだろう。
男は、支配者階級と自分の名前をつなぐ糸に指をかけた。すこし引くと、画鋲が浮いた。
カヂルグミは、止めることも促すこともしなかった。
男は、しばらくそのままにしていた。
けれど、抜かなかった。
「今日は行かない」
画鋲を、男は親指で押し戻した。
糸は、まえよりすこしだけたるんだ。
「明日も同じ判断になる可能性があります」
「明日の話をするな」
男は、資料の裂け目に背を向けた。




