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猫が隠した星  作者: Junbi


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17/32

第十三幕 紙飛行機

 婦人とカヂルグミは、紙飛行機を飛ばしていた。

 場所は、古い雑居ビルの三階にある小さな事務室だった。書棚の横、コピー用紙の箱と、使われなくなった傘立てのあいだに、白い引き戸が開いている。

 その奥には、明るいオフィスが見えていた。高層ビルの上の方にあるような、窓の大きな部屋だった。机は広く、椅子は足りていて、棚には同じ背表紙のファイルがまっすぐ並んでいる。床に積まれた段ボールも、開けっぱなしの封筒も、折れた付箋も、紙詰まりしそうなコピー機もなかった。

 誰かが怒鳴り込んでくる気配もない。

 婦人が一度も勤めたことのない種類の事務所だった。

 こちら側の机には、書類が何枚か重ねてある。契約書、和解書、委任状、取り下げ書、通知書、回答書。写しもあったが、原本も混じっていた。

 地上では、折らずに扱うべき紙だった。

 カヂルグミは、そのうちの一枚を丁寧に折っていた。

 左右の翼は、ほとんど同じ形だった。先端に少し重みを持たせ、折り目を指で押さえている。紙飛行機にするのは四回目だと言っていたが、婦人のものより、ずっと形がよかった。

 カヂルグミは折った紙飛行機を飛ばした。

 紙飛行機は、事務室の乾いた空気をまっすぐ横切り、白い引き戸の奥へ入っていった。明るいオフィスの窓の手前まで進み、そこで見えなくなった。

「上手ですね」

 婦人が言った。

「ありがとうございます」

「褒めていません」

「そうですか」

 これがいわゆる皮肉というやつか、とカヂルグミは思った。

 婦人は、机の上から契約書を一枚取った。角を合わせる。折り目をつける。もう一度折る。先端を細くし、翼を開く。手つきは丁寧だった。原本を紙飛行機にしている人間の手つきではなかった。少なくとも、カヂルグミにはそう見えた。

 婦人はそれを扉の奥へ飛ばした。

 紙飛行機は途中で少し傾いた。けれど、落ちる前に白い引き戸の中へ吸い込まれた。

「紙の情報は保持されています。折った状態も、署名も、押印も、欠損していません」

「聞いていません。どうでもいいです」

 カヂルグミは、保持項目の一覧を頭の中で一つ消した。

 婦人は、次の紙を取った。

 和解書だった。

 昔、誰かがこれに署名した。したくてしたのか、するしかなかったのか、婦人はまだ覚えている。名前も顔も、もうはっきりしない。けれど、署名欄の近くで手が止まった時の気配だけは、なんとなく残っていた。

 それを折る。

 折って、飛ばす。

 よく飛んだ。

 よく飛ぶことが、少し楽しかった。少し楽しいことを、婦人はまだうまく扱えなかった。

「楽しそうですね」

 カヂルグミが言った。

「ええ」

「良いことですね」

「良いことだから困ってるんですけどね」

 カヂルグミは、その日の通過処理をあきらめた。

 床には、うまく飛ばなかった紙飛行機が一つ落ちていた。

 契約書だった。厚みがあって、折り方が少し甘かった。

 婦人はそれを拾わなかった。

 カヂルグミも拾わなかった。

 次の日も、婦人は事務室にいた。

 白い引き戸は開いたままだった。扉の奥では、相変わらず美しいオフィスが静かに待っていた。

 婦人は、紙飛行機になりそうな紙を探していた。

 整理ではなかった。封筒を開け、束ねた紙を少しずらし、厚すぎるものは戻す。薄すぎるものも戻す。折り目のつきそうなものを選んで、机の端に置く。相談記録、回答書、通知書、メールの写し、写真、和解案。録音媒体の一覧だけは、紙飛行機にできないので別の箱に入れた。

 その中に、読まれなかった陳述書もあった。読まれなかった、というのは婦人の推測だった。読んだかどうかまで、証明できるものではない。それでも、読まれなかったものとして、そこに入っていた。

 カヂルグミは机の上の資料を見ていた。中身は開いていない。封筒の端、ラベルの貼り方、束ねられた順番を見ているだけだった。

「閲覧してもよろしいですか」

「個人情報です」

 婦人は即答した。

 その返事の横を、紙飛行機になった回答書が飛んでいった。

 白い引き戸の方ではない。窓の方だった。

 紙飛行機は、半開きの窓から外へ出た。雑居ビルの三階から、ゆっくり落ちていく。下に誰かがいるかどうか、もうあまり気にする必要のない町だった。

 カヂルグミは窓の外を見た。

「今の紙にも、個人情報が含まれていました」

「そうですね」

「閲覧は不可ですか」

「不可です」

「本人から許可は得られました」

 婦人は手を止め、顔をしかめた。

「本人に確認を取ったんですか」

「はい」

「向こうにいる本人に?」

「はい」

 婦人は、封筒の上に手を置いた。

「それでも、見ないでください」

「本人の許可はあります」

「あるんでしょうね」

「閲覧してもよいのではありませんか」

「ダメです」

 カヂルグミは黙った。

 婦人は、封筒を押さえていた。押さえたところで、何かが守れるわけではなかった。けれど、手をどける気にもならなかった。

「基準が分かりません」

「私もです」

 婦人はそう言って、別の封筒を持ち上げた。

 持ち上げて、また置いた。

 少しして、婦人が言った。

「あの話は、本当なんですか」

「どの話ですか」

「猫の話です」

「本当です」

 婦人は封筒の端を指で押さえた。

「では、私が見てきたものにも、少しは関係があったんでしょうか」

「無関係とは言えません」

「そういうのが、いちばん困ります」

 その日の終わりに、カヂルグミは窓の外へ出た紙飛行機を回収すべきか確認した。

 婦人は、結構ですと言った。

 三日目、婦人は古い予約表を見ていた。

 壁に貼られた月間予定表には、もう意味のない予定が残っていた。相談、面談、電話、折返し、書類確認、再連絡。赤いペンで丸をつけられた日もあれば、鉛筆で薄く消された名前もある。

