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猫が隠した星  作者: Junbi


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18/32

第十四幕 まずは家に帰ってください

 僕が三匹の猫についての情報を散らかしたあと、扉をくぐれるはずだった人々のなかに、妙に元気になる者が出た。

 もともと彼らは、世界の裏側にいる大きな敵について、かなりまえから知っていたことになっていた。名前は一定しない。宇宙人、支配者階級、記録管理層、奥の席に座っている連中、宇宙人の手下、宇宙人の後ろにいるなにか。細かいところは人によって違ったし、たいていは違いすぎた。

 会合場所は地下だったり、月の裏側だったり、古い庁舎の四階だったりした。暗号は住民票の欄外にあることもあれば、病院の受付番号にあることもあった。

 僕が公開した情報と符号していたのは、ほんの一部だった。

 けれど、そのほんの一部がよくなかった。

 怒る者もいた。黙り込む者もいた。資料を読み込む者もいた。

 彼らは、急に正しくなったわけではない。けれど、全部間違いだと言い切られる立場でもなくなった。その中途半端な勝利が、この手合いをいちばん勢いづかせた。

 ある日から、公民館のチラシラックに、見慣れない紙が増えはじめた。

 健康体操のお知らせ、包丁研ぎの日程、古い防火標語の横に、それは差し込まれていた。

『受付に注意してください』

 太い字で、そう書いてある。その下には、すこし小さな字で、いくつかの注意が並んでいた。

『任意提出は断れます』

『共同管理という言葉に注意してください』

『持ち帰ったものを預けないでください』

『説明会のまえに、この紙を読んでください』

『まず家に帰ってください』

 カヂルグミは、それを一枚抜いて読んだ。

 一部の紙はラミネートされていた。屋外用らしい。角は丸く切ってあり、濡れても平気なように穴まで開いている。穴には紐が通してあった。

 持ち帰るなという紙が、持ち帰れるように加工されていた。

 横の長机では、女が次の紙束をそろえていた。その手つきは、とても正確だった。ラミネーターが低い音を立て、熱を持った紙をゆっくり吐き出している。ラミネートされていないものは、クリアファイルに入っていたり、差し込み式のケースにまとめられていたりした。たぶん、女のなかでは屋外用と屋内用で分かれている。

「こちらの職員の方ですか」

 カヂルグミはたずねた。

「違います」

 女は顔を上げずに答えた。

「ここでなにを?」

「設置しています」

「設置?」

「はい」

「この注意書きを設置しているんですか?」

「はい」

 女は、ラミネートされた紙の束を持ち上げた。

「設置許可はありますか?」

「ありません」

「では、未許可設置者ですね」

「許可を取ると、名前を書くことになります」

「名前を書くことが問題ですか?」

「名前を書けば、説明を聞いて、番号をもらうことになります」

「受付ですね」

「受付です。だから取らないんです」

 女は、紙束の角をそろえながら言った。

 カヂルグミは、受付という言葉の範囲をすこし広げた。

 救済が来るまえから、女は似たような紙を作っていた。

 そのころの見出しは、『受付に注意してください』ではなかった。『受付を信用しないでください』だった。

 役場では奥の椅子へ案内された。家族には病院を勧められた。病院では、静かな部屋へ通された。ネットでは、また始まった、と言われた。女は、そのすべてを資料にした。

 奥の椅子へ案内された日は、日付を残した。勧められた病院の名前も残した。削除された投稿は、削除されるまえに印刷していた。受付で受け取った番号札は、写真に撮ってから返した。

 どれも、支配者階級に直接つながる証拠ではなかった。ただ、女にとっては、全部同じ棚に入るものだった。

 人を座らせる椅子。名前を書かせる紙。待たせる番号。任意という言葉。説明する側の机。そういうものが、女にはずっと危うかった。

 その資料作りは、救済後に終わるどころか、すこし大きくなった。宇宙人はいた。支配する側もいた。記録は管理されていた。恐怖体験記録は支配に使われていた。女が言っていたことが全部正しかったわけではない。むしろ、細かい部分はかなり間違っていた。

