第十三幕 紙飛行機
婦人とカヂルグミは、紙飛行機を飛ばしていた。
場所は、古い雑居ビルの三階にある小さな事務室だった。書棚の横、コピー用紙の箱と、使われなくなった傘立てのあいだに、白い引き戸が開いている。
その奥には、明るいオフィスが見えていた。高層ビルの上の方にあるような、窓の大きな部屋だった。机は広く、椅子は足りていて、棚には同じ背表紙のファイルがまっすぐ並んでいる。床に積まれた段ボールも、開けっぱなしの封筒も、折れた付箋も、紙詰まりしそうなコピー機もなかった。
誰かが怒鳴り込んでくる気配もない。
婦人が一度も勤めたことのない種類の事務所だった。
こちら側の机には、書類が何枚か重ねてある。契約書、和解書、委任状、取り下げ書、通知書、回答書。写しもあったが、原本も混じっていた。
地上では、折らずに扱うべき紙だった。
カヂルグミは、そのうちの一枚を丁寧に折っていた。
左右の翼は、ほとんど同じ形だった。先端に少し重みを持たせ、折り目を指で押さえている。紙飛行機にするのは四回目だと言っていたが、婦人のものより、ずっと形がよかった。
カヂルグミは折った紙飛行機を飛ばした。
紙飛行機は、事務室の乾いた空気をまっすぐ横切り、白い引き戸の奥へ入っていった。明るいオフィスの窓の手前まで進み、そこで見えなくなった。
「上手ですね」
婦人が言った。
「ありがとうございます」
「褒めていません」
「そうですか」
これがいわゆる皮肉というやつか、とカヂルグミは思った。
婦人は、机の上から契約書を一枚取った。角を合わせる。折り目をつける。もう一度折る。先端を細くし、翼を開く。手つきは丁寧だった。原本を紙飛行機にしている人間の手つきではなかった。少なくとも、カヂルグミにはそう見えた。
婦人はそれを扉の奥へ飛ばした。
紙飛行機は途中で少し傾いた。けれど、落ちる前に白い引き戸の中へ吸い込まれた。
「紙の情報は保持されています。折った状態も、署名も、押印も、欠損していません」
「聞いていません。どうでもいいです」
カヂルグミは、保持項目の一覧を頭の中で一つ消した。
婦人は、次の紙を取った。
和解書だった。
昔、誰かがこれに署名した。したくてしたのか、するしかなかったのか、婦人はまだ覚えている。名前も顔も、もうはっきりしない。けれど、署名欄の近くで手が止まった時の気配だけは、なんとなく残っていた。
それを折る。
折って、飛ばす。
よく飛んだ。
よく飛ぶことが、少し楽しかった。少し楽しいことを、婦人はまだうまく扱えなかった。
「楽しそうですね」
カヂルグミが言った。
「ええ」
「良いことですね」
「良いことだから困ってるんですけどね」
カヂルグミは、その日の通過処理をあきらめた。
床には、うまく飛ばなかった紙飛行機が一つ落ちていた。
契約書だった。厚みがあって、折り方が少し甘かった。
婦人はそれを拾わなかった。
カヂルグミも拾わなかった。
次の日も、婦人は事務室にいた。
白い引き戸は開いたままだった。扉の奥では、相変わらず美しいオフィスが静かに待っていた。
婦人は、紙飛行機になりそうな紙を探していた。
整理ではなかった。封筒を開け、束ねた紙を少しずらし、厚すぎるものは戻す。薄すぎるものも戻す。折り目のつきそうなものを選んで、机の端に置く。相談記録、回答書、通知書、メールの写し、写真、和解案。録音媒体の一覧だけは、紙飛行機にできないので別の箱に入れた。
その中に、読まれなかった陳述書もあった。読まれなかった、というのは婦人の推測だった。読んだかどうかまで、証明できるものではない。それでも、読まれなかったものとして、そこに入っていた。
カヂルグミは机の上の資料を見ていた。中身は開いていない。封筒の端、ラベルの貼り方、束ねられた順番を見ているだけだった。
「閲覧してもよろしいですか」
「個人情報です」
婦人は即答した。
その返事の横を、紙飛行機になった回答書が飛んでいった。
白い引き戸の方ではない。窓の方だった。
紙飛行機は、半開きの窓から外へ出た。雑居ビルの三階から、ゆっくり落ちていく。下に誰かがいるかどうか、もうあまり気にする必要のない町だった。
カヂルグミは窓の外を見た。
「今の紙にも、個人情報が含まれていました」
「そうですね」
「閲覧は不可ですか」
「不可です」
「本人から許可は得られました」
婦人は手を止め、顔をしかめた。
「本人に確認を取ったんですか」
「はい」
「向こうにいる本人に?」
「はい」
婦人は、封筒の上に手を置いた。
「それでも、見ないでください」
「本人の許可はあります」
「あるんでしょうね」
「閲覧してもよいのではありませんか」
「ダメです」
カヂルグミは黙った。
婦人は、封筒を押さえていた。押さえたところで、何かが守れるわけではなかった。けれど、手をどける気にもならなかった。
「基準が分かりません」
「私もです」
婦人はそう言って、別の封筒を持ち上げた。
持ち上げて、また置いた。
少しして、婦人が言った。
「あの話は、本当なんですか」
「どの話ですか」
「猫の話です」
「本当です」
婦人は封筒の端を指で押さえた。
「では、私が見てきたものにも、少しは関係があったんでしょうか」