 もう誰も来ない。

 来ないのに、予定表はまだ壁に貼られている。

 婦人は棚からファイルを一本抜き、背表紙を見て、また戻した。捨てる箱と残す箱を作っていたらしいが、いつの間にか両方に同じ種類の封筒が入っていた。

「向こうでも、同様の仕事をしたいですか」

 カヂルグミが聞いた。

「楽園で、仕事をする人なんているんですか」

「それなりにいらっしゃいます」

「ごっこ遊びやシミュレーションゲームなら興味はありません」

「ゲームではありません。あちらでは、遊びと現実の境目が、地球ほど役に立ちません」

 婦人は、棚から少しはみ出した封筒を見た。

「遊びと現実の境目がない、というのはどういう意味ですか」

「そのままの意味です」

 婦人は、少しだけ息を吐いた。

「それは、すごく嫌ですね」

 カヂルグミは、返事をしなかった。

 婦人は、予定表を壁から外そうとして、やめた。

 画鋲はひとつだけ、ずいぶん斜めに刺さっていた。

 カヂルグミはそれを直そうとした。

「触らないでください」

「すみません」

「謝るほどではありません」

「では、直しません」

「お願いします」

 カヂルグミは、手を下ろした。

 婦人は、斜めの画鋲をしばらく見ていた。

 そのあと、机に戻って紙飛行機を一つ折った。今度は、カヂルグミにも一枚渡した。

「折ってください」

「はい」

 カヂルグミは、相変わらず上手に折った。

 婦人の紙飛行機より、ずっと長く飛んだ。扉の奥の、美しいオフィスへ、すっと入っていく。

「腹が立ちますね」

「紙飛行機にですか」

「あなたにです」

「なぜですか」

「上手だからです」

「練習しました」

「なおさら腹が立ちます」

 婦人はそう言って、少し笑った。

 四日目、カヂルグミは資料の束を見ていた。

 中身を読んだわけではなかった。表紙のラベルと、並び方と、婦人が触る時の手つきを見ていた。

「ここに記録されている方々は、多くがすでに扉を通過しています」

 カヂルグミが言った。

「よかったですね」

「蔵の中で、安定した状態にあります」

「それも、よかったですね」

「幸福そうな顔を、確認したいとは思いませんか」

 婦人は、折りかけていた紙から顔を上げた。

「思いません」

「なぜですか」

「あのか弱い子犬たちが、幸せそうな顔でこちらを見るんでしょう」

「こちらを見るとは限りません」

「見なくてもいいです」

「不幸であることを望んでいますか」

「望んでいません」

「では、幸福であることを」

「望んでいます」

「では」

「見たくないんです」

 カヂルグミは、少し考えた。

「理由は」

「私の石が、曲がっているんじゃありませんか」

「石は曲がりません」

「では、肉の方ですか」

「その可能性はあります」

 婦人は、折りかけの紙から顔を上げた。

「あなたは」

「はい」

「もう少し女性に対する口の利き方を考えた方がいいですね」

「対象性別に応じた応答修正ですか」

「今すぐ黙る、という修正もあります」

 カヂルグミは黙った。

 婦人は、折りかけの紙を開いた。折り目がついていた。もう原本としては、あまり綺麗ではなかった。

「この折り目は、向こうへ行けば直りますか」

 カヂルグミは、少しだけ間を置いた。

「整います」

「そこも、少し腹が立ちますね」

 婦人はその紙を飛ばさなかった。

 机の上に戻した。

 カヂルグミは、最初の日より少しだけ人間に近い顔をしていた。疲れているのか、困っているのか、現地対応としてそう見せているのか、婦人には分からなかった。名札が少し斜めになっている。

「あそこは、いい場所ですね」

 婦人が言った。

「はい」

「だから、今日は行けません」

 カヂルグミは、首を傾げなかった。

 もう何度か傾げたあとだった。

「扉の奥の見え方が問題ではないことは、理解しました」

「やっとですか」

 婦人は、床に落ちたままの紙飛行機を見た。

 最初の日に落ちた契約書だった。誰も拾わなかったので、少しだけ踏まれて、翼が潰れている。

 カヂルグミも、それを見た。

「では、何が必要ですか」

 婦人は、しばらく答えなかった。

 白い引き戸の奥では、明るいオフィスが静かに待っていた。机の上には、まだ折っていない紙がある。折ってはいけなかった紙。折っても、向こうでは残る紙。

 婦人は、その一枚を取った。

 折ろうとして、やめた。

 それから、別の紙を取った。折るには少し厚い契約書だった。

 婦人は角を合わせた。

 紙はすぐにずれた。

 飛ばないことは、折る前から分かっていた。

「分かりません」

 婦人は言った。

 カヂルグミは、何も言わなかった。

 婦人は、ずれた角をしばらく見ていた。

 床には、最初の日に落ちた紙飛行機がまだあった。片方の翼が潰れている。

 拾えば、まだ読めた。

 婦人は拾わなかった。

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