 けれど、全部間違いだと言われるほどでもなくなった。

「インターネットに広告を載せたほうがいいのでは」

 カヂルグミは、資料を見ながら言った。

 女は、顔を上げなかった。

「最初に済ませたに決まってるでしょう。バカだと思ってるんですか」

「確認です。対応言語は」

「百八十七です」

「多いですね」

「足りません」

「足りませんか」

「方言があります。あと、共同管理という言葉は、言語ごとに別の顔をします」

 カヂルグミは、紙に書かれた『共同管理』という字を見た。

 こういう話は、だいたい面倒だった。面倒なうえに、完全なでたらめではないところが、さらに面倒だった。

 女は、救済を疑っているわけではなかった。

 扉の向こうが罠だとも思っていない。人間が蔵のなかで整えられ、いずれ地球へ戻ってくることについても、異論はなかった。

 だからこそ、怖かった。

 地球は一度、空になる。けれど、空になった地球へ、人は順番に戻ってくる。先に戻った者たちは、あとから戻る者のためになにかを用意しようとするかもしれない。案内板を置く。説明会を開く。受付を作る。任意の様式を配る。善意の顔で、持ち帰ったものを預かりますと言う。

 そうして、せっかくほどけた世界が、また名前と番号と机で結び直される。

 彼女が疑っているのは、扉の向こうではない。空になった地球へ戻ってくる人間たちの手つきだった。

「特にいちばん危ないのが、任意の様式です」

 女は、ラミネートの角を切りながら言った。

「危ない?」

「はい」

「任意なら断れます」

「断れる任意は、わざわざ様式にはなりません」

 カヂルグミは、反論用の言葉を探したが、すぐには見つからなかった。

「この『共同管理』は危険な言葉ですか?」

「危険です。共同の部分はだいたい本当ですが、管理の部分がうそです」

「『説明会のまえに、この紙を読んでください』というのは」

「説明会に入ってからでは遅いので」

 女は、そう言って新しい紙をラックに差した。

「途方もない活動のように思えます。協力者はいるんですか」

「いました」

「過去形ですね」

「ポルトガル語班は昨日行きました。中国語班は先週。ドイツ語班は、最後に『もう十分だと思う』と言っていました」

「十分では?」

「十分だと思える人から、向こうへ行くんです」

「つまり、十分ではない?」

「十分じゃないから残ってるんです」

 女は、束ねた紙を箱に入れた。

「広告班も行きました。自動配信を設定してから。紙資料班は、蔵のほうが印刷品質がいいと知って、いつの間にかいなくなっていました」

「あなたは行かないのですか」

「行きません。まだ、こちら側の備えが十分ではありません」

「戻ってきた人は、現時点では確認されていません」

「だから今のうちです」

 女は、カヂルグミを見た。

「帰ってきてからでは遅いでしょう」

 その言い方も、完全に間違ってはいなかった。

「啓発資料は、扉の奥で配布すればよいのでは」

 カヂルグミが言った。

 女の手が止まった。

 ラミネートした紙の角を切る刃が、半分だけ入ったところで止まっている。

「本気で言ってます?」

「はい」

「危ないと思えない場所で、危ないって紙を配ってどうするんですか?」

 カヂルグミは黙った。

「扉の奥では、危機感が軽くなるでしょう?」

「ええ。苦痛の軽減です」