「無関係とは言えません」
「そういうのが、いちばん困ります」
その日の終わりに、カヂルグミは窓の外へ出た紙飛行機を回収すべきか確認した。
婦人は、結構ですと言った。
三日目、婦人は古い予約表を見ていた。
壁に貼られた月間予定表には、もう意味のない予定が残っていた。相談、面談、電話、折返し、書類確認、再連絡。赤いペンで丸をつけられた日もあれば、鉛筆で薄く消された名前もある。
もう誰も来ない。
来ないのに、予定表はまだ壁に貼られている。
婦人は棚からファイルを一本抜き、背表紙を見て、また戻した。捨てる箱と残す箱を作っていたらしいが、いつの間にか両方に同じ種類の封筒が入っていた。
「向こうでも、同様の仕事をしたいですか」
カヂルグミが聞いた。
「楽園で、仕事をする人なんているんですか」
「それなりにいらっしゃいます」
「ごっこ遊びやシミュレーションゲームなら興味はありません」
「ゲームではありません。あちらでは、遊びと現実の境目が、地球ほど役に立ちません」
婦人は、棚から少しはみ出した封筒を見た。
「遊びと現実の境目がない、というのはどういう意味ですか」
「そのままの意味です」
婦人は、少しだけ息を吐いた。
「それは、すごく嫌ですね」
カヂルグミは、返事をしなかった。
婦人は、予定表を壁から外そうとして、やめた。
画鋲はひとつだけ、ずいぶん斜めに刺さっていた。
カヂルグミはそれを直そうとした。
「触らないでください」
「すみません」
「謝るほどではありません」
「では、直しません」
「お願いします」
カヂルグミは、手を下ろした。
婦人は、斜めの画鋲をしばらく見ていた。
そのあと、机に戻って紙飛行機を一つ折った。今度は、カヂルグミにも一枚渡した。
「折ってください」
「はい」
カヂルグミは、相変わらず上手に折った。
婦人の紙飛行機より、ずっと長く飛んだ。扉の奥の、美しいオフィスへ、すっと入っていく。
「腹が立ちますね」
「紙飛行機にですか」
「あなたにです」
「なぜですか」
「上手だからです」
「練習しました」
「なおさら腹が立ちます」
婦人はそう言って、少し笑った。
四日目、カヂルグミは資料の束を見ていた。
中身を読んだわけではなかった。表紙のラベルと、並び方と、婦人が触る時の手つきを見ていた。
「ここに記録されている方々は、多くがすでに扉を通過しています」
カヂルグミが言った。
「よかったですね」
「蔵の中で、安定した状態にあります」
「それも、よかったですね」
「幸福そうな顔を、確認したいとは思いませんか」
婦人は、折りかけていた紙から顔を上げた。
「思いません」
「なぜですか」
「あのか弱い子犬たちが、幸せそうな顔でこちらを見るんでしょう」
「こちらを見るとは限りません」
「見なくてもいいです」
「不幸であることを望んでいますか」
「望んでいません」
「では、幸福であることを」
「望んでいます」
「では」
「見たくないんです」
カヂルグミは、少し考えた。
「理由は」
「私の石が、曲がっているんじゃありませんか」
「石は曲がりません」
「では、肉の方ですか」
「その可能性はあります」
婦人は、折りかけの紙から顔を上げた。
「あなたは」
「はい」
「もう少し女性に対する口の利き方を考えた方がいいですね」
「対象性別に応じた応答修正ですか」
「今すぐ黙る、という修正もあります」
カヂルグミは黙った。
婦人は、折りかけの紙を開いた。折り目がついていた。もう原本としては、あまり綺麗ではなかった。
「この折り目は、向こうへ行けば直りますか」
カヂルグミは、少しだけ間を置いた。
「整います」
「そこも、少し腹が立ちますね」
婦人はその紙を飛ばさなかった。
机の上に戻した。
カヂルグミは、最初の日より少しだけ人間に近い顔をしていた。疲れているのか、困っているのか、現地対応としてそう見せているのか、婦人には分からなかった。名札が少し斜めになっている。
「あそこは、いい場所ですね」
婦人が言った。
「はい」
「だから、今日は行けません」
カヂルグミは、首を傾げなかった。
もう何度か傾げたあとだった。
「扉の奥の見え方が問題ではないことは、理解しました」
「やっとですか」
婦人は、床に落ちたままの紙飛行機を見た。
最初の日に落ちた契約書だった。誰も拾わなかったので、少しだけ踏まれて、翼が潰れている。
カヂルグミも、それを見た。
「では、何が必要ですか」
婦人は、しばらく答えなかった。
白い引き戸の奥では、明るいオフィスが静かに待っていた。机の上には、まだ折っていない紙がある。折ってはいけなかった紙。折っても、向こうでは残る紙。
婦人は、その一枚を取った。
折ろうとして、やめた。
それから、別の紙を取った。折るには少し厚い契約書だった。
婦人は角を合わせた。
紙はすぐにずれた。
飛ばないことは、折る前から分かっていた。
「分かりません」
婦人は言った。
カヂルグミは、何も言わなかった。
婦人は、ずれた角をしばらく見ていた。
床には、最初の日に落ちた紙飛行機がまだあった。片方の翼が潰れている。
拾えば、まだ読めた。
婦人は拾わなかった。