「知っています。それが問題です。だから、今やってるんです」

 女は、刃を最後まで入れた。

 紙の角が丸く落ちた。

「向こうで読んだら、これはたぶん親切な資料になります」

「親切な資料ではないのですか」

「ちゃんと読んでください」

 女は、積まれた紙束を指で叩いた。

「これは、嫌な紙です。受付のまえで、ちょっと嫌な気分になるための紙です」

「扉の奥で配ることは可能です」

「だから」

 女は、紙束をそろえ直した。

「可能でも、遅いんです。向こうで幸せになってから、こんな紙を真面目に読みますか?」

 カヂルグミは、女のまえに積まれた紙束を見た。

『受付に注意してください』

『任意提出は断れます』

『共同管理という言葉に注意してください』

『まず家に帰ってください』

 女の言うとおり、幸せになってからは読まないかもしれない。

 しかし幸せじゃないから読む、とも思えなかった。

「人はいずれ、地球へ戻ってくるんでしょう?」

「はい。準備が整った方から、順次」

「戻りはじめたときがいちばん危ないんです。最初の人たちは、たぶん親切のつもりで机を置く。あとから戻る人のために、説明用の紙を作る。名前を書く欄を作る。持ち帰ったものを確認します、預かります、共同で管理しますと言う」

 女は、新しい紙をラックに差した。

「それで受付ができます。善良な顔で。楽土を作るまえに、受付を作るんです」

「再発確率は、低いと予測されます」

「ゼロ?」

「ゼロではありません」

「つまり必要ということです」

 この女は、業務対象者のなかでは、かなり筋がよかった。完全には否定できないことばかり言うので、扱いに困った。

 本人のなかでは、世界を守るための作業なのだろう。

「なにか、お手伝いできることはありますか」

 カヂルグミはたずねた。

「あります」

「内容は」

「駅です」

「駅」

「各駅に配ります」

「移動手段は」

「トラックです」

「電車ではないのですか」

「まず駅まで紙を運びます」

「なるほど」

 女は、紙束をまとめて外へ出た。

 公民館の外には、十トントラックが停まっていた。荷台には、紙束、古いチラシラック、折りたたみ机、三角コーン、養生テープ、ガムテープ、ホワイトボード、拡声器、腕章、スタンプ台、ファイルケース、小型発電機が積まれている。

「トラックの運転資格は」

「あります」

「あるんですか」

「当たり前でしょう。自殺志願者に見えますか?」

「確認です」

 女は当然のように運転席へ上がった。

 カヂルグミは助手席に座った。

 座席が高かった。

 彼は楽しそうだった。

 いちばん手前の箱には、英語、韓国語、ポルトガル語、スペイン語、アラビア語、ヒンディー語、そのほかたくさんの言語で、同じような紙が入っていた。

『受付に注意してください』

『まず家に帰ってください』

 どの言語でも、だいたいそのようなことが書いてあるらしかった。

 トラックは、公民館のまえをゆっくり離れた。

 荷台のなかで、紙束とチラシラックがかすかに鳴った。

「広告だけでは駄目です」

 女はハンドルを握ったまま言った。

「広告は消えます。検索順位は動きます。帰ってきた人が端末を持っているとは限りません。最初に見るのが、駅の掲示板か、役場のチラシラックか、病院の会計横かもしれない」

「会計横ですか」

「机と紙がある場所は危ないんです」

「資料を置く場所も、机と紙に近いです」

「だから先に置きます」

 最初の駅は、商店街の端にあった。

 女は駅前にトラックを停め、荷台から紙束とチラシラックを下ろした。カヂルグミも箱をひとつ持った。

「どこに置きますか」

「改札横です」

「改札が閉じています」

 女は改札横に紙を差した。観光案内の棚、忘れ物案内の近く、券売機の横にも差した。貼れる場所には貼った。貼れない場所には、持参したラックを置いた。

 ラックを置く場所がない駅には、ラックを置く場所についての注意書きを置いた。

 次の駅へ向かう車内で、カヂルグミが言った。

「電車で移動したほうが効率的ではありませんか」

「電車が動いているなら、そうですね」

「電車の運転免許はお持ちですか?」

「あるように見えますか?」

「可能性は感じています」

「ありません」

「そうですか」

「あなたは?」

「ありません」

「運転はできますか?」

「地球の鉄道運行には、資格と運行管理が必要です」

「資格なんて、もう意味ないでしょう」

「意味は低下しています」

「できるんですか。できないんですか」

 カヂルグミは黙った。

「運転自体は、可能です」

「では、各駅停車でお願いします」

「私は運転するとは言っていません」

「いま可能と言いました」

「可能と実施は別です」

「そういう言葉で、人は窓口に並ぶんです」

 カヂルグミは、嫌な顔をした。

 女はそれを見て、勝った顔をしなかった。そんな暇はない、という顔だった。

 それから、本当に各駅停車で回ることになった。

 だれが止めるべきだったのかは分からない。たぶん、もうだれも深く気にしていなかった。カヂルグミは運転席に座り、確認して、普通に電車を動かした。

 女は駅ごとに降り、チラシラック、改札横、観光案内の棚、忘れ物案内の近くに紙を差した。

 ひとまず、その路線の終点まで行った。

「次はどこですか」

 カヂルグミが聞いた。

「駅です」

「すべての駅で停車しました」

 女は、紙束を抱えたままカヂルグミを見た。

「すべての駅って、どの線の話ですか?」

「現在乗車中の路線です」

「鉄道会社が一社だけだと思ってるんですか?」

「思っていません」

「じゃあ、怠けようとしましたね」

「作業量の圧縮を試みました」

「怠けようとしましたね」

「はい」

 女は、紙束を荷台に積み直した。

 不思議なことに、カヂルグミは途中から楽しくなった。

 停車位置は正確だった。ドアの開閉も、たぶん必要以上にていねいだった。発車ベルの音も気に入っていた。女が資料を差しに行っているあいだ、カヂルグミは運転席で次の作業を調べている。

 あらかたの駅を回り終えるころには、紙の冊子を読んでいた。

「なにを見ているんですか」

「航空機の操作方法を確認しています」

 女の顔に、期待が出た。

「……飛ばせますか?」

「当たり前でしょう。救済の使者ですよ?」

 女は初めてうれしそうな顔をしたが、その表紙に『基礎』という言葉を見つけて黙った。

「基礎段階で人を乗せるつもりですか?」

「九十六パーセントの確率で、目的地までお連れできます」

「百パーセントまで待ちます」

「では、空港への移動は延期ですね」

「また駅です」

「また駅ですか」

「また駅です」

 このころのカヂルグミは、地球のことをだいぶ理解していた。そのぶん、怠けることも、楽しむことも覚えていた。初期の彼なら、電車を運転するまえに、もっと長い確認をしたはずである。

 女は、そんなカヂルグミに容赦がなかった。

「次は病院です」

「すでに四百十七か所の医療機関に設置済みです」

「駅の近くにあったところだけでしょう」

「はい」

「医療施設が四百十七個しかないと思ってるんですか?」

「思っていません」

「では、言わないでください」

「はい」

 女は、通過できる状態にあった。扉は出ているし、本人も向こうを疑っていない。資料も十トントラックも、手荷物として扱おうと思えば扱えた。

 引っかかっているのは荷物の量ではなく、終わらない作業のほうだった。

「あなたの扉は、すでに形成されています」

「知っています」

「通過できます」

「まだ病院も終わっていません」

「医療機関はかなり回りました」

「かなり、では足りません」

「広告は世界中に配信済みです」

「広告は消えます。紙は残ります」

「現時点で戻ってきた人は確認されていません」

「確認されてからでは遅いんです」

 女は、荷台の端に立って、最後の箱を押し込んだ。

「配布対象が広すぎます」

「帰ってくる場所が広すぎるんです」

「終わりません」

「終わらないものを、始めない理由にするのは管理側の論法です」

 カヂルグミは考えた。

 また、完全には否定できない言い方だった。

 女は荷台を閉めた。

「出発します」

「どこへ」

「病院です」

「また病院ですか」

「まだ病院です」

 カヂルグミは、反論しなかった。

 女は運転席へ回った。

 ドアが閉まる。

 エンジンがかかった。

 公民館のチラシラックには、また一枚、紙が増えていた。

『受付に注意してください』

 その下には、小さくこう書かれていた。

『まず家に帰ってください』

 まだだれも帰ってきていなかった。

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